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袖振り合うも多生の縁  作者: 松本忠之
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携帯が鳴った。非通知設定だ。

鮑文民は大きく深呼吸して通話ボタンを押した。

「ウェイ?」

「私です」

今度は捜査一課の鐘偉が直接かけてきた。

「運転は順調ですか?」

「はい」

「では、前回の電話と同じく、相づち以外は、できるだけ声を出さないでください。いいですか?」

「はい」

「前回の電話から、ずっと法定速度で走りましたか?」

「はい」

「だとすると、今、バスはこの当たりを走っているはずです」

鐘偉が地名を伝える。

「そうです。先ほど、そこを過ぎたところです」

「完璧です、文民さん。ということは、給油地である日照サービスエリアまで、もうすぐですね?」

「はい。あと十五分くらいでしょう」

「わかりました。では、日照で給油してください。念押しですが、くれぐれも乗客の降車がないようお願いします」

「わかりました」

電話は切れた。

鮑文民はやりきれない思いを抱いていた。

聞きたいことは山ほどある。たとえば、容疑者の特徴だ。顔、年齢、服装、髪型。また、捕獲場所はどこなのか。凶器を保持しているのかどうか。どんな罪を犯したのか。なぜ、乗車後に発覚したのか。しかし、もちろんそれらは一切聞くことができない。容疑者は、自分が警察と極秘で連絡し合っていることを知らないからだ。知られてしまうと、何をしでかすかわからない。最悪のパターンは、容疑者が凶器を保持しており、警察に見つかったことで焦燥し、乗客を人質にとってバスジャックをすることだ。とにかく、怪我人を出してはならない。そのためには、慎重に、そして平静を装って、容疑者に気づかれないようにしなければならない。頭ではそうわかっているのだが、しかしながら、何も知ら ないまま、誰にも言えないまま、何も聞けないまま、凶悪犯を乗せてバスを走らせ続けなければならないというストレスが、鮑文民の心に重くのしかかっていた。理性ではわかっても、感情的ストレスは軽減されない。そんなジレンマが生み出すやりきれない思いだ。やがて、「次のサービスエリア・日照」の看板が見えた。ここで給油だ。慌てることはない。ここは単なる給油で、乗客の乗り降りはないのだ。ドアを開けなければ、乗客も降りようがないのだ。

そして、サービスエリアに入った。こんな深夜にも関わらず、給油所はいっぱいだった。三つ並んだ給油機のうち、一番早く空きそうなひとつを選んで並んだ。前方ではトラックが給油中だ。鮑文民はエンジンを止めることなく、しばらくその状態で停車していた。給油中のトラックの運転手であろう人物が、喫煙所でタバコをふかしているのが見えた。

その時だった。

「すいません、運転手さん。私、少しだけでもいいから、バスを降りたいんですけど…」

ふいに声をかけられた。振り返ると、若い女が立っていた。

「え?」

「バスを降りちゃだめですか?」

手と首を振って鮑文民は答えた。

「だめだめ」

「だめですか…」

「ここは乗客は降りてはならないことになっているから」

「ちょっとドアの外に出るだけです」

「それでもダメなんです」

鮑文民は女に視線を向けた。

年齢は三十歳前後か。薄化粧で、髪は長く、茶色に染めていた。飛びきりの美人というわけではないが、男受けしそうな妖艶さを兼ね備えていた。

「トイレに行きたいんです」

女は続けた。

「トイレなら後方にあるよ」

「できればガソリンスタンドのトイレを使いたいんです」

クラクションが聞こえた。ふと前方を見ると、すでにトラックは給油を終えて走り去った後だった。

鮑文民が慌てて女に言った。

「とにかく、ここは無理だから。席にもどって。給油するだけだから」

そしてバスを発進させ、給油機の横につけた。

ガソリンスタンドのスタッフが駆け寄ってくる。

「どうしましょう?」

「92号を満タンで。給油口は手で開くようになってる」

エンジンを止めながら、鮑文民はそう告げた。

伸びをして、体をほぐす。すると、あの女がまだそこに立っていることに気が付いた。

「給油が終わったら、すぐに発車するから。席にもどってくださいよ」

鮑文民がそういうと、後ろから老婆が姿を現した。出発前、あれこれ質問してきて、なかなか着席しなかったあの老婆だ。

「私も、ちょっと外の空気を吸いたいんだけどね。少しだけでも、バスを降りられないかね」

「おばあちゃん、申し訳ないけど、ここでは降りられない規定になってるんだよ」

「まぁそんな硬いこと言わずに。このお姉さんだって、気分転換したいんでしょう」

鮑文民は、相手をするのが面倒になり、いっそ、降ろしてしまおうかと思った。確かに、給油している短い時間だけなら、降ろしても構わないだろう。いや、何事もない状況だったら、すでにドアを開けて降ろしていたことだろう。二人の乗客の言うことは理解できる。トイレは車内のものより、当然ガソリンスタンドのほうが快適だろうし、それにずっと座りっぱなしは疲れる。新鮮な外の空気を吸いたいというのは誰しもが思うことだ。鮑文民自身、規定だなんだと、そこに固執するタイプではない。状況に応じて、柔軟に対応したい人間だ。しかし、今夜ばかりは勝手が違っていた。なにせ、凶悪犯がこのバスに乗っているのだ。もしも、この二人を降ろしたら、当然、他の乗客が「我も我も」と降車 しようとするだろう。そうなると、歯止めがきかない。この二人の女性が容疑者ではないだろうことは、会話していればわかる。だが、鮑文民は乗客の中に混じっている容疑者の顔を知らないだけに、どうにもしようがなかった。とにかく規定通り、誰一人として降ろしてはならないと言い張るしかないのだ。

それでも、若い女性と老婆が何とか降車しようと鮑文民に迫っていた時、一人の男性が声を発した。

「規定で降りられないことになってるんだから、仕方ないでしょう」

バスは消灯したままのため、鮑文民もその男の顔をはっきり認識することはできなかった。しかし、前方から三列目の通路側に座っている乗客であることは確認できた。

「それより、寝ている乗客もいるんですよ。静かにしてください」

男はそう二人を注意した。鮑文民は、その男の標準語に少し訛りがあるのを聞き取っていた。しかも、薄暗い社内から見えるその顔は、普通の漢族の顔よりも濃いように見えた。だとすると、新疆ウイグルや雲南省といった少数民族が多く住む西部出身か。

「私は運転手に話しているんですよ。あなたは関係ないでしょう」

老婆が男に答えた。

「関係ないことない。あんたの声がうるさくて、眠れないんだよ」

最初に声をかけた女は、戸惑いの表情で男と老婆のやり取りを聞いていた。

そんな時、給油が終わったのがバックミラーで確認された。間もなく、店員が伝票をもって精算にやってくるだろう。

「はいはい、もうそこまで。給油が終わりましたよ。出発しますから、座席に座ってください」

鮑文民はほっと一安心だった。男性が途中から声を発したことで、老婆の矛先はそちらに向かい、時間を稼げた。その間に、給油が終わった。これで出発できる。容疑者を降ろさせずに済んだ。

若い女がしぶしぶ座席に戻った。老婆はぶつぶつ文句を言いながらも、やはり座席に戻っていった。


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