第3話 親指の約束
「む、帰ってこなければよかったものを」
「言っていいことと悪いことがあるぞ……」
「私は王だぞ。言ってはいけないことなどない」
帰ってきて最初の会話がこれである。
少しだけ気圧されつつも、俺はベッドに豪快に座った。
「明日、クエストに行こうと思う」
「うむ。行って死んでくるがいい」
「お前も行くんだよ!」
「……なに?」
今まで目を合わせようともしなかったベロニカが、ついに俺の目を見た。
貴様正気か? ――という目で。
「お前がいくら自分を魔王だと言い張っても、もう俺の奴隷であることには変わらないんだ。俺が行くといったら、ちゃんとついてきてもらうぞ」
「……チッ、迷惑な首輪だ。私は協力しないぞ」
「いいよ。でも、俺もお前を守らない。魔物に狙われたら、ちゃんと自分の身を守ってくれ」
「――なるほど、回りくどい命令だ。それで私に魔物の処理を回す気か」
「どうかな。上手く行けばいいけど」
「ふん、小賢しい真似を」
ベロニカは顔を伏せると、イスから立ち上がる。
そしてそのまま俺の座っていたベッドに体を投げた。
「私は寝る。決して起こすな」
「いや、ここ俺のベッド――」
「かまわないな?」
ひと睨みされただけで、再び部屋が揺れた。
本当に、何だこの圧力。
睨んだだけでこうもなるものなのか。
「か、かまわない……です」
「そうか。ではな」
そう一言残して、ベロニカは壁の方を向いてしまう。
購入した人が次々に返品するのも分かってしまうな……。
俺はめげないけども。
「おやすみ、ベロニカ」
俺は収納からシーツを引っ張り出し、床に敷いて横になる。
少し冷えるけど、この際仕方がない。
「――――貴様は、私の名を呼んでくれるのだな」
「へ?」
「……」
小声でそう残したあと、ベロニカは完全に沈黙した。
もう返事をする気がないのだろう。
少しだけ最後の発言が気になったが、一日動き回ったせいもあり、俺はそうかからない内に眠りへと落ちた。
◆
「おい人間」
「うわっ!」
突然大きな音がして、俺は眠りから飛び起きた。
どうやら、ベロニカが床を強く踏みしめたらしい。
床の一部が凹んでおり、板が割れている。
ここを出るときに弁償しなければ……。
「な、なに?」
「朝だ。朝食を用意しろ」
「え、ああ……」
体を起こして、俺は部屋の台所へと向かう。
さて、何を作ろうか――と食在庫を開けたところで、気づいた。
「いや、お前が作ってくれよ」
なぜ主人が奴隷の朝食を作ることになっているのだろうか。
やはりここはしっかり言いつけなければならない。
「あ?」
「今作ります」
駄目だ。この威圧感には逆らえない。
これが中堅冒険者の臆病な心なのだ、どうか許してほしい。
「はぁ……」
俺は食在庫から玉子やベーコンを取り出すと、別の棚から赤い宝石を一つ取り出す。
これは火の魔石というものだ。
石自体に火の魔術と呼ばれているものが封じられていて、空気に晒すと物が焼けるほどの熱を発生させる。
俺が今拠点としているここ、アストルム国では、兵士として抱えている者の中に『魔術師』と呼ばれる人間がいるらしい。
不思議な力を使う連中で、傷を治すポーションやこういった魔石を作ることができるんだそうだ。
そんな力があれば、俺ももっと早く金貨三百枚を集められただろうに。
(ま、嘆いてても済んだことだし)
俺はベーコンエッグを二人前作り上げ、皿に乗せる。
パンを数枚切って別の皿に乗せて、一組をベロニカの前へと持っていった。
「はい、出来たよ」
「……質素な朝食だな」
「魔王のときはどんな食事だったんだよ」
「巨大な魔物の生肉だ」
「それはずいぶん豪華なもので……まあ、他に食うものもないんだし、食ってくれよ」
文句をいわれようが、今食べられるものはこれしかない。
俺はベッドに腰掛けて、自分の膝に皿を乗せて食べ始める。
うん、我ながらいい焼き加減だ。
金を稼ぐために外食を控えて、節約して節約して過ごしていたため自炊の力が身についたのである。
別に美味いものが作れるわけではないのだけれど。
「――仕方があるまい」
ベロニカは一つため息をつくと、椅子に座って朝食を食べ始める。
そうして目玉焼きを口に入れ、目を見開いた。
「っ……」
「どうした?」
俺の質問には答えず、ベロニカはそのまま黙々と朝食を食べる。
その場に捨てられないだけましだけど、何もいわれないのもそれはそれで怖い。
「保存の利く肉を使いおって……卵も新鮮ではないし……パンも固くて……」
「お前――――泣いてるのか?」
ベロニカは、泣きながら朝食を食べていた。
自分自身泣いていると気づいていなかったのか、ベロニカは涙を拭って視線を逸らす。
「泣いてなどっ、いない。くそっ! なぜだ……」
向きを変えても、ベロニカが涙を流しているのは分かる。
涙はしばらく止まらず、ゆっくりと時間は過ぎていく。
ベロニカの嗚咽の声が収まってきたのは、それから三十分後のことだった。
「――人間に感謝はせん。しかし、温かい食事を摂ったのは、久しぶりだ」
「久しぶり?」
「初めに私を買った人間は、私が魔族だという理由で残飯を与えてきた。いつか勇者に復讐するため、無理やりそれを食った」
「……」
「次に私を買った人間は、ろくに飯も与えずただ私を殴り続けた。そのまま結局飽きて、すぐに私を返品した。その次も、次も、次も」
フォークを皿に置く音が、部屋に響いた。
ベロニカは自重気味に笑うと、俺に視線を戻す。
「私が貴様らに、何かしたか……?」
「っ!」
こんな顔ができるのかと、俺は驚きのあまり言葉を失った。
その顔はあまりに悲痛で、まるで子供のようにも見える。
そうか……魔族というのは、突然進化を遂げて誕生するものだ。
実年齢なんて、十年にも達していないはず。
だから、こんなすがるような顔をするんだ。
「っ、とんだ恥を晒した。忘れろ。いいな?」
「……いや」
俺はベロニカに近づき、持っていた皿たちを回収する。
自分の皿と重ねて、水が張った桶の下まで持っていく。
水の中に皿を落としながら、俺はベロニカの目を見た。
「――試してみないか?」
「……何?」
「これから、俺が今までの主人とは違うってところを見せていく。少しでも、こいつにならついていってもいいって思ったなら俺の勝ち。それからはちゃんと命令には従ってもらう」
「ずいぶんこちらに有利ではないか。それで、貴様が負ければ?」
「お前を解放する。勇者に復讐でも、世界征服でも、何でもすればいい」
「――正気か、貴様」
「正気だ、馬鹿!」
俺は親指の腹を噛みちぎり、奴隷の契約を果たしたときよりも多くの血液を垂れ流す。
血が契約に必要なように、この世界では血液が約束事にはかかせない。
このように指から血を流しているときは、傷口同士を合わせることで重要な約束事を取り付けたことになる。
「いや、違うな……馬鹿は俺だ。今までなんとなくでベロニカを手元に置いておきたいって思ってたけど、ひと一人の人生を背負う覚悟なんてなかった。でも、これからは違う。お前に主人と認めてもらって、俺がお前を幸せにする!」
「……確かに、貴様は馬鹿だな」
「よく言われる」
昔から、困難だと思えば思うほど燃える質なのだ。
そのせいで、ちょっと難易度の高いクエストに挑戦してアドニスに怒られたりもしたんだけど、それはまた別の話。
「これほどまで有利な条件を出されて、勝負を下りるわけがないだろう。私のことを解放してもらうぞ、人間」
「人間じゃない。シャロンだ」
「ふん。貴様が勝てば、いくらでも名など呼んでやる」
ベロニカも自分の親指の腹を噛み切り、血を流す。
俺たちは傷口と傷口を合わせ、契約を成立させた。
もうやるしかない。
魔族であるベロニカに、そんな人間ばかりではないことを分かってもらうのだ。
そのためにまず俺自身が、今までの主人とは違うところをベロニカに見せてやろう。