15
そして、今、杉雄は久しぶりに本社ビルの前にいた。上海からの帰国、両親との再会。高級ホテルでの宿泊。そして、今朝、江上と共に、昨日と同じ車、同じ運転手で、本社にやってきた。記者会見に出席するために。
「失礼します」
二十階にある取締役会議室のドアを開けると、そこは豪華絢爛、威厳と威容を誇った部屋だった。高級ソファにテーブル。高価そうな調度品の数々。今まで見たこともない豪勢な会議室だった。
「よく休めたか?」
専務が笑顔で話しかけてくれた。そこには、社長、専務をはじめ、錚々たる役員の面々が座っていた。同行した上海領事館の江上もすぐに入室してきて、挨拶を交わした。
「日本国駐上海領事館の主席領事をしております、江上浩太郎と申します」
すると、一人の人物が先頭に立って江上と名刺交換をした。
「マイクロテック株式会社CEOの西林豊彦です」
杉雄は新入社員時の入社式で顔を見て以来だった。
「専務をしております、松葉秀夫です。彼を中国に行かせた張本人です」
続いて専務の松葉がユーモア交じりに挨拶すると、一座に笑いが生まれた。
「改めまして、この度の事件では、江上主席領事をはじめ、上海領事館の方々に大変お世話になりました。誠にありがとうございました」
西林が立ち上がってお辞儀をすると、専務以下、全員がそれにならった。もちろん、杉雄も頭を深々と下げた。
「とんでもございません。こちらこそ、お役にたてて光栄でした」と言うと、江上は、改まった口調で、
「もう何度も申しあげていることですが、何よりもよかったことは、木塚井さんが軽傷だけで済んだということです。だからこそ、今こうして、笑顔でいられる。重傷を負ったり、後遺症が残る怪我をしたり、万が一のことが起きていたら、こんな風にリラックスして笑えていませんし、また自分の外交官生活の中で、心の中に永遠に傷跡を残したであろうと思います」と告げた。
「まったくその通りです」と西林も相槌を打った。
「木塚井、結局、病院での最終診断は、外傷はロープで縛られていた手首の捻挫だけだったんだろう?」と松葉が聞いた。
「はい」
「あれだけの事件で、よくそれだけで済んだものだ。本当に奇跡だ」
一同がうなずいた。
「木塚井の日頃の行いがいいということが証明されたな。事件が起きる前は、どうせ夜の街に繰り出して、遊びほうけているのだろうと思っていたが」
忌憚のない松葉が冗談を飛ばした。
杉雄は苦笑するしかなかったが、もちろん、悪い気はしなかった。
「いやいや。木塚井くらいの年齢の時は、むしろ羽目を外して遊んでおくくらいがちょうどいいだろう。木塚井はおとなしい性格だから、どれだけ派手に遊んだとしても、松葉専務、君の若い頃には足元にも及ばないよ」と西林。
「そんな私も、社長の若き日にはかないませんからね、皆さん」と松葉も言い返した。
「しかしながら、上海での夜遊びと言っても、深刻な展開になってしまうこともあるんですよね。江上さんにこんなこと言っていいのかどうかわからないが、過去には、上海領事館でも、ハニートラップから不幸な出来事が起こった」
上海に住んでいる杉雄が知らないことだった。
「そんなことがあったんですか?」
あまり深く突っ込むと、申し訳ないと思いつつも、これまでの人間関係で何でも話せると思っている杉雄は江上に聞いてみた。言いにくい内容なら、話すのを断るだろう。
だが、江上は「私はその事件の時は日本にいましたので、又聞きでしかありませんし、また正確にはハニートラップではないのですが…」と前置きしたうえで、事件について話し始めた。
「ある年の出来事です。当時、在上海日本国総領事館にある男性が領事として勤務していました。年齢は四十過ぎで、既婚者でした。彼は電信官をしていました」
「電信官?」と杉雄が質問した。
「はい。電信官とは、外務省本省と世界各地の大使館や領事館の間の通信を担当する者です。外務省も世界各地の出先機関も、日本国の国家機関ですから、当然ながら、本省との通信、まぁもっと平たく言えば連絡ですよね。そういう連絡のやり取りの中には、別に外部に漏れても構わないような情報もあれば、中には特に機密性の高い、国家機密もあるわけです。もしくは、漏れると、現地の国との外交問題に発展しかねない情報などもあります」
杉雄がうなずく。
「その男性は、上海領事館において、本省と上海領事館との間の電信官を務めていました。しかし、ある日、その男性が自殺したのです」
「えっ」と杉雄は思わず声を出した。
「そして、その男性の遺書が残されており、そこには彼が自ら命を絶つまでの経緯が詳細に記されていたそうです。それによると…」
江上の話はこうだ。
自殺する一年前、この領事は現地の中国人女性と男女関係にあった。その女性は上海にある日本人向けのカラオケ店で働く女性であった。ある日、この女性が、中国当局により拘束された。理由は売春行為だった。
「まぁ日本で言うところの水商売というやつです。実際に売春があったかどうかは関係なく、たとえなかったとしても、中国当局は何かしらの理由で彼女を拘束したでしょう。なぜなら、当局の目的は、彼女の身柄を拘束することでなく、工作員に仕立てることだからです」
事実、その女性は買春容疑をかけられたものの、何の処罰もなく、しかも拘束の翌日にすぐに釈放された。そして、この女性を窓口として、中国当局が男性に接触してくるようになったという。
「最初は、公安局のお偉いさんと、通訳を務める若い男性の二名が、領事に接触してきたようです」
カラオケ店で働いていた女性を介して、電信官を務める男性との接触に成功した中国当局は、更なる接近を図った。
ある日のこと。男性の自宅ポストに手紙が入っていた。差出人は国家安全部を名乗る者からで、上海領事館の総領事や主席領事と連絡を取ることを要求する内容だった。そして、差出人の携帯電話の番号も記してあった。ただし、注意事項として、その携帯宛てに電話する時は公衆電話を使うこと、また、連絡してくる時間帯は金曜日もしくは日曜日の夜七時から八時の間だけとあった。電信官の男性はこの手紙を不審に思い、すでに接触のあった前述の公安を名乗る人物に相談した。その二週間。公安を名乗る男は、国家安全部を名乗り、手紙を投稿した人物を逮捕したと電信官の男性に告げた。怪しい内容の手紙を投稿され、狼狽し、精神が不安定になっていた電信官の男性は、手紙の投稿主を逮捕してくれた公安の男たちを頼もしく思った。
だが、それが落とし穴だった。
この逮捕(本当に逮捕されたのかどうかは不明)をきっかけに、公安の男たちは態度を急変させ、強硬に様々な要求を突き付けるようになったという。例えば、上海領事館に勤務する全員の名前が記された名簿を突き付けて「ここにある全員の出身官庁を教えろ」と迫ったり、「上海領事館の職員が接触している中国人の名前を言え」と迫ったりした。さらには、「お前が電信官を務めていて、どんな職務を遂行しているのか、我々はすべて理解している」「こうして陰で接触していることが公になれば、国際問題になる」「そうなれば、お前は仕事を失い、家族は路頭に迷う」などと脅迫めいた発言で詰め寄り、ついには「我々が真にほしい情報が何なのか、お前はわかっているはずだ」と陰での情報提供を匂わせるに至った。面と向かっての脅迫は三時間にも及んだという。その圧力に耐えられなくなった男性は、その場では協力すると同意し、日を改めて再会することを約束してなんとか逃れた。つまり、手紙の投稿主を逮捕して、男性を安心させた行為は、男性に恩を売り、抵抗しづらくさせるための芝居工作だったのだ。
「『我々が真にほしい情報が何なのか、お前はわかっているはずだ』というのは、上海領事館が本省とやり取りしている機密性の高い情報のことではなく、暗号システムそのものだと思われます」
「暗号システム?」
「はい。外交の世界では、本省と出先機関が機密情報をやり取りする際に、公電と呼ばれる、暗号化された電報を使います。この公電の暗号システムのことです。暗号システムそのものが中国側に漏えいしてしまうと、公電の暗号が解読されてしまい、本省と上海領事館、いや、下手をしたら上海以外の大使館や領事館との公電のすべてが中国側に漏えいしてしまうことになります」
「それはひどい」と松原が唸った。
「そして、もうこれ以上、彼らの脅迫に耐えられなくなった男性は、当時の上海総領事や家族、知人など合計五通の遺書をしたためて、領事館の宿直室で自ら命を絶ちました。時刻は早朝だったのですが、その日は、公安の男たちと再会する予定だった日でした」
総領事あての遺書の中には「これからずっと、あの男たちに脅迫され続けることを考えると、こういう形しか選択肢はありませんでした」「私は売国奴にならない限り、中国から出国できそうにありませんので、この道を選びました」などと記されていたという。
「つまり、中国に日本の機密情報を提供するか、そうでなければ、もう死ぬしかない。そう思わされるほどに、その男性は追い詰められていたようです」と江上が話を締めくくった。
しばらく、重苦しい空気が会議室を支配した。先ほどまでの明るい雰囲気はどこかへ消えてしまったようだった。
「失礼しました。私も、あくまで又聞きですので、この話がどれだけ正確なのかはわかりませんので、ご注意ください」
言いづらい内容の話のはずなのに、江上はあくまで自分も又聞きであるという前提で話をしてくれた。杉雄はやはりこの人物は信頼に足ると思った。そして、江上との出会いから今日にいたる濃厚な日々の出来事を回想していた。
雰囲気を変えるように話し出した江上は、「それでは、本日の記者会見について、私からご説明させていただきます」と本題に入った。
「お手元に配られた資料をご覧ください。記者会見は午前十時から、こちら、マイクロテック株式会社様の一階の大会議室で行われます。大手、地方、また一部海外を含む、多くのマスコミ各社の来場が予想されますので、マイクロテック様には、事前にご準備いただいた警備会社とうまく連携の上、混乱や事故などがないよう、安全な運営をお願いいたします」
社長の西林と松葉がうなずく。
「司会は、私が務めさせていただきます」と江上が言った。
本来であれば、外務省の江上が司会をすることなどありえないことだが、今回は中国で起きた事件ということもあり、外務省も非常に敏感になっていた。中には、この事件をきっかけに、反中や嫌中ムードを焚き付けようとするようなマスコミが出ないとも限らない。また、中国系のマスコミの来場も当然あるだろう。その場合は逆で、反日ムードを焚き付けるような報道をされては困る。中国で起きた日本人人質事件ということで、問題はいとも簡単に国際問題に発展してしまう可能性を秘めている。外務省としては、それだけは避けたいことであった。そこで、状況をもっとも把握しており、記者会見のメインである杉雄との人間関係や信頼関係を加味して、江上が自ら、司会を務めることになったのだった。
「記者会見の冒頭では、マイクロテックの西林社長より、ご挨拶いただきます。時間は五分を予定しています」
西林がうなずく。
「続いて、マイクロテックの松葉専務より、五分間で事件の経緯についてご説明いただきます」
ここで、今回の事件を改めて復習する。
「そして、木塚井さんによるコメントをいただきます。こちらも五分を想定しています」
江上が杉雄を見る。これはすでに打ち合わせ済みであり、杉雄も理解していた。
「そして、会見のメインである、記者との質疑応答になります。西林社長、松葉専務、木塚井さんの三名に質問が来る可能性がありますが、やはりメインは木塚井さんへの質問となることが予想されます」
会場に、それは当然だという空気が流れた。
「質疑応答は予定では四十五分で、これで合計一時間の会見ということになっておりますが、恐らく一時間では終わらないかと。ただし、木塚井さんの体力や精神面を最優先に考慮いたしますので、会見の途中でも、気分が悪くなられたら、すぐに切り上げることに何ら問題はありません。また、ご本人が希望するようでしたら、質疑応答を延長していただいても構いません」
江上が全員を見渡すように言った。
「どうだ?木塚井。四十五分、できそうか?」と松葉が聞いた。
「はい。問題ないと思います」
「とはいえ、会見ではすごい数の記者が来ますので、緊張もあれば、疲労も出ると思います。とにかく無理せず、気分が悪くなったら、一旦中断してもいいですし、トイレのために中座しても構いませんから、おっしゃってくださいね」
「わかりました」
「それでは続いて、注意事項を申し上げます」と江上が続けた。
「今日の会見は生放送です。生放送の一番の難しさは、編集が効かないことです。ライブでそのまま全国に流れてしまいます。そのため、くれぐれも言葉づかいにお気をつけ下さい。まぁ皆さまはビジネスのプロですので、どこかの政治家のように、軽率な失言などすることはないかと思いますが」
一座に笑いが起こった。
「また、木塚井さんには重ねてのお願いになりますが…」と江上は言いずらそうな表情をした。杉雄は昨日、江上に言われたことを思い出して、彼が言わんとしていることがわかっていた。
「とにかく、中国との国際問題に発展する可能性を秘めた会見になります。今申し上げたように、生放送なので、発言は修正ができません。よって、とにかく中立な立場からの発言をお願いします。日本や中国を批判するようなコメントは、どんな悪意をもってマスコミによって報じられるかわかりませんし、またマスコミはコメントの一部だけを切り取って、あたかも総意であるかのうように報道します。正直申しまして、そのすべてをケアするのは難しいですが、とにかく、マスコミに揚げ足を取られて、印象操作されかねませんので、偏った発言は避けるようにお願いいたします」
「わかりました」
杉雄はそう答えたが、正直いって不安であった。頭ではいくらわかっていても、実際の会見になったらどうなるのか、予想もつかないからだ。
「私からの事前説明は以上ですが、何かご質問はありますでしょうか?」
「記者会見が一時間を超えてしまっても、生放送は継続されるのでしょうか?」と社長の西林が質問した。
「わかりません。それは、テレビ局の判断になります。それに、丸々一時間、会見を生放送するのか、また会見の途中で生放送を中断して別の放送を流すのか。そのあたりのさじ加減もすべてテレビ局の判断となります」
「質疑応答で質問されている人間が、回答に窮した場合には、他のものがサポートして発言しても、問題はないですか?」と今度は松葉が質問した。
「もちろんです。特に、西林社長と松葉専務には、木塚井さんに対するサポートを最大限、お願いいたします」と江上が答えた。
事前説明が終わった。会見開始まで、あと三十分だった。
杉雄はトイレに立った。緊張はなかった。どんな質問をされるのかは、江上が提供してくれた事前想定集を呼んで把握していたし、五分間のコメントも、ありのままの正直な気持ちを話せばいいと言われていた。それに、今回、自分は被害者なのだ。生命の危険にさらされた、人質被害者だったのだ。決して自分の不祥事などによる会見ではない。だからこそ、隠すことも濁すこともない。そのままを話すしかない。むしろ、それしかできない。そんな状況が、杉雄を開き直らせており、それにより、緊張することもなかった。会議室に戻り、社長や専務と最終の確認を行っているうちに、いよいよ会見時間となった。