12
午前二時。
易大海は鮑文民を伴ってバスへ向かった。バスのドアは閉まった状態で、中からはエンジンをかけてドア開閉ボタンで操作しないと開けられない。外からは鍵で開けることができ、その鍵は鮑文民が持っていた。
「では、打ち合わせ通りにお願いしますね」
「わかりました」
易大海は、更なる緊張を鮑文民に強いらざるを得ないことに申し訳ない心情であったが、事件の早期解決のためには絶対条件であると心を鬼にして臨んだ。そして、すでにここまでの鮑文民の行動を見て、この人物なら必ずこの極限状態の中でも、こちらの指示通り動いてくれる。そう確信していた。
バスの前方ドア前に到着した。鮑文民が鍵を取り出し、確認するように易大海を見た。易大海が頷くと、ドアを開けた。すかさず易大海がバスに乗り込んだ。鮑文民がついてくる。
康海隆と日本人の人質が気づいてこちらに視線を向けた。気のせいだろうが、二人の間に穏やかな雰囲気が流れているように易大海には感じられた。
「お前の要求通り、運転手を連れてきた」
康海隆が易大海の後ろに立つ鮑文民に目を向けた。
「ここからバスを出すのか?」
康海隆が言った。
「それがお前の望みだろう?」
だが康海隆は何も答えなかった。
「ただし、条件がある」
緊迫した空気。
「人質と私を交換しろ」
康海隆が戸惑いを見せた。その隙に、易大海は自分の計画を実行した。
「運転手さん、運転席へ」
ごくり、とつばを飲み込む音が聞こえた。そして鮑文民が運転席についた。とても落ち着いている、と易大海は思った。
「エンジンをかけてください」
指示通り、鮑文民がエンジンをかける。ここに到着して以来のエンジン音だ。あのときは、とにかく三分は乗客を降ろすまいと必死で取り繕っていた。状況は一転した。しかし、今度のこのエンジン音は、事件解決に向けての希望のサウンドのように鮑文民には聞こえた。
「どうだ。運転手も準備できた。もうバスはいつでも出発できる状態だ。私と人質を交換して、このサービスエリアから逃げ出さないか?」
康海隆は言葉を発せず、ただただ易大海を睨みつけていた。だが、その手に握られた包丁が人質に向けられていないことに易大海は気が付いた。だがもちろん、油断はできない。そして、いよいよ決断の時が来た。無線がオンになっていることを示す緑のランプを確認したあと、大きく、はっきりと周囲に聞こえる声で言い放った。
「康海隆、もう疲れただろう?」
その瞬間、バスの前方と中央のドアが開かれたのと同時に、バス後方でガラスの割れる音がして、矢継ぎ早に催涙弾が打ち込まれた。催涙弾は康海隆と人質のすぐそばに着弾し、白煙を吐き出した。易大海はすぐに運転席に向かうとまず鮑文民に異常がないことを確認した。その間に、入れ違いで前方ドア部隊が乗り込んで人質の救出に向かった。中央ドア部隊はそれより先にバスに乗り込んでおり、康海隆を威嚇する声が後方で聞こえた。易大海は鮑文民をバスから降ろして部下に預けると、今度は同じ部下からマスクを受け取り、それを付けて前方ドアから再びバスに乗り込もうとした。
その時だった。銃声が聞こえたのは。
(打ったか…)
確かに自分は条件付で発砲許可を出していた。康海隆が人質に危害を加えるような素振りを見せたときは打っていい、と。ということは、康海隆がそんな素振りを見せたということか。
車内に戻ると、白煙で視界がさえぎられていたが、康海隆がぐったりとして中央ドア部隊に抱きかかえられているのが見えた。すぐに人質に目をやると、前方ドア部隊が日本人を抱きかかえて、こちらに向かってきて、前方ドアから降ろしていった。これで人質は開放された。あとは、人質、康海隆のそれぞれの容態だ。易大海は現場保存を部下に任せると、バスから降りてマスクを取り、救護室へ向かった。前方に二つの担架が見えた。駆け足で救護室に向かっている。二人とも、無事であってくれ。易大海は胸のうちでそう願いながら、しかし走って駆け寄ることはしなかった。指揮官として、毅然とした態度を崩すことはできない。どれだけ本音では駆けつけたくとも。救護室に向かって歩きながら、易大海は無線で白志強に状況を報告した。発砲があったことも。
「それでは、犯人死亡、人質は無事。そんなところか?」
「康海隆の生死についてはこれから確認します」
「報告を待つ」
「かしこまりました」
救護室に到着すると、そこはまさに戦場だった。怒号が飛び交い、緊急手当てをする医師の声、それに応じて動く看護師の慌しい音。ここには公安の医師を二人控えさており、康海隆と人質のそれぞれを診ていた。臨時で作られた救護室は手狭で、人質と犯人が横たわる担架はパーテーションで仕切られているだけだった。運転手の鮑文民がベンチに座っているのが見えたが、自分は大丈夫と手で合図した。人質のほうへ向かおうとした瞬間、康海隆を診ていた医師が大声で叫んだ。
「早く彼を救急車へ!」
易大海は進行方向を康海隆に変え、看護師たちが担架を動かす準備をしている横を通り抜けてまっしぐらに医師に向かっていった。
「現場指揮官の易大海です。状況は?」
「非常に危険です。銃弾は左わきを貫通して体内にまで達している。心臓にまで達しているとすれば、死亡する確率はあがります。それに、とにかく出血がひどい。早く輸血しないと、出血多量により、命を落としかねません」
医師の説明を聞いている間に、康海隆の担架が運ばれていった。当然、易大海の部下が同乗した。
次に易大海は人質の担架へ向かっていった。人質の日本人は横たわって、目をつむったままだ。医師が答える。
「催涙弾で目をやられていますが、それ以外は特別な問題は見当たりません。心拍数は少し高いが正常範囲、目立った外傷もありません。体力の消耗が激しいので、点滴をさせます。これから病院に運びますが、命に別状はないでしょう。詳細は精密検査で」
これにはほっと胸をなでおろした。易大海は人質に話しかけようとしたが、それは病院でもできると思い直し、次に鮑文民のもとへ行った。沈建英が付き添っていた。
「本当によくやっていただきました。今回の事件解決の最大の功労者は、あなただ」
「二人はどうなりました?」
「ご存知の通り、犯人の康海隆は救急に運ばれていきました。非常に危険な状態とのことです。人質のほうは、催涙弾で目をやられていますが、それ以外は今のところ何もなさそうです」
「よかった」
「さぁ。あなたも、病院へ」
「そうよ。家族にはもう病院の住所を教えてるから」と沈建英が言い添えた。鮑文民は公安の車で病院へ運ぶこととし、すぐに手配させた。
易大海は救護室を出ると、無線で白志強に連絡し、康海隆の容態が危険であることを伝え、自身も病院へ向かうと告げた。
バスの周囲には、マスコミが遠巻きに大勢群がっていた。