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病院での生活

 なんで。なんで、なんで、なんで。

 頭の中でその言葉だけがリフレインする。ため息が溢れる。

 私の高校生生活が、貴重な青春時代が無意味に消えていく。

 今頃、本当なら部活とか恋愛とかで七色に輝いていたはずの私の時間。

 それが、今や真っ白だ。周りも白一色。

 天井をただただ睨むしかできない。


 少なくとも二週間、経過が悪ければさらに延びるかもしれませんね

 綺麗な女医さんから言われたのは、絶望だった。


 ベッドで横になる生活を二週間。自力で起き上がることはできない。トイレだって、人任せ。

 まともに動けないから、体力を使わない。お腹もあまり減らない。病院食は可もなく不可もなくの味で、食は全然進まない。ないないづくしで、看護師さんに怒られて点滴生活。


 毎日母がお見舞いに来て、お風呂に入れない私の身体を綺麗に拭っていく。背中には汗疹ができて、洗っていない髪が気持ち悪い。

 友達も一度見舞いに来てくれたが私の様子に何か察したのか、母を通して手紙を届けてくるだけになった。

 担任の先生は何度か来て、クラスメイトからの寄せ書きを置いていったり、学校の面白い出来事を語ったりした。


 担当の女医さんは、とても綺麗な人だった。腕が良い先生らしく、母は信頼していた。

 如何にもできる女で、周りを卑屈にさせる人だというのが私の印象。

 一日に何度かある診察の度、私は自分が情けなく感じた。

 入院することになった原因は、自分の不注意だったから尚更。

 この女医さんなら、私みたいなヘマはしない。きっと、充実した生活を送っているのだろう。

 自分の仕事を誇りにしていて、こんな私にも優しい。この人を妬ましく思う自分がひたすら情けない。

 気分はもう最高に最悪だった。


 大部屋のベッドにいたから、本当の意味で一人になることはなく、ストレスが溜まる。両隣のベッドが空いていることが唯一の救いだ。

 横になったままではできることは少なく、テレビを見る気にもならない。本の世界に逃げるしかできなかった。


 私は、それでも病院で過ごすのに慣れてきた。不便でも、辛くても、自分の身体を治すためだ。我慢はできる。

 一週間が過ぎた頃、女医さんに経過は良好だと言われた。母がほっと安堵して、私もだいぶ気分が上向きになった。

 女医さんを前にしても動揺しないくらいには精神が回復していた。


 それがひっくり返ったのは、空いていた隣のベッドに人が入ってきたことだった。

 年配の女性で、何かしらの病気らしい。ゆっくりとだが、しっかり自分の足で歩いていた。

 軽く挨拶をして、特に何も気にしなかった。これまで入院している人との交流は全く無かったのだから仕方ない。


 隣にお婆さんが来て、最初の朝。私はすっと眠りから覚めた。家にいた頃、いつも母に起こしてもらっていた身としては、自慢したくなるほどの目覚めだった。

 看護師さんが働いている音がして、耳に心地よい。カーテンはもう開いているようで、朝日が大部屋に差している。

 朝食まではまだ時間があり、私は本を読むことにした。ベッドの横にある棚の上に手を伸ばす。本は取りやすいように端に置いていた。

 掴んで持ち上げるが、思ったよりも重く、一度棚の上に戻す。そのとき、トンッと音がした。

 なんてことない、小さな音だった。

 突然ベッドのカーテンが開いて、隣のお婆さんに叫ばれた。


 うるさい! こんな朝早くに、音を立てるなんて、全く若い子は! この非常識め!


 勢いよくまたカーテンを閉めると、お婆さんは布団を激しく叩き出した。

 お見舞いにきた人のために置いてある椅子を頻繁に動かし、音を立てる。

 雑誌を勢いよくめくり、ビニール袋をガサガサと言わせる。

 テレビを大音量でつけ、チャンネルを次々に変えていく。


 これが何なのか、全くわからなかった。私は固まることしかできず、異変に気付いた看護師さんが来るまでお婆さんは止まらなかった。


 それからが辛かった。お婆さんは私を目の敵にしたらしく、何かある度に突っかかってくる。

 見舞いに来た母にもあたり、母も呆然としていた。いつものようにお喋りができなかった。

 看護師さんが目を光らしてくれても、お婆さんの嫌がらせは続いた。


 最近の子はダメね、何、あんた、怪我したの。弱っちいわねぇ

 ちょっと! 無視するんじゃないわよ!

 これだから、本当に、ねぇ?


 もう正直参っていた。

 音を立てないようにと気を張り、眠りはより浅くなった。食事もあまり取れなくなった。

 唯一の楽しみの読書も、怖くてできなくなっていた。


 結局、私の入院生活は一週間延びることになった。

 疲れた母の顔が忘れられない。

 救いは部屋替えを許されたことだ。別の大部屋に空きができたのだ。

 今いる部屋よりもベッド数が多く、他の人との距離感がより狭いのだが、お婆さんがいないのなら何でもいい。

 お婆さんから離れられることに、母も私も安堵した。

 これで大丈夫だ。早く治して退院しよう。


 なんて、思ったのがいけなかった。


 外の空気を吸いたいと、車椅子で出掛けた。

 移動した大部屋は人数が多くて、どうしても空気が篭るのだ。窓も、喘息の方がいるらしく、開けることは許されていなかった。

 できるだけ看護師さんが換気をしてくれるが、背中の汗疹は酷くなる一方だ。

 気分転換も兼ねて、看護師さんに車椅子へと乗せてもらった。

 ついでに好意で押してもらって、久しぶりのお喋りにも付き合ってもらった。

 やっと息がつける気がした。


 あんた、元気そうね


 ベッドに戻るときにまた声かけて、と言い残して看護師さんが去ると、お婆さんは笑顔で現れた。

 狙っていたとしか思えない登場に、目の前が真っ暗になった。

 ゆっくりと近づいてくるお婆さんから逃げることもできない。


 部屋替えしたのよね。あんたがいなくなってから寂しくて寂しくて

 一緒にいてもいいわよね?


 恐怖しか感じなかった。

 早く逃げたいけど、自分一人で動かす車椅子では、お婆さんの歩く速度と一緒だ。

 大部屋は同じ階数にあるから、帰る道も途中まで一緒。

 絶望したが、一緒にいる時間を少しでも減らそうと、震える手で部屋に戻ることにした。


 ああ、そうだ。あんたが今の部屋でうまくやってるか、見に行ってあげようね


 外の空気なんか吸いに来なければよかった。

 部屋まであと少しというときに、爆弾が落とされて一瞬息ができなくなった。

 固まった私を見てお婆さんは、より一層笑みを深くした。

 私の今の部屋へ先回りし、わざわざドアを開けてくれる。地獄への扉に見えた。


 部屋違いますよ、と声がして涙が出るかと思った。

 看護師さんがするりと間に入ると、あっという間にお婆さんを引き離して元の部屋へと誘導していった。

 別の看護師さんの手でベッドの上に戻ると、心の底から安心した。

 助かった。


 この一件から、大部屋の人たちが何かと気にかけてくれるようになった。

 売店で買いすぎたのだというお菓子を貰い、私と同じ怪我の人とは苦労を分かち合った。

 どの人も優しく、ささくれだっていた心も落ち着き、色んな人がいるということを理解した。

 この一連のことで、やっと女医さんのことをちゃんと見ることができた。

 素直に尊敬できるようになって、心がとても軽くなった。



 入院生活は三週間で終わりを迎えた。

 ストレスが無くなると治りは早くなるのだということを実感した。

 家に帰ると食欲は戻り、体力も戻り始めた。家族も私も、やっと本当に笑えた。


 退院してからも、リハビリや経過観察などで通院は続いていた。

 通院を苦に感じることはなかった。病院で話し相手もでき、綺麗な女医さんとも世間話ができるくらい仲良くなっていた。

 あのお婆さんと再び会うことはなかった。


 そうして、やっとそのときが来た。


 もう来なくても大丈夫ですよ

 女医さんから言われた言葉は、喜びでしかなかった。

 綺麗な笑顔に、私も母も一緒に感謝した。

 これで全てが終わった。


 母が最後の手続きをしている間、一人待合室にいると、女医さんがふっと来た。

 何度目かのお礼を言うと、女医さんは満足したように頷いた。優しそうにゆるく細められた目は、とても綺麗だった。

 綺麗な人だと改めて思って、何となく最後に恋人の有無を聞いてみた。

 いるだろうと思っていると、女医さんは変な顔をして、秘密だと笑って答えてくれた。



 母とゆっくり歩く帰り道。

 人というのは、難しい。わからない。

 綺麗な女医さん。何でも手にしているあの人は、なんと恋人が二人いるらしい。

 二人である。女医さんは恥じることもなく堂々としていた。


 この世の色んなことを見て聞いた一ヶ月だった。

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