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袖振り合うも多生の縁  作者: 松本忠之
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鐘隆は易大海との電話を終えると、バスの位置を確認した。

バスは古いタイプでGPSが付いていない。しかし、運転手である鮑文民のスマホにGPSが搭載されており、携帯通信会社である中国移動チャイナモバイルに非常措置でその位置を自分の携帯で確認できるようにしていた。この措置は江蘇省側でもなされており、易大海も確認しているはずだ。中国移動を含む、中国の携帯通信会社は省ごとのエリア制度で運営しており、山東省と江蘇省では運営元が異なる。バスに容疑者である康海隆が乗車したことが確認されると、青島市警はすぐに山東省の中国移動と連携を取り、鮑文民と康海隆の双方のスマホからその場所を特定した。しばらくして、康海隆の通信が途絶えたが、携帯から足が付くのを警戒して自らバッテリーかシムカードをはずしたのだろうと推測 された。いずれにしろ、バスに乗っていることは間違いない。また、青島市警は山東省の中国移動に、江蘇省の中国移動にも同様の措置を取るように伝えた。こうした緊急措置がわずかな時間でスピーディーに構築できるのは、携帯通信業者が表面上は民間企業でありながらも、実質上は国が仕切るようなシステムになっている中国ならではであろう。だが、鐘隆はGPSで常に位置を確認していることを鮑文民にはあえて伝えないでいた。鮑文民には、とにかく余計な情報は与えず、ひたすら運転に集中してもらうためだ。公安でも警察でも、捜査の指揮を執る幹部クラスになれば、みな一様に訓練や研修を受けている。情報を与えるという行為は軽々しくやってはいけない。人間はとにかく、情報をインプットされる とあれこれ考えるものだ。そのあれこれと考える行為が、いざというときに、行動を鈍らせたり、予定とは違う行動を取らせたりする。先ほど、電話で易大海がバス会社の女性マネージャー沈建英に同じことを話していた。その通りだと鐘隆は思った。バスは着実に進んでいた。このままいけば、午前零時二十分前後に南浦サービスエリアに到着するだろう。現在、午前零時を少し回ったところ。あと二十分ほどだ。鐘隆は頭の中で伝えるべきことをシンプルにまとめてから、鮑文民への発信ボタンを押した。


日照サービスエリアで給油を終えた鮑文民は、次の停車地である浦南サービスエリアへ向けてバスを走らせていた。

不思議なもので、容疑者が乗り込んでいると聞かされた時の緊張は薄れ、今では正常時と同じ感覚でバスを運転していた。格別、怪しそうな人物はいなかったし、何も騒ぎ立てなければ、容疑者が乗っていよういまいと、単なるいち乗客に過ぎない。そんな考え方が鮑文民の緊張を解きほぐしていた。

スマホが鳴った。同じようにイヤホンで出る。

「ウェイ?(もしもし)」

「お疲れ様です。鐘偉です」

「お疲れ様です」

鮑文民も心得たもので、もはや余分な口は利かない。

「バスは順調に進んでいますか?」

「はい」

「素晴らしい。では、次の浦南サービスエリアでの行動を指示します。よく聞いてください」

すると鐘偉は停車位置について、かなり具体的に、微に入り細にわたって伝えてきた。しかし、鐘偉から決してその内容は口にしてはならないと言われたため、復唱して確認することができなかった。鐘偉はそこにも気遣いを見せた。

「復唱して確認したいところでしょうが、容疑者に聞かれてしまう可能性があるので、それはできません。申し訳ありませんが、今伝えた情報で、しっかりと停車位置まで来てください」

さらに、鐘偉はすぐに乗客を降ろすな、できるだけ引っ張れ、しかも三分もと言った。

「さ、三…」

「復唱してはダメです!」

厳しく鐘偉が制止した。

「わかっています。停車後、三分もバスから乗客を降ろさないということが、いかに無理な要求であるか。それは、ここにいる沈建英さんにも伺っています」

沈建英マネージャーはまだ鐘偉と一緒にいるのか。

「ですので、無理はしないでください。でも、できるだけ時間は稼いでください。例えば、アナウンスを長めに行うなどして」

「わかりました」

そう答えたが、鮑文民にしてみれば、そう答えるしかなかった。

「このまま行けば、あと十分くらいで到着ですね?」

「はい、そうです」

「では、電話を切ります。慌てず、無理せず、しかし停車位置を確実に見つけて、降車を引き延ばしてください。大丈夫、あなたなら必ずできますよ」

そういうと、電話が切れた。なんとなく視線を感じてバックミラーを見ると、日照サービスエリアで若い女性と老婆に不満の声をあげた男性がこちらを見ていた。

せっかく消えかけていた緊張感が、またヒートアップした。あと十分ほどで到着する。しかも、あれだけ細かく停車場所を指定し、しかも降車を引き延ばせという。これは、容疑者確保が浦南サービスエリアで行われるに違いない。そのためにとても重要な役割を自分は担っている。そんな考えが、緊張感を呼び戻した。しばらく走ると、次のサービスエリアの案内板が出てきた。これまで、こんなにも浦南サービスエリアの看板を意識したことはなかった。しかも、そこへ徐々に近づいていく。刑場へ連れ出されている気分だ。だが、とにかく冷静になれと自分に言い聞かせた。鐘偉の指示を頭の中で反復する。サービスエリアを入ったら、建物には向かわず、分離帯に沿って進む。合計四台の乗用車が真ん中の一台分だけスペースを空けて、左右に二台ずつ停車している。その真ん中へバスを止めること。停めたら、アナウンスで降車を延ばすこと。ハンドルを握る手に汗が滲んできた。否が応でも緊張が高まる。左胸の鼓動が激しくなる。

そして、いよいよその時を迎えた。

「浦南サービスエリア入口」の看板だ。

左車線に入り、サービスエリアへバスを走らせる。ブレーキを踏んで減速する。何人かの乗客がサービスエリアに到着することを察知したようで、客席がざわつき始めた。

前方に建物が見えた。分離帯は右側にある。バスを分離帯に沿って走らせる。前方を注視した。乗用車が一台停車しているのが見える。速度はもはや二十キロほどか。もう一台、乗用車がつらなり、その先は空間、そしてその空間の奥にまた一台、乗用車が見えた。あれだ。あのスペースだ。停車場所を見つけた鮑文民は少しほっとした。そして、一旦、通り過ぎてバスを停めると、次にハンドルを切ってバックでバスを停車させる体制に入る。ギアをバック信号に入れる。両側のサイドミラーを注視し、慎重に後進する。ちらっと乗用車の中に視線を向けてみたが、無人だった。容疑者確保はここではないのか。いや、そんなはずはない。ここまで細かく停車位置を指定して、何もないわけがない。とどまることのない雑念。いろいろなことがすごいスピードで頭の中に浮かんでは消える。ハンドルを握る手からは、したたり落ちるのではないかと思うほど汗が出ている。一旦停止し、バスを少し前に出し、車体をまっすぐにすると、再びバックする。停車。きれいに指定場所に停車できたことを確認する。

あくび、伸び、話し声。休憩所についた安堵感のような空気がバス中に蔓延する。だが、まだすぐに降ろしてはならない。ここから三分だ。運転席の上にある時計を確認する。午前十二時二二分。二十五分まで、ドアを開けずにいられるか。マイクを手に取り呼びかける。

「乗客の皆様。大変お疲れ様でした。バスは現在、途中の休憩場所である浦南サービスエリアに到着しました。みなさんにお降りいただく前に、注意事項を申し上げます」

声が震えてはいまいかと不安になった。

「こちらでは、十五分の休憩を予定しています。予定出発時刻は、十二時四十分、十二時四十分です」

なんでトイレからこんな離れたところにバスを停めてるんだろう?とつぶやく声が聞こえた。構わず続ける。

「時間に遅れないようにバスにお戻りください。十二時四十分を過ぎてもバスに戻らない方がいた場合、他のお客様を時刻通り最終目的地まで送り届けるために、バスは構わず出発してしまうこともあります。時間厳守でお願いします」

普通なら、ここでもうドアを開けて降車させるところだ。だが、まだ一分しか経っていない。すでに乗客の何人かが、前方と中間にあるドアに並び始めた。まずい。もう少し話を続けなければ。

「それから、もう一点、注意事項を申し上げます」

すると、バス前方のドアに並ぼうとしていた老婆が声を上げた。

「ちょっと、早く降ろしてくれないかね?」

鮑文民は老婆に何か返答しなければと思ったが、構わずマイクで話し続けた。

「お客様の所持品についてです。バスの中で発生する、お客様の所持品の盗難や紛失について、弊社では責任を負いかねます。特に、この休憩時間に紛失や盗難が発生することが多くなっております」

「いいから早く降ろしなさいよ!」

老婆がいらいらした様子でさらに迫る。

「おばあちゃん、もうちょっと待ってね。これも仕事の内だから」

マイクを口から逸らして鮑文民が返答する。

「もうトイレが我慢できないんだよ」

「とりあえず、開けてよ」

他の乗客の一人が応じた。

その時、鮑文民はバスの周辺に何らかの気配を感じたが、それを確認している余裕はなかった。

「間もなくドアを開けますので、もうしばらく私の話を聞いてくださいね。みなさんがお疲れで、早く降車したい気持ちは重々承知です」

できるだけ延ばす。鮑文民の頭にはそれしかなかった。

「なんだあれ?」

その時、窓側に座っていた乗客が何かに気付いて言葉を発した。しかし、その言葉は鮑文民の耳には届かなかった。その声を聴いたのは老婆で、彼は窓の外を眺めると、突然ある行動に出た。その動きが、老婆らしからぬ機敏さであったことに気が付いたのは、日照サービスエリアの給油時に老婆と口論になった、標準語に少し訛りのある男性だった。

「貴重品は、必ず身に着けてバスを降りてください。携帯電話、お財布など、バスの中に置き去りにしたままだと、盗難の恐れが…」

その時、鮑文民は前方ドアの外に武装した男が立っており、手でドアを開けるよう合図しているのを見た。言葉を止めて、ドアを開けるボタンを押す。それに合わせて何人もの武装警官が乗り込んできた。ヘルメットにライフル。なぜか鮑文民にはその光景がスローモーションのように見えた。映画やドラマの世界が現実に目の前で起こっている。最初にバスに乗り込んだ武装警官を先頭に、次々と同じ格好をした男たちが乗り込んできた。あとは任せるしかない。でも、これで解決だ。鮑文民は事の成り行きを見守ろうと客席を振り返った。だが、次の瞬間。

「動くな!」

数名の乗客の悲鳴と共に、ありえない光景が鮑文民の視界に飛び込んできた。老婆が片手に包丁を持ち、標準語に訛りのある男を人質に取っていた。老婆が成人男性を人質にしている。しかも、「動くな」の叫び声はどう聞いても男の声だった。いったい、何が起こっているのか。緊急事態を察知した乗客が、次々とバス中央のドアに群がる。「ドアを開けろ!」の叫び声。鮑文民は慌てて中央ドアを開ける。悲鳴とともに次々と降車する乗客たち。ふと見ると、武装警官はライフルを老婆に向けたまま「落ち着け!動くな!」と威嚇している。老婆の腕は男性の首に回されている。男性は両腕で老婆の腕をつかんでいる。鮑文民はとにかくまずは老婆と人質以外の乗客がまずは車外に避難してくれと祈ることしかできなかった。


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