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その頃、浦南サービスエリアは、一般市民は気が付いていないものの、物々しい雰囲気に包まれていた。
特殊部隊が送り込まれたのだ。だが、一見するとそうは見えない。服装や所持品などは、武装警官からは程遠い。しかし、無数の訓練された特殊部隊の隊員があちこちの茂みや建物に配置されていた。総指揮を取るのは、江蘇省連雲港市公安局特殊部隊指揮官の易大海だ。この日、夜十時過ぎに突然呼び出され、密命を受けた。特殊部隊を指揮して、浦南サービスエリアに潜伏し、目標となる長距離バスに乗客を装って紛れ込んだ凶悪犯一名を逮捕せよ、との指令だ。特殊部隊が出動するケースは、一般的に他の公安職員には知らされない。情報漏えいを防ぐためだ。よって、この件は一部の幹部と易大海しか知らない。隊員たちも具体的には状況を知らされていない。易大海が伝えたのは、凶悪犯一名を確 保すること、標的は長距離バスに紛れ込んでおり、そのバスは浦南サービスエリアで休憩を取ること。その休憩中に被疑者を確保すること。それだけだ。容疑者の特徴などはまだ伝えていない。こちらも情報漏えいを防ぐ目的と、誤情報を流してしまうことを防ぐためだ。過去に実際にあったケースで、隊員に事前に犯人像を伝えたが、その後、修正された別の犯人像が伝えられた。緊急事態で情報が錯そうし、正確な情報が伝わらなかったのだ。そのため、現場の特殊部隊の隊員が混乱したり、犯人確保の瞬間に迷いが生じて危うく逃走を許すところだった。それ以来、この手の舞台では、事前情報は流さず、犯人確保の直前に、一度だけ、正確な情報を伝えるようになった。
易大海が指揮する特殊部隊は、総勢五十名。緊急事態に備えてそのうちの半分は当直として深夜に公安局に詰めている。密命を受けた後、易大海は早速、当直の二十五名を集め、指示を出した。
「十分以内に出動態勢を整えろ。準備が完了したら、全員、この部屋で待機。車両は全部で七台用意しろ。ただし、特殊車両は不要。すべて覆面パトカーを用意せよ。以上」。
そして、必要最低限の情報だけを与えた。
午後十時半。公安局ビルを出発。二十五名の隊員は七台の覆面パトカーで出動した。その他、もう一台の乗用車には、易大海と連雲港市公安局副局長・白志強の二人が同乗していた。特殊部隊の指揮は易大海が取り、現場全体の責任者として白志強が控える。白志強は現場の状況を、公安局内部に設置された指揮センターに鎮座する連雲港市公安局長、李風楼に報告する。李風楼はその内容をさらに南京市にある江蘇省公安庁に報告を上げる、という仕組みだ。
浦東サービスエリアに向かう車中、白志強は易大海に言った。
「重々承知のことと思ってはいるが、念のためだ。絶対に失敗は許されない。失敗とは、被疑者を取り逃がすか、もしくは捕獲しても乗客に死者が出ることだ。命に及ぶ重傷もだめだな。怪我人が出たとしても、命に別条のない程度に抑えなければならない。わかるな?」
「はい」
「ほしの情報は?」
「名前は康海隆。三十歳。山西省太原市出身。独身。両親はすでに他界。太原市には親戚がいますが、もう三年以上連絡は途絶えているとのことです」
「何をやらかしたんだ?」
「殺人です。半年前に青島市にやってきて、基板メーカーに住み込みで働き始めました。入社時からトラブルが絶えず、常に他の社員といざこざを起こしていたようです。こいつの凶悪さは、冷静に暴行を振るう点です。一度、社内で同僚と口論になったことがあったのですが、その際、口論が終わってから一時間後、突然相手の背中に電動のドライバを突き刺したそうです。それも、ドライバーを稼動させながら」
白志強は顔をしかめた。
「その時の被害者は、命に別状はありませんでしたが、口論が終わって一時間も経っていたし、もうお互いに怒りは晴れたと思っていたそうです。実際、康海隆も腹を立てているそぶりを一切見せなかったとか。にもかかわらず、深く根に持っており、それで犯行に及んだようです」
「今回の殺人はどんなだ?」
「はい」
易大海は正確な情報を期するためにスマホを見ながら答えた。
「ガイシャは二十三歳の女性。康海隆の彼女だそうです」
「彼女を殺したのか?」
「はい。名前は白琴。山東省の煙台市出身で、青島市に出稼ぎに来ており、二人はネットカフェで知り合っています。康海隆は相当嫉妬深いようで、彼女である白琴が他の男と連絡を取ることを極端に嫌っていたようです。しかし、白琴は微信で何人かの男と連絡を取っていました。ある日、それを知った康海隆が問い詰めたところ、なぜ浮気をしているわけでもないのに、男友達と連絡してはいけないのか口論になりました。ところが…」
「ところが?」
「その連絡を取り合っていた男友達の中に、例の、背中を電動ドライバーで刺された男がいたそうです。偶然なのかどうかまではわかっていません。それを知った康海隆が、より激高するかと思われたが、意外にも逆に冷静になったように見えた。だから、白琴も安心した。しかし…」
「また、冷静に暴力を振るった?」
「はい。今度は、泊まりに来ていた白琴が寝ているところを、包丁でめった刺しに。寝込みを襲われたようで、合計四十ヶ所以上の刺し傷があったにも関わらず、悲鳴を聞いた周辺住民はいませんでした」
「そして、バスに乗って逃亡か?」
「はい。帰宅した隣人が、康海隆の部屋のドアが少しだけ開いていたことを不審に思い、中に入ってみたところ、玄関先に血まみれの白琴が倒れていて、驚いて警察に通報しました。どうやら白琴は、あれだけ刺されてもまだなんとか意識があったようで、ベッドから這いつくばって玄関まで行き、ドアを開けようとしたが、少しだけ開いて息絶えたようですね。救急隊員が駆けつけたときには心拍停止状態だったそうです」
「ひどいことだ」
「康海隆は白琴をめった刺しにしてから、すぐに部屋を出たようです。携帯と財布以外の所持品はすべて部屋に残されていました。そして、そのまま上海行きの深夜バスに乗り込んだ。返り血を浴びたと思われる衣服が現場に残されていましたが、青島市警が調べたときは、その血はまだ完全に乾いていなかったそうです」
「康海隆が上海行きのバスの乗ったと特定した理由は?」
「身分証と携帯です」
中国では長距離バスの切符を買うにも身分証明証が必要なのだ。
「康海隆は自身の身分証でチケットを購入してます。さらに、バスの運行ルートに符号して、青島市内の携帯基地局から康海隆の通信を確認しました。だだし、その後、しばらくして検出できなくなりました。恐らく携帯のバッテリーを端末から抜いたか、もしくはシムカードを抜いたかのどちらかでしょう。基地局との通信に引っかからなくなりました。それでも、バスの出発当初はバスに乗っていると確認が取れており、その後、乗客の降車はありませんから、間違いなく奴は乗っています」
「凶器は持っているのか?」
「そこなんですが…」
と一呼吸置いてから、易大海は続けた。
「青島市警の鐘偉警部からの報告によると、持っている可能性が高いそうです」
「青島のバスターミナルでは、荷物検査を怠っているのか?」
「それが、金属探知機もあるが、形式的に検査しているだけで、実際に荷物の中身まで調べることはないそうです。つまり、金属探知機が鳴っても素通させているので、凶器を持ったまま、バスに乗り込んだ可能性があります」
「そいつはやっかいだな」
車内がしばしの沈黙に包まれた。
「その凶器を使って人質を取ってバスに閉じこもることだけは避けなければならない。とにかく、即刻確保だ。スピード勝負だ」
「承知しました」