『来世こそ、我が心のままに』
想いは人を強くする。
そんなありふれた、誰もが一度は耳にした事があるはずの言葉を信じてきた。
「出来心だったんです、悪気は無かったんです」
その青年はただ想っていた。
誰よりも強く、何よりも強く、それだけを望み、願って生きてきた。
「──どうしていつも理解してくれないんですか、貴方達だって僕と同じ男でしょうに────離して下さい、僕にはしなくてはいけない事が……!!」
どうしても欲しいモノが存在する。他の何を犠牲にしてでも、必ず手に入れたいと願わずに、想わずにいられないモノが。
だから、ずっと想っていた。
想いが人を強くするのなら、他の誰よりも強く想おう。
そうすれば手が届くと、いつか必ず願いは叶うと信じて生きてきた。
「急いでるんです、僕の事は放っておいて────────え、あっ───」
本当に、叶うと想っていた。
この世界にだって、そのぐらいの優しさはあると信じていた。
…………。
その日、日本のとある街の路上にて、ひとりの青年が死に瀕していた。
なんの事は無い、簡単に言ってしまえば良くある交通事故。
青年が路上に飛び出した所へ走行していた自動車が追突した。
それだけの事だった。
ただ、車に轢かれ、死の縁へ唐突に誘われた青年からすれば正しく人生最大の危機であり、そして命の終わりを告げる衝撃だった。
(………死ぬ、のか……)
致死の衝撃と浮遊感、その後地面にゴミのように叩きつけられ、自身の肉体が痛みと共に乱暴に変形させられる感覚。
薄れていく意識の中で明確な“死”を感じながら、最後の力を振り絞り眼を向ける。
(…………ああ、ちくしょう)
視線の先にあるのは、路上にばら蒔かれた女性物の下着。
車に轢かれて、無惨にぼろぼろになってしまった物もある、今の自分と同じように。
その近くに青年を撥ね飛ばしてしまった車の運転手が降車して呆然としていたり、青年を追いかけ、決定的瞬間を目撃してしまった警察官もいるのだが、青年はそこまで意識を向けていない。
(…………理不尽だ……俺は、何も悪くないのに)
青年の名誉の為に説明すると、散らばった女性物の下着は青年の所持品であり、盗難等犯罪行為の末に入手したものでは断じて無い。
きちんと青年が働いた末に獲得した賃金で、堂々と誰にはばかる事無く、青年一人でランジェリーショップに赴き購入した物品である。
今のご時世、ネットショップでこっそり買っておけば良いものを現物を直接見て触れての購買に拘ったが故の直販店行きだった。
しかし、犯罪では無いにしても、青年の行動は世間体的には絶対的に“犯罪的”だった。
帰宅中、我慢出来ずに購入した物品を掲げてものすっごい笑顔でスキップしながら、鼻歌混じりに帰宅してしまったのだ。
青年は、世間で言われるところの変態という存在だった。
犯罪になりうる事だけは絶対にしない程度には配慮のある変態だが、逆に言うと犯罪でなければ誰にどう見られようと気にしない堂々とした変態だった。
逮捕歴は無いが補導歴や連行経験は数知れず。
そんな感じの害悪の塊のように見える無害な変態。 それがこの青年だった。
つまり、何故彼が生命の危機に瀕しているのかと言うと、なんかヤバそうな変態が歩いていると通報され、迅速に対応した警察官数名に青年が職務質問を受け、運の悪い事にここ数日その近辺には実害のあるタイプの変態(下着泥棒)が出没しており、そんな事から青年はとても強い疑いを持たれ連行されそうになってしまった。
更に、この青年には日課となっている行動があり、帰宅後それに勤しむ予定だった。
それを妨害されるような警察官の行動に非常に苛立ってしまい、無理矢理に逃亡を計ってしまった。
しかし訓練された警察官数名を振り切るのは、いかに変態とはいえごく普通の身体能力しか持っていない青年には至難の技だった。
故に周囲の状況確認等をおこなわずに車道へ飛び出すという、無謀な行動に至ってしまった。
結果、変態な青年は自業自得とも言える流れで窮地に陥った。
気の毒なのは車を運転していた人と、職務上当然の事をしたにもかかわらず、目の前で青年を致死の重症へ至らせてしまった警察官である。
ちなみに青年が逃げた理由は、頻発する下着泥棒に同じ変態として義憤し、無防備に下着を干しているような女性宅を中心として見廻りを毎日敢行していたからである。
決して干してある下着をチェックする為に徘徊していた訳ではない。 彼は変態だが紳士なのだ。
徘徊している所を目撃され、要注意人物として警察にマークはされていたが。
(…………この世界は……理不尽だ……)
消えかける意識の中で青年は想う。
現代社会は息苦し過ぎると。
自分から法に背いた事は一度たりとも無い。
確かに自分の生き様は異端であり、蔑むような存在だったのだろう。
それでも青年は、自分に対して正直で在りたかった。
自分に対して嘘を付きたくなかった。
例えそれが原因で、友人も恋人も居らず、実の両親にさえ可哀想な子を見るような眼を向けられようと、正直者で居たかった。
その意志が、いつか必ず自分自身の望みを掴み取ってくれる。
そう信じて生きてきただけだ。
(……その結果が、これか………)
だが、そんな想いとは相反するように、周囲からは疎まれ、思うように生きられず、邪魔者が淘汰されるように消えて逝く。
青年にとっての人生とは、そんなもののようだ。
何故ダメなのか?
変態だって良いじゃないか。
法と秩序には最大限配慮していた。
その上で、誰よりもエロく、何よりもエロを欲した。
愛が欲しい、愛は何よりも素晴らしいと叫び、求めた。
それは、いけない事だったのだろうか?
自分の想いは、世間から弾かれるべき罪悪だったのか?
誰も彼もが「変態は死ねよ」と言った。中には直接言ってくる奴も居た。女の子だったらご褒美になるのに残念な事に男に言われた。
結果的に、自分は死ぬ。
自業自得のような結末で、やりたい事、してみたい事、強く望んだ全てに届かないまま、死ぬ。
(……冗談じゃない)
死ねない。
こんな未練しか残らない結末では納得なんて出来る訳が無い。
「……グ、ぎ……ッ……!」
既に痛みすら遠退き始めた身体を、這いずるように動かす。
死ねない、まだ終われない。
青年の心にある未練、想いが、すぐそこに迫る死へと抵抗をさせる。
「が……ァァッ……!!」
具体的な生きる為の処置等を考えている訳では無い。ただ執念によって死から逃れようとしているだけだ。
ほんの僅かな距離を這いずって、懸命に伸ばした腕で、散らばっていた下着の内のひとつを掴み、握り締める。
「────っ?」
そこで、その下着を掴む手を、そっと握り締める細い手があった。
(…………ぁ……)
青年はそこで初めて、自分を撥ね飛ばしてしまった車の運転手に気が付く。
その運転手は女性だった。
自分が何よりも尊び、慈しむべきだと考えていた存在であり、自らの望みには不可欠な存在。
「ご、ごめんなさい……あぁ、そんな、どうしよう……」
その女性は、あまりの事態に顔を青ざめさせて、泣きながら謝ってきた。
(……違……っ……僕が、急に飛び出したから……)
彼女はなんら悪くない。
むしろ、これからの彼女の人生に重しを背負わせてしまうのは、自分の方だ。
青年にとってこの、自身の命を喪わせる出来事は完全に自分が悪い事であり、彼女の過失ではない。
(…………くそ……)
今までの人生で、女性だけは絶対に泣かせないようにと誓って生きて来たのに、最後の最後でそれを果たせなかった。
「ごめんなさい、ごめんなさい……!」
血で汚れる手を握り締める彼女は、尚も青年への謝罪を続ける。
その様子は冷静さを完全に失い、狼狽える人間のそれそのもので、少しでも思考する余裕があれば青年への救命処置等を行えただろうが、当事者に突然の判断を求めるのは酷だろう。
「…………、……」
ただ、そんな彼女の行動が青年の理不尽に苛まれる心を、僅かながらに和らげる。
(……手、女性に握って貰えたのはたしか、小学生以来だったかな……)
自分自身が悪で、彼女には非が無くて、傷だらけで血塗られた、下着を握り締める手を躊躇もせずに触れる女性を目の当たりにして、青年はほんの少し、救われた気分になってしまった。
疚しいものだとも思うが、こんな死に瀕した状況で感情を制御など難しい。青年にしてみれば、我が儘だとしても出来れば心穏やかに死にたい。
青年の眼から光が失われていき、必死に保っていた意識がついに限界を越えて遠退いていく。
力を振り絞って足掻いていた肉体も既に動かない。僅かに、触れられている手に温もりを感じるだけだ。
──ダメ、か。
闇に落ちる意識の中で、やはり死というものから逃れる事は出来なかったと、青年は抗う事を諦めた。
生きたい。それは変わらない。でも、死ぬなら、この温もりを最後まで感じながら死にたい。
そう思ってしまっては、抵抗することが出来なくなってしまった。
「────叶、うなら……来世……、……は、我が道を往……ように……」
そんな願いを最後に呟きながら、変態だった青年は死に、その魂は肉体から離れた。
──────そして。
◇◆◇
「──産まれたのかっ!?」
ここでは無い、何処か遠い世界。
そこに住まう一組の夫婦の間に、たった今、新しい命が産まれ落ちた。
「旦那様はまだ下がっていてください!! 泣き声を上げてない、急いで対処!!」
「は、はい!!」
お産を仕切る壮年の女性が声を上げて指示を出し、産声を上げない赤ん坊へ処置を施していく。
「そう、そうやって泣き声を上げない時は足を持って、逆さまにして背中を…………」
「はい……!」
産まれた命の無事を確認出来ずに、その場は徐々に緊迫した雰囲気へと変わっていく。
胎から出てきたばかりの赤子が泣き声を上げない。それは、その赤子の死を意味する。
だからこそ、出産に立ち合う者達は懸命にその小さな命を救う為に動く。
「……お、おい大丈夫……」
「────大丈夫、心配しないであなた……」
堪らず口を挟もうとした、その場に居る唯一の男、今この瞬間に父となった男へ向かって、たった今母親となった女性、その男の妻が声を放った。 そして。
「……あ、あ~……あぅ~ぁ~?」
泣き声とも呼べない、微かな声を漏らして、産まれたばかりの赤ん坊はようやく呼吸を自ら始めた。
「……お、おお……!! 良かった、やった、よくやった!!」
「はい……」
産湯につけられ、身体を洗われてから清潔な布で産まれた子は包まれ、それから父となった男と、母となった女へと受け渡される。
「きちんと呼吸もしていますし、大丈夫でしょう。 かわいらしい男の子ですよ」
「ああ、産まれた、産まれてくれた……良かった」
「男の子か、本当に良くやった!」
「……あぅー?」
母親に抱かれ、父親からの笑顔に見守られる赤ん坊。
まだ見えていない筈の黒い瞳を動かし、まるで何が起きたのか分からないといったような表情にも見える。
「……あなた、名前はどうしますか?」
「名前か……」
母親の問い掛けに、父親はほんの少しだけ唸る。
名前。
父親になった男は、ずっと考えていて、必ず決めていなくてはいけない事だったのだが、今の今まで悩んで決められていなかったのだ。
「…………うん、散々悩んでいたのが嘘みたいにコレだと言う名前が浮かんだ。 なんでかな?」
「きっと、この子の顔を見たからよ、名前というのは、稀に神様が直接お示しになるそうよ、あなた?」
お互いに微笑みながら、我が子を見詰めて語り合う。 そして、今、この瞬間に閃いたという名前を父親は口にする。
「──エーロッツォ。 この子の名前はエーロッツォだ」
「……エーロッツォ?」
「あーぅ~」
慈しむように、産まれたばかりの息子の両手を、片手づつ父と母で優しく握り、呟く。
「エーロッツォ、そう……お前はエロだよ」
「エロ……愛と生命を司る神様が、この子に祝福をくれたのね……」
「たぶんね、きっとこの子は誰からも愛される子になるよ、ああ……」
父親となった男は、産まれたばかりの息子を抱いて、天で見守る神々へ示すように光差す窓に目掛けて叫んだ。
「神よ、たった今貴方がたの祝福を授かり、我等の愛し子が産まれた!!
その名はエロ。
──エーロッツォ・ハレンティオだ!!」
ある世界で、ひとりの青年が死んだ。
そして、異なる世界で新生した命があった。
かつての世界で異端とされた男は、その名をエロ、エーロッツォ・ハレンティオと名付けられ、新しい世界で生きる事となる。
──この物語は、エーロッツォが十五歳の少年となった所から始まる。