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袖振り合うも多生の縁  作者: 松本忠之
13/19

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あの時、杉雄の意識ははっきりとしていた。

しかし、とにかく目を開けられなかった。恐らく催涙弾というやつだろう。易大海が運転手を連れて再びバスに乗り込んできて、自分が身代わりになるといって杉雄を解放するよう交渉しはじめた。そうこうしているうちに、突然、バスの後方でガラスが割れる音がしたと思ったら、あとはとにかくすべてが突然の出来事で、いきなりバスの車内に煙が蔓延しはじめたと思ったら、目が痛くなってきた。そして、いつの間にか仲良くなっていた康海隆の表情を伺うと、康海隆は手にした包丁で杉雄を縛り付けていたロープを切ろうとした。それは、杉雄自身が一番よくわかっている。もしも自分を刺そうとしたなら、すぎにできたであろう。しかし、康海隆は杉雄の手を傷つけないように、ロープの外側だけに包丁の刃が当たるようにスピードを緩めた。その瞬間だった。銃声がしたのは。

「うぐっ」

杉雄がそれまで聞いたこともないようなうめき声をあげて、康海隆はその場に倒れた。その時にはすでに、杉雄の目はちかちかして、いくつもの色の星が飛び交うようになっていた。康海隆が倒れたことと、目を開けていられないことで余裕を失った杉雄は、ただひたすらその場に身を伏せていた。すると、今度はすぐに誰かがそばにやってきて、杉雄をひょいと抱えた。そしてあとはなされるがままだ。何せ目を開けていられないのだから、状況を確認できない。感覚としては、誰かに抱えられてバスから降ろされ、担架に乗せられて運ばれ、医師の診察らしきものもあった。医師が中国語で話しかけてきたから、それに答えたのだ。

「木塚井さん、木塚井さん。聞こえますか?」

「聞こえます」

「痛いところはありませんか?」

「目がちかちかしてあけられませんが、それ以外はありません」

「目は痛いですか?」

「いや、少し沁みますが、痛くはないです」

「体のどこかに調子の悪いところはないですか?」

「ありません。目だけです」

「わかりました。ではゆっくり休んでください」

そして、続けざまに医師が「体力の消耗が激しいので、点滴をさせます。これから病院に運びますが、命に別状はないでしょう」と誰かに話しているのが聞こえた。やがて女性の声で「点滴します。少しチクッとしますよ」という声がして、点滴が始まった。医師が「体力の消耗が激しい」と言ったが、確かにもう何もかも忘れて眠りたかった。頭の中では、康海隆がどうなったのかを聞きたいという願望が強くあったが、自分が解放され、もう安全な身になったという安心感と極度の疲労で、それを口にするのが億劫になっていた。やがて眠りに落ち、車で運ばれていることを消えゆく意識の中で微妙に感じながら、杉雄は深い眠りについたのだった。

目を覚ました時、杉雄は自分の状況を把握するのに、少し時間を要した。

まず目に入ったのは煌々と光る蛍光灯だった。ここがどこで、今は何時で、自分は何をしているのか。それらが少しずつはっきりしてくるにつれて、自分の陥った境遇を思い出した。そうだ、自分は人質になっていたのだ。

人の気配がした。椅子から立ち上がって、ベッドへ寄ってくる。杉雄はゆっくりとそちらへ目を向けた。

「木塚井さん、目覚めましたか?」

スーツ姿の男が立っていた。

杉雄は体のだるさから、起き上がることもままならなかった。

「私は江上浩太郎と申します。上海領事館で主席領事をしています」

江上と名乗る男は優しい声でそう語ると、「お加減はいかがですか?」と聞いてきた。

杉雄はすぐに答えようとするが、頭と口がついてこない。

「な…なんか…」と何かを言おうとして、思わず、「水をください」と別の言葉が出た。

江上の後ろに立っていた同じくスーツ姿の女性がすぐにベッドの脇に置いてあった水差しからコップに水を注ぎ、差し出してくれた。杉雄は起き上がろうとしたが、体が重くてなかなか動かなかった。それを見て、女性は杉雄が起き上がろうとするのを手でそっと制止すると、コップを口元に運んでくれた。

「すぐに医師を」

江上が女性に指示すると、女性は病室を出ていった。個室だった。

「命に別状はありません。体力を激しく消耗していましたが、解放後、すぐに点滴を打っていますし、今までもよく眠られていました。回復するのも、時間の問題でしょう」

杉雄はいまだ自分が夢の中にいるようで、言葉を返すわけでもなく、じっと江上を見つめていた。

その時、ふいにある人物の顔が浮かんできた。なぜか懐かしい感情が生まれたが、それはつい最近出会った人物だ。最初は怖いとしか思っていなかったが、話してみると人懐っこく、そして確か、日本に行きたいと言っていた。ということは日本人ではない。

「彼は、彼はどうなりましたか?」

突然、杉雄が歯切れのいい言葉で話したので、江上は驚いたようだった。

「安静にしてください。彼とは、誰ですか?」

記憶が一気に戻ってきた。男の名前も。

「康海隆、康海隆はどうなりました?」

「人質犯ですね。彼は…」

そう江上が言いかけたところで、病室のドアが空いて、医師が看護師と共に入ってきた。

「お体はいかがですか?」と中国語で聞いてきた。

「大丈夫です」

「診察しますね」と言うと、医師は聴診器を杉雄の胸に当てた。そして手首で脈を測り、おでこに手を当てて熱がないかを調べると、「食欲はありますか」と聞いた。

そういえば、そう聞かれるまでは意識していなかったが、お腹が空いていた。

「はい」と答えると、その一座に安堵のため息が漏れた。

「食事を運んで」と医師が看護師に指示すると、看護師は病室を出た。

次々と甦ってくる記憶の中で、杉雄は、無事に救出されたら調べたいと思っていた中国語があったのを思い出していた。康海隆との会話の中で、彼がしみじみと語っていた中に、意味が分からない単語があったのだ。その時は、別段、気に留めるでもなく会話を流していた。自由の身になれたら調べてみよう、と決めていた。今なら、それができる。

杉雄は携帯で音だけで聞き取っていた単語を検索してみた。そして、思わず「えっ」と声を上げていた。どうして、この単語をあの時、聞き取れていなかったのか。よく考えれば、十分に理解できるはずだった。もちろん、人質になっていたという特殊な状況だから、そこまで頭が回らなかったということもあるだろう。しかし、それでも、もし、あのバスの中で、康海隆との会話中に、この単語の意味を聞き取れていれば…。しかし、それも後の祭りだった。


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