7話 紙の螺旋
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「で、理由その二」
と言ってから、チャパーはニヤリと笑って、
「アマネさんは、あなたに嫉妬していますー。ぶっちゃけ、不機嫌の理由の根本はこっちにあるかと思われますー」
しっと? 嫉妬だって?
「意味不明すぎる!」
おれは喚き、仰向けに倒れる。絨毯の埃がふわっと舞った。
チャパーのチッチッという舌打ちの音が聞こえて顔をあげる。
「それは、あなたが自分自身の物語を思いだし始めたからですよー」
自分自身の物語。そいつはいったいどういうことだ。
チャパーがいきなり「はい」と言って手を叩いた。
「自分に起きた異変を述べてみなさいー」
「魂の声と匂いがわかるようになった。あと耳が毛むくじゃらになって、尻尾が生えた」
異変というか最早変態といってもいいぐらいだ。
耳と尻尾のせいでおれの人間としてのプライドは粉々に打ち砕かれた。
今なら指差されて犬といわれたら迷わず「わん」と吠えてしまうかもしれない。
「それだけじゃないですー」とチャパーが言う。「なんとなくですけど、犬っころ、雰囲気が変わりましたよー」
「ふいんき?」
「ふんいきですー。死ねよ犬畜生ー。ちょっと前までの犬っころって、なんかとっつきにくい感じだったんですよネー。なんていうんですかねー、うーん、難しいー。でも、今の犬っころは違いますー。発着場でテンパって叫んだときなんて、爆笑ものでしたよー」
ニヤニヤ笑うチャパーに、おれは思わずムカついて唸る。生意気なクソガキは「まあまあ」と言ってから、
「魂と物語はあなたの体と心に結びついているんですよー。感情が物語の文脈的揺らぎであるように、あなたの体も物語によって描かれているわけでー」
「つまり、この体の異変は、おれの魂が物語を思いだしはじめたから、というわけだ」
ふと脳裏をよぎったのは魂の言葉だ。狭間から解き放った魂。
〈それがあなたの物語だからだ。魂に刻まれた物語があなたを形作っている。あなたの耳はわたしたちの声を捉えるためにつくられている。あなたの身体はわたしたちを救済するために存在している。あなたの剣は狭間を切り裂くために砥がれている〉
いったい、おれは何者だ。魂を救済するために存在する(魂曰く)おれは、いったい……。チャパーが指を振った。おれは起きあがり、むずむずした耳をかく。
「あなたの体は、本来の形へ近付いたんだと思いますよー。で、アマネさんはそんな犬に嫉妬しているんですー。彼女は自分の物語を取り戻すために、旅をしているそうですねー。でも、一向に自分を見つけだすことができない。焦り、魂の異常による物語の文脈的揺らぎの錯覚。そんななかで、あなたが自分の物語をはやくも取り戻しはじめてー」
なるほど、そういうことか。アマネはひとりで世界をさ迷ってきた。どれだけ歩みを進めても、自分の物語は見つからず、もがき苦しんでいた。そんな状況でたまたま拾った犬が、自分を尻目に物語を取り戻し始めて……。ムカついても仕方ない。おれは頭を垂らして目を揉み、
「チャパー、おまえ、これからどうするんだよ。おまえ、連れを探して……」
「あー、そのことは忘れてくださいー。うーん、ぼくどうしましょーかねー」
チャパーは腕を組んでふむむと考える仕草を見せた。
「ガルシアを巡る……ということは、無限の図書境界へ行くっぽいからー……あの腐れババアきっと介入してくるんでー……」
意味深な呟きをぶつぶつと続ける。このクソガキはいったい何者だ。おれは目を細めた。
「決めましたー! ぼく、しばらくあなたがたについていくことにしますー。犬っころと白の魔術師、ふたりともオモローなんでー」
なんちゅう言いかただ。殴ってやろうかそれとも蹴とばしてやろうか悩み、耳をぱたぱたさせる。
そのとき、寝室のドアがバターンと勢いよく開いた。
予備の魔術師服に着替え終わったアマネが、ひょこひょこと足を引きながらでてくる。彼女はおれとチャパーに冷たい眼差しをぶち込んでから、なにも言わずに宿の部屋から出ていってしまった。
おれは慌てて立ちあがり、例の折れた剣を背負って彼女を追う。
もう、置いてけぼりはやめてくれよ、ご主人。
◆
【紙の螺旋ガルシアの都】
チャパー曰くすべての魔術師の聖地であり、【無限の図書】へ伸びる回廊を孕む都、だそうだ。
街は魔術師でごった返していた。通りのところどころに妙なシンボルが飾られている。複雑に絡まりあった触手の彫像だ。いびつな眼がとんでもなく印象的だ。このうえなく薄気味悪い。
「なんだよ、あれ」
街の大通りを先行くアマネに訊く。不機嫌なご主人はひょこひょこ歩くだけで、答えてはくれない。かわりに口を開いたのはニマニマ笑うチャパーだった。
「あれは無限の図書を象徴するシンボルですよー。魔術師の手の契約印はあの眼を模しているんですー」
「へえ」と返す。
おれはアマネとしゃべりたいんだ。そんな文句を呑み込む。
魔術師でごみごみとした都を歩きながら、おれは必至でアマネの機嫌をなおそうとした。あらゆるアプローチをかけたわけだが、むっつりとしたアマネは見てくれさえもしない。
通りの端で魔術師の青年が本をだし、見世物のように魔法を披露している。うたをうたうように物語をつむぎ、ゆっくりと腕をふった。石畳の道に雪が降る。通りかかった女性が本をだして物語をうたう。雪が青く燃えだした。また誰かがうたう。炎が弾けるとともに虹色の蝶が現れた。あらゆる魔術師の織りなす物語のハーモニーだ。そんな光景を見つめるアマネは唇を噛んでいた。
「あなたもどうですか」と言わんばかりに、青年がアマネを見る。
アマネは「ッ……」と声にならない息をもらし、ひょこひょこと逃げるように歩いていく。
アマネの背中に声をかけたかったが、やめた。おれがなにを言ったところで今のアマネにとっては厭味にしかならないだろうから。
苦悩するご主人を追いながら、おれはチャパーに訊く。
「無限の図書ってのは、テンスイノ世界の領域なんだろ?」
「はーい、そうですよー。まあ、どこにあるのか、正確な位置は判明していないんですけどねー」
「場所がわかってないのか」
「ええ、そうなんですよー。ある高名な学者曰く、世界の果ての向こうに浮かんでるとか浮かんでないとかー」
「それじゃあ、どうやって司書と契約を?」
「特定の都市にある図書境界と呼ばれる特殊回廊へ赴くんですよー。向こうがわへの扉みたいな建物があるんですー。境界は図書とつながっていてー、そのさきで司書とご対面ー。ちなみに、ここガルシアにある境界はテンスイノ世界一大きなものでしてー」
生きとし生けるものはすべて境界を渡り、無限の図書にて魂の契約を交わす。なんというかとんでもなく壮大な話だ。
「司書メリッサ、性悪ですからー。数多くの魔術師が泣かされてるみたいですよー」
チャパーが小声で言った。
なんでおまえがそれを知ってんだ、クソガキ。
おれは思わず耳をぱたぱたさせた。
◆
我らがご主人は逃げまわるように都を歩く。大通りを抜け、裏路地へ。バザールへ向かい、二段構造の街をうえへしたへ行ったりきたり。
アマネの後ろを歩くおれの鼻を常にくすぐる濃い魂の香り。それはアマネのものであり、無意識のうちにおれはそれを嗅いで楽しんでいた。そのとき、ふと異臭が割り込んでくる。
ぱさぱさしたような、ダニ臭いような、この匂い……。
古ぼけた紙の匂いだ。
乾いていて、日に焼けている、そんな古書の匂いだ。
まわりに古書店なんて見当たらない。いったい、どこから……。とうとつに耳と尻尾の毛が逆立った。嫌な予感がおれのこめかみを撃ち抜く。
「待て、アマネ」
「なに?」
眉間に皺をよせたアマネが言った。
「変な匂いがする。嫌な予感がする」
正直な警告だった。このままだと、きっと面倒なことが……。
「そうやって、物語を取りもどしたこと、わたしに見せつけるんだ?」
は――?
目を丸くしてしまった。アマネの目つきが冷たくなった。
「わたしは未だに物語を見いだせてない。だけど、君は違う。ちょっとずつだけど確実に前進してる。匂いがする? そうやって物語をわたしに見せつけるだなんて……わんちゃん、サイテー。わたしの気持ち、考えたことあるの?」
宝石色のオッドアがうるんでいくのがわかった。普通にムカついた。
「ふざけんな、アマネ!」
気づくと声をあげていた。
「おれがそんなことすると思うか? 見た目が真っ白なくせに心のなかはどろどろ真っ黒、洒落にならないぞ! いいか、おれは、本当に……!」
「うるさい、駄犬! わんちゃんなんて拾わなきゃよかった!」
アマネの怒鳴り声が空に響く。まわりの視線がやっぱり集まり、「痴話喧嘩?」とかいう言葉が聞こえた。チャパーはただニマニマと笑っているだけだった。
そのとき、おれの視界の端を、なにかが霞めた。
それは紙でできた蝶だった。おれの腕にとまり、乾いた紙の翅を動かす。びっしりと翅を覆う黒い文字がぽろぽろと剥がれ、鱗粉のように落ちた。
「ッ……!」
アマネが悲鳴のような声を漏らす。その瞬間に、小さな影の群れが石畳の道を覆い尽した。空を仰いだおれは絶句した。紙の蝶が空に満ちていた。鱗粉である黒い文字が雪のように落ちてくる。
「し、司書メリッサの紙の蝶たちですねー。これは彼女の使い魔的なものでー」
チャパーが黒い文字を手で払いながら言う。さっきの匂いの原因はこいつらだ。通りにいる人たちがざわめき、困惑したように空を仰ぐ。
降り注ぐ文字の雨のなか、アマネがひょこひょこと動きだした。
「アマネ!」
「逃げなくちゃ……。メリッサに見つかっちゃった。放っておいてくれると思ってたのに。魔術師服を着て、彼女に敬意を表してたのに……」
宝石色のオッドアイから、涙がこぼれたのが見えた。空を満たしていた紙の蝶が一斉に降下する。かさかさかさかさという耳障りな音とともに、アマネに襲いかかっていく。黒い文字がアマネの白い服を黒く汚していく。
「嫌だ、こないで!」
アマネは腕をふる。紙の蝶を追い払おうとする。蝶は攻撃の手をゆるめない。アマネの頬に薄い切傷が走る。
「ふざけんなぁぁぁぁぁ!」
簡単に噴火した怒りに身を任せ、おれは叫んだ。隣にいたチャパーが耳を押さえてひっくり返ったのがわかった。蝶たちの翅が震え、一瞬だけだが動きがとまる。
「アマネから離れろ、この紙クズどもがぁ!」
おれは地面を蹴り、ご主人に群がる蝶の渦に身を捻じ込んだ。
手に触れたものを片っ端から引き千切る。口に飛び込んだ蝶は歯で噛み切ってやった。ふやけた紙と文字をペッと吐き、アマネの腕を掴む。
「わ、わんちゃん!」
薄傷だらけのアマネ。紙にもみくちゃにされたその姿を見たおれの怒りの火山は、二度目の沸点に達した。紙の蝶の塊を無理やり手で引き千切る。ゾリゾリと嫌な音がした。おれの手は切傷だらけになり、血がぽたぽたと滴った。
「あ、なに、わんちゃん⁉ だめだよ、だめだって!」
アマネの体に腕をまわす。なんだかやわらかい感触がしたが気のせいだ。そのままアマネを抱きあげる。
「やめて、わんちゃん! 蝶が狙ってるのはわたしなんだよ⁉ わんちゃんは……」
「旅のご主人が襲われてるんだ、ここでやらなきゃこの耳と尻尾が廃る!」
紙の蝶を踏みにじり唸る。アマネのオッドアイがまん丸くなった。彼女はくすぐったそうに微笑んだ。
「こっち、こっちですー!」
チャパーの声がした。黒い文字まみれのクソガキは、通りに面する建物の、開いたドアのところにいた。
「早く、こっちにー!」
体にまとわりつく蝶を振り払い、開いたドアに突撃した。アマネを抱えたおれ、チャパーの順で建物に転がり込む。チャパーがドアを勢いよく閉めた。どすんと鈍い音が響き、かさかさかさかさと紙の音が続く。
「なんで君は狙われてるんだよ⁉」
抱くアマネに訊ねる。アマネは答えてくれない。オッドアイはじいっとドアを見つめている。彼女の手がおれの獣耳をぎゅっと握った。ドアを殴る音が消えた。その瞬間にチャパーが飛びあがり、わあああと悲鳴をだした。
「ドア抜けてきやがりましたー!」
チャパーが喚いた。ドアと床の僅かな隙間をすり抜け、紙の蝶が屋内に雪崩れ込んでくる。大量の紙が満ちていく。
「わんちゃん、放しちゃやだよぉ……」
そんな言葉が耳をくすぐった。天邪鬼なご主人の、待ちに待った本音の呟きというやつだ。
そうだよ、それを待ってたんだ。
アマネを強く抱き、唸った。
〈ひとならざるものよ、わたしは、その存在を赦さない〉
紙の音に紛れて声が滲む。
「反対側へ行きますよー!」
矢のように駆けだしたチャパーが反対側のドアを蹴り開けた。おれとアマネは紙の蝶に小突かれながら、蝶だらけになった建物から飛びだした。
〈物語を侮辱した罪、死でも償うことはできないぞ〉
蝶に溢れる通りの反対側の通り――そこもまた、紙の蝶に溢れていた。
空は蝶で満ち、文字の鱗粉が絶え間なく降り注ぐ。
ガルシアを満たしていたはずの魔術師たちは、建物に避難したのか、人っ子一人いない。石畳に積もった文字を踏む。さくさくと軽い音がした。
〈貴様は赦されざるものだ。貴様の存在を否定しよう。消えろ、テンスイノ世界から、消えろ!〉
誰の声だよ、うるせえぞ。またアマネがおれの耳をぎゅっと握った。聞こえてるのか、ご主人。ってことは、この声が語りかけているのは――。
「ガルシアから逃げますよー! じゃないとー、じゃないとー!」
チャパーがさわぐように言った。その瞬間、ガルシアのいたるところから噴水のように紙が噴きだした。本棚をひっくり返したかのような騒ぎが、都を覆い尽していく。
〈貴様の物語は貴様のものではないのだ! 過去に存在した愛しき物語を不当につなげただけの汚物め! それは物語の偽造であり、世界の理に反するものなのだ!〉
空に舞いあがった無限の紙が一斉にして落ちてきた。アマネを片手で抱き、背中の剣に手を伸ばす。鞘から刃を抜き、数十枚の紙の蝶を切り抜く。降る文字と混ざりながら灰が舞う。
〈わたしの愛する物語たちを侮辱するな。わたしの愛するテンスイノ世界の理を壊すな〉
斬る。
斬る斬る斬る斬る。
アマネを抱きながら、おれは折れた剣と一緒に踊りつづけた。
何百枚、いや、何千枚もの紙を屠ったが、それでも終わりは見えなかった。
〈これで終わりだ、忌むべき存在よ!〉
瞬きをした瞬間に、足の下にあった石畳の道が紙の海になった。ずぶずぶと両足が埋もれていく。チャパーの悲鳴が聞こえた。彼はすでに胸まで紙の海に沈んでいた。
「ぼ、ぼくはだいじょーぶなんで、犬っころとアマネさんは……」
そこまで叫んだところで、チャパーの体ががくんと動いた。
「うわわわわ、くそッたれのアバズレ淫売ビッチめー! なんでまたぼくまで巻き添えにするんですかー! おまえの口にぼくのナニを……!」
じたばたとあばれるチャパーは、まるで別の世界に落ちていくように、すとんと姿を消した。
おれは剣の柄を口に咥え、紙を掻き分ける。どれだけあがいても体は浮上せず、アマネと一緒に沈んでいく。
ちくしょう。
おれは剣をペッと吐きだした。折れた剣もチャパーと同じように紙に呑み込まれた。
「アマネ、君の物語はすごいことになってるな!」
「……もういいんだよ、わんちゃん。わたしの魂、この世界に存在しちゃいけないみたい」
「もういいんだよ? はっ、そんな言葉で自分の物語を諦めるのかよ⁉」
アマネは答えない。降り注ぐ文字がおれとアマネの間を埋めていく。
「ふざけんな! 世界は広いって君は言った! こんなところでつまづいてる場合じゃないだろ! 君は旅をする、そして物語を描くんだ! おれは尻尾を振りながら、どこまでも君についていく!」
顔をあげたアマネは微笑んでいた。そして間もなく彼女は悲しそうにため息をはいた。
「わんちゃん、もういいんだよ。あの存在からは逃げられないんだよ」
あきらめ滲むその口調は、まるで自分の運命を受け容れたかのようだった。
「そんなふうに言うな! おれは、これからも君と旅を……!」
「ありがと、わんちゃん」
ルビーとサファイア色の瞳が近づき、おれの頬に柔らかいものが当たる。
それは魔術師の唇で、おれは思わず目をぱちくりさせる。
「わんちゃんと出会えてよかった」
アマネの甘い囁きが耳をくすぐったその瞬間に、おれたちの体は紙の海に吸い込まれていった。