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袖振り合うも多生の縁  作者: 松本忠之
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江上、西林、松葉、杉雄、そして、社長の秘書の合計五名が、会議室を出てエレベーターに向かう。秘書が小走りで先行して、エレベーターのボタンを押した。下の階にあったエレベーターが徐々に上がってくる。そして、一基が二十回で停止して、ドアが空いた。社長秘書が気を利かせてドアを手で押さえる。杉雄は当然のごとく、社長や専務の後に乗るつもりだった。その時、思わぬことに、社長が手を差し出し、杉雄に先に乗るように合図した。慌てて「いえいえ。社長、お先にどうぞ」と遠慮したが、「今日は君が主役だから」と譲らない。困って松葉を見ると、松葉はにこにこしながらこちらを見ている。杉雄はそれでもやはり乗ることはできないと断り、「社長、どうぞ」と言い続けた。そのうち、西林が乗り、江上が乗り、松葉が乗り、そして杉雄が乗った後に秘書が乗った。秘書が一階のボタンを押す。全員が計ったようにエレベーター上部の階数ランプを眺めた。

杉雄は、先に乗っておくべきだったかと反芻した。もちろん、自分が社長や専務より先に乗ることなど許されない。それは、いくら社長から先に乗るように促されたとしても、だ。自分の行動は正しい。これでいいのだ。自分に言い聞かせるように心の中で強く念じた。

(待てよ)

しかし、それは通常時の振る舞いではないだろうか。社長は何と言ったか。「今日は君が主役だから」。社長に、そこまで言わせておいて、そこまで言われておいて、それでも先に乗るのを断る理由があっただろうか。あの場は、一度は断るものの、それでも社長が譲ってくれるなら、自分が先に乗るべきだったのではないか。

(待てよ)

いやいや。そんなはずはない。どんな状況であれ、社長が先に乗る。目上の方が先に乗る。これほど明確な常識やルールはないはずだ。もしもこれが課長レベルだったら、、「今日は君が主役だから」とまで言われたら、「じゃお言葉に甘えて」と先に乗っても許されるだろう。後々課長から「本当に乗るのかい!」と突っ込みを喰らったところで、笑って済ませられる程度の話だ。では、部長はどうか。部長となると、だいぶ微妙だ。キャラクターにもよるだろう。部長以上はどうか。ましてや、取締役。社長だ専務だのレベルはどうか。やはり、平社員が先に乗るなんてありえないだろう。

(待てよ)

実は、あれはチャンスだったのではないか。常識的に言えば、自分が先に乗らない。しかし、今日は状況が状況だ。しかも社長自ら、「今日は君が主役だから」とまで言った。ここは、「では、お言葉に甘えまして」と丁寧な返しの言葉で先に乗るのがスマートな対応ではなかったか。社長が常識だけを重んじる人物なら、たとえ社長自ら平社員に先に乗るよう勧めたとしても、平社員が本当に先に乗ったら「こいつ、本当に乗るのか」と思うだろう。しかし、西林社長はどうだろう。もしも、その辺のフレキシブルな対応を求める社長だったら。「常識に囚われず、時と場合に応じて、柔軟な対応ができる社員」を求めていたとしたら。そっちタイプだったら、今の対応は間違っていたのではないか。

(待てよ)

だが、今まで、そんな発言は聞いたことがない。会社のポータルサイトには、毎月の初日に、社長のスピーチが掲載される。読む社員もいれば、まったく読まない社員もいる。しかし、杉雄は入社当時から、まじめに毎月読んできた社員だった。その杉雄をしてでさえ、常識に囚われず、フレキシブルな対応のできる社員を求めるなどというような内容は見たことがない。少なくとも、記憶にはない。確か、「自由な発想」というのはあった気がする。長年、同じ業界の同じ製品群だけを取扱っていると、そこを突き抜ける自由な発想がなくなってしまう。だから、退社後や休日には、仕事から離れて、趣味や家族で濃密な時間を持つことが大事だ、そんな趣旨のスピーチが確かあった。そうやって仕事から離れることで、常識に囚われずに自由な発想ができるというものだ。しかし、これは発想であって、エレベーターに乗るのとは別問題だろう。エレベーターには目上の方々から乗る。これは発想ではなく、ルールだ。

(待てよ)

だからこそ、そこで自由な発想を繰り出すべきではなかったか。例えば、だ。「今日は君が主役だから」と言う社長に対して、「では、お言葉に甘えて」とエレベーターに乗りかけてからの、「いやいや、乗れるわけないじゃないですか!社長より先に!」と突っ込んでみる。いわゆる、乗りツッコミというやつだ。これはだいぶ自由な発想だろう。いまだかつて、平社員で、社長に乗りツッコミをかました人物などいるのだろうか。いや、まずいないだろう。これこそ、自由な発想であり、社長が欲しがっている人材ではなかろうか。

(待てよ)

そんなことしたら、調子に乗っていると怒られてしまうだろう。ただでさえ、社長は自ら、「今日は君が主役だから」と下手に出てくださっているのだ。そんな社長に対して、いくら冗談だとはいえ、乗りツッコミなどしていいわけがない。それこそ、調子に乗ってると思われてしまうだろう。しかも、これから全国に生放送される記者会見に、主役として臨もうとしているのだ。そんな状況で、社長に乗りツッコミなどかましたら、「お前、何か勘違いしているだろう」とくぎを刺されてしまうだろう。専務も黙ってはいないだろう。そんなにリスクを冒す必要はない。ということは、実際に乗りツッコミをしなくて、やはり正解だったのではないだろうか。

「着きましたよ」

だが、逆に言えば、社長との距離を縮める絶好の機会を失ったとも思われる。さすがに乗りツッコミをする必要はないが、それでもユーモア交じりに「それじゃお先に、いやいや、冗談です」くらいの返しは必要だったのではないか。

「どうぞ」

いや。自由な発想やユーモアをPRするなら、他にいくらでも機会はあるだろう。

「降りてください」

何もエレベーターの乗り込みでPRをすることもない。PRすべきは、仕事のアイデアであって、エレベーターの乗り降りではないはずだ。では、やはり自分の行動は合っていた

パチン!

自分の目の前で、誰かが手拍子した。それに驚いた杉雄が正面を見ると、エレベーターのドアは開かれ、すでに全員がエレベーターの外で待っていた。専務を除いて。

「七年前と何ら変わらないな、お前は」

専務はそう笑うと、早くエレベーターを降りるように杉雄を促した。



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