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空に走る


『僕の女神さまへ』


 彼の声がハッキリと私にそう言った。


『いいじゃないか、最後にもう一回くらいそう呼ばせてくださいな。  親愛なる葵へ』


 こうやって詞さんは私を呼んでは、少し困ってしまった私の反応を感じ取って笑ってくれた。私に涙を流す機能は備わっていない。まだ宛名の部分を読んだだけなのに、私に許された感情の振れ幅いっぱいまで何かが込み上げて来て、それを私に組み込まれた何かが分解していくのが分かったような気がした。



* * * *



「詞さん、次の休憩ポイントで休みましょう」


「いいやまだ大丈夫。女神様が一緒だからね。次の次まで走ろう」


「分かりました。女神様にはなれませんが……」


「ううん、そんなことはないのさ」


 葵は“ガイドランナー”と呼ばれるアンドロイドだった。何らかの事情で光を失った人間がそれでも自分の脚で走りたいと願うとき、そのパートナーとして伴走する役目を担う人型の機械。ランナーの危険の防止、ペースの管理、何より心の支えとしてアンドロイドは人間のガイドランナーよりも優れた点が多く、次第に人間たちに“取って代わる”ようになった。


「おっとライバルさんたちかい」


「よく分かりましたね。はい、私たちと同じペアランナーです」


 葵の意図を既に察知していた詞は舗装道の右側に、ちょうど二人分だけ寄って走るペースを落としていた。道の反対側から髪を一つに結んだスポーツキャップの少女と、葵と同じ姿のアンドロイドが走ってきて詞たちとすれ違う。詞は左手首に着けたブルーのバンドを葵に向けて右手で指差した。「これのおかげだよ」と言うかのように。葵も詞と同じバンド右手首に着けていた。彼女のバンドはコネクタを通して彼女の優れた機能と繋がっている。詞のバンドは彼の心拍数などをモニターしているが、葵が指示を出すことで詞のバンド内側の右、左、中央の三点が強弱付きで刺激される仕組みになっていた。『右へ』『左へ』『止まれ』のような意味をお互いに共有しておくことで素早く疎通ができるのだ。

 この疎通が驚くほど正確に伝わることに葵は内心驚いていた。詞は少し不思議で、とても優しい少年だった。



「ただ自分の脚で走れることがこんなに嬉しいなんて。葵がいてくれるから安心して走れるのだよ」


「そう言ってくださると私も嬉しいです」


「走れば走る分だけタイムも良くなっていくし」


「ええ本当に。この区画だけでも16秒も短くなっています」


「そりゃ嬉しい。今度のペア・ランの優勝はひょっとすると僕たちかもしれないね」


「叶えられるようお手伝いいたします」


 詞は少し控えに笑って見せた。その意味を葵は分かったつもりでいたが、人間が言葉を介さずに伝えることの儚さがどこか美しく残る。

 立体道路網に組み込まれた舗装道路を走っていく二人。緩やかな上り坂を越えれば小さな無人ターミナルが一つあり、本番では参加者たちがここで軽い休憩を取るはずだ。ターミナルの向こう、下層の道路構造の先には人工海が広がっていた。運用効率を重視した主道以外にも自走式を嫌う人間たちにのために用意された道は何種類か残っている。詞たちの参加するペア・ランのイベントは、その一つを借りて行われる。



「景色が変わっていくのは見えないけど、音も空気も変わっていくのが分かるんだ」


 繊細な感覚だと葵は思った。高級上等なセンサーよりずっと素敵な人間の感性。


「その景色も葵が教えてくれるし」


「まだまだ拙い表現で申し訳ありません……」


「いやいや、さながら芸術家のようさ」


 ある時、走り疲れて練習ルートを降りた二人は近くの港まで歩いて行った。そこで詞は葵に「君の言葉で僕の代わりに景色を見て」と言ってみせた。その時葵は懸命に空の色や人工海の色を伝えたが、ありきたりな言葉しか出てこない自分の辞書が申し訳なくなって詞に謝った。かつて詞の目に映っていた世界の色を葵は知らない。今彼の記憶の中でそれがどう映っているのか想像することしかできない。データでないものは完全には共有できないのだ。人工物でない太陽の光が生み出すニ種類の青、その境界の溶けるずっと遠くの線。風も音も匂いも居住区のそれとは異なるように、海の果てに向かってずっと楽しそうに、流れていた。

 葵は詞が寝ている間に色の名前を、天気の種類を、雲の形を、時間を見つけては調べるようになった。電子立体紙に絵を描く練習もした。そんなことをするガイドランナーは彼女だけだろう。ともすれば、“葵という名前を貰った今回の彼女だけ”なのかもしれない。


 事実、ガイドランナーの役目をこなすだけにしては葵たちの型のアンドロイドは高性能過ぎるように思われた。もちろんパートナーである人間たちと“違和感のないコミュニケーション”ができるように、ある程度高級なAIが搭載されている必要はある。だが彼女たちはパートナーのバイタルデータや道路状況を加味した総合的な情報判断をしながら、パートナーの精神面にプラスに働くような寄り添い方まで備えている。それだけの能力があるならば他の役割を担えるはず。そんな彼女たちがなぜガイドランナーに留まっているのか。

 葵の価格は詞に人工の眼を与えるよりも高額なのだ。だが、それは葵を“購入”する場合。“期間限定のレンタル”ならば話は変わってくる。それが補助の必要な人間へ差し伸べた手だと認められれば、葵たちの管理者は公的な組織から褒賞を得られる。ガイドランナーを利用する詞の親は手の届く費用で詞に“生きがい”を与えられる。詞が走ることを終えた時、「葵」というガイドランナーの意識・記憶は初期化され、次のパートナーと「別の誰か」としてまた走り始める。

 医学の進歩により予防方法も選択肢も増え、人間が視力を失う例は限りなくゼロに近付きつつある。実サンプルの蓄積を目的としたアンドロイド用の走行性能テスト、AIテストも得られるものは知れている。詞と葵の目指す晴れの舞台――条件付きの『ペア・ラン』があと何回開催されるのか、小さな市場の中であと何体のガイドランナーが使命を全うできるか、利権の「り」の字も知らぬ者には分かるはずもないのだ。



* * * *



 長期間のスリープから私が目を覚ました時、私の前には詞さんのお母さまが座っていた。お母さまは彼女が私をスリープさせたこと、スリープを解いたことに対してまず謝った。そして、それが必要だった理由を、詞さんが“帰らぬ人”となったことを私に告げた。

 糸が切れたような気がして、詞さんの顔が、詞さんと走った景色が、少しやせた小柄な彼の温度が溢れては消えていき、ただただ思考がまとまらなかった。制御系の不具合を疑うほどに。


「あなたのせいではないのよ」


 お母さまは何度も何度も私にそう言った。


「膝の骨にちょっと悪いところがあってね。頑張ったのだけど……ね。あなたの来る前から決まっていたことで、あなたが来てから詞が決めたことなの。どうしても隠せなくなったら、あなたをスリープさせて、って」


 私に自分の最期の姿を見せたくなかったからだと、お母さまは説明してくれた。


 詞さんが膝の具合を気にしていたことは確かにあった。繊細に気持ちを読む彼は隠すのも上手だったのかもしれない。それでも私はこれだけの機能を備えていながら、どうして気付くことができなかったのか。けれどもし、もし気付けていたとして、その時私に何かを変えられたのだろうか。詞さんの意思に反対して彼に寄り添ったとして、“死”の意味を知らぬ私に、やっと見つけた走ることまで奪われた彼に迫る死を、どうにかできたのだろうか。


「あなたの契約期間はペア・ランの日まで残っているから、それまでゆっくり過ごしてね」


「……でも、私は何をすれば……」


「そうねえ……とりあえず散歩でもしてきたら、何か思い付くかも?」


 どうか、どこへ、と指示をしていただければ、


「承知しまし……た」


 それではまるで指示通りにしか動けないアンドロイドの……。私は、元より指示通りにしか動かないアンドロイドではなかったのか。



 これが“とぼとぼと歩く”速度なのだと理解しながら、詞さんと何度も走った練習コースを私は一人で歩き始めた。市街地へ向かっても私には目的がなく居場所もない。お揃いのブルーのバンドをしたペアランナーが、役目の無いアンドロイドを追い越して楽しそうに走って行く。彼らには目標があって、お互いが、パートナーがいて。

 歩いても歩いても私のタイムはちっとも上がらなかった。変わっていく景色も、音も空気もあったはずなのに、すっかり陽が落ちてようやくそれに気付く。結局何も“思い付く”ことができない長時間の散歩は随分あっという間に終わってしまっていた。

 そうか、私は何も記憶に留めようとしなかったのだ。やっと帰宅した私のことをお母さまは心配してくれて、けれど私の様子はお母さまを笑顔にできないままだった。



 次の日、その次の日も私は詞さんのいなくなった部屋でただ膝を抱えていた。カーテンが開けられているから日が昇って沈んでくことだけは検知できた。もう夜中に調べ物をすることも、詞さんの睡眠時間に合わせたスリープを行うこともない。過去と、答えの無い何かを考えてじっとしていた。アンドロイドたちの思考には様々な制御がかかっている。特に“存在意義”に関しては繊細で強力な類のものが多い。自らの存在意義を見失うことのないように、見失っても絶望しないように。では何故私はと考えかけて靄の中に消える。いっそ、契約期間終了までずっとスリープにしておいてくれれば、


「葵さん。入っていいかしら」


「はい、今ドアをお開けします」


 また心配をかけてしまった。お母さまが私の様子を見に二階まで上がってきてくれたのだ。


「葵さん、ペア・ランの日まで、あと何日か数えている?」


「いえ……」


 体内の正確な日時を参照するのではなく、私は無意識に詞さんの机の上に掛けられたカレンダーを見た。彼がよくそうしていたからだろうか。今は土曜日の夜。ペア・ランは次の次の日曜日。二人で目指していたその日まで、今日を入れてあと8日間も残っていた。


「明日から一週間あるわね」


「はい……」


 ずいぶんと長い時間。


「葵さんに渡すものがあるの」


「私に……ですか?」


 お母さまから? 何かをいただいたら何をお返しすれば? ガイドランナーですらない私にできることはもう何も……。


「詞からの贈り物よ」


「え」


 どうやって、だってもう彼は。


「あなたへのお手紙」


「お手紙……」


 時限式の贈り物。確かに音声入力でも文字は扱える。ただ言語を介した疎通のためのメッセージではなく、想いを込めて封をしてとどける言葉。ずっと昔からあった『お手紙』という形。お母さまは背中に隠していたそれをそっと私に差し出すと、嬉しそうに微笑んだ。


「と言っても中身は電子ペーパーだけど、詞なりに色々仕込んでいたみたいだから」


「はい……はい!」


「私は一階に降りるから、一人でゆっくり読んであげてね」


「ありがとうございます」


 お母さまが私を一人にしてくれるのを待って、本物の紙に包まれた薄い板に書かれた文字をそっと読んだ。


『宛名は中に書くよ。たった一人しかいない僕のガイドランナー宛て。  詞』


 補正をかけていない手書きの字。綺麗かどうかではない、人間にしか作れない彼らだけの字。詞さんの字。裏側には封蝋代わりの帽子を模したシールが一つ。破らないようにそっと剥がして、洋封筒の三角形を上に開く。

 中には封筒より一回り小さな枠に収まった電子ペーパーが入っていた。待ち遠しくて、でも何もかもできるだけ丁寧に紐解きたくて。電子ペーパーの縁を持つ。その瞬間、不思議な色味を持った詞さんの言葉が、もう一度私に語り掛けてきた。



* * * *




『ごめん流石に中の文字は手書きじゃないよ。この手紙を葵が読んでいるということは、やっぱり僕はペア・ランの日を迎えられなかったということだよね。まあそれはいいさ。うーん、よくはない、そりゃちょっと悔しいけれど、最後に嘆き悲しんで君の前から離れるわけじゃない……と思うけどな。葵とその日を目指した過程にはちゃんと意味があったと思っている。それより母さんはちゃんと当日の1週間前にこの手紙を渡してくれたかい?』


 私は思わず「もちろんです」と声に出してしまった。そういえば、詞さんのお母さまがこの手紙と一緒に渡してくれた笑みは詞さんのそれとよく似ていた。過程の……意味。それより、なんて。手紙の中でもちゃんと、少し背伸びしたような口調で。

 

『この手紙はできるなら母さんには見せないでほしいな。何を書くかは伝えてあるから。流石にちょっとその、恥ずかしい』


 手紙の言葉は、実際に詞さんと話しているのとは違う感覚で語り掛けてきた。その気になれば演算速度を上げて会話の最中に同じことができるはずなのに、私は言葉の行間に別の時間を見て、文字に表れていない言葉を聴いている。


『真面目な葵のことだから、僕のガイドランナーができなくなってどうしたものかと考え込んでいるね?』


「はい、おっしゃる通りです」


『でも君との契約期間は残っている。ペア・ランのその日まで三日に一回はできるだけ走ろうと決めたのに、それも忘れていないかい?』


「はい……でもあれは」


 “一緒に走る”という意味の…


『「でもあれは一緒に走るという意味のルールだから」とか君が言い訳していても、まあ怒らないさ。良いことだよ。それだけの余裕が戻ってきたということだもの』


 驚いた私は詞さんの座っていた椅子を一瞬見てしまった。まだ喋っていないのに。過去に書かれた予測であるはずなのに。カレンダーの下、学習机とセットの椅子にはやはり誰も座っていない。


『真面目な葵ならちゃんと実行してくれると信じて、この手紙にはこれから7日間の間に君にやって欲しいことを書いたんだ。これは命令でも指示でもない。助言になるとは限らないし、じゃあ提案かな。ともかく。君が自分でページめくりを押さない限り手紙の続きは表示されないようになっている。本番の日は日曜で変わっていないね? それなら、その前の日曜日の朝、僕が目覚まし時計にセットしていた時間に最初の【おはよう。今日一日を始めよう】と書かれた部分を押して。もうちょっと読んだら出てくるから。そこに、その日にやってほしいことだけが表示されるはずさ』


 どんなことがあっても実行してみせます。口には出さなかった。やっと制御できるようになった。



【おはよう。今日一日を始めよう】


 この続きは明日だ。



* * * *



 朝、ちょうど詞さんの起きていた時刻に私は電子ペーパーの【おはよう。今日一日を始めよう】の文字に触れた。

 キーボードで文字をタイピングする時のような演出で、少しずつ今日一日の私へ向けた詞さんの言葉が紡がれていく。まるで隣に座った詞さんが話してくれているようで、やっと彼と同じ時間を共有しているような気がして。


『今日は道の点検をしよう。本番で走れるコースに整備車が見落としている小さな危険が無いかランナーの視点でじっくり見るんだ。立ち入り禁止の区画もあると思うけれど違反しない範囲で頑張ろう。もし葵が優秀すぎて日が沈む前にゴールまで着いてしまったら、練習用のルートも見ておいてほしいな。帰ってきたら報告書だ。道路管理とペア・ランの主催団体へ教えてあげよう』


「了解です。なかなか大変な仕事になりそうですが、精一杯やります」


 なるほどランナーの目線で、同じ場所を目指すペアランナーたちのために。今の私にしかできないことで、時間も集中力も必要とされる大仕事だ。そして、未来に繋がることだ。

 登る太陽と共に私は何度も走った道へと歩き出した。



 詞さんの言った通り、道路を走る自律整備車では見落としてしまうような小さな道の亀裂や劣化による段差は思ったよりも多くあった。それだけではない。例えば、走り疲れて道路の脇の柵にもたれかかったとしたら。不十分な研磨で突出している金属製の結合部品が皮膚を傷つけることもある。ガイドランナーを務めるアンドロイドたちの性能を甘く見ているわけではないけれど、彼女たちはもっと大きな危険の防止に意識を集中する必要がある。疲れることはないにしても限界はあるのだ。


――無人ステーションにタオルが置いてあるといいんだけどね。


 そういえば、詞さんは前にそんなこと言っていた。ランナーではない一般人にも便利なように、できればペアランナーたちが助かるように、何か上位団体に提案できるようなことはないだろうか。他にはそう、無人ステーション同士の間隔が空きすぎている区画はないだろうか。



「お帰りなさい葵さん。あら、なんだか嬉しそうね。でもこんな時間まで……詞は何を手紙に書いたのかしら」


 私は詞さんのくれた1日目の提案を誇らしげにお母さまに伝えた。きっと、私は奇妙なくらい嬉しそうにしていたのだろう。



* * * *



『明日の分だけは僕の起きる時間じゃなくて日の出前に読んでくださいな』


 一体どうしてだろうと楽しみにしていた私は日の出よりも随分と早い時間にその日の“提案”を読んでしまった。


『この前、一緒に海を見たところを覚えているかい』


 忘れるわけがありません。


『日の出る前にそこへいくんだ。それで、太陽が沈むまで、朝から晩までじっと海と空を眺めていて欲しい』


「ほう……」


『でね、帰ってきたら、どんな感じだったのかテキストデータにして印刷して、僕の机の上に飾っておいて欲しいな。葵のことだから母さんから貰っているお小遣いまだ1円も使っていないでしょ。安い紙でいいからさ』


 一番綺麗な、いえ、一番私らしい紙と額縁を選んできます。似つかわしい作品を書かないと……。


『優秀な詩人である葵さんがどれだけ上達したのか楽しみにしているよ、はっはっは。なんちゃって。』


「ふふ」



 詞さんの提案は毎日とても素敵で、その日一日があっという間に過ぎていくのを感じだ。あれだけ長く感じた詞さんのいない一日がだ。


『母さんに断ってから、母さんが何をしているのか一日中近くで見ていて。手伝えることがあったら是非手伝ってあげて。買い物袋を持つくらいはさせてくれるんじゃないかな』


「あら、詞がそんなことを? いいわよ私の忙しい1日をお見せしましょう。まずエプロンをしてちょうだい」


「はい……?」


「あなたに最新鋭の耐性コーティングがあろうとなかろうと、家事をするなら必要なものよ」


「はい!」



 かと思えば、『今日は何もしないで』と詞さんが言う日もあった。


『ぼーっとしているというのが葵にとって難題なのは分かっているさ。ぼーっとすることの先輩である僕からいくつかアドバイスをあげよう』



 最初の方の日は私が何も考えなくてもいいように目一杯時間を使うことを提案してくれたのかもしれない。それから、筋肉痛になった日にそうするように、休む時間や考える時間をくれて、思考が沈まないように的確なアドバイスまで添えてくれて。


 私はすっかり元気になって、今では私はすれ違うペアランナーのことを純粋に応援できるようになった。詞さんと目指した日が明日に迫った頃。最後の土曜日の提案は、


『お母さんから聞いて』


 とのこと。


『話を聞いた後はゆっくりしていて。でも今日は明日に備えて早く寝ること。いいね。ちなみに当日分の提案も用意してあるからお忘れなきよう』


「分かりました!」



 詞さんの提案でここへきたことを伝えると、お母さまは目を閉じて噛み締めるように言った。


「そっか、いよいよ明日かあ」


 私は続く言葉を待っていたはずなのに、自分でもこれまでの日々を振り返りそうになり、処理できなくなる前に詞さんの部屋に戻ってからにしようと胸の奥……浅いところにしまった。


「実はね、葵さん」


「はい……」


 演技か否か、神妙な雰囲気を作ろうとしながらも嬉しそうなので演技であることは分かっているのだけれど、お母さまはこう続けた。


「葵さんは、明日、ペア・ランのコースを走れるのよ。他の選手たちと一緒にね」


「え……?」


 どうして? どうやって? 私には詞さんが、パートナーがいない以上、ペラランナーとしての条件を満たしていない。では、まさか、詞さん以外の誰かが私と一緒に走ってくれるとでも言うのだろうか。そうだとして、詞さんではない誰かと私はどんな気持ちで走れば……。


「大丈夫、葵さんと走れるのは詞だけよ。他の人と走ったあの子も良い顔をしないだろうし」


「そんな……ことは……」


「えっとね、試験走行っていうと聞こえが悪いかな、ペアランナーたちの走るコースを色々な企業の所有するアンドロイドたちが走ることになっているの。性能を突き詰めるようなところとか点検役を買って出るところはペアランナーたちよりも先に走るのだけど、例えばガイドランナーの卵たち……葵さんの後輩にあたるアンドロイドたちね、彼女たちはペアランナーの後ろを走るわ。彼らを見守るためにね」


「なるほど……」


 そんなことがあるなんて知らされていなかった。


「詞からの最後の“提案”はこれよ。後輩さんたちと一緒にペアランナーたちを見守って最後まで走ること。もちろん公式な権利は貰ってあるわ。


 こんな、こんなに素敵なことがあるなんて。当日を迎えた自分は、ただ、輝かしい舞台にやっと立った仲間たちの勇姿を、どこか遠いところから眺めるものだと思っていた。心から彼らを応援できる気でいた。でも、まさかその舞台に自分が立てるなんて、詞さんと夢見た場所を、この脚で走れるなんて。


「どう……かしら?」


「ありがとう……ございます」


 ひとつしか言葉にならなかった。涙の出ぬ私はそれでも泣きつくようにお母さまの前で崩れてしまった。お母さまはそんな私を抱きしめてくれた。なんて温かくて、なんて優しいのだろう。



* * * *



 薄い雲が漂う春空は、それでも“好天”と呼ぶに相応しい空模様だろう。日が昇り切る前、気温も湿度も日差しもランナーである人間たちに丁度良い。

 本日は『ペア・ラン・イベント』なる小さなイベントが開催される。およそ20組ほどのアンドロイドと光を失った人間のペアが参加し、舗装道の一つを使ってゴールまで長い距離を走るタイムを競い合うのだ。スポンサーあり、映像中継ありと彼らにとっては晴れ舞台であるに違いないが、ランナーの前後には現地テストの工程を待っていた沢山の機械たちが蠢いている。それでもフォーカスを用いた演出で“主目的”を隠し、“感動の物語”を届けるには十分な場となっていた。


『それでは、選手の皆さん、準備はよろしいですね! 途中で止まってしまっても良いのです! 最後まであきらめず、練習を重ねたパートナーと、最高の走りをみせましょう!』


 人工海沿いに伸びた舗装道の区画の麓にスタート地点は用意してあった。大きな電子音が響き、広大な空間を占めていた機械たちが緩やかな登り坂へ向けて発進した。美しささえ感じられる完璧な統率。ただの一回も衝突は起きず、ただの一ミリも想定経路を外れていない。


 同じ電子音がもう一度響いた。お揃いのブルーのバンドを付けたアンドロイドと人間の二人組、“ペアランナー”たちが一斉にスタートを切る。輝きと興奮に満ちたその表情を遠隔中継器が空中含めあらゆる場所から記録し中継する。不完全な走りだった。人間の歩みだった。それに合わせたアンドロイドたちもまたどこか不完全を演じているように見えたが、中継先の視聴者たちには美しく映ったことだろう。


 最後に、三回目の電子音が響いた。



 中継先の、ある家庭にて。


「ねえ、ママ、一人だけ走るのが遅いよ」


「本当ね。ちょっとだけ雨が降ったみたいだし、濡れて壊れちゃったのかも」


「えー、変なの」



* * * *



 スタートの音と同時に、自分の脚が急に重くなったのを感じた。自分と同じ姿をした後輩たちが何人も軽快に走り出して、振り返ることもなくそのまま進んで行く。何故だろう、何かが溢れてくる。きっと初めの自分には心など無かった。次の自分にそれができるかどうかは分からない。でも今は、今だけは詞さんとお母さまが造ってくれた心がきっと動いている。詞さんと走った全ての時間が、詞さんの代わりにこれからゴールへと走る皆さんへの何かが、今自分がこの場にいることの意味と喜びが、処理できる量を超えて次から次へと、溢れてくれるのだ。


「……雨?」


 一粒、二粒と、空から水滴が落ちてきた。ただでさえ遅くなっていた私の脚は遂に止まって、天を、きっと詞さんのいる場所を仰いだ。空は晴れているのに、銀色に透けた雲たちの向こうから微かな光と涙が溢れてくる。


――空模様は心模様と繋がっているのであるよ葵殿。


――心模様……ですか。


――さよう。……普通に喋るね。不思議なもので、晴れた日には心も晴れるものさ。雨の日にも風情は感じられるけれど、やっぱり落ち込む時もある。だからこそ、逆にね、心模様が見えなくなってしまったら、空を見てみるといいかもしれない。


「天気雨」


 あるいは日照雨。珍しい気象現象だ。詞さんに話してみようと調べたことがあるから、その呼び名も仕組みも知っている。では、空は今、私の心は今、……泣いている?


「走れ、葵!」


(……!)


 聞こえるはずのない声が聞こえた。こんなに強い口調で詞さんが私にそう言ったことはない。私の心が作り出した? 違う、きっと、


 片割れのブルーバンドの先にペア・ラン当日のユニフォームを着たパートナーの姿を描く。


「詞さん!」


 一人取り残された私には、ちゃんとパートナーがいた。彼と一緒に、雨粒の先、灰色の上り坂を見据える。既に後輩のアンドロイドたちは坂を上り切ろうとしている。ふと、立体に交差した構造道路の隙間の空に、薄く薄く、七色の橋が重なって見えた。その理由は知っているけれど、私を奮い立たせているのはきっと別の、もっと人間的な何かだ。


 本当の最初の一歩は、なんて嬉しいのだろう。詞さん、あなたが私と踏み出した最初の一歩は、どうでしたか。私はもう大丈夫、最後まで走り切ります。だから、いいえ、そうじゃない、


「一緒にゴールしますよ、詞さん!」



* * * *




『見ていたよ。本当だよ、だれよりも素敵な走りだった。“詞賞”があるなら間違いなく君に渡すのに』


『驚いたかい? そうそう、契約は明後日まで、追加の一日さ。昨日の余韻に浸るもよし、また母さんを手伝うもよし、母さんがやってくれていると思うけど僕の部屋を掃除するもよし』


『僕からはもう提案は無いよ。きっともう、自由に過ごせるだろうからね。あ、でも3つくらいおすすめスポットを挙げておこうかな? きっと僕の机に置いてある綺麗な額縁に入った美しい作品の分を引いても、まだお小遣いが残っているだろうからさ』



「詞の着けていたバンド? もちろん取ってあるわ」


「もちろん。きっと喜ぶでしょうね。大丈夫よ、何かあっても私が無くしちゃったことにしましょう」



 女性型のアンドロイドが一体、一人で小さな玩具屋に入ってきた。彼女はガイドランナーを務めることのできた優秀なアンドロイドだが、店主にそのことは分からない。彼女はラジコン飛行機を一つと、簡単な工作のできる工具セットを買い求めた。アドバイスをくれた店主に丁寧にお礼を言って、アンドロイドは店を後にした。



* * * *



 私と詞さんの、二つ分。青い色をしたバンドを両翼に付けたラジコン飛行機は、海へ顔を出した太陽へ向けて、まっすぐに飛んで行った。

 高効率のソーラーパネルも、姿勢制御装置も、きっと二人をどこまでも運んでくれるだろう。


 また、薄青く透き通る空に、虹色が微笑んでいる。涙は流せないのに、視界が滲む。


 空を走る私は明日、詞さんのところへ辿り着く。そうしたらまた、二人で、青い空を走ろうと思う。


参加者と同一の設定、プロットで描く試みより

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