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覇王の走狗(いぬ) ~皇華走狗伝 星無き少年と宿命の覇王~  作者: 喜多村やすは@KEY
六ノ戦 落花流水

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3 のぞみ その4

 3 のぞみ その4



 かつが戰一行帰国の報せを齎してより、3日後。

 戰と真、そしてもくふうは、無事、王都の南側に位置する大正門の前に姿を現した。南大正門にて彼らを出迎えに出たのは、克と那谷、そして虚海だった。杢の容態を聞き及んおり、戰から直様の治療を、と頼まれていたからだ。



「おいかっさん、よ儂を、杢さんとこ連れて行ったらんかな、おい」

「分かっております、そ、そんなに急かされなくとも……」

 克の背中から虚海は容赦なく、後ろ頭をぐりぐりと瓢箪形の徳利で小突く。

 やれやれ、と眉を顰めながらも、はい、と素直に馬車に乗り込む。

 横たわる杢の側ににじり寄ると、ほんなら失礼するで、と一言言いおくと、ふた回りは大きなものをはかせてある褲褶こしゅうに手をかけて、膝上まで引きずり上げた。後から続いて乗り込んできた那谷が、手際よく巻いてある晒を取り外して傷口をあらわにしていく。

 克は、思わず知らず、息を飲んで大きく目を見開いていた。

 聞いてはいたが、これほどの重傷であるとは思えなかったのだ。杢程の手練が、万が一にも落馬するなど、克には、どうしても信じられなかった。


 虚海は流石にを鋭くしつつ、じくじくと熟した果実のように膨れ上がる患部に、鼻を突き出すようにのばした。視線を上下させつつ、ふむふむと伺う。固唾を飲んで見守る戰と真に、厳しい眼付で首を左右に振った。

「皇子さん、こらあかんで。杢さんに、ちぃとばかり無理さしたな」

 骨折した方の足は、骨が一度肉を突き破っている。

 何とか骨は、肉の下に埋め込んだ。折れた骨も、徐々に繋ぎ合う様相を見せ始めているようだ。

 が、肉の方がいけない。

 一部、肉が赤紫色に腫れあがっており、しかも内部から熱を放っている。明らかに、膿を持ち始めていた。

「このまま放置すれば、遅かれ早かれ肉が腐り始めます。肉が腐臭を放ち始めると濃い毒気の瓦斯が血の管を通って全身にまわります。そうなれば、体内から命を奪われてしまいます。そうなる前に、脚を切断せねばなりません」

 那谷の説明に、居合わせた全員が冷や汗にまみれて硬直した。

「言われた薬はきちんと飲ませてはいたのですが……矢張、動かしたのは、まずかったでしょうか?」

 真が焦りを見せて、那谷を覗き込む。

 真剣な表情で杢の脛を睨みつけていた那谷は、師匠である虚海をちらりと仰いだ。ふんふん、と満足気に虚海が頷いた。


「今なら、嚢胞に溜まった膿を出し切れば、何とかなります」

「では、大丈夫なのだな?」

「ああ、そこら辺は心配せぇへんでええで? 那谷坊の腕は、もう儂なんぞよりずっと上やでなぁ」

「そうですか……よ、良かった」

 戰と真は、二人して脱力しきる。へなへなと膝を崩す彼らに、杢が恐縮仕切っていた。

「しかし、膿を出し切るとは、どうする気だ?」

 克が、いっそ無邪気な程にあっけらかんと聞いてくる。

 那谷が、呆れたように答えた。

「当然、嚢胞を切開して、膿を絞り出すのですよ」


 ――切開……?


 へたりこんだままの姿勢で戰と真は顔を見合わせ、その頭上で、克と芙とが顔を見合わせあう。

「せ、せせせ、せっ……かい!?」

「はい、こう、小刀で切り開いて、悪い毒の壺と化した嚢胞に晒を入れまして、膿を吸わせて出し切ってしまうのです」

「い、い、痛そうだな……」

 まるで自分の脚が切り開かれるような悲愴な顔つきで、克が身体を小刻みに震わせながら、ゴクリと生唾を飲み込む。那谷にとっては、幼い頃から親しんだ術式の説明なので、克のような反応にも、また慣れている。

「確かに大変な施術になります。ですが、大丈夫です、心配はご無用ですよ。まず最初に痛みを散らしますので」

「い、痛みを散らす?」

「はい、杢殿には先ず、痛散の薬湯を飲んで頂きます。薬が効いてきた頃合を見計らい、術式を行いますので」

「あ、安全、なのだろうな? そ、その、術式、とやらは、本当に?」

「ええ、お任せ下さい。それに加えて痛覚を麻痺させるつぼ(・・)にも、鍼を打ちますし。術後の痛みも和らぎますから、ご心配なさらずに」

 それまで、皆の顔色が忙しなく変わる様子を他人事のように笑ってみていた杢が、那谷の一言に、一瞬で顔面蒼白となった。


 杢を城の正門に添うように建てられている施薬院に連れて行くと、さんふくと共に準備を万端に整えて待ち構えていた。

 今度は克の部下が、芙は寄り添う杢を運び入れてくれた。那谷は早々に施薬院に上がり、準備にさらに細かな指示を出している。克が虚海を背負うと、戰と真は、深々とこうべを下げた。


 

  ★★★ 



 戰と真が城に向かうと、いよいよ、杢の施術の為に施薬院は大わらわとなった。

 用意した晒だけでは足りないかもしれない、緊急の出血に備えてもっと用意するように、と那谷に命じられて外に飛び出した珊は、物陰に隠れて中の様子を伺っている克の背中に出くわした。


 ひょこひょこと無造作に近付いて「克、ねえちょっと克」と呼びかけても、全く気がつかない。仕方なく珊は、ぽんぽん、と克の肩を叩いた。

「ちょっと克、あんた何やってんの?」

「うわあぉぅっ!?」

「ひゃあぁ!? ちょ、ちょっと、なに、何なんだよぅ!?」

「――あ、さ、珊か、お、驚かせないでくれよ、心の臓に悪い……」

 大仰に全身を使って嘆息すると、克はその場にくしゃくしゃと腰砕けに座り込む。息を止めるほど真剣に、克の施術が行われようとしている部屋の様子を、見守っていたらしい。

 胡座をかきなおした克が、くっ、と顔をあげると、手を合わせて珊を拝みだした。


「え、ええっ!? ちょ、ちょっと克、何してんの!?」

「頼む! この通りだ、珊! 杢殿を助けてやってくれ!」

「うん、そりゃ言われなくても……それに那谷は物凄いいい腕のお医者だって、克だって知ってるじゃない? 心配しなくても大丈夫だよ、ちゃんと助かるよ」

「いや……そうじゃ、なくてな……」

「そうじゃなくて?」

「……怖いんだよ……」

「怖い? 何が?」

「今までな、私はいつも誰かを仰ぎ見て生きてきた。常に誰かの意見に従って、生きてきただろう?」

 克の隣に、珊はふんふんと頷きつつ腰を下ろした。

 彼の言うことは、流石に珊でも分かる。下級とは言え、武人の家門に産まれたのだから、上官となるべき人物の命令は絶対とせねばならぬと叩き込まれてきたのだろう。

 ただその上官となった人物が、此れまで全てたまたま、素晴らしく抜きん出た能力の持ち主ばかりだったという幸運の元に、克は過ごしてきた。


「杢殿が、あのような身体になられた……。つまり、今後、祭国の軍事を私如きが担う事になるのかと思うと……怖くて怖くて……」

 摺り合わせた手をひらき、顔を覆い隠すと、克は力なく肩を落としている。そのしょぼくれた肩を見ていると、珊はムラムラと怒りがこみ上げてきた。

 ぐっ、と手を握って固い握りこぶしをつくると、克の脳天めがけて振り下ろす。がん! と云うごつ臭い音が、周辺に鈍く響き渡った。

「克! このあかんたれの大馬鹿!」

「い、いった!? さ、珊!?」

「頭の中まで筋肉になった、能無しのおたんちんだとは思ってたけど、度胸の詰まった玉袋まで無くしてる金魂なしだとは思わなかったよ!」

「き、きんっ……、お、おい、珊、若い娘がそんなあられもない言葉を……」

「来な! この玉なしのおたんちん!」

 珊は克の腕をむんずと掴むと、無理やり引きずりあげて施薬院の方へと引っ張っていった。


 

 珊に引き摺られて施術が行われようとしてる部屋の前まで来ると、杢が那谷に最後の説明を受けている処だった。

「お薬湯が効いてきたようですので、下半身を痺れさせるつぼに鍼を打ちます。此れにより、痛みは更に緩和されます」

「はい、宜しくお願いします」

「しかし、先程も説明いたしましたが、施術はこれ一度で終わるものではありません。膿は嚢胞に何度も貯まります。完全に除去できるまで、何度も切開を繰り返す事になります」

「はい、覚悟しております」

「完治の後も、完全に元通りの身体というわけには参りません。近づけるには、想像を絶する痛みと苦しみを伴う鍛錬が必要となります。それを拒まれるのであれば、いっその事、切断した方が身体に負担は掛かりません。それでも、施術を受けられますね?」

 はい、と杢は晴れ晴れとした表情で頷く。

「私はまだ、この国の為にお役にたちたい。郡王陛下の御元で、私は、ようやくできた武人仲間である克殿と、まだ共に戦場を駆けていないのです。馬に乗り、剣をふるえる身体をなんとしても取り戻したい。その為ならば、何でも致します。どのような痛みにも苦しみにも耐えてみせます」

「わかりました。其処までのお覚悟が固まっておられると確認できて、安心致しましました。此れより、鍼を打ちます」

 宜しくお願い致します、と杢はこうべを垂れた。



 杢と那谷のやり取りを隠れて聞いていた克は、ぐずぐずと鼻を鳴らして大泣きに泣き始めていた。

「聞いた!? ねえ、ちゃんと聞こえた!? 杢はね、あんたと一緒に皇子様のお役にたつんだって、辛い施術にも頑張ろうって思ってんだよ。それなのに、あんたはなにさ!? 何ひとりで勝手に、もう杢は役立たずだから自分が全部やってやんなきゃ、って、うろうろおろおろしてんのさ!? あんたみたいのを仲間だって信じて、痛い思いも我慢しようってしてる杢が可哀想だよ!」

 珊の容赦ない罵倒にも、うんうん、と腕をつかって涙をぬぐいながら、克は頷く。

「情けないなあ、俺、本当に情けないよな……」

「分かったら、涙拭いて。ほら、早くその情けない顔を引き締めなよ。杢が帰ってくるまでの間、待っててやるつもりならさ」

 珊が差し出した晒を、克は素直に受け取って涙を拭った。

「有難うな、珊。そうだな、私如きが杢殿の代わりになれる筈もない。まだまだ、頑張ってもらわないとな」

「そうそう、あんたなんか、杢の足元にも及ばないよ。怖いのはこっちだよ。あんたに祭国を任せるなんてさ」

「……いや、そこはその……ちょっとは追いついているとか、少しは安心してるんだとか、嘘でも言って欲しい処なんだがなあ……」

「何言ってんの! そんなしょぼくれた顔してたんじゃ、そんな事冗談でもいってやれないよ! ほら、もう、元気、出した出した!」


 晒の下に、情けない顔を隠してぼやき続ける克の背中を、珊は平手で勢いよく叩いた。



 ★★★ 



 王城内に入ると、爆発的な歓喜の声が其処畏であがる。

 両手をあげる者、抱き合う者、感極まり硬直する者、逆に大声で叫びまわる者、それぞれの方法で喜びを表して迎え入れる。

 城の大殿にたどり着くと、蔦が静かに佇み、待っていた。いや、彼のような沈着な人物が、喜悦による興奮を隠しきれず、頬をほんのりと赤らめていた。

「蔦、出迎えご苦労だね」

「いいえ郡王陛下、勿体無うお言葉に御座いまする。改めまして、郡王陛下におかれましては、此度の度重なる戦勝、お慶び申し上げまする」

 うん、ありがとう、と戰が応じると、ますます蔦は興奮を隠さず、胸に手を当て深い吐息を吐き出した。


 

 靴音が、どんどんと近付いてくる。

 蝉の鳴き声を、高鳴る胸の音は、いとも容易く打ち消してしまっている。

 胸の高鳴りに合わせて、お腹の中の御子もいつもより激しく動いているようだ。内側から忙しなく形を変える腹を、懸命に撫でる事で自らも落ち着かせようとするが、上手くいかない。


 椿姫の隣では、薔姫が小さな手を震えさせながら、白くなるまで固く握り締めている。どうにも気持ちが落ち着かないのか、そわそわと身体も揺れはじめた。

「つ、椿姫様、わ、私、やっぱり外に出てる!」

「薔姫様?」

 叫ぶなり、薔姫は仔栗鼠のように駆け出した。止める間もない。手を伸ばしかけたが、身動きが取れない身体では、後を追えない。しかも、どんどんと靴音が高くなっている。


 しょ、薔姫様!? 

 どうしましょう――

 でも、でも。


 もう、すぐ其処まで、愛しい人の靴音は迫っている。

 目蓋を閉じなくても、直ぐに思い浮かべる事ができる、愛しい人が、すぐそこに。


 会いたい。

 ――早く、早く、早く。

 早く来て――

 会いたい、会いたいの、戰。


 部屋に居る椿姫を支配するのは、その思いだけだ。

 ざわめく空気が、重なる複数の靴音と、胸の鼓動しか聞こえなくしていた。

 遂に。

足音が、戸口の外で、ぴたり、ととまり声がかけられた。

「椿」

 愛おしい人が、胸を、いや全身を焦がして待ちに待った夫の声が、自分の名を限りなく深い情愛を込めて、呼んでくれている。

 夢でも、幻でもない。

 目の前に、彼は立っているのだ。


「――戰!」

 涙を流しながら、愛しい夫の名を椿姫は叫んだ。

 両手を広げるのと、戸が開け放たれ男が飛び込んでくるのと、ほぼ同時だった。

 その大柄な身体をつきからは想像も出来ぬ身軽さで、戰は目も眩む素早さで椿姫の元に駆け寄っていた。気が付けば、戰の腕の中にしっかりと抱きしめられる自分を感じ、椿姫の頬を濡らす涙は、ますます輝きを増す。


「今、帰ったよ、椿」

「……戰、戰」

「心配ばかりかけて、済まなかったね」

 背中に回された腕に力が入ったのを感じ、椿姫は首を左右に振った。

「お帰りなさい……お帰りなさい、戰」

「ああ、ただいま、ちゃんと無事に帰ってきたよ」

「ええ、ええ……」

「お腹の子は、どうしている? 元気かい?」

「ええ、とても元気よ。戰に似て、すごくおやんちゃさんなのよ」

「ん? 私はそんな、やんちゃな子供で知られてはいなかったぞ?」

「あらでも、虚海様が仰られていたわ。皇子さんはな、小さい頃はそらもう、やんちゃ坊主でな、そらぁ扱いにゃ苦労したもんなんやで? って」

 虚海の口調を真似てみせる椿姫に、戰は、真を真似て首筋に手を当てて後ろ髪をかきあげる。

「参ったな。お師匠様に、何をある事ない事吹き込まれたんだい?」

「あら、ある事ない事? それなら、『ある事』にあたる分は、何かあったのね? 小さな頃の戰は、どんな悪さの武勇伝を残したのかしら? 知りたいわ。今度、虚海様に聞いてみなくちゃ」

「……椿、いやもうその……本当に、勘弁してくれないか……」

 暫し、二人で顔を見合わせあうと、何方からともなく笑みが溢れた。

 二人の間に、漸く、穏やかな空気が生じた。


 改めて、椿姫が横になっている寝台に、戰は腰を落ち着けた。

 肩を抱いて、椿姫を引き寄せる。身体ごと預けるようにして、椿姫は甘えた様子で頭をもたれかけさせてきた。その程度ではびくともしない広い胸の中に、愛おしさを込めて、戰は包み込むように抱き止める。

 暫く、お互いの体温と鼓動を感じあっていたが、戰は、遠慮がちに腕を解くと、大きく膨らんだ椿姫のお腹に手の平をあてた。ゆっくりと何度も何度も、確かめるように撫でる。すると、戰の手の動きに合わせるように、お腹の形がみるみる変わっていく。

 お!? と戰が小さく感嘆の声を上げた。

「すごいな、この間とは比べものにならないくらい、元気に動いている。そうか、私が父親とわかってくれているんだな」

「違うわよ、いつもこんな調子なの」

「いや、違うよ。私が帰ってきたのを喜んでいるんだよ」

「そうかしら?」

「そうだよ、ほら、私の手の動きをこんなに追っているじゃないか」

「そう? それじゃあ、そういう事にしておきましょう」

「全く、母親というのはずるいな。お腹に御子が宿った途端に、子供の事は何でも知ってるとばかりに親として偉ぶるのだからね。父親は、産まれてくるまで父親ぶってはいけないのかい?」

 誂い口調の椿姫に、真剣な表情で唇を尖らせ気味に訴えていた戰は、ふと、彼女がじっと見詰めているのに気が付いた。

 大きく膨らんだお腹を、軽々と覆ってしまえる程、戰は大きな手をしている。

 その手に、椿姫が、自分の白く細い指を添えてきた。


「そうね、戰……御免さない。きっと、貴方が帰ってきてくれた事を、お腹の子も喜んでいるのね」

「ああ、そうだよ、椿」


 見上げる視線が、熱と湿り気を帯びるのを感じた途端、椿姫が再び戰の首筋に縋ってきた。

 泣きじゃくりながら、椿姫は戰の首に腕を絡めて濡れた頬を摺り寄せてくる。

髪を撫でながら、戰もまた長く頒たれたままであった愛しい少女の全てを受け入れる。

 いつしか、絡みあうのは腕だけではなくなっていた。互いの、熱い吐息と唇を自然に求めて、繰り返し繰り返し、重ね合っていた。

 


 ★★★



 椿姫の部屋で待っていられなくて、思わず飛び出した勢いのまま、薔姫は夢中で走り続けた。

 殆ど前を見ずに走っていると、どすん、と何かにぶつかる。


「きゃっ!?」

 叫び声を上げた薔姫の手を、掴んで支えてくれる腕が現れてくれたお陰で、転ばずに済んだ。が、その手をとってくれた人が、一番会いたくて、でも会うのが怖い人であると知り、薔姫は、あっ……! と息を飲んで言葉をなくしてしまう。

「大丈夫ですか、相変わらずですねえ、姫は」

「……」

 声までにこやかな人の顔を見ていられず、とても答えられなくて、俯いてしまう。

 すると、むに、と音がしそうな感じで頬を抓られて、薔姫は慌てて顔を上げた。

 目の前には、腰を下ろして同じ目線になっている、夫である人の顔がある。


「……我が君」

「はい、なんですか?」

「……お」

「お?」

「……お、怒ら……ないの……?」

「おや、姫は奇特な人ですね? 怒って欲しいのですか? そもそも、何を怒らないといけないのです?」

 だって……と、矢張歯切れ悪く呟く薔姫の額が、再び下がっていく。其処に、暖かい手が当てられて、薔姫のが大きく見開いた。

「姫は何か私に、酷く悪い事をしたと思っているのですか?」

「……う、ううん……! ち、違う、の、そうじゃ……なくて……そんなつもり……じゃ……」

「私も思ってないですよ」

「え……?」

「私は、姫に何か酷い事をされたとは思っていませんよ」

「わ、我が君……」

「姫が自覚もなしに悪さをされたのなら、ちゃんと怒ります。でも、姫がしてくれた事は、椿姫様と戰様の為、お腹の中の御子様の御為、ですよね。そしてそれから……――」

「……それから……?」


 いえ、と真は言葉を切る。

 見上げてくる幼い妻の瞳に浮かぶ涙が余りにも大きく、よくも転がり落ちない、と此方が目を見張るほどだった。真は、懐にしまっている小さな晒を取り出すと、の端に当てて静かに涙を拭ってやる。驚いたのか、薔姫が勢いよく顔を上げた。


「優しい人の優しい気持ちから出た言葉、それは嘘とは言いませんよ、姫」

「……」

「椿姫様のお気持ちを、大切にしたかったのですよね?」

「……うん」

「戰様に、心配をかけたくなかったのですよね?」

「……うん」

「お腹の御子様を、自分たちで助けて差し上げたかったのですよね?」

「……うん」

 額から手を離すと、再び真は、言葉を切った。


 それから。

 それから、私を気遣って下さったんですよね、姫。

 ――頼りない、情けない、戦いが嫌いだといって憚らない、悪い良人おっとですから、私は。

 謝るのは、謝らなくてはならないのは、私の方ですね。

 本当に。

 済みません、姫。


「……我が君?」

 口をつぐんでしまった真を、薔姫姫が伺うように僅かに小首を傾げて見上げてきた。

 やはり怒られるのか、と小さくなっておどおどしている様子の幼い妻のか細い声がにハッとなり、真はなるべく穏やかに笑いかけた。

「それなら、嘘なんてついてはいないじゃないですか。謝る必要が、何処にあるというのです、姫?」

「……だって」

 再び手を薔姫の額に寄せると、真は、綺麗に揃えられた前髪をくしゃくしゃと掻き回す。


「さあ、この話はもうお仕舞いにしましょう、姫」

「……我が君……」

「只今、帰りましたよ、姫」

「……わ、我が君ぃ……」

「ほら、姫、いつもの元気は何処に仕舞ってしまわれたのですか?」

 短な逡巡の後、意を決したのか、薔姫が真っ直ぐに真を見上げた。


「――お、お帰りなさい……! お帰りなさいませ、我が君、お、お疲れ様でした……!」


 はい、と真が答えると、薔姫が、泣き笑いの顔で勢いよく真の首筋に飛びかかる。


 泣き吃逆で揺れる小さな背中を、真は優しく、しかし力強く抱き寄せた。

 


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