焦がれ
「ううう……」
いい歳をした私が自分の着物を汚してしまったと言う事実に只々情けなく、鼻水やら涙を流していると……潮吹き面を被った男が深緋色の着物を脱いで、取り敢えずは私の汚れた袴の代わりに、この着物を腰に巻くようにと絆す。
ひょっとこ男め……半分は貴様の所為だと言うのに……、感謝する……。
「それで、婆さん達は何しとったんじゃ?」
「人間がこんな所に一匹迷い込むなんて珍しいだろう?良い酒の肴になると思ってねぇ」
「こいつ一匹食った所で困りはしない、なんならアンタに新鮮な肝を譲ってやるさ」
「はっはっは! 儂は遠慮しておくわい!」
老婆達はひょっとこ男に対して妙にクネクネとしなるような動きをしたかと思えば、甲高い声を発していた。
……何なのだこの地獄絵図は。
ひょっとこ男は女に人気なのか。……女と言っても相手は牛をも頭から食ってしまいそうな巨大な老婆達だが……化物達の好みは人間の私では考えに及ばぬ所があるのだな。
「婆さん達、直ぐに食うなんて退屈だろうて。この男は何者か聞いて見ようではないか」
ひょっとこ男と老婆達の視線が私を再び捕らえた。呑気に談話しているがここで私が逃げ出そう物なら殺されるに違いない、文字通り視線だけで囚われているのだ。
私はビクリと肩を強張らせると視線を忙しなく泳がせる。
「私は……和泉兼定。……歳は四十五で、独り身だ」
ーー嗚呼、私は自分の事を話すのがいつだって苦手だ。敢えて述べるような才もなく、頭の中にあるのはいつだって絵空事のみなのだから……。
「四十五か! 儂より歳上なのだな、兼定さんや。……もしや、お前さんは絵師さんかい?」
ひょっとこ男は物珍しげに腕を組んで私へと近寄る。そしてゴツゴツとした太い指で、私の枯れ枝の様な腕を指した。私の腕には墨によって作られた痣のような沁みがある、こればかりはいくら湯浴みをしても残っており、常に筆を触っていない限りは出来ない物だった。
「あ、あぁ……絵師ではなく物書きをしている。……高龍と言う名で書いておるのだが、聞いた事はないか? 高い……に、龍……聞いたままの俗称なのだ」
「高龍!?」
潮吹き面の男は驚いたような声を上げた。
もしや私の事を知っているのか?
「知らんなぁ」
がくり、と私は何もない場所で転ぶような所作を思わず取る。
「……はは、構わんよ。今となっては悪評ばかり一人歩きしているのだ、知らなくて良かった良かった」
力なく笑うとひょっとこ男は腕を組んで首を傾げ、私は手持ち無沙汰になった両手を擦り合わせるように重ねると、背中を丸めて胡座をかく。そして重ねた合の手に視線を落とすとボンヤリと呟いた。
「昔は……私の書いた絵空事でも、好いてくれる人はいたのだ」
「それは、誰の事じゃ」
「はて……誰だったか……忘れてしまった。やれやれ貴重な読者を……私とした事が」
「……ふうむ、記憶が混乱しているようじゃのう」
「まあ確かに、この状況では混乱しない方がおかしいな……ボロの長屋で執筆をしようとしていたら此処にいたのだ。ふふふ、こうして見ると私も数奇な縁を持ったものだ」
まるで、昔頭の中で想い描いていた物語に飛び込んでいるようだ。主人公が化け物道に迷い込み、そして貪婪な魑魅魍魎共に骨迄しゃぶられようとしていた時に現れる、人間の味方をする存在……かつて人間によって裏切られた神の成れの果てだ。
「こいつ、食われようとしているのに笑っているなんて頭がおかしいんじゃないか?」
異形の老婆がひょっとこ男に声をかけると、男はその問いに答えず黙り込む。
「いやいや、私は骨の髄まで物書きのようだ。こんな自分の身が危ない最中でも、書きたくて堪らない。私の眼に見えるこの風景の一片たりとて溢さず紙に閉じ込めてしまいたいのだ」
「兼定さん……いや、高龍先生や。残念ながらそれは叶わぬ願いじゃ」
ひょっとこ男は大きな瓢箪を片手で持ち上げ、懐から取り出した杯に注ぐと異形の老婆達へと酒を煽る。
「私は食われてしまうのか、助けてくれるのでは……と期待を持ち過ぎてしまったな。ひょっとこ男、君は私の神ではないものな。だがこのまま食われるのは心残りだ、情念だけが強く残る男など食ったら胸焼けがするだろう。せめて公表させてくれないか、私の最後の物語を」
「それも叶わぬ。何故なら高龍先生、お前さんがその道を潰してしまったのだ」
なんだって?それは初耳だ、そしてどう言う意味なのだ。私が物書きの道を潰しただと?
そんな事がある筈ないじゃないか、物書きとしてこの道にどれだけの歳月を注ぎ込んだと思っているのだ、自分の書き上げた話は私の心臓だ。私は物語により動かされて生かされていると言うのにーー
ひょっとこ男は溜息を吐くように肩を竦めると仕方なく話始めた。
「高龍先生、あんたは首を吊ったんじゃ」
……吊った……私が自分の首を……?
「何故だ、そもそも私は執筆していた筈なのだ」
腹の中で蛇がのたうち回るような気持ち悪さを感じ、少しずつ私の心臓が大きく跳ねていく。恐る恐る己の首を触れると、何か縄のような物で左右から思い切り搾られたような生々しい痕が、確かにそこにはあった。
「……ひょっとこ男、教えてくれ。何故私は首を括ったのだ」
「それは、お前さんが誰より分かるだろう。高龍先生、今は首を括った直後だから記憶が混乱しているんじゃ」
では私は……自分では覚えていないが、ボロの長屋を飛び出してわざわざ首を括る為の準備をして、そしてーー。
「和泉兼定……馬鹿者め、何故死んだ」
拳を握り震えながら己に叱咤するように鉛のように重い声を搾り出した。
もし、グダッてるじゃねーか。
って思われた方……申し訳ないです、この話はそこまで長くないのでもう暫し……お付き合いを……