天子の尻
申し訳ないです、少し話が長い目になっております。
天子の仕事が始まるのは小林家に着いた翌日から、時刻は明け六つ頃。
村を含めて山全体を抱擁する夜の闇を西から登る陽光が、外へ追いやり鳥の囀りが響く。
そして立ち込める霧に光が反射されて龍の息吹きが村の傘になった頃、赤子のように丸まり布団で熟睡する天子は肩を揺すられた。
天子を起こした人物は昨日庭先で出会ったやや高齢の女性。彼女は天子が来るまでの間……小林家の唯一の奉公人だったらしく、名前は梅と名乗る。
「小林家の奉公人として朝のお務めに参りますよ」
梅は早速天子を自身と同じ装束に着替えさせると素早い足運びで台所へと向かい、たすき掛けをして木箱から食材を取り出す。それを見ていた天子は両手で頬をピシャリと叩いて自分を鼓舞した。
(頑張ろうっ……よし!)
✳︎
「遅い! とろい! まあ何て容量が悪い娘さんなんでしょう!」
「ひぃぃ! 申し訳ありませんっ!」
天子と梅の二人で朝食の調理を始めてから暫く、天子は何度も梅に叱責を受けていた。
梅は無駄な事を嫌い容量良く何事も行い、素早い仕事を好む人柄である。それ故に環境に慣れずに一々調味料を探しては時間を無駄に使い、二つ三つ作業を並行して行うとギクシャクとして、小さな仕損じを起こす天子に我慢がならない。
仕舞いには調理を放棄して、指令塔となる為に手に杓文字を持ちそれを指示棒のように振り回すようになっていた。
「早くしないと皆々様が起きますよ! 私はこれを今まで一人で行なって来たのです! 間に合わせたくば私を頼らず三倍効率良く動く事を身体に覚えさせなさい!」
(う、梅さん初対面の時と印象が殆ど違うわっ……)
「遅い! 私ならもう何品か用意が出来ますっ」
「……ま、まだ初日ですし梅さんも加わって下されば充分間に合うのでは……」
天子が足下にある壺に入った味噌を玉杓子で掬う為、腰を屈めて尻を突き出す形になりながら小さな声で呟くと、ピクリと梅の片耳が動き目に鋭さが増す。
「無駄口叩かない!!」
梅は手に握る杓文字を振り上げてスパーンと乾いた音を出しながら天子の尻を叩いた。
「ひぇえっ!!」
天子はビクリと背中を反らせると片手で尻を隠し、頬を羞恥で紅く染めながら眉を八の字に下げて梅を見る。
「私がここに始めて働いた時、それはもう指導して下さった方が厳しく……叱責される時は箒で背中を叩かれたものです……それに比べたら私は優しい位……ビシバシと鍛えて行きますからね?」
梅は腕を組みウンウンと懐かしむように頷くと再び杓文字を構え、天子は笑顔を痙攣らせた。
それからと言うもの……
「遅い!!」
「ひっ!」
梅が杓文字を薙ぎ払うように振るい天子の尻を叩く。
「味噌を素早く解いて次!!」
「どうして!」
そして続いて梅が地から天に向けて線を描くように杓文字を振るい上げて、尻を守ろうとする天子の背後を取る。
「喝!!」
「お尻ばかりぃ!」
梅の年齢と似つかわしくない素早い杓文字捌きと振り上げられた腕により、天子は何度も尻を叩かれ丸い目に涙を浮かべて半ば逃げ回るように仕事をしている。
「声がデカくて寝れやしねぇよ……」
「梅はかなり張り切っとるのぅ……」
そして小声で会話をしながら優一と勇二郎は遠くからその様子を見物していた。
と、言うのも。梅の張りのある大きな声が屋敷の静寂を壊し、そして天子の悲鳴のような声に優一達はすっかり夢から連れ戻されたからである。
「しかし……思うとったんじゃが……」
優一は眉間に皺を寄せ真剣な面差しで勇二郎に目を向ける事なく呟き、勇二郎は雰囲気が明らかに違う優一を横目で見た。
「儂もかなり健全な男じゃ」
「……あぁ?」
「……この光景、結構……やらしく見えるわい」
優一が頬を染めて目力のある瞳に勇二郎を映す、その表情と瞳に、隙のない刀剣のような鋭さを加えた姿は勇二郎とそっくりであった。
「お前…………」
勇二郎は驚いた様な表情から見る見る顔付きが変わり、優一を吐瀉物でも見るような目で見ながら口を開く。
「滝に打たれて来いよ…………」
✳︎
「いただきます」
小林家の面々が集まり手を合わせて箸を握る。
おかずの卵焼きに野菜の味噌汁、湯気立つ白米と箸休めに白菜の漬物を銘々膳に乗せ、其々腰を下ろす座布団の前へ置いた後、夢路から帰った屋敷の主人を無事迎える事が出来た。
(ま……間に合った……まさか梅さんが最後まで指示をする事に徹するなんて。でもこれのおかげで間に合ったのかしら)
天子は梅の教育的指導が功を成したと思うようする、次回は何事もなく調理を始められたらと切に思いながら……
「初仕事ご苦労様天子さん。さあ、君達も食べなさい」
皆が食事をしている間に屋敷の表を掃除しようと席から立ち上がる天子は一瞬、久松の誘いに反応する事が出来ず呆けた顔をしてしまい、梅が天子より一歩前に出て「ありがとうございます。久松様」と蘭の花開くような笑みを見せる。
「梅さん、奉公人の私達が……共に食事って本当にいいのですか?」
上座に鎮座するのが久松であれば、梅と天子は一番距離のある下座の位置にちょこんと優一達の膳より簡素な物を用意して朝食を並べ、座布団に腰を下ろすと天子は隣に座る梅に肩を寄せて話しかけた。
「久松様は奉公人も刻を共にする身内として扱って下さる心お優しい御方。断る事の方が失礼に値します」
梅は皆が食事に箸を付けたのを見て自分も味噌汁の入った椀を両手に取り、ゆっくり傾けて唇を縁につける。
天子は梅を見た後、黙々と私語を話さず食事を取る小林家の光景を下座から眺めて、自分の作った物が口に合わなかったのだろうかと心配したが、勇二郎の箸を動かす様がそんな物は杞憂だと告げてくれた。
そして久松が口を開く。
「佐助と紅緒が寺に通っていてねぇ。天子さんはその送り迎えもして頂きたい。……その為に道を覚えて貰わねばならないが残念ながら今日、佐助達は寺には行かんのだ……誰かに道だけ教えて貰うといい」
(うへー、他所者に送り迎えかよ)
佐助は久松の言動に内心溜息を吐いて抗議の目を勇二郎に向けるが、当人は次々と役目を終えた皿を膳に重ねながら口を動かしていた。
「…………」
おまけに紅緒はその件に口を挟む事なく卵焼きを一番最後に取って置き、漬物ばかり食べていたので佐助は拗ねたようにフンと鼻を鳴らして白米を口に掻き込む。
「儂が案内してやりたい所なんじゃが……すまん、この後やるべき事があるようでな……」
久松の隣で食事をする優一が口許に漬物を付けたまま申し訳なさそうに眉を八の字にする。
「いっ、いいわよ。それより口元にお漬物が」
「ん?おお、すまん」
優一は口許の漬物を親指で拭って、荒染されたような紅い舌を口から伸ばすと指を舐めながらちゅっと音を出して唇に親指を押し付ける。
「私の事は大丈夫、それよりやるべき事って?」
優一は真剣な顔をしながらプニプニと唇に押し付けていた親指に力を少し込める、すると門扉を閉じるようにしていた唇に隙間が出来て白い歯と口腔が少し見えた。
「杞憂なら良いが、念の為確認したい事があってのう……」
「…………」
天子はその光景を目の当たりにしながら思わず顔を紅く染める。そして自分の手を握ると……
(私は大切な友人をなんて目で見ているの、この恥知らず!!)
自分の頬を殴り付ける、クラクラと目が回って鈍い音を立てて骨まで振動が響いたが、殴った衝撃で優一に対して無意識に浮かんだ破廉恥な考えがどこかに跳んで抜けて行ったようだ。
「天子何してるんじゃっ!?」
その様子を見た優一が慌てた様子で上座の直ぐ傍から声を掛ける。
今にも席から立ち上がりそうな様子を見た天子は、殴った頬を手で覆いながら誤魔化すような笑みを浮かべた。
「大丈夫よ、気にしないで。頬に小さな虫がとまったのかしら? ほほほほ……」
「いや……しかしいかん! 女子に手を上げるような事があるなど、例えそれが己の拳でも駄目じゃ。痛かろう!? 大丈夫か!?」
優一は心配と困惑が入り乱れた表情をしながら天子を諭そうとすると、天子も慌てて頭を何度も下げながら謝る。
「ごっ、ごめんなさい! 二度としません! もう、私ったら……!」
二人の様子を見た勇二郎は苦虫を噛み潰した上に更に口を塞がれたような顔をして、梅は表情を変えずに「何です? この茶番」と呟くと久松は楽しそうに笑った。
そして皆より先に優一は食事を終えると立ち上がり、天子と梅の背後を通って部屋から出て行こうとする。その時に優一の通行の邪魔にならぬように身体をずらす天子の肩に優一は自分の手を置いて、にっこり笑うと何も言わずに襖を開けた。
天子は言葉に出された訳ではないが、何故だか優一の言わんとした事が理解出来、小声で行ってらっしゃい……と呟いて微笑むとゆっくりと襖が閉じられるまで見送っていた。
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