18
杉雄は、犯人の康海隆が死んだことを初めて知らされた時のことを思い出していた。
「彼は、彼はどうなりましたか?」
連雲港の病院で目を覚ました杉雄は、食って掛かるように、江上に聞いた。二十時間以上もの長い睡眠の後だった。
江上が犯人について答える前に、医師が来たために、会話は中断された。その後、杉雄のために食事が運ばれてきたため、江上はまず杉雄に食事をしっかり摂るように求めた。杉雄は空腹だったこともあり、食事をしながら話を聞くこととした。
「先ほどの質問ですけど…」
杉雄は、つい先ほど目覚めた時に初めて知り合った、上海領事館の江上に遠慮がちに再質問した。
「犯人がどうなったのか、ですね?」
「はい」
「単刀直入に申します。犯人は射殺されました」
「射殺…」
杉雄は絶句した。
「死んだのですか?」
「そうです」
杉雄の脳裏に、康海隆の顔が浮かんだ。
「救出作戦の指揮官である、易大海さんに詳細を聞きました」と江上は語り始めた。
「公安としては、犯人を殺すどころか、負傷を負わせたくもなかったそうです。しかしながら、救出作戦の最大の使命は、あたなたを無傷で救うことでした。そして、彼らにとって最大の失敗は、あなたが殺害されてしまうことでした。よって、犯人を生け捕りにすることを目標としながらも、たったひとつのケースだけは、武装警官に発砲許可を出していたと指揮官は話していました。そのたったひとつのケースとは、犯人があなたを傷つけようと動いたとき、だったそうです」
杉雄は、銃声と共に、康海隆が自分の目の前で倒れた、あの瞬間を思い出していた。江上は構わず話し続けた。
「バスに催涙弾が撃ち込まれて、前方と中央の二つのドアから武装警官が突入しました。犯人は、中央ドアから侵入した部隊に打たれました」
杉雄はピクリとも動かない。
「犯人を打った隊員いわく、催涙弾で一瞬ひるんだ犯人の康海隆は、次の瞬間、包丁を握りなおすと、突然、あなたに向けて動かしたそうです。それを見た瞬間、迷わず銃を撃ったそうです」
杉雄の脳裏に、あの時の康海隆の手の動きが甦る。
「本来は、足など、絶命する可能性の少ないところを狙うが、犯人が今にも包丁であなたに危害を加えようとしているのを見て、とっさの判断で銃を放ったところ、犯人の左わきに銃弾が命中し、心臓にまで達したそうです」
その銃弾を受けて、倒れたのがあの瞬間だったのか。
「もちろん、あなた同様、康海隆もすぐに救急病院に運ばれました。出血がひどく、輸血もすぐに施されました。しかし、病院に運ばれてから二時間後に、息を引き取ったそうです」
杉雄は顔を上げられなかった。ただひたすら、うつむいていた。江上は、話すのを止めた。しばらくの沈黙が、病室を包んだ。
杉雄の脳裏には、なぜか康海隆の笑顔しか浮かばなかった。日本の話をしている時の康海隆はとても楽しそうだった。そして、本当に日本に行きたそうだった。決して、恵まれた環境にあったわけではなかった康海隆だが、それまでに接したことのない日本人に触れて、また日本の情報を知り、心底、興味を持ったようだった。それは、彼の新たな生きがいになるはずだった。杉雄も本気で日本に遊びに来てほしいと思った。そこにはすでに、犯人と人質という関係性は存在しなかった。立場を超えた、人間同士の友情があった。どうして、こんな状況で出会ってしまったのか。その運命を憎む感情すら杉雄には存在した。もちろん、康海隆が犯罪を犯したことは事実だ。それは許されない。しかし、そうはいっても、あの極限の状況下で芽生えた友情が消え去ることはない。杉雄は、そのギャップに苦しんでいた。世間的には絶対に許されることのない犯罪者との友情。そして犯罪者などとは到底思えない、純粋無垢な好奇心と笑顔。気が付くと、杉雄の眼から涙がこぼれていた。
そんな杉雄に、江上がこんな話を伝えてくれた。
「そういえば、康海隆が息を引き取る間際、こんなことを言っていたそうです」
杉雄は、この言葉でやっと顔を上げることができた。
「どんな言葉ですか?」
涙を流している杉雄に気付いて、一瞬驚いた表情をした江上は、康海隆の最後の言葉を杉雄に伝えた。
「日本に行ってみたい、と」
その瞬間、杉雄は声をあげて泣いた。こらえようとしても、涙が止まらなかった。江上はそんな杉雄の姿を見て、ただただ沈黙するしかなかった。自分を人質に取った凶悪犯。その人物が死んだことに、ショックはあるかもしれないが、しかし、ここまで大泣きすることがあるだろうか。そう思っていることだろう。江上には杉雄が号泣する理由がわからずにいた。そして、杉雄もその理由を江上に語ることはなかったのだった。
それまでいい雰囲気の中で進んできた記者会見で、ある欧米人記者の質問によって、回答者が声を詰まらせた。沈黙が会場を支配した。松葉がそれを受けて杉雄のサポートをした。
「ご質問、ありがとうございます。ただ、ちょっとその質問は、まだ彼にとって、答えるのが難しいようですので、代わりに私からご回答差し上げます」
記者の目線が一斉に松葉に向かった。
「もちろん、わが社の社員を生命の危険にさらした犯人は許せません。しかしながら、犯人もまた一人の人間であり、更生して人生をやり直す機会が与えられなかったことについては、残念に思っています」
松葉は可もなく不可もない、模範解答で切り抜けた。
杉雄は悩んでいた。真実を話すべきかどうかを。これまで、江上にも、会社にも、そして両親にも話してこなかった、ある真実を。周囲の認識は、康海隆が杉雄に危害を加えようとしたから撃たれたとなっている。そして、その銃撃が原因で死亡した。だから、康海隆の死はやむなし、と。だが、違う。杉雄だけが知る真実がある。それを話すべきかどうか、杉雄は悩み続けてきた。この記者会見は、そういう意味ではこの真実を打ち明けるのに相応しい場所ではないか。これを逃したら、もう二度と、これ以上に相応しい機会など来ないのではないか。だが、会見の流れと雰囲気はとてもいいものだった。そして、間もなく会見が終わろうとしている。このタイミングで、この話を打ち明けていいのだろうか。単純に、億劫な気もする。もうこれで会見を終えてしまいたい。ここにきて、緊張の糸が切れたのか、突然、大きな疲労感が杉雄を襲った。うつむいたまま、何も言えなくなってしまった。そして、どうしようもない敗北感のようなものを感じていた。あの時、バスの中で康海隆と会話していた時だ。あのときに、あの単語の意味を聞き取れていれば…。
「それでは、本日の会見は、以上をもちまして、終了とさせていただきます」
江上の声が響いた。結局、杉雄は真実を打ち明ける機会を自分から逃してしまった。松葉に促されて、杉雄は立ち上がり、会見場を後にしようとした。すると、先ほど、最後の質問をしてきた欧米人の記者と目が合った。彼の目は、何かを訴えているようだった。杉雄自身も、彼の目に訴えかけた。真実は、他にある。自分にはまだ話していないことがある。あなたの質問は、その真実を引き出す一歩手前まで迫っていた。だが、ついに言えなかった。大きな拍手に包まれながら、西林、松葉に続いて出口へ歩き出した。杉雄は最後まで、記者の目を見つめていた。記者も、こちらを見つめたまま、視線を逸らすことはなかった。