5 鷹と鵟 その2
5 鷹と鵟 その2
四つん這いになり赤ん坊がはいはいをする格好をとりながら、見事に茂った馬肥草の葉の様子を、真はつぶさに観察していた。葉は力がみなぎっており、真夏の強い風にも枯れるという事をしらぬとばかりに青々としている。
この馬肥草は、契国から持ち帰ったものだ。
3枚の雫形の葉が、均等に三方向に広がるこの草は、馬にとって文字通りに肥え草として機能するのであるが、見た目も愛らしい。雪洞のように咲く白い花も愛らしい為、童女たちは花摘み目当てにして、放牧用に茂らせている土地によく遊びに来るという。
以前、句国より紫馬肥草を手に入れた時と同様に、種と根つきの両方とも手に入れた真は、時に頼んで先に祭国に送っておいたのだのだが、植えた時期が良かったのか。根つきの方は、あっという間に軍馬用の放牧地全体に広がった。ほぼ雑草である分、畑に侵食させてはならないと強く契国の王太子・碩に戒められていたが、この繁殖力では成る程、と納得せざるを得ない。
「いやしかし、壮観ですねえ」
一度身体を起こして、ぐるりと周囲を見回す。
緑の絨毯とはこの事だろう。
青空と線を一本引いて広がる緑の広がりは、見事としか言いようがない。
揺れる白い花は雲が雫となっておりてきたかのようだ。
この草原にて、もう直ぐ、軍馬のみならず候補である仔馬の放牧を、試験的に行う予定なのだ。
紫馬肥草と馬肥草、何方がより、と比べるのが目的ではない。何か一つに頼み過ぎては、それが手に入らなくなった時、途端に立ち行かなくなる。全てにおいて言えるが、まさにこの先に起こりうる戦の頻度、そして熾烈さを思えば、軍馬の育成は急務にして必定だ。今年の春に産まれた仔馬が使い物になるよう育てあがるのに、最低、4~5年はかかる。既存の飼馬を鍛える以上に、根本からの飼育は大切にせねばならない。
良質の牧草をきらす事なく適度に与え、そして成長に見合う躾を施し続ける事が、良質の軍馬の育成には欠かせない、とは句国王・玖の言葉だが、言うは易く行うは難し、だ。
だが、だからといって何もせずにいては変われない。
「先ずは、実行してみるべきですよね、全てはそこからですから」
★★★
高い空の何処かで、鳥の鳴き声が聞こえた。
目を細めた真の視界の端で、年の離れた幼い妻が弁当箱を広げ始めていた。
今日、新しい灌漑用水の予定地と放牧地を見に行く、と告げると薔姫が手を叩いて喜んで叫んだのだ。
「それなら、私も娃ちゃんも一緒に行くわ。」
「えっ……? いえ、そのですね、姫、私は遊びに行くのではないのですが……」
無邪気に手をぺちぺちと合わせて笑う娃を抱き上げながら、薔姫も笑う。
戸惑いを見せる真に、うふ、と肩を窄めながら薔姫がさらに笑った。あの牧草地は、子供たちの格好の遊び場になっている、というのが、幼い妻の言い分だった。
そうですか、成る程です、と真も納得する。
馬の為に、遮るものも怪我の元となるような危険な場所もないときている。転げまわって走り回って暴れまくっても、柔らかな草は緩衝材の代わりとなり、怪我一つしない。しかも、どんなに荒っぽい扱いをしても、草はへこたれる事なく、実に逞しく伸び続ける。こんなに子供向きの遊び場はそうそうないだろうし、子供とは遊び場を見付ける天才だ。此処を見逃すわけがない。
だが、馬が放たれるとなれば、流石に此れまでのように安易に入る事は許されなくなる。
「もう直ぐ放牧が始まるのなら、彼処で遊べなくなっちゃう前に、思い切り遊んでおかないと! ねぇ、娃ちゃん」
「ねー! ねー!」
「と、言うよりも、姫、聞きたいことがあるのですが、良いですか?」
「なあに?」
「彼処を遊び場にしよう、と最初に言い出したのは、何処の何方か姫はご存知ですか?」
彼処に、馬肥草を這わせると知っているのは極少数の、限られた人間だけだ。それに幾ら子供が遊び場を見付けるのが上手くとも、危険であるから、と追い出されかねない。そうされなかったのは、追い出すのを慮る『誰か』の存在があればこそ、だ。
「さあ? 何処の何方かしら? ご存知ないわ」
娃を抱き直しながら、ね、娃ちゃん、と薔姫は小首を傾げて相槌を求める。
ねー、ねー、とぺちぺちと手を叩いて何度も頷く娃を見て、やれやれですね、と真も肩を竦めた。
そんな訳で当日の朝、薔姫は張り切って早起きし、大量の弁当を拵えていた。
結局、芙や蔦の一座の者にも手伝って貰う代わりに、なんだかんだで一緒に行くことになった。馬の背に括りつけられた弁当の山を前に、薔姫は、実に誇らしげな顔をしている。
娃を手押し車に乗せて行くのは、芙がかって出てくれた。歩きながら歌ったり笑ったりしつつ農道をいく一行は、余りにものんびりとし過ぎていて、微笑ましい。
先々で、道行く彼らを見つけた農作業に勤しんでいる領民は、作業を休んで手を振りつつ笑顔で見送ってくれた。手を振り返しながら、一行は緑の牧草地を目指したのだった。
馬肥草が広がる牧草地を撫でる風は、真夏だというのに涼しげだ。
普段なら蝉の鳴き声は耳に痛いくらいだが、それも今日は、鈴のようにすら感じる。
草の伸び具合や繁殖具合、葉の柔らかさなどを調べていた真は、おや、と手の動きを止めた。目の前に、馬肥草でありながら、少し形の違うものが生えていたのだ。
思わず、手を伸ばして、根元の方から、優しく摘む。
胸元によせて、真が和んだ表情を見せたその時。
「にー! んまー!」
「ごっふぅっ!?」
背中にどすん! と娃に不意打ちで飛び掛られた真は、肺が一気に空になる勢いで、息を吐き出した。続いてげほげほと、激しくむせ返る真を仕留めたその張本人である愛らしい妹は、ご機嫌で兄の背によじ登ってきている。
つかまり立ちは出来てもまだ歩く事が出来ない娃の移動手段は、もっぱら、はいはいなのであるが、この速度が異常な程に早い。気を抜こうものなら、一気に間合いを詰められて何をされるかわかったものではないのに、ついつい、気持ちを和ませて無防備でいた真は、妹の手荒な特攻を受けたのだった。
「んまー! んまー! んまー!!」
「はいはいはいはいはいはいはいはいはい、娃はお馬さんごっごがしたいのですか?」
慌てて、手にした馬肥草を晒に包んで袂に仕舞う。
よいしょ、と真は改めて四つん這いになり、娃を落とさないように気を付けながら、草むらの中を這い進む。真はご丁寧な事に、ぱかぱか・ひひぃん! と馬の足音や嘶きを真似てやっているのに、娃は明白に不機嫌になった。
背中の上で、ぺちぺちぺちぺちと、容赦なく真の頭を平手打ちしていく。
「んー! んまー! にー、んまー、んまー!」
「いたー! いたたたた! あ、娃、い、い、いた、いた、痛いですって!」
背中から、挟み込むようにして頬を平手打ちされまくっている真のところに、昼食の準備を整えた薔姫が呼びに来た。
「我が君、違うわよ。娃ちゃんが言いたいのは、ご飯にしましょう、って言う意味の『んま』よ」
「んまー! んまー! んまー!」
「ん、んまーはご飯なんですか、そうですか……と、ちょ・ちょっと、娃、わかりましたわかりました、ご飯なんですよね、分かりましたから、もう叩くのはやめて下さいって」
真の背中から、薔姫がひょい、と娃を抱き上げると、漸く人心地がついたとばかりに、ふぅ、と真は長い嘆息を零した。
「全く……折角母上に似て可愛い顔をしているのに、何かというと手が出るのは、父上に似たんですね。飛んだところが似たものです」
「いやあだ、我が君ったら、そんな事言うなんて悪いんだから。それにしても、どうして言ってる事がわからないのかしら? ねえ、娃ちゃん?」
「ねー、ねー」
「いえ……ちょっとその正直、娃の言葉は『んまー』ばかりで、理解しろ、と言われてもですね……」
「ちゃんと聞けば、同じじゃないわよ? 『んまっ』がお馬さんで、『んーまっ』がお馬さんごっこ、『んまー』がまんま、『んー』がちがう・駄目、『まー』が丸の事よ? どうしてこんな簡単な事が、我が君には聞き取れないの?」
「……娃語は難しいです、私には難解過ぎて理解不能です。素直に姫に通訳を頼みます」
薔姫の腕の中できゃっきゃ、と勝利の笑い声を上げる娃に、真は手の平を見せつつ軽く上げて、お手上げ降参也・です、と呟いた。
流石に炎天下での食事は辛い為、木陰をうむ木の傍に、更に簡単な天幕を張って食事とした。
真が好きな、魚醤で味付けした焼き握飯。
豚肉の味噌漬を焼いたものは、掻き菜でくるんで食べる。
川魚の燻製、熟した胡瓜の漬物の生姜煮、蕪の甘酢漬。
そして蕎麦粉の皮で胡桃の胡麻味噌和えをくるんだものと、茹で卵もある。
「さあ、頂きましょう」
薔姫が、娃の手を濡らした手拭で拭いてやりながら言うと、待ってましたとばかりに、真は茹で卵と焼き握飯に手を伸ばした。
額に卵をごんごんと打ち付けて殻にひびを入れていると、娃が物凄い勢いで、だー! と、はいはいして突っ込んできた。おっ!? と仰け反る真に、娃は期待に頬を輝かせて膝をよじ登ってくる。
「にー、も!」
「……も?」
「も! も!」
手を差し伸べてくる娃に、首を捻りながら殻を剥かれて艶やかに白身を光らせている卵を、真はそっと手渡してやる。すると、茹で卵と同じくらいに白くて柔らかに光る頬をさらに輝かせて、娃は手をばたばたと羽ばたかせた。
「……もしかして、茹で卵は『も』なんですか?」
「うん、そうなの。もう直ぐよ、もうちょっとまってね、もう食べられるわよ、もう一つだけよ、もうないわよ、って話しかけながらいたのね、そしたら」
「……言葉の頭に『もう』が付くので、『も』、という訳なのですかね?」
「うん、多分」
「も!」
竹筒に入れてきた麦湯を、椀に注いで真に手渡しながら、薔姫は笑っている。
呆れ顔の真の前で、娃は満足そうに、も! も! と言いながら、大きな茹で卵を2つもぺろりと平らげたのだった。
牧草地で弁当を平らげ終えると、娃は一座の者と一緒に敷物の上で歩く練習をし始めた。
首にかけてある、金輪が光を跳ね返して、時折眩しさを誘う。金輪は魔除けの一種で、通常、初めての誕生日に家長から贈られる。だから娃がかけている金輪は、父親である優からの初めての生誕祝の贈り物のうちの、一つだ。
額にまく領巾も、首に飾る金輪も、髪を梳く櫛も、娃の晴れの日の為にと王都で有名な占師に祓いをさせていたらしい。自慢げに伝える書簡が添えられていた、とこっそり薔姫が耳打ちしてくれた。
好が涙ながらに話したところによると、真が頼み込むまでもなく、娃の誕生祝いの席は薔姫が万事諸事、抜かりなく取り仕切ってくれたらしい。王室で朝賀や祝賀を見慣れている分、馴染みが深いのかもしれない。が、それにしても薔姫の仕切り屋ぶりは実に見事で、堂に入っていた、と珊どころか蔦さえも舌をまきつつ、教えてくれた。
送り付けられてきた荷物を紐解くと、優は何と、衣装を7種類も用意していた。
どの衣装を着せてやったらいいものかと、おろおろとする好に、薔姫はすらっと言い放った。
「あら、お義理母上様、簡単な事よ? 折角だもの、娃ちゃんに、全部着せてあげましょう」
驚く好を尻目に、薔姫は手伝いに駆けつけてくれた珊や福と一緒に、娃の衣裳を取っ替え引っ替えした。
神前への報告。
祝いに訪れてくれた客人への報告。
戸籍を預かる邑令への報告。
再び家に戻り村人を呼んで、改めてのお披露目。
城にいる椿姫への元への返礼と報告。
那谷や虚海の居る施薬院への顔出しを始め、誕生日を知らせながら道を練り歩く。
そして最後に夜っぴての、大きな宴を家で催した。
其の度に、衣装を変えて行った。赤色や桃色、白や黄色といった明るい地の色と花柄が主の女の子らしい着物は、娃の顔立ちをより愛らしくみせてくれた。
そのため、行く先々で「んもう! この可愛い子は、一体どこの国のお姫様なんだよぅ!?」と、珊たちをはじめ、皆にぎゅうぎゅうと抱きしめられたらしい。
どんなに母の喜びは深かっただろう。
娃も、大きくなって、この日の話を皆から聞いて、どう思うだろう。
そう思うと嬉しくもあるが、この2年、薔姫の誕生祝いをしていない事の方が、真は気になって仕方がなかった。
★★★
歩く練習をしていた娃が、突然、ふああと大きな欠伸をして、芙に寄りかかってきた。おやおや、と真が目を細める前で、薔姫が笑いながら娃を抱き上げる。
「娃ちゃん、疲れておねむがきちゃったかしら?」
「ねー……んねー……」
「はいはい娃ちゃん、おねむね。ねんね……ねんね……ね~んね、ね?」
薔姫がゆらゆらと身体を揺すると、抱き上げられた腕の中で、直ぐに娃は目蓋を蕩けさせた。うとうと、船を漕ぎ出す。芙が用意してくれた手押し車に下ろしてやると、娃は、ころんと寝入り、くぅくぅと小さな寝息をたて始めた。
笑い声を押し殺しながら、皆で片付けをし、牧草地を後にしたのだった。
帰り道。
もと来た農道を、やはり、ゆっくりと歩いて行く。
途中で、昼寝に入った娃を連れて芙たちは家に向かい、真と薔姫は灌漑用の予定地を目指した。
堤防にあがり、並木が作られている道を、真と薔姫は蝉時雨を浴びながら歩く。
今朝方と同じように、田畑の仕事に精を出している領民たちと出くわす機会が多い。其の度に頭を下げられて、真は辟易した。
「何故こうも、頭を下げられるんでしょうか?」
訳が分からない、と肩を竦めながら、ぽりぽりと項あたりを掻く真を、隣で並んで歩く薔姫がくすくすと笑う。
「何ですか? 嫌ですねえ、私だけが訳を知らずにいるんですか? 笑われるなんて、いい気分のものではないのですよ? 姫もみんなも、どうしてか知っているのなら、教えて呉れてもいいじゃないですか」
「いやぁよ、教えてあげない」
くすくすと笑う薔姫の横で、休憩中らしい5~6人の男衆と女たちの塊が、にこにこと屈託のない笑顔で手を振ってくる。またですか、とこそばゆく思いつつも笑顔で手を振らられば、笑顔で会釈をせざるをえない。
何なんでしょうか? と、本気で不思議がっている真に、薔姫は笑いが止まらない。
この祭国の地に住まう領民に、どれほど『真』という名が知れ渡っているのか。
考えもしない、考えようともしない。
蕎麦の栽培の導入。
形を発展させ利便性が高くなった犂。
そして前年の句国との戦の折に開発した水力を利用した踏臼。
櫛形の巨大脱穀機。
絹織物の新たな織り方を定めて、一つの産業にまで押し上げた。
此れまでにない優秀な牧草を求めて、馬を格段に丈夫に育てあげる事ができるようになってきた。
施薬院は小さな邑単位で建てられる方向で決まり、琢たちに依頼して建物を建設中だ。
そして今、灌漑用水の設置にも向けて動き出している。
小麦の収穫の後、畑は急いで耕されて水を張り、今度は田として稲を育てていた。だが、直播きであるが故に発芽が悪くなり、米の収穫が減るという本末転倒な事態がよく起きた。その為、一年おきに畑と田を入れ替える地域も多い。
しかし、句国のように苗場をつくり田植えを行えば、その害を減らせるかもしれない。小麦は基本、畑のように乾いた土地で育てあげるものだが、稲は直播きにしろ田植えにしろ、代掻きを行わねばならない。
暫く滞在してくれた句国王・玖の助言もあった。
句国が、広大な牧草地を田畑にかえる必要性がなかったのは、この稲作と麦作を同じ土地で行える田植えという作業があればこそだ、と。今、祭国では、新たに墾田した土地は基本的に畑に変えて蕎麦の栽培を奨励している。此れまでの田畑でも生産性をあげる為に、徐々に句国の様式を取り入れていく予定だ。
先ずは、直ぐに水を張れるよう、必要性に迫られての治水工事であり、その為の今回の真の視察だった。
此れだけ、祭国の為に労を惜しまず、動き詰めにしているのだ。
皆に知れ渡らぬ方が、そして感謝されぬ方が、どうかしている。
戰と真が祭国に来た2年の間にこの地に齎したものは、彼らが思っているよりも相当に大きいのだ。
並木から蝉時雨を浴びながら歩きつつ、ふと、といった感じで真が口を開いた。
「そういえば、姫」
「なあに?」
「姫も、もう10歳になったのですよね」
……うん、と小さく薔姫は答える。
嫁してしまえば、女性は誕生祝はして貰えない。
男児を生んでいたら、彼らが成人した折に、親孝行の証として裕福な家庭では行うところもある。しかし夫や兄妹は、基本的にそれに加わったり、率先して行うことはない。
それでも禍国に居た頃は、誕生日が近付くと戰と真とで共謀し、母親である蓮才人と共に祝いの席を過ごせるように、計らってくれたものだ。
それが、何程、嬉しかった事か。
どんな贈り物より嬉しかった。
だが、祭国に来てからの2年間は違う。
誕生日の時、義理の兄である戰も、夫である真も、戦場にいた。
――お祝いの品なんて、どうでもいいもん。
帰ってきてくれた事こそが祝いの品だ、と思うようにしてきた。
――一緒にいられたら、それでいいもん。
真の方を見上げると、そこには、いつもの優しい眸をした笑顔がある。
「何か、誕生の祝いに、欲しいものはありませんか?」
「え?」
「何でもいいですよ、欲しいものはないですか?」
弓型の優しい眸で言われ、薔姫は胸の音が早まるのを感じた。
「何でもいいの?」
「はい、何でもいいですよ」
「それじゃあ……」
薔姫は、周囲をぐるりと見回した。大きな木の葉陰が涼しい並木を。
「我が君」
「はい、何でしょう」
「お花見がしたいの」
「お花見、ですか?」
思いもしなかったおねだりに、目を瞬かせている真を尻目に、薔姫はうふ、と肩を窄めて笑う。
「この並木、なんの木か我が君は分かる?」
「桜、ですよね?」
桜独特の文様のある幹の肌に視線を彷徨わせながら、真は答える。
その真の袖を、ぎゅ、と薔姫が引いた。
「うん、そうよ、桜。春になると、とっても綺麗なの。だから」
だから。
今度の春は、何処にも行かないで、此処に、祭国に居て欲しいの。
傍に、ずっと居て欲しいの。
なくしてしまった2年分の春の楽しさ。
この次の春は、なくしたいないの。
言葉にせず、じ……と見詰める事で訴えかけてくる幼い妻に、真は丸くしていた目を和らげた。ぽんぽん、と額に手の平をあてる。
「じゃあ、出来る限り努力しますよ」
「努力じゃ駄目」
「う~ん……駄目ですか、厳しいですね、それでは善処しますでは?」
「それも駄目」
「おやおや……う~ん、はいそれでは、それなりに頑張りますよ」
「質が下がっちゃってるじゃない」
真剣な表情を崩して、ぷっと小さく吹き出してしまった薔姫の前で、真が突然、ごそごそと袂を探りだした。
なに? と薔姫が目を丸くしていると、晒が差し出された。ひらり、と広げられたそこには、緑色の小さな葉が収められていた。
「馬肥草?」
「ええ、珍しいでしょう?」
雫型をした均等な大きさの葉が三枚開いているのが、馬肥草だ。
けれど真が開いた晒の中に収まっていたそれは、葉が四枚ある。四方に広がった雫型の葉の馬肥草は、何か、特別なもののように思え、わあ、と弾んだ声で薔姫は晒ごと受け取る。摘まれて間もない馬肥草は、まだ葉に力を漲らせており、顔を近付けると青臭い匂いを放っていた。
「約束のしるし、ね?」
喜びに頬を輝かせて見上げてくる薔姫に、はい、と真は優しく頷いた。
「今度の春は、一緒にこの並木を歩きましょう」
「うん!」
真の腕に、薔姫が飛びつく。
そして、小さな手を真の其れに絡ませた。
「素敵なのよ? たくさん案内してあげる」
「それは楽しみですねえ」
繋いだ手を、真が態と大きく揺らした。
しかし、以前の時のように、薔姫は引っ張られない。それだけまた、大きくなっているのだ。声を立てて笑うことで非難の意思表示をした薔姫はわざと、ぷく、と頬を膨らませる。
「そんな意地悪するなら、もう手を繋いであげないんだから」
「ええ? 折角良くなった左手だというのに。寂しい限りですねえ、そんな殺生な事を言わないで下さいよ」
実に態とらしくしょぼくれてみせる。
戰の真似をしてみせながら、繋いでいる左手に視線を落とす真に、うふふ、と薔姫は肩を窄めてみせ、嘘よ、と笑った。
「お花見の時も、手を繋いで歩きましょう、我が君」
「え? はい、いいですが……」
「あと、あとね、二人だけで行きたいの」
「はい? 二人きりで、ですか?」
「うん、ねぇ、いいでしょう? ね? 約束よ?」
「おやおや、姫は普段、子供扱いされるのを嫌がるくせに、今日は幾つもおねだりですか?」
「いいの! お祝いなんだもの!」
「ですね」
今度。
春になったら。
薄紅色の花びらが、吹雪のように舞う中で。
きっと小さな妻は、今と同じように、手を引いてくれるのだろう。
何を見せてくれるのだろう?
何を話してくれるのだろう?
だがきっと、一生懸命なのには違いないだろう。
その日を、胸に描いて、真は口元を綻ばせた。
――その時。
自分は何を。
何を、感じるのだろう?
「わかりました。また、こうして手を繋いで、一緒に歩きましょう」
「うん!」
繋いだ手を大きく振り、二人は笑いながら歩いた。
★★★
不意に二人の背後に、馬の蹄の音が忙しなく近付いてきた。
振り返ると、克が共を引き連れ、緊張した面持ちで馬を駆けさせて此方に迫ってくるところだった。
「真殿、城に来てはもらえまいか?」
「どうしたのですか、克殿」
「……禍国からの御使者の御一行が、明日にも王都入りなのだが……」
禍国からの一行、と聞いて薔姫が、それまでの明るい笑顔から一転、表情を一瞬で険しいものに変えた。
「何か、問題が?」
大有りだ、と克は渋面を作って首を左右にふる。
「兎も角、来てくれ。大至急だ」
分かりました、と真は表情を引き締めた。




