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覇王の走狗(いぬ) ~皇華走狗伝 星無き少年と宿命の覇王~  作者: 喜多村やすは@KEY
六ノ戦 落花流水

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4 少年王・学 その3

4 少年王・学 その3



 家が見えてきた。

 垣根の向こうに小さな庭先があり、琢の作ってくれた物干しが見えるのも、その奥に厩があり、主人譲りの元気な嘶きが聴こえてくるのも。

松の枝を長く引っ張って、門構えの代わりにしてある様子まで、全く変わりがない。


 ――ああ、懐かしいな。


 実は、離れている期間の方がぐっと長い。

 なのに、帰ってきたのだと、胸がほっと安らぐのを、真は感じた。

 近づくにつれて、松の枝の下に家人が勢ぞろいしているのが見える。向こうも、此方の存在に気が付いたのだろう、小さな人影が両手を頭上でぶんぶんと振り回し始めた。

「お帰りなさい、我が君!」

「只今帰りましたよ、姫」

 一足先に家に戻っていた薔姫が、再び駆け寄ってくる。

 その背後で、随分と大きくなった娃を抱いた母・好が、喜びに噎び泣きないている。真の背後で、荷物を持ったふうも、感慨深けに鼻をすすっている。


 ――ああ、本当の本当に、私は帰ってきたのだな。

 真も、鼻先が赤くなるのを感じながら、手を振った。


 その夜。

 真の無事の帰国を祝い、酒膳整えられ、小さな宴が設けられた。

 屠蘇酒を一舐めするだけで、前後不覚になってぶっ倒れるほどの凄まじい下戸の真が主役だったが、皆気など使わない。勝手気儘というか、主役など酒を呑む為の方便だと言わんばかりに、構わずに杯を重ねていく。

 請われて呼ばれた珊が、芙が打つ鼓に合わせて舞を披露すれば、勝手に押しかけてきた琢が、克を巻き込んでやんやの喝采を送る。流石に那谷は酒は口にしなかったが、虚海は瓢箪型の徳利を既に三つも空にしてぶっ倒れており、鼾をかきはじめている。

 もはや無礼講に近い。


「我が君、美味しい?」

「はい、姫が作ってくれる食事は、どれもとても美味しいですよ。流石ですねえ」

 派手さや贅沢さはないが、心を込められた食事は、本当に美味しかった。料理と水の味すらも懐かしく感じつつ、繰り広げられる楽しげな喧騒を眺めて料理を口に運ぶ。目の前にある暖かさ全てが、真の心を和ませてくれていた。

 好物の、蕎麦粉の薄皮で胡麻味噌で下味を付けた豚肉と胡瓜の漬物を巻いたものを箸で取り上げた真を見て、薔姫が、うふふ、と肩を窄めて笑った。

「その蕎麦粉の薄皮ね、お水で溶いて練ったの、娃ちゃんなのよ?」

「へえ? そうなのですか?」

「焼きあがった皮に餡をのせて、巻いたりもするの」

「へええ?」

 箸で御数を摘まみ上げたまま、目を丸くする真の膝に、「にー、にー」と娃が誇らしげな顔つきで、はいはいしつつにじり寄ってきた。

「はいはい、兄の為に頑張ってくれたんですか? 娃は凄いですねえ、こんな小さなうちから、料理好きだとは。一緒に暮らしていて、姫に似たんですね、いいことですよ」

「そうよ、何にでも興味津津なの」

「母上と姫に囲まれていたら、料理上手な娘に育ちますね。将来が楽しみですよ」

 抱き上げて、胡坐をかいた膝の上に娃をのせる。

 長く離れていたというのに、別に嫌がる素振りもみせず、薔姫に言われるままに真の事を「にー」と呼んで抱っこをせがみにくる。もっと小さな頃から人見知りをしない童ではあったが、それにしても、娃の受け入れっぷりはなかなかだと真は感心する。

「人の出入りが多いお家だから、我が君が一人増えたところで娃ちゃんにはどうって事ないのよ、きっと」

「そんなものなのですかね?」

 不慣れ土地で、娃を抱えて心細い思いをしている好や、真がいなくなって寂しい思いをしている薔姫を気遣って、珊や豊や琢、それに近所の『奥様がた』が、交代で訪れてくれていたという。それを思えば、確かに構われ慣れして、人見知りしなくても当然かもしれない。


 はしゃいだ笑い声を上げたながら、娃が涎まみれの小さな手の平を伸ばしてきた。ん? と額を寄せると、長く伸びた前髪をむんずと掴み、ぐい! と容赦なく引っ張った。

「にー! んー、にー!」

 まるで、伸びた前髪がみっともないから切れ、とでも言っているようだ。

「いたー! いたたたたた、い、い、痛いですって、娃!」

 必死で額を抑えて娃の指を一本一本解すように広げて、なんとか離すと、薔姫が笑い語をたてながら娃を抱き上げた。

「あらあら、娃ちゃんも、我が君のみっともない髪の毛を切りたいの?」

「ねー、ねー」

「……そ、そんな処まで姫に似なくていいですよ……」

 ふぅ~……、と真は息を大きく吐き、前髪をくしゃくしゃとかきあげる。そんな兄を見て、知ってか知らずか、妹はきゃっきゃと無邪気すぎる笑い声をあげて手を叩いた。……やれやれですねえ、と真は脱力しつつ苦笑いするしかない。

 すると娃が、慰めるかのように真の頬をつんつんと指先でつついてきたので、どっと大きな笑いの渦があがった。


 まだ赤ん坊の娃がいる家庭の事情もあり、夜の帳が深くなる前に、宴はお開きとなった。

 それでも皆、満足そうに手を振って帰路につく。

 前後不覚の酩酊状態から完全に寝入っている者。

 へべれけになって呂律の回らない者。

 上機嫌で鼻歌を歌いつつも千鳥足の者。

 そんな彼らを呆れつつも、怒鳴ってぶったり蹴ったりしながら追いたてる者。

 背負って歩いたりする者。

 家の玄関から薔姫と二人、並んで客人たちを見送った真は、戦場では到底感じられない心地良い疲れを、久しぶりに噛み締めていた。



 ★★★



 翌朝。

 学の、立太子式と国王即位戴冠式の準備に早々に取り掛かる真は、休む間もなく戰の元に出仕する。朝餉をとると直ぐに、座をたった。身成りを整える前に、手水をとる為だ。

 朝起きていの一番に、薔姫に前髪を綺麗に切られているので、顔を洗っても髪はあまり濡れない。苦笑しつつ部屋に戻ると、登城の用の着替えや荷物をきっちりと用意した薔姫が、ちょこんと座って待ち構えていた。

「さ、我が君、御召物をかえましょう」

 にこやかに宣言すると、薔姫は慣れた手つきで真の夜着の帯を解く。

 両手を広げれば、薔姫は手馴れた動きで、背後から、するりと上着を脱がせる。真が袴を着用している間に、内衣を用意し、帯を締めた頃合に合わせて再び背後から袖を通してくる。

 日常の慣れというか習慣というものは、恐ろしいものだなあ、と真はぽりぽりと顳のあたりを指先でかいた。真の着替えを手伝いながら、不思議そうな顔付きで薔姫が見上げてくる。


「どうかしたの、我が君?」

「いいえ、何でもありませんよ」

 衿を整えてもらいながら、真は軽く頭をふった。

 戦場に居た時は、当然の事ながら自分の世話は基本的に自分でしていた。繕い物や洗濯、食事の用意、実は器用にこなせる方なのだ。その分、部屋の片付けだけは壊滅的というか破滅的というか、絶望的な方向に突き抜けてはいるが、一人の時は芙の手助けを受けながらも、そこそこぎりぎり見られる程度には保っていた、つもりだ。

 それがどうだろう。

 家に帰ってきた途端、それら全ての仕事は薔姫が当然のように采配してくれるし、自分もそれを当たり前の事として受け入れている。

 薔姫はそんな真の気持ちなど気が付いた様子もなく、綺麗に筋目を付けて畳まれていた新品の深衣を広げ、嬉しそうに羽織らせてくる。

「えっ……そんな、いいですよ、深衣なんて大層な。いつもの褲褶こしゅうで充分ですよ」

「……折角、我が君がお留守にしている間に、お義理母上様ははうえさまと一緒に、無事を祈りながら仕立てたのに……」

 わざと唇を尖らせて、しょぼくれてみせる薔姫に、やれやれ、と真は嘆息すると、お願いします、と微妙な笑顔で願い出る。ぱっと瞳を輝かせて、嬉しそうに頷くと、喜々として真に深衣を着せにかかる。

 母親の好には文句が言えないと知った薔姫の、見事過ぎる作戦勝ちである。

 複雑な面持ちで、真は、幼い妻にされるままになっていた。

 

 

 ★★★



 城に上がり、戰の部屋に先ず赴く。

 部屋の戸口は開け放たれているので、舎人に頼まず、自ら一声かける。

「戰様、お早う御座います。宜しいですか?」

「ああ、真、お早う。入ってくれて構わないよ」

 入ると、蔦と苑が居た。

 最近よく二人で居るのは、共に椿姫の看護を請け負っている事もあるが、此度は違うようだった。

「お早う御座いまする、真様」

「お早う御座います、真様」

「お早う御座います、苑様、蔦」

 挨拶を交わし合うと、真は改めて苑の前に進み出て礼拝を捧げた。

「苑様、此度、学様が祭国の正式な王子として認められました事、お慶び申し上げます」

 昨日から今に至るまで、数え切れぬ程、礼を捧げられ祝辞を述べられてきたのだろうに、苑の瞳にはまだ戸惑いと遠慮が揺れてみえる。

 学はよい。

 先の王太子である覺の御子なのだから。

 しかし自分は、只の承衣の君だ。品位を授けられることもなく、後宮にすら入る事が叶わなかったというのに。

 それがただ、次代の王・学の母親であるというだけで、このように敬われてしまう。

 苑は、どの様な態度を示してよいか解らず、困惑しきっていた。


「あの……喜んで下さるのは大変嬉しいのですが……学の母であるというだけで、私自身が立派という訳ではありませんから……」

 当惑した顔色を隠しもしない苑に、戰が微笑む。

「貴女の様な方を母としているからこそ、学はまだ少年の身でありながら、立派に王者として敬われるに値する人物に育っているのです、謙遜する事はありませんよ」

「でも……郡王様」

「寧ろ、大いに誇らしく思われ、覺殿の分も喜ばれなさい。それにその方が」

「それに?」

「――いえ……」

 言いかけて、言葉を濁して口を噤んだ戰は、喋りすぎたかと僅かに後悔の色を伏せた視線に滲ませていた。

 その微かな悲しみの色に、苑は、はっとなった。

 椿姫から、戰は誕生と共に生母・麗美人を亡くしていると聞いている。父親である皇帝も、亡くしたばかりだ。如何に彼が栄光を掴み、栄達の極みに達したとしても、喜び讃えて呉れる両親はいないのだ。どんなに、今の自分を誇らしいと言って欲しい、認めて欲しいと願っても、それは永遠に叶わない。戰は、夢に描くことすら、出来ないのだ。

 父である覺の分も、また学の為に。

 母である自分は、もっと誇ってもよいのだ、との戰の思いにふれ、苑は胸が熱く潤むのを感じていた。


 

 誇ってよい、と言われてしまえば、学の人生の華となる戴冠式を、慶びの日をこの目で見たいと思うのは、当然の親心だ。理想を胸に描きながらも遂に叶わなかった父親の跡目を、息子は立派に継ぐのだという祝いの日をこの目に焼き付けたい、と思うのは本能に近い。

 が、椿姫の体調からすれば、戴冠式を滞る事なく行えるのだろうか? 受禅を行うとなれば、女王である彼女手ずから、王者の印璽を学に授けねばならない。


 ――椿姫様とお腹の御子様の御為を思えば、戴冠式は諦めさせよう。

 椿姫様からお声を頂いたのだから、もう充分と思わなくては……。

 そう、学を覺様の御子と認めて頂けたのだから――


 苑の頬に新たな決意の緊張が走るのを見て、蔦が目元を和らげた。そして、真を促していつもの戰の傍に座らせると、おもむろに口を開いた。

「皇子様に頼まれておりました、学様の即位戴冠の吉祥如意の日を占いました処、明後日が最も近い良き日であると、亀卜に現れまして御座いまする」

 うん、ありがとう、と戰が蔦に答える。

「椿姫様とお腹の御子様を思えば、残念ながら形式は出来るだけ簡素なものに致しませぬと。折角の慶事でありますのに、口惜しい事に御座いまする」

「そうだね。だがだからこそ、新たな門出を、王となる学を祝う気持ちだけは、大きくもとう」

「勿論です。しかし戰様、その為には苑様の御身分を、確かなものとせねばなりません」

 戰が力強く頷いて、真の言葉の先を促す。

「学様が王太子殿下として認められるのであれば、苑様もまた、御生母様として認められねばなりません」

「しかし真様、苑様の御身分が承衣の君では、王太后様として立太后して頂くには、少々ご無理がありませぬか?」

 今や、小国とはいえ、祭国は列強諸外国が最も熱い視線を注ぐ国だ。

 特に、隣国である剛国、そして根幹を同じくする露国には、つけ入る隙を見せてはならない。学が即位するには、父親である覺が身罷っている以上、母親である苑の身分の確証も懸案事項の一つなのだった。

 蔦が懸念を口にすると、逆にその話題こそ待っていたのだとでも言うように、真は微笑んだ。そう、一番の問題は、実は苑の身分だ。後宮に入りどんなに低くとも品位を授かってさえいれば、王太后の尊称を贈る事が出来る。しかし、先の王太后・萩は、苑の身分を認める許しを与えぬまま、身罷ってしまった。


 椿姫は、女王として、苑の身分を復権させねばならない。

 学を王として諸外国に認めさせるには、母親である苑も、認めさねばならないのだ。

 だがどうすれば、諸国の王に侮られぬ身分に、苑を落ち着ける事が出来るのか?

「どうなされるおつもりなので御座りまするか?」

「少々、古くまで遡りすぎていて、小狡くも乱暴でもあるしれませんが、先例もある事を引きずり出すことが一番でしょう」

 現在、後主として西宮に蟄居隠遁の生活を送らせている順も、女王として椿姫が即位した折に大上王の御位にすえた。国に前例があるというのならば、習う方が説得力は増すというものだ。

「そうだね、それで真、苑殿の身分は回復できるのかい?」

「はい。祭国の長き歴史の中で、太王太后、王太后、王后、という三后陛下の御位を三宮様さんのみやさまと称した時代があります。同じ頃、きさきに準ずる形で国王陛下に仕え、厚く遇されるべき御方を、『准后じゅこう殿下』と定め、また王の御生母様を『大宮様おおいみやさま』と讃え称した時代がありました。苑様は、まさにこの尊号に相応しい御方ではないか、と私には思われます」

 真が戰に応じる。

 そして、蔦と共に苑に向かって最礼拝を捧げた。

准后じゅこう・苑殿下、改めまして学様の御即位、お慶び申し上げます」

「苑大宮様、お目出度き吉兆を占う大役を担わせて頂く栄誉を授かりました事、生涯の誇りとして胸に刻みまして御座いまする。大宮様の此れまでの日々に報いる為にも、学様の麗し日には、心を込めて尽くさせて頂く所存に御座いまする」

 真と蔦、そして戰の態度と表情を次々に探るように見比べて、流石に苑も悟らずにはいられない。

 学の即位戴冠式に合わせて、苑の准后じゅこう立号も行うべく、椿姫は動いていて呉れたのだ、と。

「准后殿下、晴れの時を迎えるまで、どうか学様と睦まじく、そして御心お健やかにお過ごし下さい」

 どだい、真に言葉で楯突いた処で、敵う訳が無い。

 礼拝を捧げたままの真と蔦に、そして満足そうに勝ち誇った悪戯坊主の笑みを浮かべる戰に、苑は深々と頭を下げる。

 苑の頬が濡れに濡れ、泣き笑いの形に歪んだ。


 

 ★★★



 椿姫は、蔦から吉祥を占った卦を伝えられると、喜び勇んで学の立太子と即位戴冠式の準備を整えるように命じた。

 彼女が、このようにはしゃいだ様子を見せるのは珍しい。

「新たな国王の誕生を、天涯におわします天帝にお伝えする神聖な儀式です。皆、心を込めて尽くして下さい」


 椿姫の命令に、城仕えの者は上役から下男に至るまで、慶びを弾けさせた。

 女王に言われるまでもなく、学という少年の為人ひととなりは城内で広まっている。誰もが、少年が王子として認められぬことに心を痛め、やきもきしていたのだ。

 しかも此度、王太子に立つだけでなく、続けて国王として即位するという。椿姫が女王でなくなるのは淋しい事ではあるが、少年が新たな王となるのであれば、喜びが勝る。

 そんな訳で今、祭国の王城内は、学の即位戴冠式に向けて、天地を返したかのような、しかし浮かれささめきの只中にある。

 城に仕える宮女たちは、御馳走の為の食材の仕入れや、王の間を飾り付ける印作りに大わらわとなる。

 雅楽を担う楽院の者も、楽器の手入れと舞の振り付けを確かめ合う。

 兵士たちも、典礼の行列を飾る武具の点検に余念がない。

 皆、「忙しい、ああ参った、忙しい。全く日にちがなさすぎる、忙しい」と嬉しそうに駈けずり回っている。


「真、何処かで聞いたような言葉だと思わないかい?」

「そうですか?」

 珍しく、にやにやしながら問い掛けてくる戰に、真は、邪魔ですよ、と言わんばかりに顔を顰めて答える。

 戴冠式の際には、影の進行役を担う真は、戰に構ってなどいられないのである。


 実は、苑に隠れて密かにこの日の為に備えてきた為、椿姫と戰自身は、あまりする事がない。

 そもそも慶事を取り仕切るのは女性、妃の役割であるから、基本的に戰は蚊帳の外に置かれる。自身が纏う礼包は禍国で纏った袞冕があるし、戰も主役の一旦を担うのだから、手を貸そうにも動きが限られてしまうのだ。

 持て余した暇に任せて様々な部署に顔を出し、準備に汲汲忙忙となっている皆を労うのが、関の山となっている。

 だが顔を出し過ぎて、ここの処、邪険に扱われはじめた。

 不穏な空気を感じ取り、椿姫の処で嘆いていると、体調を案じた蔦と薔姫に厳しく命じられている女官たちが、すわ、と寄り集まり、あれよあれよという間に追い出されてしまった。

 行く処がなくなってしまった戰の行き着く先は、結局、回帰した。

 真の処に、居着く始末に落ち着いている。


「真、何か皆の為に、その、手伝う事はないかい?」

「ああみんな頑張ってくれているね、有難う、とでも仰ってまわればよろしいではないですか」

「それはもう、何度もしているんだよ。でも、流石に此れ以上は逆に邪魔になるだろうし、疎んじられてしまうだろうし……」

「分かっていらっしゃるではありませんか。ええ、邪魔ですので黙って静かにしょんぼりなさっていて下さい」

「真、そんな殺生な事を言わないで」

 書簡から視線を上げもせずに、素っ気なく答える真に、戰は情けない顔をする。

 清書する文言の最終推敲に集中したい真は、戰の心底泣きそうな顔付きにも知らん顔を決め込んでいる。


「貴重な紙なのですよ? 書き損じでもしたらどうするおつもりなのですか?」

「それはそうだが……」

 この時代、紙は大変な貴重品だ。

 しかも、この紙は以前、神事として、椿姫が自ら手漉きを行った紙なのだ。

 書き損じは許されるものではないし、後世にまで学の出発点として残る大切なものだ。それを一任されたのだから、真とても気合が入るのは当然、というものだ。

 なのに戰は、横から話しかけては集中力を刮げとっていく。真も、相当に鬱陶しさを感じ始めていた。

 じとり、と横目で睨むと、大きな身体を縮こまらせて、戰がしょぼくれる。


「何かしていないと、落ち着かないんだよ、真、分かるだろう?」

 立太子に先立ち、学は元服を行う。

 戰は親代わりの主人役と後見人の大賓役を担うのだが、どうも親以上に親のような気持ちで、そわそわと腹と尻が落ち着かないのだろう。

 書簡から視線を上げて筆を下ろした真は、「仕方ないですねえ」と深く嘆息した。


 暫くの後。

 施薬院の広い庭先に、城で勤めを行っている者の預かり子たちの、甲高い歓声があがっていた。

 子等の遊び相手に任命された戰が、童子特有の容赦ない攻撃に晒されて、きりきり舞いしている姿と共に。



 ★★★



 苑の身分を准后じゅこうと定めた事により、彼女もまた、戴冠式に参列することが叶う。だが、式典には身分相応の典礼用の礼装が必要となる。心配し、引き下がろうとした苑は、くすくすと笑う宮女たちに手を引かれて、薔姫と珊の待つ部屋に引っ張って行かれた。

 彼女の目の前には丁寧にあつらえられた太后服の礼包が、衣紋掛けにかけられている。

「薔姫様、こ、これは……?」

「お義理姉上あねうえ様が、大宮おおいみや様にって」

「そぅそ! もう随分まえから!」

 おろおろとする苑の前で、珊が、にかっと明るい笑顔で飛び上がり、両手を頭上でぺちん!と叩いてみせる。

 自分の知らない水面下で、椿姫が学が即位する日を夢見るだけでなく、何程心を砕いて備えてくれていたのかを改めて知り、苑は涙が止まらなかった。女官たちも、自分たちを厳しく、しかし暖かく指導してくれた苑の晴れの姿を間近に感じて、互いに手を取り合って目を潤ませている。

 やがて、椿姫の言い付けで様子を見に来た蔦が、その場に混じる。

 薔姫と珊と共に、当日の学と苑はどんな風だろう、と胸を弾ませながら、噂話に花を咲かせたのだった。



 誰も彼もが、興奮に浮かれている。

 祭国は、小さな王者の誕生を祝うために、大きな熱気の渦の中にあった。



 ★★★

 


 学の、即位戴冠式の当日。

 天帝が天衣をひるがえしたかのような、素晴らしい晴天に恵まれた。

 雲一つない紺碧の空は、陽光を祭国全土に広めて、少年王の威光を讃えているようだ。

 真夏だというのに、爽やかな風が棚引くようにながれていき、流れにのるように蝉は宴を盛り立てるべく鳴き続ける。

 濃い青葉も擦れ合いながら歌い、小鳥たちも空を舞い踊る。

 まさに、王者の門出に相応しい日和となった。


「学様は、天意にも愛されておいでに御座いまするな」

 本来の姿である楽団を率いる主の立場に戻った蔦が微笑むと、神事を前に緊張で固まっていた禰宜ねぎほうりたちも、笑顔になる。

 彼らが行う祭祀祈祷は、神に感謝を捧げるというよりも、その御心を安らぎ和ませるのが目的だ。神を和ませる存在である王を大切に思うならば、天涯より加護を下されるべし、という訳だ。

 この後、先ず、神職である禰宜の宣言が入れば雅楽が奏でられはじめ、元服の儀が執り行われる。

 学の元服と苑の身分回復による元服と加冠による王子の認証、立太子及び新国王としての即位戴冠式と続く。

 臨月に入った椿姫の体調の事もあり、結局、元服と王子の追認証で一括り、そして立太子と即位戴冠で一括りとして式典を行う事になっている。

 神職と共にに控えている即位戴冠式に挑む楽院の一団も、蔦の言葉に己の愛器を手に確かめつつ深く頷き合っていた。

 何しろ今日は、楽院は、朝から出突っ張りになり休む間もない。このような誉が続く日など、もはやないだろう。しかも、失敗は許されない。

 楽院としては、何としても成功させねばならないが、如何せん一度に彼是とこなせるものでもはない。先の国王である順の治世の折に、楽院は遊興の為の楽を奏でる一軍とされてしまい、人員もその様に編成されてしまっていた。大役を担うには、人員が圧倒的に不足しているのだ。

 その為、蔦の一座の者お駆り出されている。禍国にて一度、雅楽を奏でている為、楽院から請われて共に式典に臨むかたちになったのだ。一度場を体験しており、何よりも肝が据わっている蔦の一座が傍にいるというだけで、楽院も落ち着きを得ていた。


「さあ、皆々様、気合をお入れなさりませ」

 蔦の張りのある美声に、楽院と一座のものが、集中力を研ぎ澄ませ始めた。




 銅鑼と鐃鉢にょうはちが打ち鳴らされ、高らかに唱和し、そのが訪れたのだと告げてくる。

 禰宜と祝たちの祝詞も流れてきた。祭国が祀る神と祖霊とに、今日の日の加護を祈りだしたのだ。


 禍国にて郡王に任命された折に身を包んだ、冕冠べんかん袞衣こんえに身を包んだ戰は、やはり礼装を纏った真と共に祭国の芯部とも言うべき霊廟へと向かった。

 元服とは、衣服を大人のそれに改め、男子なら冠を女児なら笄をあてることをさす。

 男児の場合は元服のことを冠礼と呼び習わすのは、その為だ。

 此度の元服は、父親がいない学の為に戰が主人役と大賓役の両役を担い、真が介助を行う賛冠の役を担う手筈になっている。


 霊廟では、既に受冠者である学がひとり、静かに待っていた。

 立太子式を省く為、既に王太子服に身を包んでいる学は、それだけで立派な人物としての風格を滲ませていた。

「我申す、名は真、天宙におわす天帝に、本日吉祥を申し上げ奉るもの也、祭国王子・学殿下の初冠ういこうぶりを此処に見届ける者也」

 主人と大賓役の戰に代わり、賛冠役の真が宣言を行うと、学が祖廟の前で両膝をついて最礼拝を捧げる。

 その姿勢のままの学の髪を、禰宜がくしけずり整える。清められた小刀が髪の先に当てられ、童形を捨て大人と同じ髪型に結い上げられていく。

 戰の手により、緇布冠、皮弁冠、爵冠と三段の冠を順に加冠された学は、最後に、王子の身分を現す、弁冕を頭上に抱く。

「我申す、真、禍国皇室皇子・戰の大賓の手に寄りて祭国王子・学の加冠されしを見届けたり。父王帝の御意志を継ぐ御子となりしを、天帝に慶びをもって告げんとするもの也。願わくは、終生の栄光を御子の加冠によせて贈りたまえ」

 真の宣言に、学が初めて抱いた頭上の冠を重たげにしつつ、礼拝をもって答えた。

 加冠元服が済むと、立太子認証と即位戴冠式が同時に行われる。

 学はひとり、王の正殿となる太和殿へと赴く。

 此処で、女王である椿姫からの譲位を受け取るのだ。

 胸の高鳴りを抑えて、学は、戰と真と別れ、ひとり胸を張って正殿へと向かった。



 ★★★



 椿姫が静かに微笑んだのに、薔姫は気が付いた。

「どうなさったの?」

「いいえ、何でもないのよ」

 小首を傾げる薔姫に、椿姫は今度は含み笑いのような表情を作る。

 太后服袞冕たいこうふくこんべんという礼包を纏うのは、此れが二度目だ。

 日章瑞雲の装飾から鳳凰の嘴とから溢れる華菱形の垂下が揺れる宝冠を頭上に乗せてもらいながら、椿姫は自身の即位戴冠式を思い出したのだった。

 あの日は大変な事ばかりがあり過ぎて、何を一番に思い出せば良いのかわからない。

 けれど、あの日から確かに自分の女王としての全てが始まったのだ、と思える。


 ――学、貴方にも、今日という日を、そう思える式典にしてあげたい……。


 衣装が整うと、椿姫は厳かに告げた。

「譲位である」

 その場に居た全員が、両膝をついて最礼拝を椿姫に捧げた。



 椿姫の宣言と共に、譲位を伝える冊書が正殿に届けられた。

 真が冊書を学の前に掲げると、学は椅子を降りて上座を真に譲って跪き、そして額を地につけて平伏した。


「我申す、名は真、祭国女王・椿陛下は御尊意を此れに認める」

 冊書の帯を紐解き、学の額の前に大きく広げて読み上げる。

「天帝の御印を国土に抱き刻む、尊き吾が国が祭の女王・椿の名において、先の王太子・学を王太子として認むるものなり」

「……」

「礼節正しく無言で応えし王子学を、此処に儲君もうけのきみとして認める定め賜うもの也。各もろもろ此れなる様を悟り仕え奉るよう勅使おほみこととして伝えるもの也」


 真の宣言を受け、学が立ち上がる。

 すると、背後から王の印璽が掲げられながら学の前に示された。

 祭国の王の璽綬は六璽を以てなされる。近隣諸国は勿論、禍国もほぼ同様に習っている程、古く格式のあるものだ。

 その一つ一つを学が自ら手にとって確かめると、続いて、袞冕十二章の王としての礼包が届けられる。


「吾、申す、名は学。先の祭国王太子の嫡男にして太子となしり者也。天涯を統べたまう天帝に畏み畏み、申し上げる者也。女王椿の御印を引き継ぎ、祭国国王の御位を受禅するもの也」

 袞冕十二章の金糸の刺繍が、綺羅綺羅とした輝きを放っていた。



 学が、皇太子服から椿姫より贈られた王の着衣である袞冕十二章に衣裳を改めた。

 多くの舎人と殿侍を従えて正殿を出ると、一斉に銅鑼が打ち鳴らされ、雅楽が奏でられる。

 克の指揮の元、王の大軍旗が天空に届けとばかりに掲げられた。

 続いて武官たちが、剣と槍、矛、盾、をそれぞれに掲げ、敬愛の意を現す。

 武官たちに見送られながら大極殿に向かう途中、大きな響めきが伝わってきた。

 何事だろうか、と首を巡らせると舎人が遠慮がちに走り寄ってきて伝えてくれた。


 ――郡王陛下が、女王陛下をかいなに抱いてお姿を現しになられた由に御座いますれば……。


 思わず学は、ぷっ、と小さく吹き出してしまった。しまった、と思ったが学が笑って認めてくれたからか、従者も安心して、笑い合い始めている。

 一度笑いが生じてしまうと、どうしようもない。

 皆、笑いながら大極殿へと向かった。


 大極殿には、中央の王の座が空席のままとなっていた。

 左に受禅行う当事者である椿姫と見届け人として戰が、右に生母である苑が控えている。

 多くの臣下が連なって、王座に続く道を作り上げている。

 学は胸を張り、堂々と、真直ぐに、その道を通り、女王である椿姫の前に進み出た。

 戰が、紫紺の座に用意された冕冠を掲げ、そして椿姫の手に手渡した。


「新たなる王としての覚悟があるならば、王子・学よ、此れにまいりなさい」

 椿姫の言葉に臆することなく、学は跪いて最礼拝を捧げる。

 その頭上に、椿姫は12の旒が流れる冕冠を被せ、えいを結わえつけた。

 綺麗に結ばれたえいは、天と地の結び付きを表しているのだ。


 再び最礼拝を椿姫に捧げ、次いで戰に捧げ、そして最後に、椿姫と同じく太后服袞衣を纏い、日章の宝冠を被った苑に最礼拝を捧げる。

 苑が涙と共に学の礼拝を受け取ると、少年は立ち上がり王座に深々と腰を下ろした。



「我が名は学。先王椿女王の譲位を受け、新たに祭国国王として即位する者なり」

「新王陛下、万歳! 新国王・学陛下、万歳!」


 少年王・学の第一声に、臣下は一斉に両手をあげ、万歳を唱和した。

 



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