屋敷
「優、ごめんなさい」
深い深い海の中のような視界の危うい霧深さの山道を、再び歩きながら天子は自分の直ぐ前を先導している優一に声をかけた。
「どうして謝る?」
優一は天子が謝る理由が分からず、呆けたような表情を浮かべながら自身の肩越しに天子を見つめ、天子は草履を浮かせるのを止めて立ち止まった。
「さっき、人でない何かと遭遇した時……私はあなたの事を少し恐がってしまったわ」
「それは真っ当な反応だわい。得体の知れんのは恐い、儂らが生きる為に培って来た感覚なのだから。大事にすべきだ」
「それでも私は嫌なの」
優一は大きな手を天子の頭に乗せると、軽く撫でて目を細めた。天子はその様子を見て自身の胸や腹を殴りつけて首を振ると、優一の手を両手で掴み胸の位置まで下げて包むように握る。
「恐いのはアレらなだけであって、優が恐い訳じゃないの。優が人でない者の扱いを知ってるから驚いただけっ、だから傷ついちゃ嫌よ」
「…………」
そもそも生まれて今ここまで時を刻む迄、アレらの事なんて知らなかった。八百万の神々や霊魂など、自分の理解を超える存在は確かに存在していると思っていたが、それが自分に関わるとは微塵も考えていなかった、先程まで。
矛盾しているが天子はそうだった。
優一にとってそれらは自分の身近に息衝く存在だったという違いがあっただけだと天子は焦った様子で優一を見上げる。
優一はその凛々しい眉を双子山のようにさせて目を見開くと吹き出した。
「おう……おう、大丈夫だとも。儂の心臓には毛が生えとるからこん位じゃ目ん玉から水すら出ん」
「良かった……何気ない一言で人を殺す事も出来るもの、私ったら」
「しかし天子は小さな事でも気にしいじゃのう」
「ええ。出来る事なら誰にも嫌われず、迷惑かけず生きていきたいものだわ」
天子は苦笑を浮かべながら優一の手を離すと、言葉を口から綴りながら人差し指を前方に指し、優一に進行方向を確認しながら再び歩き始めた。
「儂も、同じ事を童ん時に考えとったわ」
天子が行く道を少し眺めてから優一は困ったような笑みを浮かべて呟くと後を追うように大きく股を開いた歩いた。
そしてニ人が進む道の先、足を運んでいると突然霧が晴れ目の前に村が現れた。
見渡せる程の田園に点々と傍に木造の民家が存在しており、龍の横たわるような川から水を引いた水車がゆっくりと動いていた。
「歩いて五日はかかると言われていたのに、もう着いたの? 私達……」
「言ったろう? 近道だと」
優一は呆けたように固まる天子を覗き込むと、天子は岸に打ち上げられた魚のようにパクパクと口を開口させて優一を見つめ返した。
「天子、ちょっと儂に付き合ってくれんか?」
天子はまだ口を動かした状態で首を縦に振ると、優一は自身の手で天子の手首をすっぽり包み、ゆっくり引いて村の中を歩いて行く。
大男に身なりの汚い女、他所者としてかなり目立つ二人は村人の興味と警戒の視線に晒されながら、一際大きな屋敷の棟門の前で立ち止まる。
優一は慣れた様子で閉じられた門扉を両手で開けて、天子に視線を投げかけ共に来るようほだすと天子は恐る恐る敷居を跨いだ。
そこには見事な庭が内に広がっていた。手入れの行き届いた草花に花弁が浮く優美な池……それらを一望出来る縁側、屋敷を背景にするとしたら優一は違和感なく溶け込んでいて、浮いている自分のボロが恥ずかしくなった天子は自分の手首を握る優一の手へ視線を落とす。
「何の御用でしょう、ここは小林久松様の御家と知って尋ねられておいでで?」
箒を持った高齢の女が庭から歩いて優一と天子の前に立ち塞がった。
(綺麗な人……まるで蘭のよう)
年配でありながらも薄く化粧もしており、天辺から足先まで身なりの手入れの行き届いた女は、自身を見つめる天子を見返すとフンと誰にもバレぬよう鼻から息を吐いた。
「まるで泥棒でも見るような目だ。小林優一が戻ったと伝えとくれ、さすれば儂らを通したあんたが家主に叱言を言われる事もない。息子が親父に会いに来ただけだからのう」
「ゆっ……優一様……!? 少々お待ちを!」
その言葉を聞くや女は顔を青ざめさせて飛び上がると、箒を放りだして屋敷の内へ駆けて行った。
(優がこんな大きな屋敷の人だったなんて……)
天子は胸に小さなザワつきを感じ、ソッと手首を握る優一の手に手を重ねて離そうとする。
優一は視線だけで天子を見下ろして太く長い指を一本一本外されて行く様子に瞳を細めた。
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