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あの電話から、三十分が経ったが、その後の電話はまだない。
鮑文民は、注意深く運転しながらも、バックミラーで何度も客席を見渡した。消灯しているから真っ暗で、ほとんど何も見えない。起きている乗客が数人いるらしく、携帯の灯りが見える。だが、顔や服装まで見えず、それらしき人物も見当たらない。青島市警捜査一課の鐘偉は、容疑者は一名と言っていた。それも、凶悪犯罪だと。具体的にどんな犯罪を犯したのかは知らないが、凶悪犯罪というからには、窃盗の類ではなさそうだ。だとしたら、強盗や殺人だろうか。
もしも、殺人犯だったら。
鮑文民の背筋に、再び悪寒が走る。
殺人犯なら凶器を持っているのか。いや、それはない。バスに乗車するためには、エックス線による荷物検査と金属探知機による身辺検査を受ける必要があるからだ。乗客はチケット売り場で目的地までのチケットを買ったあと、バス乗り場へ向かう。その際、バス乗り場の入り口には空港と同じように荷物検査のエックス線があり、乗客は全員、すべての荷物をそこに通さなければならない。さらに、荷物を通すと同時に、今度は乗客自身が、こちらも空港と同じように門構えの金属探知機を通過し、身辺検査が行われる。空港ほど厳しいわけではないが、少なくとも凶器の類などはいとも容易に発見できるだろう。
しかし、とも思う。
果たして、あの手荷物検査はしっかり機能しているのだろうか。バスターミナルでは、一年三六五日、すごい数の乗客を検査しているのだ。繁忙期ではない時期には、検査が緩んでいたりしないだろうか。もしくは、形式的になってはいまいか。検査に関しては鮑文民は不可抗力であり、また実情を知る由もない。よって、もしも凶器を所持した凶悪犯罪者を通していたとしても、自分にはどうすることもできない。
それにしても、警察はどこで容疑者を確保するつもりなのか。今のところ、バスが停車する予定なのは、ガソリン給油の日照サービスエリア、トイレ休憩の浦南サービスエリア、そして終着地点の上海南バスターミナル。この三ヶ所だ。そのうち、乗客が乗り降りできるのは、トイレ休憩の浦南サービスエリア、そして終着地点の上海南バスターミナル。鮑文民は、日照サービスエリアでの容疑者確保はまずないだろうと予測した。給油のために立ち寄ることを決めたから、警察は電話でそれを知らされるまでバスがそこに止まることを知らなかったからだ。容疑者確保というからには、相当な人数の警官を集めるに違いない。昔、ニュース番組でバスジャック犯を確保する映像を見たことがある。サービス エリアに停車しているバスを武装した特殊部隊が取り囲み、窓ガラスを割って一斉になだれ込んだという映像だ。犯人の視界を遮り、乗客に被害を加えさせないため、発煙弾が投げ込まれていたような記憶がある。そんなシーンが、自分の運転するこのバスで起こるというのか。
それとも、最後までバスには突入せず、乗客と共に容疑者が上海南バスターミナルで降りたところを狙うのか。いや、それは無理がある。なにせ中国最大の都市である上海でも有数の大きさを誇るのが上海南バスターミナルだ。そんなところでの確保劇となると、人が多すぎてとんでもない騒ぎになろう。それに、制服を着た警官が待ち構えていれば、容疑者も当然気が付く。私服警官が待ち構えていたとしても、容疑者一人に対して、何人の警官が必要なのか。そして、群衆の中で格闘になるかもしれない確保劇を警察は行うのか。それはリスクが高すぎるのではないか。
となると、やはり、浦南サービスエリアか。しかし、ここでの問題は、このサービスエリアでは乗客が降車できることだ。ここだけが出発から到着まで、唯一認められた降車場所だ。長時間の乗車は体に堪える。バスを降りて、外の空気を吸い、体を伸ばし、社内トイレではなくサービスエリアのトイレで用を足す。それも乗客にとっては必要な行為だ。ということは、ここで容疑者がバスから降りてきたところを警察は確保するのか。すでに、浦南サービスエリアに特殊部隊を配置しているのだろうか。ただ、容疑者がそこで降車するという確証はない。いや、待てよ。そもそも、容疑者は、浦南サービスエリアで降りて、そのまま逃走しようと考えているのではないか。長距離バスは遠くへ逃げるに適し た移動手段であるものの、自由に乗り降りできない点では不利だ。ずっとバスに閉じ込められたままだからだ。容疑者にとっては、このバスに乗車した以上、逃げ道は二つしかない。途中のサービスエリアか、終着地かだ。浦南サービスエリアで降車し、そのまま姿をくらます。十分に考えうる。
「容疑者は我々が捕まえます」
鐘偉の言葉が甦る。こんな事態だというのに、とても落ち着いた声だった。しかも、聞いた感じはまだ若いうようだ。三十代後半か四十代前半といったところか。よく考えてみると、鮑文民は容疑者の顔を知らないのだから、自分で確保しようにもできない。容疑者確保は警察に頼る以外にない。
あれこれ想念が浮かんでは消える。雨は降り続いている。交通量は少なく、順調に運行している。バスの横を猛スピードで一台のスポーツカーが通り過ぎて行った。あのスポーツカーの運転手も、まさかこのバスに凶悪犯罪者が乗っているなど、想像もできないだろう。