8話 文字の雨
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世界というのはひとつの大きな物語なのです。
領域は章の区切りであり、我々生き物は、物語を描く文字なのです。
世界が物語である以上、そこには規則が存在しています。
世界の骨組みである規則……それが、円環なのです。
すべての魂と物語は生と死を巡り、積み重なりながら未来へと向かっています。
車輪を想像してください。くるくると回転しながら、進んでいるでしょう?
円環がテンスイノ世界を動かしている源であるのです。
魂と物語は世界を巡る。
狭間の名を冠するものは、その円環を妨げます。
しかし、彼らの存在もまた、世界の物語の一端を担うものであります。
忌むべきなのは物語の言の葉――つまり生命――が物語を破たんさせてしまうことなのです。
あなたは物語を読んだことがありますか?
言の葉が集合し、一つの物語を描いていますね?
もしも、言葉が自分勝手に暴走し違う物語を描いたら、どうなると思いますか。
物語の描く未来――お話の筋が変わってしまいます。
つまり物語の崩壊ですね。
◆
「アイツマジで説明へたくそですねー。なんであんなしゃちこばった表現しかできないんですかねー。最近の若者には好かれなさそうですー」
チャパーがおれを見下ろしていた。
「お、おう?」
「あーい、おはようー」
仰向けに倒れていた体を起こす。なにもない部屋がおれを囲んでいた。壁も床も灰色で、なにひとつ凹凸がない。薄明るいだけで、寒くもなければ暑くもなかった。
「ここは……」
頭を振って記憶を辿る。思いだしたのは頬に触れた柔らかな感触と、アマネの顔だった。
「あ、アマネは⁉」
チャパーはわからないというふうに肩をすくめた。
「まあ、多分ですけどあのアバズレのところにいると思いますー。とりあえず、さっさと動きましょー」
チャパーが壁の一面を指差す。そこにわずかながら四角い切れ目があった。
ドアだ。
壁と殆ど同化していて気づかなかった。おれはチャパーとともにドアの前に立つ。音もなくそれが開いた。隙間から文字の鱗粉がでてくる。紙の匂いがふわりと香る。おれは目の前に広がったその領域を見て、絶句した。
「ようこそー、物語の貯蔵領域、無限の図書へー」
チャパーが腕を広げて言った。
広大な図書がそこにあった。まるで巨木のようにそびえ立つ本棚が、森の木々のように並んでいた。天井は見えない。
本棚はうえへうえへと無限に、ずっと続いている。
黒い文字が雪のように降っている。図書を飛んでいる紙の蝶が落としているのだろう。
「ここが、無限の図書……」
「ほらほら、呆けてないでー、とにかく歩きましょー。きっと、アマネさんはこのどっかにいるはずなんでー」
チャパーは歩きだす。ちょっと待てよ。おれはマイペースなクソガキの背中を追いかけた。降りやまぬ文字が、さらさらと服を流れていく。いくら歩いても風景に変化はない。ドアのある壁は遥か後ろに消えてしまった。立ち並ぶ本棚の森は、ずっと続いているんじゃないか。なんだか怖くなったおれは、自分の尻尾を撫でた。
「お、きましたねー」
チャパーが言う。
なにがきたんだ?
本棚の陰からニュッと顔がつきだした。
そいつは文字の塊だった。ひとの形をしているけれど、体が文字の鱗粉でできている。砂の人形みたいだ。その頭には肉感のある単眼があった。おれをジイィィィッと見つめている。
「ちゃちゃちゃちゃちゃ、チャパー! もももも、文字の化け物だ!」
耳と尻尾の毛が逆立った。後ずさることもできず、ただ立ち尽くすことしかできない。
「ようこそいらっしゃいました」
文字の化け物は陰からでてくるや否や、うやうやしく一礼した。あまりの丁寧な口調と執事を思わせる一礼に、笑いそうになってしまう。
「さあ、こちらへ。わが主の命により、おふたりを案内いたします」
その声は魂と物語を語った声と同じだった。チャパーがおれの脇を肘で突き、
「メリッサの使徒、簡易言語人ですー。こっちに落ちてきたとき、物語うんぬん語ったのはアイツですねー。まあ、あれについていけば問題なさそうですー」
「さあ、こちらへ。あなたは知る必要があるのです、犬よ。魔女の正体を知るときがきたのです。あなたとともにいたおぞましき化け物……さあ、物語の森のなかへ……」
おれとチャパーは誘われるままに本棚の間へと踏み入っていく。使徒は体の文字をぱらぱらと落としながら、
「ここには、すべての生命の物語が集っております。本棚の……物語を見てください」
言われるがままに本棚に顔を近づける。収まっている大量の本の背表紙すべてに、名前らしき言葉が記されていた。
「これって、まさかだけどさ」
「ええ、その通りです、犬よ。ここにある書物はすべてテンスイノ世界の魔術師の本なのです。彼らが本を呼びだしている以外のとき、本はこの場所で眠るのです」
息を呑んで図書を見回す。テンスイノ世界に生きる魔術師の魂が、物語が、すべてここに集まっているのか。
「こんな形で本が保持されてるだなんてな。誰かが読むみたいだ」
「はい、そうです。これらの本は司書メリッサに読まれるために、ここに収められているのです。メリッサは生きとし生けるものすべてを愛しており、彼らの物語を読むのが大好きなのです」
魔術師の人生という物語を読みたいから、本を貸しだしているってのか。とんだ戯れだ。
「一種の共存なのです。メリッサは本を提供します。魔術師たちは自らの物語をメリッサに提供します。メリッサは物語を楽しみ、魔術師たちは魔法の恩恵を受けるのです」
使徒が本棚に手を這わせた。一冊の本を抜き取り、それをおれに差しだす。その本はアマネの黒い本だった。
「これを読むのです、犬よ」
おれは戸惑った。他人の物語を読むことはできない。それは要塞都市の夜で証明済みだ。
「本を開き、ページを捲るのです。物語を統括するわれらが主が、それを許したのです。さあ」
どうしておれがアマネの物語を読まなくちゃいけない。これは彼女の物語だ。ためらい耳をぱたぱたさせる。使徒が顔を寄せてくる。
「あなたの物語は白の魔女の物語に引き込まれてしまっているのです。彼女の強大な、ゆがんだ物語があなたに絡みついているのです。逃げることはできません。深みへ向けて進むことしかできないのです」
黙れ、文字の化け物。
おまえがなにを言っているのか、よくわからん。
「犬っころー。たぶん、その本を開いて読まない限り、こいつはメリッサのところへぼくらを案内しないですよー。さきに進むには、彼の言うとおりにしなくちゃいけないですねー」
チャパーがおれの足を蹴った。
わかったよ、わかった。
読めばいいんだろう。
黒い本の表紙に手を載せる。ひどくざらついている。本を開く。びっちりと文字が記された頁をめくる。文字が光った。まぶしくておれは目を細めた。
◆
「そうだ、それもおかしな話だ」
ヴァイクが笑ってわたしに手を伸ばす。彼の体は宝石化しつつあった。
彼は勇敢な魔術師であった。だけど、勇敢と無謀は紙一重だった。
「言ったでしょ? あなたはいつか死ぬって。これで物語も終わり、あなたは宝石に包まれて死ぬの」
わたしは涙を流しながら言う。ヴァイクはわたしの恋人であり、これからともに未来を歩む相手だった。しかし彼の物語は宝石によって閉ざされた。
「上等な死にかたじゃないか。見てみろ、おれの右腕がエメラルドになった。おいおい、右足はダイアモンドだ。おれを売れば億万長者だぜ」
「ひとの宝石なんて誰が買うのよ」
「そうか? それもそうだよな。でもよ、おれがみなの宝飾品になって、テンスイノ世界に散るんだぜ。ロマンチックじゃないか。死してひとの物語を飾りたてる。おれの魂は宝石のなかで生きつづけ、世界へと拡散する」
「別れの間際でも、あなたはそんなことを言い続けるのね?」
「ヴァイク【漆黒の月の丘】に眠る。領域の主、耳のない兎に呪われて、宝石になって死ぬ」
「やめて!」
わたしは宝石化する彼の頬に手を伸ばす。すでに、顔の半分がサファイアと化していた。
「フィー」
彼がわたしの名前を呼ぶ。
「お前の目は綺麗なルビー色だ。まったく、宝石に惚れた男が宝石になるなんてな」
ぱきぱきぱき。そんな音がして、彼の顔全体がサファイアに包まれた。何度も彼の名前を呼ぶけれど反応してくれない。ヴァイクの魂と物語は宝石に。テンスイノ世界の円環に彼を還すためには、宝石を砕かなくちゃいけない。
「ごめんね、ヴァイク」
わたしは本を呼びだして、ある一節をうたった。炎の塊が現れ、それが宝石のヴァイクの身体を粉々にした。
次の瞬間、わたしの本に新しい物語が現れた。
それは、恋人が宝石になってしまった悲しい魔術師の物語だった。
◆
フィーって誰だ。
ヴァイクって誰だ。
目の奥がずきずきと痛む。
なんだよ、この悲しい物語。どうしてこれがアマネの本に……。
「フィー・デズラム。東の善き魔術師……彼女は最愛のもの宝石にされてしまったのです」
「おい、今のは……」
「この黒の本に刻まれた物語を垣間見た、それだけですよ」
そんなばかな。この本はアマネのものだ。刻まれるのは彼女の物語であるはずだ。どうして他人の物語が刻まれているんだ。困惑するおれを尻目に、使徒が言葉をつづける。
「フィーは最愛のヴァイクを亡くし、途方に暮れつつも世界を巡りました。そして、数々の魔法を手に入れ、【漆黒の月の丘】領域の主である、耳のない兎に復讐を遂げようとしました。残念ながら彼女は兎に殺され、無数の肉片となり魂は冥府へと落ちました。悲しい物語です。……さて」
目をくりくりさせる。
「頁をめくりなさい。次の物語が、あなたを待っていますよ。知りたければ、さきに進むのです」
恐る恐る頁をめくる。
◆
ルーシャスとあたしは世界の最果ての崖の最下層にたどりついた。
「この場所までおりてきたのは、おれたちがはじめてなんじゃないか?」
「一週間だよ、一週間。あたしたち、ずっと階段をくだってきたんだよ」
汗まみれのあたしの肩に手をまわし、ルーシャスが微笑んだ。
世界の最果てにある崖。
そのしたにあるのは虚無だけ。
そんな噂があった。あたしとルーシャスはそのことを確かめるために、崖をくだることにした。かなりの準備をして出発。一週間かけて崖をくだり、古ぼけた階段の終わりにまでやってきた。
「あっちへ行ってみようか、ジュジュ」
「そうね。あっちなら、世界の果てを見てやることができるかもね」
あたしたちは横道へ入った。しばらく歩くと、妙な音が聞こえてくる。
「……いびき?」
「うん。いびきの音だ。しかも、かなり人間臭い感じの」
横道を進むと開けた場所にでる。その真ん中で、ひとりの男の子がいびきをかいて寝ていた。あたしとルーシャスはひどくびっくりして言葉を失った。男の子はどうやってここまできたんだろう。ここにくるまで足跡ひとつなかったのに。
男の子がううんとうなり、むっくりと起きあがる。わたしたちに気づくと、
「あーい? あれれー、どうしてぼくのお昼寝場所にいるんですかねー?」
それはこっちの台詞だ。なんであんたがここにいるの? どうやら、ルーシャスも同じことを思ったらしく、渋い顔をしている。
「そっちこそ、どうしてこんなところに?」
ルーシャスが訊く。男の子が楽しそうに笑った。
「見晴らしがよくて風通しが最高……完璧なお昼寝場所じゃないですかー。安らかな眠りあるところぼくありですー。もう一回訊きますけどー、あなたたちこそどうしてここにー?」
「世界の果てを見にきたのよ」
あたしが答えた。
「ああー、なるほどー。灰色雲のしたにある真実を覗きにきたんですねー?」
男の子がはしゃぐように言った。あたしとルーシャスは顔を見合わせた。
「こっちにきてくださいー。最高の絶景ポイントがあるんですよー。あ、お金とか取らないんでー。そんなことしたら、【世界の崖】を司る、六対の翅蟲に怒られるんでー。あいつマジでがめついんでー」
あたしとルーシャスは、お互いもやもやとした顔のまま、歩きだした男の子を追いかける。広場を抜け細い道を進む。すると目の前に古ぼけた飛行艇の残骸が現れた。
「おい、これ……世界の果てを目指した調査艇じゃないか?」
あたしは目をぱちぱちさせた。
「あの? 北灯台からさきの、暗礁の海を進んだっていう……」
「ああ。ほら、ここに竜のペイントがあるだろ? これって、その調査を指揮した竜人のシンボルでさ……」
「こっちですよー、熱々カップルさーん。そんな夢の残骸ほっといて、こっちからしたを見てくださいー」
招かれるまま、残骸を避けて男の子の隣に向かう。切り立った崖の縁に立つ。あたしとルーシャスはしたを覗きこんで、ほぼ同時に絶句した。そこにあったのは空の園だった。世界の最高到達点にあるはずの領域だ。世界蝶の絹のような翅が揺れている。
なんで世界の一番下から一番上を見下ろしてるんだろう。
男の子が、偉そうにふんぞりかえる。
「テンスイノ世界は円環なんですよー。すべてはつながっているんですー。ひとの見あげる空は世界の底であり、世界の底は空のうえであるー」
にまにまと笑いながら、あたしの目を覗きこむ。
「あらー、おねーさんのサファイア色の目が、おどろきで丸くなってますねー。まあ、仕方ないですよー。それじゃ、ぼくはここらへんでおさらばですー。また、どこかでお会いできたらいいですねー。ばいばーい」
いきなり、男の子が縁から身を投げた。あたしとルーシャスは悲鳴をあげた。男の子は真っ逆さまに墜落して消えた。あたしたちはお互いに目を見合わせて笑った。きっとたちの悪い夢でも見ていたんだろう。
◆
ルーシャス、ジュジュ。
本を閉じた。まただ。どうして、アマネの本に彼女じゃない物語が……。
使徒が悲しそうに首を振り、
「ジュジュ・ティーチ。彼女とルーシャスは無事に【世界の崖】領域の謎を解き明かしたわけですが、帰りに崖の崩落に巻きこまれ、二人仲良く冥府へと召されました。結局、彼女らは男の子と再会できなかったのです」
「あーい、悲しい話ですねー。あー悲しいー」
チャパーが悲しげにため息をはく。
「どうしてなんだ? この本は、アマネの本だ。彼女の物語が記されているはずなのに、どうして、彼女じゃない他人の物語が……」
「なにを言うんですか、犬」
まるで馬鹿にするように言われる。
「今、あなたが見たふたつの物語に、彼女は登場していました。あなたが見たものはまぎれもなく、白の魔術師の魂に刻まれた物語なのです」
意味不明すぎる。垣間見たふたつの物語の断片に、アマネが登場していただって?
使徒はくすくす笑い、くるりと背を向けた。