ザ・A day by 若奥さま
よろしくお願いします。
「透ゥ!トイレ掃除は済んだのォ!?」
「あともう少しだから待っててェ!」
「早くしてよォ!晩ご飯の支度が遅れちゃうじゃないィ!あまり遅くなるとスーパーは混み合うんだからねェ!」
土曜日の午後、貴重なオフに私のやることは多い。活動拠点が東京なので、地方に在る自宅に居るのは主に週末だけだ。それもスケジュール次第だけど。
透と言うのは私の旦那だ。夫?主人?同居人?どれもその通りなのだが、イマイチピンと来ない。下僕?奴隷?さすがにこれはちょっとかわいそうだ。まあ、ペット辺りが適切な立場だろうか。
私の名前は八反綾。いや、これは芸名だ。本名は宮川亜矢子だが、旧姓が八田なので八反綾と名乗っている。ベタなネーミングだと自分でも思うが、所属会社である「オフィス・カムレイド」の上川智美社長が名付け親なので異議など唱えない。
芸名と言う通り名を使う私の職業は女優だ。まあ、準主役レベルの中堅と言われるポジションをキープしている。
透のポジションは飼い犬で、電力会社のサラリーマンだ。時々ポチと呼んでやりたくなるこいつは会社でももちろんペーペーである。奴は以前鬱病を患って、出世コースから完全にドロップアウトした。元々大した能力は無いらしく、コツコツと仕事に励むのだけど、突出した成果を挙げるわけでもなさそうだ。鬱病は再発率が高いので、あまり追い込んでも困るのは会社も私も同様なのだ。
「出来たァ!亜矢子、やっと終わったよォ!今直ぐ行くからねェ!」
上着だけ着替えてリビングで待っていた私の下にポチがやって来た。愛想良くニッコリ笑っている。もし尻尾が有ればブン回っていることだろう。
確かにカワイイところも有る。透は一つ年下なのもあって私に逆らわない。逆らえないように躾てあるとも言うけど。
以前こいつの住宅ローンを株式の売却益で完済してやってから、一層その傾向が強くなったようだ。元々奴隷体質のようだから何とも思わないらしく、虐げられる事への耐性は有ると思う。ただ、無類の寂しがり屋なのが原因で鬱病を発症した経緯が有り、少しは私も気遣ってやってる状況だ。
透の運転でボロいスカGに乗ってイオンへ行った。私はラウンドタイプのレイバンにアポロキャップを被っている。申し訳程度の変装だけど、これも芸能人のたしなみだ。オーラを発散してるはずなのだが、気付かれることはまず無い。きっと飼い犬が持つ平凡極まりないブラックホールに、眩く輝く私の鮮光さえもが吸い込まれてしまうのだろう。
まあ、ここまで結構エグいことを述べて来たけど、私は透が好きだ。百七十五センチのスリム体形で顔は童顔をして可愛らしい。出会った時からずっとやさしい男である。
下積み時代の先の見えないワンルーム暮らしから救い出してくれたのが透だ。付き合ったのも決して義理ではない。このやさしさしか取り柄のない薄給リーマンに魅力を感じたから結婚したのだ。日頃業界人とばかり接触していると、平凡を絵に描いたような飼い犬が妙に愛おしくなったりするのだ。
私がカートを押しながら野菜の鮮度を確認していると、透がカップラーメンを一ケース持って来やがった。
「そんなのばかり食べてると身体に悪いよ。もっとバランス良く食事をしなくちゃ」
「でも、俺、包丁使えないもん。料理の才能無いってわかってるし」
そう、こいつは鈍くさいのだ。以前ジャガイモの皮剥きをさせた時、身が半分以下になってしまったのを見て唖然とした。しょうがないからピーラーを使って剝かせたのだが、刻ませるとまな板の上が血だらけになった。痛い痛い!とわめくので、結局私が交代してやった。かなりの不器用さである。技術家庭の成績は3を貰ったことが無いと開き直っていたくらいだ。
確かに日頃は独り暮らしのようなものだし、不自由を感じさせてるよ。でも、私だって仕事のために東京に居るのだからしょうがないじゃん!まあ、住宅ローンも完済したんだし、身も心も美しい八反綾さんとしては、少しくらいの外食は認めてあげるけどね。
飼い犬は百円均一のパンをたくさん買い物かごに放り込んだ。これをエサにして食い繋ぐつもりだろう。見方によっては健気だが、単なる自己防衛とも言える。
夕方前のレジは混んでいた。「お退き!私は女優よ!」などとは口が裂けても言えない。人気稼業が大衆迎合しないなんて自殺行為だ。干されたら一巻の終わりの因果な商売だもの。女王さまのような気高い笑みを見せるのはポチの前だけにしておこう。
買った食材を自前の買い物かごに移し替え透に持たせる。当然だ。自分で持ったら二の腕が太くなってしまうじゃないか。これも真摯なプロ意識である。
帰り路ももちろん飼い犬の運転だ。いい加減ボロくなったスカGだが、透は文句を言わない。本当はプリウスが欲しいみたいだけど、「自分で買えッ!」と吐き捨てられるのを恐れて切り出せないみたいだ。「レクサス!」とでも言おうものならベランダの柵に逆さ吊りにしてやるのだが、さすがに二十年も経つボロ車は女優に似合わないと私も思っている。まあ、甘やかすとこいつは調子に乗るので手を差し伸べてやらないけど。
帰宅してからカツと野菜の天ぷらを揚げてやった。透は肉が好きみたいで、いつもガツガツと食べる。カロリーコントロールをしなければならない私には、その光景が羨ましいながらも微笑ましく映る。
豚で我慢する辺りがいかにもこいつらしい。昔、一度だけ松阪牛を食べさせてやったが、もちろんそれっ切りだ。あの時は透が鬱病だったので、少しでも元気を出させるために高級店に連れて行ってあげたのだ。それだけでも充分にやさしい妻じゃないか!
「おいしいッ!やっぱり亜矢子の料理は最高だよ!いつもインスタントラーメンかレンジでチンばかりだからさ」
バカタレがァ!最後のフレーズが無かったらキスしてやるところだったのに。日頃から隠し事はするなと言ってあるけど、正直なら許されるというものでもない。お世辞でもいいから全面的に褒めろよッ!それが夫婦の気遣いってもんじゃないか。
翌日、友人の杉村夫妻が妹の由香利を伴ってやって来た。旦那さんの勝利君は透と同期の親友だ。妻の絹江さんも同様である。つまりこの三人は電力会社の同期で同僚なのだが問題は連いて来た由香利で、彼女は芸名が八村由佳と言う「オフィス・カムレイド」の後輩女優であり、何と透の元カノなのだ!オマケに今では私を凌ぐ事務所の稼ぎ頭になって人気絶頂である。
ちなみに忙し過ぎて彼氏はいないらしい。まあ、お金持ちの御曹司を始め、その気になればより取り見取りだろうけど。
以前「オフィス・カムレイド」が勝ち取った大手化粧品会社のCMで共演したあと、八村由佳はスーパーブレイクした。「黒い瞳の恋人」は一気に主演女優の座に上り詰め、仕事の選別とオファーをお断りするのに、小さな事務所としては大忙しだと社長が言っていた。
まあ、共演した時に私は既婚者だったし、張り合うつもりも無かったからいいけどね。カワイイ後輩が売れたのを喜んでるのもまんざら嘘でもないんだよ。
芸能界は一言で表せば打算の世界だ。もちろん才能は必要だが、コネとかお金とか使えるものは何でも使って仕事を取って行かなければ生き残れない。スタッフさんに好かれるのは士気の上でも絶対条件だし、自分で考えて環境を整えて行かなければならないのだ。芸能界に悪魔はいるけど神さまはいない。魑魅魍魎が闊歩する魔界的特殊空間である。
望んで入ったとは言え、息詰まる日常に身を置いていると感覚が狂って来てしまう。それをリセットするのに透の存在は欠かせない。ジャレていると本当にホッとする。やっぱりこいつはペットだな。
由香利は今でも私のことを「亜矢子姉さん」と親しみを込めて本名で呼ぶ。もちろん他人なのだが、デビュー前に私の付き人をやったりして徹底的に教育されたことに恩義を感じているからだそうだ。
でも、私の飼い犬にまでなれなれしい。会えば「透」と呼び捨てにしやがる。私がそれを受け入れてるのは、元々透と由香利が付き合っていたのに、疎遠になっているタイミングで割って入ったからだ。負い目など感じていない。恋愛は先着順ではないのだから。
実際に人気絶頂女優の元カレと暮らしていることが、どれほど私のアイデンティティーを守るのに寄与していることか。透の存在は私にとって、掛け替えの無いカタルシスなのだ。
私は先月三十才になった。「三十路の女」である。若奥さまと呼ばれていいのかと思うことさえある。透は二十九で由香利は二十六才だ。四つの年令差はデカい。今更お肌の曲がり角とは言わない。それは由香利も同様だろう。ハイティーンじゃないのだから。
「ねえ透ゥ、亜矢子姉さんが仕事の時オフを当ててもらうから、何処かへ遊びに連れて行ってよォ!少しは息抜きしないと私も潰れそうだし、透なら安全パイだからいいでしょォ?」
いきなり何を言い出すんだ!?このあきらめの悪い牝猫がァ!私が目の前にいるんだぞォ!
「えっ?それは亜矢子の了解を貰わないと返答出来ないよ。まあ、お許しが出ればOKだけどさ」
そうそう、飼い犬らしく従順な態度で元カノに返してやれよ。私がご主人さまだとな。
「何か透って残念だよね。自分のことも自分で決められないの?亜矢子姉さんに完全に抑え込まれちゃってるね」
放っとかんかいッ!だいたい透をなじるのは筋違いだろう。ホントにこのお姫さまはズケズケ物言いをしやがる。同じ女優の私から見てもかなり特別な部類だ。
確かに「オフィス・カムレイド」自体が上場企業「クライシス・ホールディングス」の一部門に過ぎないし、芸能界専門ではない特殊性がある。それ故どことなく自由な雰囲気が存在するのは智美社長のお陰だろう。私もその芸能関係らしからぬ社風は気に入っている。もちろん自由の厳しさは兼ね備えているけどね。
普通は自由と自己責任の壁に直面すると小さくまとまろうとしてしまう。それが由香利には見受けられない。ネガティヴを見せないのだ。全てが自分勝手ではないけれど、自由奔放でマイペースを貫ける強さがある。正直、すごく羨ましい。きっと彼女は天性のお姫さまなんだと思う。
ならば、透くらいにはナンバーワンの女でいさせてよ!仕事は事務所でナンバーツーって認めるからさ。
「あなたが決めればいいわ。私は文句など言わないよ」
さあ透、どうするの?返答次第では虐待してやるからね!
「うーん、じゃあ行こうかな。亜矢子も認めてくれたことだし」
お前、死刑決定だよ。この優柔不断なスケベ野郎がァ!由香利もどうして今更透にちょっかい出すのよ?あんたが振ったから透は私とくっついたんだよ。後悔したって遅いんだからねッ!覆水盆に返らずって聞いたこと無いの?
それにしても私の前で鼻の下を伸ばしてるバカ犬はどうしてやろう?いっそ離婚してやろうか?いや、それはダメだ!離婚は私の敗北を意味する行為だ。クッソー!何でこんなペーペーリーマンごときに翻弄されなければならないのか?好きだから?そう、私はこれでも透を愛してるのだ。昔からずっとずうっと。
「なーんてね。冗談に決まってるだろ。そりゃ今をトキメく八村由佳と歩けたら嬉しいけど、亜矢子がイヤがることはしたくないんだ。俺は自分のナンバーワンが誰だか知ってる。由香利ちゃんは勝に連れて行ってもらいなよ」
よしッ!よく言った!ギリギリ命を落とさない程度に減刑してやろう。
お姫さまは思いっ切りブンむくれて勝利君に八つ当たりする。この気の強さは確かに芸能界向きだ。絶対に自分を崩壊させないのだ。
「フンッ!バカ兄貴と一緒なんてこっちから願い下げだわ!恋人に間違われたらもう最悪!」
「お前なあ、こっちこそなんでバカ妹のために時間を割かれなくちゃいけないんだよ。いつまでも我がままやってると誰にも相手にされなくなるぞ!」
お兄さんの言葉にお姫さまは涙を溢れさせ……るわけがない。電光石火の真空回し蹴りで実の兄を撃沈させた。これは効いただろう。端から見ても痛そうだった。
グウゥと呻き声を上げる勝利君を愛妻の絹ちゃんが介抱している。美しい夫婦愛である。まあ、一件落着と言うことで杉村夫妻と妹は放っておこう。あとは私を不安に陥れた飼い犬をどうシバいてやるかだ。やっぱりペットは飼い主に忠実になるよう調教してやらねばならない。お仕置きと言う名の下に。
杉村夫妻と悪魔のような売れっ子女優が帰って透と二人切りになった。
「ねえ亜矢子ォ、明後日からまた東京に行っちゃうんだし、久し振りに今夜はシない?俺、若奥さまを抱きしめたいよォ」
ハハハ、ポチめ、甘えやがって。カワイイ奴だ。もちろん私は応じて……やらない!お預けってやつだ。
「ダメよォ!今日はあの日だものォ。お楽しみは来週まで取っておこうねェ」
フフフ、実は来週が予定日なのだ。このバカは周期など全く覚えていない。その時にもう一度はしごを外してやる。悶々とフロアをのた打ち回り、壁に頭をぶつけて反省しろ!
「チェッ、ミスったなあ。そうなら由香利と出掛けるんだったよ。せっかく今をトキメくお姫さまが誘ってくれたのに。千載一遇のチャンスだったって、あとから思い知っても遅いんだよなあ」
そうか!やっぱりこいつは身体で覚えるしか出来ない下等動物らしい。ホント飼い主も大へんだよ。
取りあえずベランダの鉢植えに水をやってくれと頼み外に締め出してやった。ホンの二時間ほどだ。トイレに行きたいと窓をバンバン叩くので中に入れてやった。私も結構甘い女だ。
次にバスルームに閉じ込めてやった。また二時間放置した。
バカ犬の邪魔が入らなかったので、DVDを真剣に見て有名女優さんの演技を勉強した。読みかけの本も少し進んだし伸び伸び出来た。とても有意義な時間を過ごせ満足である。何?この解放感。もしかして私は透に生活を乱されてたの?充実した人生を送るための足かせになってたの?
閉じ込める時にガスの元栓を閉めてやってたので、ポチは湯船に浸かっていても寒かったらしい。外掛けのロックを外してやったらガタガタと身体を震わせ飛び出して来た。
飼い犬を一瞥してからビールを持って来させた。注がれたグラスを片手にグビッと喉を潤す。プハーッ!うまいぜェ!ホント調教あとの一杯はたまらんぜよ。
バカ犬が遠慮がちにグラスを差し出すので、睨みつけてから半分ほど注いでやった。
「亜矢子、ありがとォ!俺たちいつまでも仲良い夫婦でいようねェ!」
嬉しそうにグラスを両手で抱えて半分のビールを飲み干している。
まあ、しょうがないか。追い込みさえすればこいつは従順だし、耐性だけは有るからイラついた時に意地悪してやればいい。精神安定剤としては申し分のない存在だ。利用価値を再認識して気が収まった。
「透、いつも私だけを愛してね。他の女になびいたら殺すわよッ!」
やさしい言葉を掛けてやる私は女神さまそのものだ。お姫さまなんぞに負けてたまるかってんだァ!ポチの顎をグイと引き寄せキスしてやった。飼い犬は見えない尻尾をブン回し、潤んだ目でうなずいていた……。
読んで下さりありがとうございます。