14
まるで世界が変わってしまったようだった。
あの日を境に。
思い返すと、江上との出会いは連雲港市の病院の入院病棟だった。杉雄は、事件解決後、救急病院に運ばれてから、実に二十時間以上にわたって眠り続けたと江上から知らされた。周囲は、眠り続ける杉雄を心配しつつも、バスジャック犯の人質になったのだからと、ひたすら目を覚ますのを待っていたという。そして、ついに目を覚まし、事件の全貌を知った。杉雄は三日間の入院後、自宅安静を条件に上海に戻された。当然、会社もそれを受け入れ、杉雄は会社を休み、毎日通院しながら一週間を過ごした。そして、改めて診断を受けて、肉体的には問題なしと判断された。ただ、それでも会社は杉雄に休養を取ることを求めた。事件が事件だけに、メンタルの心配をしたのだ。そこで上海にある日本人向けの心療内科に三日間通い、杉雄の判断で仕事復帰することとなった。杉雄自身、周囲の気遣いは嬉しかったが、通院以外はただひたすら自宅にいて、退屈を感じるようになっていたのだ。
ただひとつ、事件の傷跡が消えきらないのが手首のあざだった。ロープで縛られたまま、ずっとバスの座席にくくりつけられていたのだ。杉雄は両手首にできたあざを見ながら、果たしていつか、このあざも消えるときが来るのだろうかとおぼろげに思った。
杉雄の仕事復帰初日は、なんとも微妙な空気だった。それもそのはずで、中国国内でも大々的に報道されたこの事件の被害者が出社してきたのだから、周りが気を遣わないはずがない。普段は人懐っこく、気軽に話しかけてくる中国人スタッフたちも、挨拶はするものの、どこか気を遣って遠まわしに様子を伺っているようだった。杉雄本人はもう仕事復帰できる心身状態であったため、なんとなくそんな周囲の気遣いが逆に申し訳なく思えた。
そんな中、杉雄が中国のお姉さんと慕っている経理部長の王麗は、これまでと変わることなく、ごく自然に杉雄に話しかけてくれた。杉雄にはそれが嬉しかった。王麗は手招きして個室となっている自分のデスクに杉雄を呼んだ。
「もう大丈夫なの?」
「はい。入院もしたし、通院もした。その上、心療内科まで行ったんです。もう大丈夫ですよ」
「すごかったのよ、報道」
「そうみたいですね」
「もちろん、みんな心配してたわ」
「はい」
「もしもあなたが犯人に…なんてことを想像したら、怖くて怖くて。だから、夜も寝ずにずっと、テレビの前にかじりついて…」
そこまでいうと、王麗は涙で声を詰まらせた。
「ご心配いただいて、本当にありがとうございました」
王麗は涙が止まらず、後ろを向いて肩を震わせた。
杉雄は徐々に、自分の事件が周囲に及ぼした影響の大きさを感じ始めていた。これまでは、いわば病院と自宅にいて、世間からは隔離されていた状態だった。杉雄が世間の反応に疎いのは仕方がなかった。
「でも、こうして無事に帰ってきましたし、いたって健康ですよ。王麗さん、本当にありがとうございます」
ハンカチで涙をぬぐっていた王麗が目を赤く腫らしてやっと振り返った。
「食事はきちんと取ってるの?」
「はい。病院にいた時は病院食ですし、自宅にいたときは、外からデリバリーしてもらっていました」
杉雄が退院して自宅療養になったとき、上海領事館の江上は杉雄のために、特別に朝、昼、晩の三食を近くの日本料理店で作らせて、運ばせる手配をしていた。慣れ親しんだ日本食がいいだろうとの配慮だが、何より、栄養をつけて社会復帰しなければならない。そのために、野菜や肉など、バランスの取れた食事を作るように命じ、一日三食を毎日届けさせたのだった。
「今日は、仕事はできるの?」
「とりあえず、本社とテレビ会議をするんだ。僕自身、何をすればいいかわからないからね」
前日、会社に復帰しますと本社の総務部に連絡すると、しばらくして折り返しの電話があり、テレビ会議をすると告げられていた。出席者は専務の松葉とのことだった。
「何を言われるのかしら?」
「さぁ。僕もよくわからないよ。まさか首になることはないだろうけど」
杉雄の冗談に王麗もやっと笑顔を取り戻した。
杉雄はテレビ会議システムが設置されている会議室に入った。いつもテレビ会議を設置してくれる、IT担当の社員が遠慮がちに「お体は大丈夫ですか?」と聞いて去っていった。
「木塚井。体調はどうだ?」
「はい。おかげさまで、この通り、出社できるまでになりました」
杉雄は、松葉も王麗と同じく、下手に気を遣わずに、通常通り接してくれて安心した。専務のような会社トップにまで遠まわしに気を遣われたら、対応に困ってしまう。
「本当に、本当に無事でよかった」
短い言葉だが、そこには万感がこもっていた。
「ご心配をおかけしました」
「まさか、我が社の社員が、このような事件に巻き込まれるなど、本当に想定外だった。普段から、我々経営陣は危機管理、リスクヘッジと常に敏感になっているが、社員の不祥事ではなく、事件に巻き込まれる、しかも海外で、こんな重大な事件に…。それは本当に想定外で、いまだに信じたくない気持ちだが、ともあれ、無事で帰ってきてくれたことがなによりで、そして会社としても、今回のことを受けて、制度や意識含めて様々な面で改善していくことを約束する」
「恐れ入ります」
「本当に、無事でよかった。お帰り!」
最後の一言がびしっと胸に響いた。
「上海支社のメンバーにはもう挨拶したのか?」
「はい。とはいっても、個人個人ですけど。朝礼の場で、みんなの前でとかではありません。なんだか皆さん、とにかく気を遣ってくれていて、私としては会社に復帰した以上は、これまで通り普通に接してほしいんですが、なかなかそうもいかなくて、逆にやりづらいです」
杉雄は本音を語って苦笑した。
「そりゃそうだろうな。中国でも大々的に報じられていたそうだからな」
「専務、私はここのところずっと世間と隔離された環境で過ごしてきました。病院でも、自宅でも、できるだけ今回の件に関するニュースには触れずにいたんです。だから、正直どれだけ報道されているのかわかりません。中国でもとおっしゃいましたが、日本でも報道されていたんですか?」
すると松葉は頷きながら答えた。
「もしお前が望むなら、日本での様子がどんなだったか、後で見てもらってもいい」
杉雄はその意味がよくわからず、曖昧な返事をしただけだった。
そして、一時帰国と記者会見が告げられたのだった。
「お前を一番心配しているのは、日本で待つ家族だろう。まずは、帰国して、ご両親にお前の顔を見せてやれ」
「お心遣い、ありがとうございます。こちらでの休養中も、電話では両親と話していました」
「そうはいっても、やはり顔を見るのとは全然違うだろう。それからな、記者会見の要望がマスコミ各社から来ている」
「記者会見?」
杉雄は訝しく思った。自分にはあまりに関係のないワードだからだ。
「さっきも言ったように、日本全国で生中継されたからな。言い方は悪いが、お前はもはや、有名人なんだ」
「はい…」
後で知ったことだが、記者会見の要望は杉雄が心身ともに回復し、仕事復帰してから本人に話すように、会社、領事館、そして杉雄の家族の間で取り決めがなされていた。
「中国や日本だけじゃない。生中継ではないにせよ、録画映像も含めたら、全世界にニュースが報道されているそうだ」
「全世界、ですか…」
実感が湧かない。
「さっきも言ったが、お前が希望するなら、日本でどんな風に報道されていたか、ニュース番組の録画を、今、見せることもできるが、どうする?」
テレビ電話の向こうで、松葉が聞いてきた。
「はぁ…」
しばらくの沈黙を、松葉はまだ杉雄のメンタルがそこまで回復していないものと捉えたようだ。
「やはり、まだ見たくないか。無理する必要はない」
「いや、見ます。見せてください」
杉雄が沈黙したのは、松葉から告げられる内容のひとつひとつに実感が湧かず、戸惑っていただけだった。そんな映像があるのなら、見てみたいに決まっている。
「本当に大丈夫か?」と松葉がさらに気遣う。
「はい。むしろ、見てみたいです」と杉雄は笑顔を見せて返答した。
やがて、テレビのモニターにひとつの動画が再生された。
「番組の途中ですが、緊急ニュースです。繰り返します。現在、番組の途中でしたが、緊急ニュースをお伝えします」
緊迫したスタジオの雰囲気が伝わってくる。
「中国でバスジャック事件が発生し、日本人が人質に取られた模様です。繰り返します、中国でつい先ほど、バスジャック事件が発生。犯人は包丁を持って人質を取り、高速バスに立てこもっている模様です。そして、人質は日本人だということです。それでは、中国の渡辺レポーターに現地の情報を伝えてもらいます。渡辺さん?」
画面はまず、夜のサービスエリアに停車する一台のバスを映し出し、次にそれを遠巻きに囲むマスコミを映した。そして、渡辺と呼ばれた日本人の男性レポーターが話し始める。
「はい。私は現在、中国は江蘇省、連雲港市郊外で発生したバスジャックの事件現場に来ております。あちらに見えますバスが、犯人と人質が乗っているバスです。現地の情報によりますと、あのバスは、昨日午後十時に、この現場よりも車で二時間ほど北にある青島市を出発し、上海に向かっていた夜行バスとのことです。本来であれば、本日の明け方に上海に到着予定でしたが、ご覧のように、バスジャック犯によって占拠され、日本人男性一名が人質に取られています」
少し早口でレポーターが伝えている。
「渡辺さん、人質になっているとされている日本人の氏名や年齢などはわかりますでしょうか?」と東京のスタジオからキャスターが質問する。すると、海外との中継でよく発生する時差による微妙な間があったあと、レポーターが再び答える。
「まだ、そちらの情報は入っておりません。情報が入り次第お伝えします」
その後は、しばらく情報更新のないまま、同じ内容をキャスターが話し続けた。そのうち、スタジオには元警視庁だの、犯罪心理学者だの、バスの運転手だのといった、事件に関連する専門家が登場し、それぞれが限られた情報の中で自分の知見を披露していった。杉雄は我を忘れて画面を食い入るように見つめ続けた。
「あ、ここで現地より最新の情報があったようです。現地につなぎましょう。中国の渡辺さん?」
「はい、渡辺です。つい先ほど、現地の日本国上海領事館より、人質になっている日本人男性についての情報がもたらされました。それによりますと、人質になっているのは、木塚井杉雄さん、木塚井杉雄さん三十二歳です。繰り返します、人質になっているのは、木塚井杉雄さん三十二歳です。木塚井さんは、東京都に本社を置くマイクロテック株式会社の上海支社に勤務しており、本日、青島市から上海市へ戻るために、夜行バスを利用したところ、今回の事態に巻き込まれたとのことです」
再び、渡辺というレポーターが早口でまくし立てた。
「渡辺さん、木塚井さんのバス車内での様子はいかがでしょうか?無事なのでしょうか?」
「はい、非常に気になるのは、まさに今おっしゃった、木塚井さんの現状なのですが、それに関する情報はまだ入ってきていません」
すると、現地レポーターの渡辺に会話をつないだままの状態で、一人のコメンテーターが質問をした。
「なぜ、木塚井さんは夜行バスに乗っていたのでしょうね。通常、安全面や効率面を考えて、中国でビジネスされている日本人は、移動は飛行機や電車を利用するのが一般的なのですが」
杉雄は、飛行機が飛ばなくなったことや、夜行バスであろうとも、とにかく翌朝に上海にいなければならなかった当時の状況を思い出していた。
「渡辺さん、木塚井さんがなぜ高速バスを利用していたかについては、何か情報がありますでしょうか?」
「いえ、こちらにはまだその情報は入っておりません」
スタジオでは、再びキャスターを中心に専門家が議論を始めた。
「何よりも、まずは木塚井さんの安否ですね」
「なぜ、深夜の高速バスを選んだのか、不明ですね。青島市は決して小さくない都市で、空港も鉄道も整備されており、ましてや行き先が上海であれば便数も多いはずです」
「そもそも、人質犯はどういう人物で、何を求めているのでしょうか?」
「なぜ、木塚井さんを人質に取ったのか。木塚井さんを日本人だとわかっていて人質にしたのか?それも不明だ」
「木塚井さんは中国語が話せるようなので、コミュニケーションに問題はないのではないか」
など、矢継ぎ早に疑問が飛び交った。情報が少ないから、推論で話すしかないのだろう。
中には「中国は情報規制が厳しい国なので、日本側のメディアには情報が伝わってきてないのではないか」といったコメントまで飛び出した。
さらに、番組が生放送中に受け付けた、一般視聴者からのツイートがテロップで絶えず流れていた。そこには、
「確信犯で日本人狙っただろ」
「国際問題だ」
「外務省出番だぞ」
「中国の警察は人質が日本人でもちゃんと守ってくれるのか?」
といったツイートから、
「国交断絶だ」
「この国と付き合うとろくなことがない」
などといった、過激で的外れなものまであった。
杉雄は、もし自分の事件でなければ、こういった的外れで極端なツイートなど気にしなかっただろうと思った。しかし、こういうツイートが生まれるきっかけになったのが自分だと思うと、やりきれない気持ちになった。
例えば、「中国の警察は人質が日本人でもちゃんと守ってくれるのか?」という疑問は、もしかしたらそう思うこと自体は自然かもしれない。しかし、白大海のように、身を挺して康海隆と交渉し、自分を守ってくれた指揮官がいたこと。また、緊急の医務室で自分を診断してくれた中国人医師。さらに、自分の無事を確認して涙を流してくれた王麗。本当に数多くの中国人のおかげで、自分は命を長らえた。それを知っているだけに、こういうツイートが全国の生放送で流れてしまうことが違和感であった。
しばらくすると、今度は女性キャスターが割り込んだ。
「あ、ここで、現在人質になっている木塚井杉雄さんの勤め先である、マイクロテック株式会社より、緊急会見が行われます。画面をそちらに切り替えます」
画面が切り替わり、緊迫した面持ちの社長と専務が座り、その前に何本ものマイクが並べられた映像に切り替わった。
「こんなことまであったんですか?」
テレビ電話の通話回線は開いたままだ。杉雄は東京の松葉に話しかけた。
「そうだ。なにせマスコミが本社ビルに殺到してな。コメントを出せと騒ぎ出した。真夜中にも関わらず、だ。だから、緊急で会社の近くに住んでいる人間を呼び出して段取りをした。でも、マイクやら音響やらの設定の仕方がよくわからず、結局、ロビーで社長と私がメディアのマイクに向かって話すということで対応した」
会見というよりは囲み取材のような光景で、社長の西林と専務の松葉の二人を多くの記者が囲み、無数のマイクがそこに差し出されていた。そこでは、スタジオでコメンテーター達が投げかけていた疑問が二人に投げかけられていたが、情報が伝わってきていない状況はメディアと同じで、二人は「まだ明確な情報は入ってきていません」とばかり答えていた。
さらに「この責任を会社としてどう取るおつもりですか?」などという質問も向けられていた。社長の西林は、
「会社としての責任を問う前に、とにかく今は、彼が無事に開放されること。それを信じて、現地からの情報を収集しています。私の気持ちとしては、今すぐにでも現地に飛んでいきたい。しかし、もちろんそれもできませんし、行ったところで、現地の警察に頼るほかありません。ともかく今は、木塚井君が無事に開放されるのを祈るのみです」と答えた。
杉雄は、まるで映画を見ているようだった。こんなにも自分の名前がテレビで連呼され、そして自分の状況がまるでネタを小出しにするように明らかにされていく過程が、どうしても自分のものとして認識できなかった。
ニュース動画は一時間以上にも及んだ。しかし、専務の松葉は自ら言葉を発することなく、杉雄の質問に答える以外は、杉雄が動画を見終わるのを待っていた。
「専務、大変失礼しました。つい、ニュースに見入ってしまいました」
「いや。問題ない。どうだ?びっくりだろう?」
「はい、びっくりも何も、いまだに自分のこととは思えないです」
「無理もないな」
そして、しばらくの沈黙の後、杉雄に確認した。
「まずは一日も早く帰国して、家族と再会。そして、その後、記者会見だ。いけるか?」
杉雄は、はい、というしかなかった。
杉雄が帰国したのは、その二日後だった。上海虹橋空港から東京羽田空港に到着するフライトで杉雄は帰国した。会社は杉雄のスケジュールを社外秘扱いで厳重に取り扱っていたが、どこで知ったか、空港には複数のマスコミが特ダネをつかもうとゲートから出てくる杉雄を待っていた。杉雄は同じフライトで一緒に帰国した領事館の江上に誘導され、裏口から空港を出ると、そのまま外務省が手配した車に乗り込み、都内のホテルへ向かった。
「この裏口から空港を出るのは、大物政治家や有名人だけなんですよ。つい最近も、あるグループがここから空港を出て行ったそうです」と有名アイドルグループの名前を挙げた。
久しぶりの帰国。それがこんなことになるとは。
出口には黒塗りの高級車が待機しており、杉雄はバックとスーツケースを運転手に預けると、すぐに後部座席に乗り込むように江上に指示された。いつ、どこで、メディアのカメラが狙っているかわからないからだ。杉雄が乗ったことのない、いや、人生で乗ることもないだろうと思うような高級車だ。車は首都高を通って都心へ向かっていた。事前の説明で、杉雄はしばらく、都内のホテルに宿泊すると聞いていたが、それがどこなのかは知らされていなかったし、自ら聞くこともなかった。江上は運転手とホテル到着後の段取りの話しをしたり、どこかへ電話をしたりして助手席で忙しそうにしていた。
窓越しに見る東京の風景。見慣れた光景のはずなのに、なぜか別世界のように思えた。それは、自分の境遇が一変してしまったからに他ならない。空港の裏口、黒塗りの車、ホテル暮らし、マスコミから逃れての移動…。杉雄は日本に帰国したことで、自分の境遇の変化をより深く感じるようになっていた。
「ホテルにはあと十五分ほどで到着します。木塚井さんのご両親は、すでに到着されています」と江上が話しかけてきた。杉雄の実家は静岡県の静岡市だが、杉雄の帰国に合わせて、外務省と会社が両親を東京に呼び出し、都内のホテルで待機させていた。
「ご両親も、とにかく、早く会いたくで仕方ないでしょうね」
「そうですね。心配をかけました」
杉雄はそう答えるのが精一杯だった。会ったら何を話そう。どうこの事件を語ろう。そればかり考えていると、いつの間にか車はホテルに到着していた。名前を聞いたことはあるが、自分が宿泊するなどありえない、という超一流ホテルの玄関に車が横付けされた。ボディーガードだろうか、途端に黒いスーツを着た数名の屈強な男たちが車に近づいてきてドアを開け、杉雄に降りるよう促した。荷物は後で運ばせますからと江上が付け加え、杉雄は誘導されるがままロビーを横切り、エレベーターに乗った。周囲を見渡す暇もなかったほどだ。エレベーターは上昇を続けて、十二階で止まった。同じように男が誘導する。江上も隣のエレベーターですぐに付いてきた。男はある部屋の前で歩みを止めると、「こちらにご両親がお待ちです」と言った。頷いた杉雄を見て、男はドアをノックした。「はい」と聞き覚えのある声が中から聞こえてきて、ドアが開かれた。そこには、父親が立っていた。
「おぉ」と一言発すると、「おーい」と中に向かって叫んだ。すると、母が顔を見せて声にならない声を上げて近づいてきた。
「とりあえず、中に入ろう」と杉雄は中に入った。気を遣ったのだろう、江上は「後で参ります」と杉雄に告げてドアを閉めた。母親はひたすら涙を流して会話にならなかった。父親は、そんな母の背中をなでながら、「よく帰ってきたな」「無事で何よりだったな」と同じ言葉を繰り返した。何を話せばいいのか、戸惑っているようでもあった。
その夜、ホテルで両親とゆっくり過ごした。事件の話を聞きたくないのか、それとも杉雄を気遣ったのか、父も母も事件については一切触れなかったため、杉雄も何も話さなかった。両親の部屋の隣に杉雄の部屋が手配されており、夕食はルームサービスが用意されていた。夕食後、江上が遠慮がちに部屋にやってきて、杉雄に翌日の予定だけ告げて去っていった。杉雄は疲労を感じていた。上海から東京へ移動し、厳戒態勢の中、空港からホテルへ移動し、両親とは再会したものの、お互いに気を遣いながらの会話では無理もなかった。両親も気を利かせて「今日は早く休んで、明日に備えないと」と言ってくれた。
杉雄は自分の部屋に戻り、シャワーを浴び、テレビをつけた。まさか自分のニュースがやっているのではと思ったが、それはなかった。しばらくぼんやりとテレビを眺めていると、午後十時になった。
「午後十時、か」
杉雄はつぶやいた。思えば、青島発、上海行きのあの高速バスの出発時刻が午後十時であった。あの日は、飛行機が遅延して、とにかく翌朝までに上海に到着しなければと焦っていた。そして、なんとか午後十時発の高速バスに乗り込むことができ、ほっと胸をなでおろしていたのだった。