ザ・勝ったのは誰? by 若奥さま
よろしくお願いします。
電話を終えた一時間後、「ただいま」と透が帰って来た。絹ちゃんは「今夜だけは帰らない!」と言ったので泊まってもらうことにした。二人でバカ犬をボコボコにしてやることも可能だが、イマイチ乗り気になれない。
何だか気持ちが冷めてしまったような気がした。きっと、由香利との神経戦に疲れてるんだよね。正義とか正当性なんてどうでもいい。結果にさえこだわらなくて、事態を早く終結させたいのみだ。
いけないッ!こんな弱気ではお姫さまの思うツボだ!あの女は徹底的に人の弱点を突いてくる悪魔だからな。
玄関先で「お帰り」と言って透を出迎え、そのままリビングへ行った。もちろんソファには絹ちゃんが鎮座していらっしゃる。彼女は何も言わずに私たちをジッと見つめた。さすがにちょっと気まずい。
透は絹ちゃんの向かいにおとなしく座った。私はあえてその隣に腰を下ろす。不思議と怒りは収まっていた。今朝方に東京で殺意さえ抱いたのが嘘のように。
何故だろう?もしかして私は嬉しいのか?お姫さまとの決着がついたわけでもないのに。いや、頭を切り替えよう。問題は簡単だ。私が今後、透と暮らすのか決めるだけだ。その他の諸々は私の関知出来る話ではない。ここまでこじれた今こそシンプルな考え方が有効だと思う。
その日の夜、私はベッドで、絹ちゃんは和室に敷いたお客さま布団で、透はソファで眠った。
朝になって三人で朝食を取った。メニューは透の好きなキリマンとマーマレードをたっぷり塗ったトースト、厚焼き玉子に野菜サラダを少々の簡単な物にした。もちろん、私が用意したんだけど。
透はボーッとして何を考えてるのかわからない感じだが、絹ちゃんの憂鬱そうな顔は印象に残った。
11時過ぎにインターホンが鳴った。画面を見たら勝利君が由香利と並んで立っていた。エントランスのロックを外し玄関先まで上がって来てもらい、私が一人で出迎えた。そのままリビングに通して五人分のコーヒーを用意した。さあ、準備完了だ。
多分誰もが展開を読めないのだろう。ピリピリした緊張感が互いに伝わりあって来る。口火を切ったのはお姫さまだった。ちょっと意外だったけど、先手必勝ってやつらしい。
「亜矢子姉さん、透を私に返して下さい!そもそも、私たちが付き合ってた時に姉さんが割り込んで来たんですからね!一切の通告も無しに。まるで泥棒猫じゃないですかァ。私は断固として優先権を主張します!」
言葉を返すのさえ億劫だった。この気持ちは決して冷静さではなく、もっと冷たい深海の水のような感触だと思う。もしかして、今は人生の転機なの?
お姫さまの屁理屈なんて何とも思わない。じゃあ、何で私が躊躇しているのかと言うと、透の気持ちが掴めないからだ。正直、今までの暮らしに後ろめたさはある。透が病気の時以外で、彼への気遣いを怠って来た反省が有るからだ。
いつも私は自分優先で、それが夫婦の納得事項だと勝手に認識してしまっていた。逆らわないのをいい事に一方的にストレスをぶつけ、透を便利なペットとして扱って来たからだ。
「透が決めればいいわ。そう、あなたの決意に私は従います。由香利ちゃんとの未来が歩みたいなら離婚に同意します。今まで不満もいっぱい有ったでしょうしね」
由香利は一瞬ポカンと口を開けたが、直ぐに嬉々とした表情に切り替わる。透は少し悲しそうな顔を見せ、静かな口調で切り出した。
「俺はもう亜矢子と暮らそうと思わない。だから別れよう。ただ、二人の暮らしでの不満はお互いさまだから文句など言いたくないよ」
私はいきなり逆上した。感情マックスで制御が利かない。
「だからあんたはダメなのよッ!何で文句の一つくらい言えないの!?私が怖い?気後れする相手なの?それじゃ無理よ。どうしたってやっていけない……」
思わず涙が溢れ出す。お姫さまの前だけでは泣きたくなかったのに。絹ちゃんがそっと肩に手を掛けてくれた。味方になってくれる人がいるのはありがたいことだ。だって……、だって私は自己嫌悪で潰れそうなんだもの!
「じゃあ決まりね。まず離婚届を出して、あとは粛々と計画を実行して行くだけ。姉さんも新たなしあわせを見つけて下さいね。もちろん私を恨んでも結構ですよ」
由香利のブッ込きに正直ムカついたけど、絶対人任せにしない、委ねないお姫さまの姿勢と強さは羨ましい。本当に生まれながらのヒロインなんだろうなあ。
思えば初めて出会ったネットCMの時から、いつも人の輪の中心にいたもの。彼女は引退してしまうかも知れないけど、一度くらいこの天才女優の徹底した悪役を見たいものだ。必ず大絶賛されるぞ。新境地開拓ってね。もちろん私は、何処が新境地だよ!そのまんまじゃねえか!と思うんだろうけど。
「俺はさあ、もっと明るい毎日を過ごしたかっただけなんだよ。そりゃ寂しい思いをしたのはしょうがないさ。奥さまの職業が女優さんなのを承知で結婚したんだから。でも、もう少しお互いの気持ちを感じながら暮らせれば良かったと思ってる。それは多分、俺がすごく悪かったんだ。勇気が足らなかったってことでね」
過去形で話されるのは悲しかったけど、透はもう結論を出してるんだ。じゃあ、私に出来ることなど何も無い。
「わかったわ。離婚届を提出しましょう。その前に、智美社長にだけは報告しておくね。一応人気商売をやってるんだし、マスコミ対策とかも検討しなくちゃいけないから。まあ、由香利ちゃんとは立ち位置が違うから大して影響はないでしょうけど」
堪えるようにジッと話を聞いていた絹ちゃんがたまらず声を上げた。
「亜矢ちゃん、そんな性急に決めちゃっていいの?ちょっと夫婦ゲンカしただけでしょ?そんなの、私たちならしょっちゅうだよ。少しだけ意思の疎通が噛み合わなかっただけじゃない。お互い反省してるんだから、やり直せばいいと思うわ」
由香利がうつむき加減のままチッと舌打ちしたのが見えた。こりゃこの義姉妹は悔恨を残すな。でも、絹ちゃんでさえお姫さまには勝てないと思う。最愛のご亭主である勝利君を味方に付けてるから。
私は少し清々しい気分だった。お姫さま相手に勝算など最初から無かったんだろうな。よく健闘した方だよ。人の気持ちは変わり行くんだから、透より好きな人もきっと見つかるわ。
私たちのやり取りを見て勝利君は絹ちゃんに「ゴメン。やっぱり俺は絹江を失いたくないから」と謝った。絹ちゃんは短く「うん」と言ってうなずく。いいなあ、この二人は全然心が離れてないんだもん。それに比べて私たちは途方もなく遠去かってしまった。身体は手の届くほど近くに居るのに。
意外なほど静かに流れる空気の中で透の横顔を見たらやけに凛として見えた。あれ?何かカッコイイじゃん!どうしてこの状況で胸キュンするのよォ!
ちょっと私、バカみたいにものわかりのいい女になってない?うーん、前言撤回してみるかな。
「やっぱり透と別れない!私はあなたの妻でありたいもの。由香利ちゃん、ゴメンなさい!」
お姫さまはその瞬間確かに固まっていた。でも、数秒で唇がワナワナ震え出し、怒りをぶつけて来やがる。
「あ、あんたねえ、何言ってるのかわかってんの!?私にここまでふざけた態度を見せるなんて命落とすわよ!」
由香利にグイグイ詰め寄られ胸倉を掴まれた。私はあえて抵抗しなかった。もちろん防御しても防ぎ切れないだろうけど。グェッ!お姫さまに思いっ切り締め上げられたところで透が彼女に体当たりした。思わず手を離してしまった由香利は、フロアに転がってワンワン泣き出してしまう。
「透ゥ!私と暮らすって言ってよォ!もう、毎日たまらなく寂しいんだからねェ!仕事は充実してる。お金も充分に貯まった。でも、全然しあわせになれない。私の人生って何なのよォ!」
泣きじゃくるお姫さまに頬を寄せ、透はやさしく慰める……と思った私は甘かった。
「俺、三人がしあわせになれる方法を思いついたよ。由香利ちゃん、ここで俺たちと一緒に暮らそう。そしたら寂しさも紛れると思うし、亜矢子がおいしい物を作ってくれるので好都合だろ?由香利ちゃん、お料理嫌いみたいだしさ。もっと二人が仲良くなって、それぞれが俺にやさしくしてくれればみんなしあわせでしょ?今をトキメく有名女優さんに囲まれて暮らすなんて、最高のハーレムじゃん!勝もそう思うだろ?」
勝利君は言葉を返さない。言葉をためらってるみたいだ。こうやって絶えず私を呆れさせ、憎しみを持たせるバカ犬は素晴らしい。これほどのクレイジーはそうそういないと思う。一応話に乗ってやるか。
「由香利ちゃん、私たちと一緒に暮らす?私は同居を受け入れるけど、透とシちゃダメよ!隠したってすぐにバレるんだからね!」
お姫さまは身を起こし、取りあえず透をグーで殴った。当然だろう。吹っ飛んだバカ犬は頬を押さえながらマヌケ面を見せている。凄まじいな、こいつのノータリン振りは。
「どうしてみんなこんなにバカなの!?いい加減、世界は私中心に回ってるんだって理解しなさいよ!決めるのはいつだって私!ルールブックは私自身なのに」
そうだ!その通りである!お姫さまに思うがままに振る舞って頂くのが、周囲の者たちに課せられた使命なのだから!まあ、世の中が甘ければな。って言うか、由香利ちゃん、ホントにメンタルやられてない?
でも、この周囲に迎合しない思考が世間さまで受けてる最大の要因なんだよなあ。生意気程度じゃたかが知れてる。そんな輩はいっぱいいるし、叩かれて干されるのがオチだ。
このお姫さまは次元を超越している宇宙人だ。失うことに全くビビッてないのでブレない。だからカッコイイし支持される。スーパーヒロインのポジションを惜しげもなく捨てられる人間なんて、マジでこいつくらいだぞ!彼女は中途半端な捨て方はしないだろうから。
私だったら……、無理だよなあ。悲しいけど、二択だったら透を捨てると思うもん。
ハッと気づいた。今まで誰も気づかなかったことかも知れない。そう、このお姫さまは規格外のバカなのだ!バカは決して自分をバカだと言わない。だからつける薬が無い!一生治ることのない病を患っていらっしゃるのだ。この悲劇には、さすがの私も同情を禁じ得ない。
と言うことは、これからも頻繁にドタバタが勃発し続けるのか?カンベンしてくれよォ!仕事に集中出来ないじゃない。
由香利が透に惚れた時点で、このバカ犬は劇薬入り果実だったってことか。そんなの私が知る由もないし。うーん、やっぱり別れようかな?自身の未来を考えれば、賢明な選択だと納得出来るもの。
「ゴメン、やっぱり透と別れる。いや、別れて下さい。そのあと二人がどうなろうとも一切口出ししません!」
「イヤッター!やっと私の初恋が実るのねェ!十年越しの思いだったもの。姉さん、ありがとう。透!もちろん異存はないでしょうね!?」
あまりの急展開にバカ犬はアホ面を見せている。お前なあ、さっさと私に捨てられたことに気付けよ!
もうお姫さまにも意地を張らない。そのうち私にも平穏なしあわせが訪れるだろう。こいつらに関わってる限り永遠に手に出来ないものが。頭をずうっと覆っていた暗雲が去って行くのが感じ取れた。さあ、飛び立とう。私の輝かしい未来へ。
一ヶ月後、私たちは離婚届を提出した。もちろん、事前に智美社長にはお知らせしました。一週間後、事務所を通して発表したけど、記者会見のようなものは開かなかった。当然だ。スキャンダルでもあるまいし。マスコミが本当にビックリ仰天するのはまだ先のことだしな。
透は共有財産と呼べる物は全て放棄してくれた。正直、これは女の独り身としてありがたかった。お陰でマンションも完全に私の個人所有物件だ。お前、絶対お姫さまに捨てられるなよ。金無しペーペーリーマンじゃ未来は明るくないからな。
由香利の手の平返しには驚いた。オファーが来ると必ず私と共演出来ないか打診してくれ、珍しく私が主演する単発二時間ドラマの時、安いギャラで助演を申し出てくれた。これは製作スタッフにもすごいサプライズで、視聴率の安定したシリーズ物でもないのに大いに話題になった。
友情出演と言う申し訳程度のチョイ役ではなく、ほぼ全編に顔を出す犯人役だったからだ。ちなみに、彼女にとって初の悪役である。関係者がヒロイン役以外を本当にうまく出来るのか危惧していたのは事実だ。特に監督はプレッシャーが掛かってたと思う。
もちろん私は何の心配もしていなかった。悪魔の化身の彼女が地を出せば楽勝に決まってるもの。でも、ツンデレのカワイイ悪女なのよ。お陰で二時間単発物としては記録的な視聴率を残せた。これは後々、主演女優だった私を後押しする強力な実績になってくれるはずだ。
とあるオフの日曜日、由香利の招きでタワーマンションへ遊びに行った。ランチを作らされるのを受け入れてだぞォ!
もちろん、同棲中のカレ氏はそこに居た。半年ぶりに透を見て少し切なかったけど、この二人の子供を見てみたいと思えたのも本当だった。
透君、私の好きだった人、どうぞおしあわせに……。
最後まで読んで下さりありがとうございました。