第二話『信じる対象』
「……うおッ、眩しっ!?」
眼前に照りつけるような太陽を想像させる丸い球体を見て、神代は咄嗟に声を出した。
「じゃあ吐け。今直ぐ吐け。俺はとっとと家に帰ってテレビに張り付きたいんだよ」
スタンドライトを神代に向けていた手で動かし、明かりを元の位置に固定しながら、既にコートを羽織って鞄を机の上に置く中年男性がそんなことをぼやく。
安田直純。
警視庁国家事件対策本部所長の肩書きを持ちながら、平和なこの国にそんな大それた事件などあるはずも無く、今はもっぱら神代家近くにある警察署で、生活安全課の業務をしている。本人的には不服らしいが、元来の面倒見の良さから近所のガキたちの評判はかなり良かったりする。通称、やっちゃん。
「その台詞、職務怠慢だろ………というか、まだ一時だ」
普段だったら、あの喧騒混じった購買で、血肉を争う問答無用の戦いを繰り広げていたのだろうが、今日は真っ暗な取調室の中央に二つのカツ丼(両方とも経費で買った)が置いてあった。取調室と言っても中央に古くて狭い事務机が一つと、対面に椅子が一つずつ置いてある程度のシンプルなものだ。
「何言ってる……んぐ…今日は非番だ。ひ、ば、ん―さっきそう決めた」
既にカツ丼を食い始めていたやっちゃんは、仮にも国家に属する公務員にあるまじき事を呟きましたよ。
あの後、騒動が続きすぎた所為か、はたまた他の生徒の誰かが通報なんぞしやがったのか、既に学院に入るための手続きを終えた警官達が神代の身柄を抑えて、こうして署まで連行されたのが四時間前。この取調室に入ってからは実は十分近くしか経っておらず、その前後はやっちゃんのハマっている携帯電話のゲーム(もちろん無課金)に区切りが付くまでひたすら待たされた。
「そもそも何だ?『犯罪決行暫定書』って……嬢ちゃんの事は知ってるが、一騎が殺人を起こす、ねぇ。殺される方がまだしっくり来るな」
「何物騒なこと言ってんだおっさん」
「……だって、そうだろ?お前みたいな甲斐性ナシが、殺人なんて犯そうとしてみろ。すぐにおっかなくなって、自殺すんのが関の山だ……それに俺は、まだ四捨五入で三十路だ」
「なら、取調べって必要あんのか?まあ、タダ飯食えんのは嬉しいけど」
「年の話は無視かよ……さっき調べたんだが、あの書類。一昨日の国会で可決されたらしくてなぁ…何でも効力は捜査令状と同じに発揮されるんで、こうして取調べしなきゃあかんの」
最後に残っていたカツ丼の一かけらを口に入れると、安田は箸を置く。
「………事情聴取は終いにしとこうか。本題に入るぞ」
「本題?まさか……逮捕、とか?」
「さっきも言ったろ、一騎…これはあくまで重要参考人として、お前の捜査を許可するもの。別に今直ぐ捕縛と言う訳にはならんそうだ。本題つーのはな………」
安田は口を開くべきかと躊躇する素振りを見せた。
こういう時は、大抵良くない事が告げられるのを知っている。相手にとって辛い事である場合、安田は必要以上に言葉を探す。思いやりのある彼の美徳だが、今はそれが逆に苦しい。
次の言葉を待つ神代が、緊張に耐えかねて口を開こうとした所で、安田は言った。
「――――――今、この瞬間から、お前の行動の自由を制限する、て話だ」
「行動……制限?」
学習したばかりのインコのように一部分だけ繰り返す事が出来たが、その意味は深くは考えていない。
「家族を含む親類への連絡及び、邂逅の禁止。市内周辺外の出入りを禁止、学業及び就業食品の補填に関しての行動を抑制するものは無く、当該しない場合の外出は控える……つまり、そういうことだ……不幸中の幸いか、学業に規制は見当たらないからな。皆勤賞だって継続して狙うこと―」
「待てよッ!」
書類に目を落としたまま、淡々と話す安田に対して怒りを覚えた神代が、二人を挟んでいた古い業務机を思い切り叩いて叫ぶ。
「そんな無茶苦茶な話があるか!なんで俺の生活がそんな堅苦しいことに縛られなくちゃいけないんだ!家族への連絡はしちゃいけない?外に出るのだって理由が決まってなくちゃいけない……ふざけんな!これじゃ、まるで犯罪者そのものじゃねぇか!」
「そうだ」
「な…ッ!」
言葉を失った。否定して欲しかった自分の状況を、残酷にも認めた大人は真実のみを淡々と話していく。
「あの書類はな、一騎。効力こそ捜査令状に並んじゃいるが、記載された時刻になったら確実にお前はその動作を行うことが保障されてんだ……どうやったって覆せないってわざわざご丁寧に総理閣下の調印まで押されてな。関係者全員、恐らくこの事態が間違った方向に動くとは思ってない証拠だ。だからな、今のお前は……既に犯罪者と同じだ」
目の前の人物がそう決めた訳ではない。そう分かっていても、神代は怒りを納めることが出来なかった。
「……、…ッ!アンタは………アンタはどうなんだッ!本当に…俺がそんな事すると思ってるのか!」
『奈那美を殺すと思ってるのか』とは言えなかった。言ってしまえば、自分が奈那美の嘘を自分で肯定すると思ったからだ。
「答えろよッ!」
「……」
「おい、どう―」
「今回の件、俺の口から真実かどうか言う気は無い」
神代の言葉を、バッサリと拒絶するように遮った後、安田は尚も淡々と話していく。まるで犯人に犯行動機を尋問していくかのように。
「…お前は俺の恩師である教授のお孫さんだ。お前の事は昔から……それこそ子供の時代から知ってる。だけどな、それは嬢ちゃんも一緒だ。あの子が子供の頃から、未来が見えていたのを俺だって体験してんだよ。言い当てられた過去だって、幾つあるかわかりゃしねぇ……だからな、一騎」
安田は一しきり昔語りを終えると、短い、ホンの少しだけ溜めを作った。
「今回は俺ァ……起こった事しか信じねぇ。何が起きようと、真実しか見ない警察として……この事件に立ち会う」
普段の不真面目さを一向に感じさせないような雰囲気で、神代を見ながら安田は自分自身を言い聞かせるように言った。その一言を言うのにどれだけ決意が居たのか、見知った人間が犯罪に走るかもしれないと聞いた時、どういう思いだったかは想像できなかった。
そんな余裕あるわけなかった。
グチャグチャになった頭の中で、ひたすら考えて出て来たのは一言だけだった。
「……そうかよ」
机に広げられた書類を手に握り締めると席を立ち、取調室を出た。
安田は止めなかった。
起きた事しか信じない、多分それが答えだろう。
奢られたカツ丼は、
―一度も手を付ける気が起きなかった。