ザ・疑惑と亀裂 by 若奥さま
よろしくお願いします。
「透、あんた、浮気してるんじゃないでしょうね!?」
ブハッ!飼い犬は勢いよく私のお手製味噌汁を噴き出しやがった。ゲホゲホ咳込みながら胸をトントン右手で小突く。その喘息のような症状が治まり切らないまま視線をずらして答えて来る。
「そ、そんな……、う、浮気なんて断じてしてませんよ!だいたい、何でいきなりそんなこと言うわけ?確かな証拠でも掴んだとか?」
怪しい。すっごく不自然な返答だ。まさかとは思うけど、最後のフレーズが超生意気である。ポチよ、お前の飼い主は私だぞ。大女優の八反綾さまと暮らせてるしあわせを自覚出来ないのか!?
グフッ!取りあえずみぞおちに一発お見舞いしてやった。腹部を抱えて崩れ落ち苦しそうに呻いている透に、座っていた椅子を持ち上げて頭部に振り下ろす。バキッと鈍い音がした。フロアに転がったポチは必死に左手で私を制止しようとしている。目に涙を浮かべてだ。アワワワと唇を震わせ私の足元にしがみついて来たので、条件反射のごとく額を蹴ってやった。後ろに仰け反り後頭部をゴンとしこたまフロアに打ち付けたようだ。
「待って!ねえ、待ってよ!本当に死んじゃうってばァ!」
哀願する潤んだ瞳に構わず胸倉を掴んで締め上げてやる。
「お前なあ、私という美しい妻が有りながら何で醜態晒すんだ?いつから自殺志願者になったんだよ!?」
「ち、違うんだよォ!あれは同期として相談に乗っただけなんだ。信じてよ!亜矢子ォ!お願い!殺さないでェ!」
何かよくわかんないが勝手にゲロしやがった。カマ掛けたのが功を奏したみたいだけど、こんな外道が旦那かと思うと情けなくもなる。さて、やさしく事情聴取してやるか。死なない程度に。
「殺されたくなかったら白状しなさい!嘘とか言い訳したら命落とすよ」
まな板の横に置きっぱなしだった包丁を片手に氷点下の言葉を放つ私を見て、ポチはガタガタ震えたままだ。
「だ、だから同期の高橋恭子さんが、転勤で支店にやって来た総合職の先輩に交際を申し込まれたって話なんだよォ!彼女も二十九で結婚を意識する年だし、失敗したくないからアドバイスをくれって頼まれたんだ。その件で二人で喫茶店に入り相談してただけですって!」
ふーん、そんなことが有ったのか。まあ、わざわざ私に報告するレベルの話では無いな。
「で、あんたは何てアドバイスしたの?その美人の高橋さんとやらに」
透はヘラッと笑って返して来た。いつも感心するが、この打たれ強さと立ち直りの早さは特筆ものである。
「まあ、確かに高橋さんは同期一の美女だけど、俺はキッパリ言ってやったよ。結婚なんて地獄だから止めとけって」
面倒くさいけど、もう一度椅子を頭頂部に振り下ろしてやった。ポチは絶命したかも知れない……。
暫くして蘇生したポチにビールを持って来させた。こいつは不死身か?泡の盛られたグラス片手にリビングで物憂げに佇む。フーウ、確かに他人と暮らして行くことは大変だ。深く沈み込むソファで右向きに身を預けるのは、左側のフロアに飼い犬がひざまずいているからだ。
「透、私のこと愛してる?世界中で一番好き?」
顔だけ左側に向けて挽回のチャンスをやった。
「もちろんです。世界中で女性は亜矢子しか要りません」
在り来たりの返答でつまんない。って言うか、これが倦怠期ってやつなの?最近ホントに刺激が足りない。愛を感じられないのだ。
それは私たちに子供が出来ないことも原因だと思う。三十までは仕事優先でやって来たけど、最近は子供を作ってもいいと思ってる。しかし、現実はそう都合よく行かない。そして私は高齢出産の道を歩んで行くわけだ。
そもそも週末しか地元に居ないし、それさえスケジュール次第だ。オマケに機嫌が悪ければ一緒に寝ないので、根本的に回数が少ないのだと思う。
これでも私は透が好きだ。透以外の男など要らない。でも、関係は私が圧倒的に優位だと思う。そのように仕向けて来たからだ。私は自分の独占欲に従って計画的に主従関係を構築して来た。間違ってようとなかろうと積み上げて形作ったものに違いない。そこに透のしあわせは有るのか?有るんじゃないの?わかんないよ、そんなこと……。
翌日の日曜日、久し振りに絹ちゃんにケイタイして杉村夫妻をランチに招いた。妹の由香利はNGだと釘を刺して。
こんな状態の時お姫さまに乱入されたら、必ずシッチャカメッチャカのワケワカメにされてしまう。下手すれば透を奪われかねない。あの女だけは恐ろしい。私が勝てないと思ってる唯一の女だ。
最近、駅前に新築のマンションを買ったらしいな。さすが売れっ子、儲けてやがるぜ。大手のCM契約五本だもんな。下手すりゃ年収、ン億行くんじゃないか?たくさん税金納めてくれよ。
11時過ぎに杉村夫妻がやって来た。うん、勝利君は相変わらずカッコイイ!さすが超美人女優の実兄である。しかし、透と勝利君のコンビって昔からみたいだけど、揃って結構モテたのかな?
勝利君は入社直後から絹ちゃんと付き合ったらしいけど、フリーだったら女の子に引く手数多だったろう。色白でジャニ系のイケメンだから、頭の中がスッカスカでも問題ない。
じゃあ、透はどうだったか?私が知った時には悪魔の由香利と付き合っていたので、虐げられてるイメージしか持てないけど。でも、本格的に付き合いだしたのは透が二十才になってからみたいだから、それ以前を絹ちゃんに訊いてみたいところではある。勝利君には透と付き合ってた頃の由香利の様子も教えてもらいたいし。
今さら昔のことをほじくり出しても無意味かも知れないが、素のままの透のレベルに興味を惹かれるのは本当だ。
淹れたてのキリマンジャロをお出しして飼い犬の隣に腰を下ろし、向かいのソファに座る絹ちゃんに尋ねてみた。二人は頭部に包帯を巻いた透を見てギョッとしていたけど何も言わなかった。
「ねえ絹ちゃん、先日透が同期の高橋恭子さんって方から恋愛相談を受けたらしいんだけど、元々二人は親密だったの?」
絹ちゃんは、えっ?と不思議そうな顔を見せ、勝利君は気まずそうにうつむいた。何これ?ちょっと意味深じゃない?
「亜矢ちゃん、確かに恭ちゃんは入社直後に透君と付き合ってたけど、全然うまく行かなかったみたいよ。私は同期の中でも恭ちゃんと仲良しなんだけど、透君の煮え切らない態度にキレてたのを覚えてる」
勝利君も思い出したように続けて来る。
「そうそう、俺たちとダブルデートしたことも有ったけど、結局何も無いまま別れたみたいだね。でもさあ、そんなこと透に直接訊けばいいのに。所詮昔話に過ぎないんだしね」
うん、その通りだ。所詮昔話なのだ。でも、知りたいのも本当だ。それも他人の口から。
「透ってモテたの?由香利ちゃんとも付き合えてたんだから、まんざらでもなかったのかな?」
「同期では俺の次にモテた。高橋さんは同期女子で一番人気だったし、由香利も最初会った時から透をずっと好きだって言ってた」
第一フレーズを強調した勝利君は絹ちゃんに小突かれていたが、私にはどちらでもいい。そうか。やっぱり透ってイイ男なんだ。確かに私たちも、アテクシが言い寄ったから付き合うことになったんだし。
一緒に暮らすと良いところは当たり前で欠点ばかり目に着くようになる。それは人間の欲望の現れに違いないんだろうけど、長所はキチンと認識してあげなくちゃいけないな。
「透、ゴメンね。私、あなたに無理ばかりさせてたみたい」
ニッコリ笑って「ああ、いいよ」と返してくれるとばかり思ってた。私の想像はとてつもなく甘かったみたいだ。
「もういいよ。亜矢子は全く俺を信じてくれないんだもん。だいたい、俺たちの夫婦関係っておかしいんだよな。協調じゃなくて強制の連続だもん。子供もいない今なら紙切れ一枚で他人に戻れるよ」
後頭部をハンマーで殴られたような衝撃だった。透がこんなセリフを吐くなんて。それも勝利君たちを前にして平然と。ずっと気にして来なかったけど、透が一人で居る時に醸し出す排他的雰囲気は、カッコつけてるわけじゃなくて本質なのかも知れない。
イヤッ!何でそんなこと言うの!?私たち、力を合わせて困難を乗り越えて来たじゃない!私を先の見えないワンルーム暮らしから救い出してくれたのはあなただし、鬱病や住宅ローンからの脱却には私も協力したはずよ。
「だいたい、昨日も椅子でぶん殴られたしさ。DVって女性からのは許されるの?手加減なしにやるんだもん。打ち所が悪かったら死んじゃうよ。最近、亜矢子が東京に行ってる時の方がホッとしてるんだ」
グヮーン!これは効いたァ!私は言葉を失った。話したいんだけど、パニクってオロオロしてしまう。自然と涙が溢れて来たけど、透は罰が悪そうにしながら何も言ってくれない。どうして!?いつもの、今までのやさしいあなたは何処へ行ってしまったの?
そりゃ昨日は少し手荒なことをしたけど、そんなのいつも通りジャレ合ってただけじゃない。私たちの愛と信頼はどうしちゃったのよ!?
「まあまあ、確かに頭の包帯を見ると昨日は行き過ぎたのかも知れないけど、亜矢ちゃんだって泣いて反省してるんだから許してあげなよ。あんまり意固地になって取り返しがつかなくなっても困るでしょ?」
絹ちゃん、ありがとう!何でもいいから丸く収めて!私、すごく反省してるから。
「そうだな。透、機嫌直せよ。夫婦喧嘩くらい俺たちだってしょっちゅうだもん。一緒に暮らせばお互い我慢する局面も有るさ。でも、事を荒立てれば大抵後悔するオチだってば」
「いや、今回だけは折れない。もう一緒に暮らすのは限界だ。亜矢子と離れて暮らしてみようと思ってる」
噓でしょ!?信じられない!どうしてそんなひどいセリフを吐けるの?私が泣いて謝ってるのに許してくれないってどういうこと?
味気無いランチタイムを四人で過ごしたあと、杉村夫妻は帰って行った。不安に苛まれた私は二人を引き止めたかったけど、透が頑なな態度を崩さないので気まずさに音を上げたのだろう。
この時、私はかつてないほどの大混乱に陥り、透らしからぬ自信の裏付けに気付けなかった。完全に冷静さを失い、思考をストップさせられていたから。
翌週の金曜、無理やり最終の新幹線に乗り名駅からタクシーで自宅に戻った時、リビングのテーブルに一枚の紙切れを残し透は消え去っていた。『もう亜矢子とは暮らさない』と書かれた便箋を置いて。
直ぐに電話をしたけど着信拒否にされている。私は目の前が真っ暗になったのまでしか記憶していない……。
読んで下さりありがとうございます。