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袖振り合うも多生の縁  作者: 松本忠之
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康海隆、もう疲れただろう?

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「乗客三十二名、乗車完了。安全運転でお願いします」

青島中央バスターミナルのスタッフが通常通りのオペレーションで発車準備が整ったことを告げた。

「快速鹿脚一四三号、上海南バスターミナル行き、発車を許可します」

鮑文民はスタッフが差し出した書類のドライバーの欄にサインすると、バスに乗り込んだ。


近年、中国では高速鉄道の急速な発達により、高速バスの需要は極端に減った。速く、快適で、渋滞のない鉄道を人々が選ぶのは当然のことで、鮑文民とてそんなことは百も承知であった。しかし、鮑文民はこの仕事が好きだった。自分には天職だと思っている。長時間の運転は確かに疲れるが、ひとたび出発すれば、決められたサービスエリアで休憩を取り、時間を調整しながら目的地へ向かうだけだ。もちろん、高速道路が渋滞することもあるが、渋滞は世間が「仕方がない」と受け入れる。渋滞が原因で目的地への到着が遅れたとて、自分の給料には響かない。運転が面倒ではあるが。

特に深夜便が好きだ。ちょうど今夜のように。夜中は渋滞がなくすいすい運転できるし、何より乗客が全員寝てしまうから静かでいい。昼間の長時間ドライブの場合、起きている乗客が多いため、いろいろ要求してくるし、また子連れが多いからうるさい。予定にないトイレ休憩をせがまれることもよくある。

青島中央バスターミナルから上海までは約九時間の道のりだ。バスは定刻の午後十時に出発。到着予定は翌朝七時。天候は小雨。雨の中のドライブだ。無茶な運転をするトラックがスリップしたりするから、注意が必要だ。乗車率は八割ほど。みな、大きな荷物を持ち込んでいる。おかげで積載量がかなり増えており、バスは滑りにくいだろう。

「到着予定時刻は?」

鮑文民がエンジンをかけると、老婆が聞いてきた。答えてもなかなか席へ戻らないため、早く席に着くよう促す。着席したのを確認してから、義務付けられたいつもの内容を大声で読み上げる。

「このバスは快速鹿脚一四三号、青島発、上海行きです。お乗り間違えのないように、今一度、ご確認を。間もなく出発します」

高速バスの運転手になって五年。このタイミングでバスを間違えていた乗客などいない。そもそもチケットを改札に通して乗車するのだ。やる意味があるのかといつも思う。しかし、これはドライバーに義務付けられた仕事のひとつだ。恐らく、後々、乗客からケチをつけられないための対策だろう。いつものアナウンスを続ける。

「トイレは車両後方に設置してあります。気分が悪くなった場合は、座席のシートに備え付けられているエチケット袋をお使いください。なお、このバスは出発後、途中、浦南サービスエリアでの休憩以外は、バスの降車はできませんので、あらかじめご了承ください。どうしても気分が悪くなったお客様は、私まで申し出てください」

言い終えると、バスを出発させる。ルートは頭に入っている。ターミナルを出ると、海湾大橋を渡って高速二十二号線、通称「青蘭高速」を西に向かう。これは青島と甘粛省の省都、蘭州市を結ぶ高速という意味で、全長一七九五キロメートルの東西に横たわる高速道路である。そして、胶南ジャンクションで高速十五号線に入り、進路を南へ変える。十五号線は通称「瀋海高速」で、遼寧省の省都である瀋陽市と中国の最南端、海南省の省都である海口市を結ぶ、全長三七一〇キロメートルにも及ぶ、中国大陸を縦断する高速道路だ。この15号線に入ってしまえば、あとはひたすら南下するのみ。連雲港、塩城、南通などの都市を通過して、上海市に入る。途中の休憩は連雲港市にある浦南サービスエリア の一か所のみである。

五年前、入社したての頃は勉強と称していろいろな長距離ルートを走らされたが、いつしかこのルートに落ち着いた。今では長距離はこの青島ー上海ルートだけだ。同僚が休んだり、辞めたりしたときに他のルートを走るくらいか。夜を徹して走り、翌朝上海に到着。上海では運転手用の休憩所で夜まで寝て、今度は上海から青島へと徹夜で走る。快速鹿脚社の青島ー上海は週一回の往復便だ。日曜日の夜に青島発、月曜日の朝に上海着。月曜日の夜に上海発、火曜日の朝に青島着。水曜日は休みが与えられる。その他、鮑文民は木、金、土曜日に青島市内の空港エキスプレスのハンドルを握る。青島中央バスターミナルから青島空港までの約一時間の道のりを何度も往復する。時には青島ー済南の中距離も 運転するが、会社は青島ー上海の長距離を走る鮑文民の健康と疲労を気遣い、長距離がない時はもっぱら空港エキスプレスだ。

青島中央バスターミナルを出て市内を走り、高速道路に入る。高速に入るまでは車内の電灯はつけているが、高速に入ると消灯する。いつものように、消灯してしばらくすれば、もう乗客の寝息が聞こえてくる。大概、でかいイビキをかいて寝る乗客がいるものだが、今日は比較的静かだ。

バスが高速に入ったたころで消灯した。車内は非常灯と携帯の灯り以外に光はなく、真っ暗だ。ハンドル横のスペースにガムが置いてあることを確認する。眠気覚まし用に常備しているものだ。もっとも、鮑文民はこのルートで眠くなることはまずない。しっかり睡眠を取ってから運転席に座るし、会社も長距離運転で事故を起こさないようにといろいろ配慮してくれているから、疲労がたまって体調を崩すことはまずない。それに、少しでも体調が悪ければ、すぐに会社に申し出るように教育されている。長距離運転をしたほうが身入りはいいのだが、万が一、事故を起こしたら、業務上過失致死罪で刑務所行きだ。そこまで無理する必要はない。代わりはいくらでもいるのだ。

雨は降り続いていた。バスは順調に進み、高速に入ってから三十分が過ぎていた。

その時、鮑文民の携帯が鳴った。会社からだ。運転手は全員、運転中の電話はブルートゥースで繋いだイヤホンで受け取ることになっている。運転中に端末を耳に当てての通話は当然、危険かつ違法だからだ。それにしても、こんな時間に会社から着信というのが、鮑文民に不吉な予感を抱かせた。これまで、こんなことは一度もなかった。トラブルでも発生したのか。それとも、家族の身に何かあったか。いや、家族なら直接かけてくるだろう。会社を経由する必要はない。個押しで三十歳の鮑文民には、妻と五歳になる娘がいる。

「ウェイ?(もしもし?)」

乗客を起こさないよう、小さな声で電話に出る。運転手の電話の声がうるさいとクレームが来ても困るからだ。

「ウェイ?文民?」

聞き慣れた声。交通部の女性マネージャー、沈建英からだ。鮑文民は一瞬にして、何かの異常を察知した。沈建英がこの時間に会社にいることはないからだ。深夜のオペレーションは、健康や安全の観点から、男性スタッフだけになる。ちらりと車内の時計を見た。午後十一時をまわったところだ。

「アイヤ、沈主任。こんな時間にまだ会社ですか?」

「文民、これからある人に電話を代わるけど、とにかく何も喋らないで。相づちだけ打って、相手の話を聞くの。いい?」

「なんだか物騒な話だな…」といいかけて、文民は止めた。喋るなというからには、乗客に聞かれたくないということなのだろう。そんな沈建英の指示が、非常事態を告げていた。鮑文民に緊張が走る。

「ウェイ?聞こえてる?」

「あ、はい」

「聞くまでもないけど、この通話はイヤホンで聞いているわね?」

「当然」

「じゃ乗客には漏れていないわね?」

「はい」

「じゃ代わるわ」

しばらくの沈黙。その後、若い男性の声が聞こえてきた。

「鮑文民さん。突然のことで申し訳ありません。先ほど、沈主任からお話があったように、これから私が話すことに、一切声を立てないでください。とにかく、相づちだけで、私の話を聞いてください。よろしいですか?」

「わかりました」

「落ち着いて聞いてくださいね。私は青島市警捜査一課の鐘偉と言います。これからとても大事なことを、あなたにお伝えしますが、落ち着いて対応してください。とにかくバスを止めることなく、事故に注意しながら聞いてください」

「はい」

「我々の調査により、そのバスに、凶悪犯罪の容疑者が一名、乗車していることがわかりました」

「…」

背筋に悪寒が走る。

「そうです、いいですよ、文民さん。とにかく騒がす、慌てず、落ち着いてください。彼らは、まだ警察及び運転手であるあなたが、彼らの正体を見抜いたことを知りません。つまり、そのままでいれば、何の危険もありません。我々は、当然ながら、彼らに気付かれることなく、無事にあなたと乗客の身の安全を守りながら、容疑者を逮捕したいのです」

「はい」

決して冷静なのではない。あまりの突然に、まともに声が出ないだけだ。

「その調子です、文民さん。さて、ではどうやって容疑者を逮捕するのか。それはこれからまた指示します。こちらの体制が整うまで、何ごともなかったように、いつも通りバスを走らせてください」

「わかりました」

「くれぐれも、途中で止まったり、道を変えたり、自分から容疑者を取り押さえにいったりしないでください。容疑者は我々が捕まえます。とにかく、あなたは通常通り運転を続けてください。それが、乗客全員と、あなた自身の身を守る最適な行動です。わかりましたか?」

「わかりました」

「それから、もうひとつ重要なことをお伝えします。この電話を切ってからは、必ず、一定のスピードでバスを走らせてください。法定速度で、です。それより速くても遅くてもだめです。法定速度ちょうどで走らせてください。いいですか?」

「わかりました」

「また、これは乗務員規定にあることだから、あなたも当然承知していると思いますが、上海南ターミナルに到着するまでの間、浦南サービスエリアでトイレ休憩をすることになっていますが、それ以外ではバスを停車することも、乗客を降ろすこともできません」

「はい」

「問題ありませんね?」

「いや、それが…」

鮑文民はガソリンメーターをちらりと見た。

「どこかで給油の必要があります」

「そうですか。それは浦南サービスエリアの前ですか?後ですか?」

「前で入れておかないと、ガス欠の可能性があります」

できるだけ小さい声で答えた。この会話を凶悪犯罪者が聞いているかもしれないと思うと、冷や汗が出た。

「わかりました。給油は許可します。ただし、当然ながら、乗客は絶対に降ろさないでください」

「わかっています」

「給油はどこで行う予定ですか?」

「そうだな…」

ルートを思い浮かべる。急かされているわけではないのだが、なぜか早く回答しないと、と焦る。

「日照ですね。日照サービスエリアのガソリンスタンドです」

「わかりました。くれぐれも、乗客を降ろさないように気を付けてください」

長距離バスには規定があり、指定の場所以外での乗客の乗り降りは禁止されている。乗客の安全と、時間通りの運行を確保するためだ。

「わかりました」

「それから、今、バスはどこを走っていますか?」

鮑文民はしばらく走って高速の看板を見て場所を答えた。

「完璧です、文民さん。では、ここで一度、電話を切ります。また次の電話をお待ちください」

「わかりました」

「くれぐれも、法定速度ちょうどでお願いします」

電話が切れた。

バスは小雨の中を、上海に向けて走っていた。


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