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鮑文民は鐘隆と、会社の上司である沈建英と共に、サービスエリアの建物内に臨時で作られた救護室にいた。初めて顔を合わせた青島市警の鐘隆は、鮑文民を確認するなり、その功労を称賛した。鮑文民はバスから解放されたあと、この救護室のベッドで医師の診断を受けたが、身体は特に異常はなかった。激しく疲労していたが、それ以上に無事に任務を遂行したこと、乗客のほとんどを避難させられたこと、そして犯人が人質を取っていまだバスに立て籠もっているという数々の現実に興奮が治まらず、沈建英がどれだけ睡眠を取るよう勧めても寝付けなかった。
何より、犯人について知りたかった。鮑文民は何も知らされないまま、ひたすらバスを走らせ続けたのだから。鐘隆から知らされた数々の事実は驚きの連続だった。
「あ、あの時の、スポーツカー!」
給油のため立ち寄った日照サービスエリアに到着する前、凄まじいスピードでバスの横を通り抜けていったスポーツカー。そこに鐘隆と沈建英が乗っていたという。だが、どれだけ知りたかった事実を知らされても気持ちはすっきりしなかった。それもそのはずだ。なぜなら、いまだ康海隆が日本人を人質に立て籠もっているのだから。
すると、体格のしっかりした武装警官が一人、救護室に入ってきた。それが易大海だとすぐにわかったが、そういえば彼の顔を、明るい馬車で、まじまじと近くで見たのはこれが初めてだなと思った。
易大海は鮑文民に何かを言いかけてから、目線を鐘隆に向けると、「もしや、あなたは青島市警の鐘隆警部?」と声をかけた。鐘隆が応じると、二人は握手を交わした。この二人は今が初めての顔合わせだったのかと鮑文民は知った。
鐘隆は話したいことがあるようだったが、現場の総指揮官である易大海に遠慮して、「どうぞ、任務を続けてください」と声をかけた。
「事件が解決したら、ぜひゆっくりと」
そう言った易大海が、再び鮑文民に視線を戻した。何を言われるのだろうと鮑文民は身構えたが、人質解放のためなら、出来る限りの協力を惜しむまいと心に決めていた。
「鮑さん、大変申し訳ありませんが、もう一度、私とバスに行ってもらえませんか?」
「なんでまた!」と叫んだのは沈建英だった。
「文民の疲労は相当なものです。それに、彼の家族も今、こちらに向かっています。それより、早く彼を病院へ連れていってあげるべきでしょう?現に、乗客はみな、病院へ運ばれたじゃないですか」と一気にまくし立てた。
「落ち着いてください」
易大海は低い、だが威厳と威圧感のある声を沈建英に向けると、鮑文民に話し続けた。
「我々の作戦をお話しすることはできませんが、我々は人質解放に向けて準備を進めています。犯人はあなたをバスに呼ぶよう要求しています」
「犯人が私を?」
「そうです。犯人はあなたに再びバスを運転させて、このサービスエリアから出ると言っています」
「そんなこと、許せるはずがない!」と再び叫んだ沈建英を、今度は右手で制止するジェスチャーで黙らせた易大海は続けた。
「もちろん、そんなことはさせません。しかし、あなたを連れていかないと、犯人が人質に危害を加える恐れがあるんです」
「そんな」
「なので、もう一度、私と一緒にバスに戻ってください。その際、どう行動すべきなのかは、別の場所でお伝えします」
だが、沈建英はいまだ不安な表情で訴えた。
「でも、ここまでの運転で、文民の身体はもうくたくたよ」
「わかっています。ただ、先ほど、診察した医師の判断を仰ぎました。身体的には問題はない、あとは本人の同意があれば、実行して構わないと」
「でも…」と言いかけた沈建英の言葉に重ねるように、鮑文民は「やります」と答えていた。
「ちょっと」と追いすがる沈建英に、鮑文民は
「だって、まだ人質がいるじゃないですか。あの人も乗客です。しかも、日本人なんでしょう?外国のバスで人質になるなんて、その恐怖心は想像を絶するでしょう」
「でも、あなたの家族がこちらに向かっているわ」
「わかってます。じゃ、人質の家族はどうなりますか?彼にも家族がいるでしょう。そして、彼の帰りを待っているでしょう。それに、私は指揮官と一緒に行くんだから、大丈夫です」
「ことは一刻を争います。では、こちらへ」
そう言うと、鮑文民は「ご心配、本当にありがとうございます」と沈建英に告げると、易大海と共に救護室を出た。別の部屋に連れていかれると、そこで易大海から説明があった。
「いいですか。よく聞いてください。午前二時に、私と一緒にバスに乗車します。私は犯人にこう告げます。お前の要求通り、運転手がバスをここから出す。だが、条件がある。人質と私を交換しろ、と。しかし、もちろん、それは嘘です。犯人を撹乱することが目的です。そして、私が指示したら、運転席に着いて、エンジンをかけてください。ただし、決してバスを発車させないでください。ただ、エンジンを入れるだけです。そして私が次のセリフを言ったら、すぐに前方と中央のドアを開け、そして頭を伏せて運転席で待機していてください。そして、必ず私の指示に従い、勝手な行動をしないようにしてください」
「わかりました。で、指揮官が何と言ったら、ドアを開けて頭を伏せるんですか?」
二人の間の打ち合わせが終わった。時刻はあと十五分ほどで午前二時を迎えようとしていた。