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覇王の走狗(いぬ) ~皇華走狗伝 星無き少年と宿命の覇王~  作者: 喜多村やすは@KEY
六ノ戦 落花流水

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3 のぞみ その3

3 のぞみ その3



 夏の風は暑いものだが、勢いよく駆け抜けていくそれは心地いい。

 しゅわしゅわと囂しい蝉時雨が、木陰に降り注いでいるのが見えるようだ。

 大きく前にせり出した腹を、愛おしげに、何かを語りかけるように撫でながら椿姫は、部屋からの風景を楽しんでいた。後1か月もすれば、誕生の予定を迎える御子は、お腹の中で、元気にぽこぽこと動き回っている。

「これ、そんな風に暴ればかりいては駄目よ? おやんちゃさん?」

 手の平を通して伝わるの腹の中の御子の活発さに、ついつい、口元が緩んでしまう。

「最初の知らせから数えたら、もう少ししたら、あなたのお父様が帰ってきてくれるのよ? だからそれまでの間に、いい子になる事を覚えましょう?」

 答えるように、お腹がぐにゃりと大きく波打つ。返事をしている訳ではない、と分かってはいても、余りにも間が良すぎて、ふふ……と笑みが溢れて仕方ない。

 

 真の同腹妹いもうとであるあいの生誕祝と前後して、芙と時から報せが入った。

 芙からは、戦は大勝を収めて収束した事、それ故に今後恐らく禍国が起こすであろう行動についての予想、そして杢が怪我を負った為、帰国の道程はどうしても緩やかにならざるを得ないこと、しかし御子が産まれる前には必ず帰国する旨を伝えられた。

 時からは、禍国の情勢、即ち、芙から教えられた戰と真の予測がほぼ的中している事が告げられた。芙の報せを先に受け取っていた椿姫は、時に、祭国は動かず、と兵部尚書・優が帰国したならば伝えてくれるように返信を認めた。


 ――だって、あの人の気持ちは私と同じ。

 禍国で起こる事態を見越していながら、そのままでよいとした態度で判ってしまうのだ。

 学に。

 兄であるかくの希望、夢、願い――

 全てを血統と共に受け継いで、為政者として成長しようとしてる学に、この祭国を継がせたいと、戰は願っているのだ。

「そうよね、戰」

 其れは、戰の妻として、妃としての確信だった。

 そしてつい先程。

 禍国に帰国し、蛇蝎蠢く王城で孤軍奮闘中の兵部尚書・優が、自ら認めた書簡を手にした舎人が密かに椿姫の元を訪れたばかりだった。

 兵部尚書・ゆうの書簡には、戰や真の予想の範疇外の情勢が連ねられていた。珍しく、書面から優ほどの人物の動揺が見て取れるほどであった。

 が、椿姫は、今は動くべきではない、時期を窺うときであるとして、手出し無用と判断した。戰と真が帰国して協議を重ねたとしても、同じ判断を下すだろう、という自信があった。


 ――戰、私、間違っていないわよね……?

 何れ。

 このお腹の子が成長したならば。

 学と共に、政治と戦に向かい合う事になる。

 その時の為に、戰が二人にどのような道を作り上げておいてやりたいと願っているのか、と想像した時。

 椿姫には、戰がとる行動が、真が彼の為にと示す言葉が、はっきりと見えるのだ。

「戰……」

 お腹を優しく撫でながら夫の名を、椿姫は呟く。

 夏の、生命の熱気と活気が綯交ぜになって溢れる風が、妃の顔付きの彼女の頬を励ますように、通り抜けていった。



  ★★★



 部屋の主に対して遠慮がちに声がかけられ、静かに戸口が開けられた。

 つたが、那谷なたと共に薬湯を手に椿姫の居室を訪れたのだ。彼女は寝台の上に上体を起こしていた。窓の戸を開け放ち、外の風景を、口元に微笑みを湛えて見詰めている。

 月の妖精せいに例えられる美貌の持ち主の椿姫であるが、彼女の微笑みは、陽のあかりの元でこそ、より相応しい。子を腹に宿してより一層麗しさが増した椿姫の姿に、蔦と那谷は思わず、ほぅ……と感じ入った嘆息を零さずにはいられない。

「姫様」

 声を掛けるとゆっくりと振り返り、にっこりとした笑みを零してみせる。そんな姿は、まだ少女めいている。


 椿姫の体調が劇的に安定に向かったのは、戦の途中で抜け出した戰が駆けつけてからだったが、ここ数日はより、体調が良いのだろう。起き上がり、肌には幾らか張りと赤みが戻り始めている。何よりも、気持ちを入れ替えようと、自ら進んで外の風景を愛でるようになったきた。

 良い兆候である、と蔦と那谷は密かに視線のみで頷きあうと、椿姫に近寄った。

「さあ、姫様、朝のお薬湯に御座いまするよ」

 はい、と素直に、蔦が差し出した盆の上の薬湯を受け取った椿姫は、嫌がるそぶりも見せずに、静かに杯を仰いだ。飲み干すのを見届けると、那谷が進み出て、失礼します、と彼女の手首をとって脈診を始める。

 しばし、を伏せて脈に集中していた那谷であったが、目蓋を開けると同時に声を和らげた。

「今日は、随分とご気分がよろしいようですね? 脈が太く、安定しておられますよ」

 ほっ、として微笑む椿姫に、那谷は何度も力づけように頷く。

 次に、撫でていた腹に手を置いて、順を追って片怒りのような張りはないか、凝りはないか、掌全体で探り入れるように触れていく。途端に、お腹がうねうねと波打ち始める。呆れるほど、お腹の中で縦横無尽に動きまわっているようだ。

「お腹の中の御子様も、本日は事のほかお元気そうで、ご機嫌麗しいご様子ですね」

「いいえ、那谷殿、本日は、ではなく本日も・と言い直さねばなりませぬよ」

 那谷に蔦がおどけて答えると、三人の間に笑い声が上がる。

 そして、手首近くにある外関がいかんというつぼ(・・)を、柔らかく刺激し始める。流産予防に効果のあるつぼのひとつだ。

「痛みますか?」

「いいえ、最近は、さほど」

「そうですか、それでしたら矢張り、産み月にむけて体調が良くなってきておられる証拠で御座います」

 那谷の言葉に、蔦が、宜しゅう御座いましたな、と何度も頷き、答えた。



 再び戸口が、今度は元気すぎるほど元気に開けられた。

 温かな湯を張った桶を手にした珊と、晒しを山と手にしたしょう姫。

 そして、両手が塞がっているからと平気で足で戸口を開け放った珊に、困った子だこと、と呟きながらそのが入ってきた。

「椿姫様、お加減はどう?」

「椿姫様ぁ、調子どぅお?」

「有難う、薔姫様、珊、今日はとても気分がいいのよ」

 空になった薬湯の入った椀を見て、薔姫がわあ、と声を上げる。

「椿姫様は、いつもちゃんと一息に飲み干すのね」

「え? ええ、そうよ、どうして?」

「だって、我が君だったら、それでなくても病気で苦しんでいる人間に、更に苦薬湯を飲ませて苦しめるなんて酷い、とか、元々薬湯は苦いのに態々更に『苦』を付けるなんて正気の沙汰じゃない、とか何とか、文句ばかりぶつぶつ言って、なかなか飲もうとしないんだもの」

「そうそう! 飲んだ後の口直しのおやつが出てくるまでは、絶対に受け取らなかったり、ねー」


 珊が、飛び上がりながら、ぺちん! と頭上で手の平を打ち合わせる。

 うふ、と肩を窄めて笑いつつ、薔姫は、晒を広げて畳み直し珊の持ってきた湯に浸した。心得たように、那谷がそれでは、とこうべを垂れつつ、部屋を下がっていく。懐妊中の王族女性への処置は、基本的に女性が行うからだ。

「姫様、失礼致しまするよ」

 言うと、蔦が椿姫の寝間用の着物の帯を、静かに解いてゆく。抵抗せずに受け入れた為、しゅるり、と衣擦れの音をたてて帯は解け、はらり、と衿が緩んだ。


 上衣をはだけると、ふっくらとまるい腹が、せり出ているのが良くわかる。小柄な椿姫には不釣り合いな程に、前に突き出るようにしているのだ。

 薔姫と珊が、晒で椿姫の身体をふき清める間、蔦は彼女の髪の汚れを拭う。全てが終わると、苑が椿姫の足に集中してある妊婦に適した、陰白、行間、竅陰きょういんというつぼを刺激していく。全て刺激し終えると、くるぶしにある三陰交、内膝にある血海と次々と刺激を続ける。

 流産予防のつぼを施術し始めた当初は、余りの痛みに涙を流して叫んだ椿姫だったが、最近は顔をしかめる程度だ。体調が整いだし、つぼの刺激に堪えられるようになってきたらしい。

 最後に、腹にある関元というつぼを撫で摩るように刺激していく。全てのつぼを刺激するのは大仕事だ。うっすらと額に汗を滲ませながらも、跪くような体制で黙々と作業をこなし続けていた苑が、ふと、椿姫を仰ぎ見た。せり出た腹を撫でながら、優しく語りかける。


「このお腹の形からすると、きっと男御子様でしょうね」

「そうなの? 苑には分かるの?」

「こうして前に腹がせり出るのは、男の子だと世間様では言います。それに、ほら、こんなに元気にお腹の中で動き回っておられるのですから、男御子様に相違ございませんよ」

 苑が言う間にも、御子が応えるように元気に動き、腹の形がみるみるうちに変わる。男御子であろうと女御子であろうと、相当な暴れん坊の御子である事は、間違いなさそうだ。

「そうだとしたら嬉しいですけれど……ううん、今はどちらでも良いの。元気に生まれてきてくれたなら、それで」

「ええ、ええ、そうですわね。でも大丈夫ですわ。皆も、私も、お力沿え致しますから。姫様は、ただ御子様と陛下を思っていて下されればよろしいのです」

「苑……」

 蟠りのない、義理の妹の体調を案ずる優しさに満ちた声音に、椿姫は痛みとは別の涙をの端に浮かべた。



 ★★★ 



 不意に、廊下が騒がしくなった。

 何事かと部屋にいる皆で、順に顔を見合わせる。 

 がなりたてる声が帯のようにたなびきながら、どんどんと此方に迫ってくる。

「克?」

 耳をそばだてていた珊が、声の主らしき人物を特定した。

 細い眉を跳ね上げながら、唇をつん、と尖らせる。今や祭国の軍備を掌握しているに等しい地位にある彼が、こんなに慌てふためいていては周囲が、特に椿姫やしょう姫が不安がるというのが、何故わからないのか?


 ――なにやってんだよぅ、馬鹿克のやつ。どれだけ頭の中まで筋肉でカチカチなのさ。一発、がん、とぶん殴って目ぇ覚ましてやんなくちゃ。

 腕捲くりせんばかりにして待ち受ける珊の目の前で、果たして、どかどかという荒々しい、無粋な靴音と共に、扉が開かれた。

「女王陛下! ご無礼は承知の上のこと故、お許しを!」

 勢いよく飛び込んできたのは、やはり、克だった。

「ちょっと克! あんた何やってんの!? 姫様とお腹の御子様がびっくりしたら、どうすんのさ?」

 珊は、噛み付かんばかりに克に吠えかかる。

 ぽかり! と拳を脳天に喰らわせた珊に、克は、ああすまん、と全く悪びれた様子も堪えたみせない。適当に手を振って答えつつ、克は珊を押しのけて、汗塗れのまま、ずかずかと椿姫の横たわる寝台に近づいた。

 そして、唖然とする椿姫の前に、克は両膝をついて跪き、最礼拝を捧げた。全身が、震えている。


「女王陛下、お慶び申し上げます!」

「克?」

「只今、国境守護を担当する関所よりの早馬にて、凱旋帰国の途につかれていた郡王陛下が到着なされたとの報が届きました!」


 一瞬。

 部屋にいた全ての人の動きがとまり、言葉も消える。

 次の瞬間。

 部屋の中は、喜びの渦が爆発した。


 口元を手で覆って涙を流す椿姫に、薔姫が抱きつく。

 立ち上がりかけた克に、珊が飛びかかる。

「克ってば! この馬鹿たれのおたんちん! そんないい知らせは、もっと早く伝えに来いっていうんだよぅ!」と、首を締め上げながら叫ぶ。

 珊に締め上げられて目を白黒させて助けを求めている克に、蔦が笑いながら救いの手を差し伸べる。

 そんな彼らを、苑が涙を静かに拭き取りつつ、見守る。


「椿姫様、わ、私、お家に一度戻るわ。お母上様と娃ちゃんにも、我が君が帰って来るって、早く教えて差し上げないと!」

「あ、それなら主様ぬしさま! あたいも姫様と一緒に行くよぅ! 芙が帰ってくるって、みんなに教えてやりたいよ!」

 喉に手を当てながら、げほげほと咳き込む克の背中を撫でつつ、蔦が頷くと二人の少女は、晴れやかな笑顔で手を繋いだ。そして、旋風つむじかぜのように、部屋を飛び出していく。

「やれやれ、に御座いまするなあ。克殿、どうですか? 落ち着かれましたか?」

「は、ははは……は、はい、な、何とか……」

 意識している訳でもないのに、蔦を目の前にすると勝手に頬が赤くなる克が、いやどうもお世話をおかけしました、と膝や尻に付いた誇りを払いつつ立ち上がる。

「女王陛下、私も守護役に戻ります。お騒がせ致しました、どうぞ御心を安んじられ、郡王陛下がお戻りになられるまでごゆるりとお休み下さい」

「ありがとう、克。関を守る皆にも、兵役に就いている皆にも、どうかよろしく伝えて下さい」

「勿体無きお言葉、恐悦至極に存じ上げます。皆も女王陛下の御言葉に感じ入り、より真心込めて尽くす事でしょう」

 興奮のままに再び最礼拝を椿姫に捧げ、克も部屋を下がっていった。

 


 ★★★



 部屋に、椿姫と蔦、そして苑だけが残される。

 椿姫が、ふと視線を上げて、蔦に目配せする。

「姫様」

「なにかしら、蔦」

わたくしは、施薬院に居られます虚海こがい様と那谷なた様に、お伝えしてまいりますほどに」

「ありがとう、頼みますね」

 全て心得ておりまする、とばかりに蔦は艶然と微笑んで、静かに部屋を去っていった。


「椿姫様」

「どうしたの、苑」

「私も、学に郡王陛下方の帰国を、知らせてまいりますわ」

 礼を捧げて下がろうとする苑を、椿姫は呼び止めた。


「待って、苑。その前に、大切な話があるの」

「――はい」


 ただならぬ椿姫の様子に、苑も表情を引き締める。

 きゅ、と一度唇を固く閉じ、ついで大きく息を吸い込むと、椿姫は苑の目を真っ直ぐに見詰めた。

「苑、もう直ぐ、戰が帰国します」

「はい、椿姫様」

「そうしたら……そうしたら、私は、この祭国の女王の地位より下がり、戰の妃としての立場にのみ、専念したいと思っています」

「え……」

 苑が、大きく目を見開き、息を呑む。

 それが意味する先を思い、動揺に瞳が激しく揺れる。


「私たちは学に、お兄様と貴女の子である学に、この祭国を継いで欲しい。あの子に、この国の王になって欲しい。そう願っているの」

「つ、椿姫様、でも、それでは」

 苑の声が狼狽えている。

 学は、最近とみに、聡明かつ俐発な部分を周囲の大人たちに見せつけ始めている。英明かつ傑物で知られた父親、王太子・かくの血を確かに受け継いでいるのだと、無意識に知らしめんとしているかのように。人々は、そんな息子を、感嘆の声をもって、暖かく見守ってくれている。


 ――流石に、学様は王太子殿下であらせられた覺様の御子様なのだ、と。


 だが特に苑が目を見張ったのは、学が戰の言葉を思い出し、己の采配で御免状を認めた時だった。

 この先。

 息子が歩むべき道が見えたような気がした。

 父親・覺の意思を継いで、上下の隔てなく等しく、この祭国の民の為に身を捧げ尽くすべきなのでは、と。

 けれどそれは、祭国の女王である椿姫の女王の御位からの退位と、郡王である戰の承諾と後ろ盾を得なければ叶わぬ事だ。

 女王である椿姫も、郡王である戰も、祭国の民に慕われている。

 この2年あまりの間に二人が為政者として、国に広げた政策の数々を思えば当然だ。まるで別天地かと思われるほど、国は豊かになり始めている。

 そんな彼らを、領民は、尊崇の意を持って仰ぎ見ているのだ。


 苑からみれば、そもそも、二人とも出自が違う。

 女王として即位した椿姫は、国王・順と王妃・はぎの間に生まれた王室の血統を受け継ぐ姫君であり、郡王として赴任してきた戰は、軍事超大国である禍国のれっきとした皇子なのだ。

 だが、学は違う。

 母親である自身はただの采女の身分であり、かくからちぎりの証である承衣を得たのみ。王太子であった時の王后・萩は、学の血筋を疑い疎んじた為、苑は、王太子であったかくの後宮に入る事すら許されなかった。

 この恨みをどうしても拭えずに、面会した当初、苑は椿姫を拒絶したのだが、今はそれこそが、己の卑しき血がなせるわざであったのかと思えるほどの恥ずかしさを覚えている。

 この母にして、この子あり、と思わせてはならないと思っている。

 だからこそ、申し出を躊躇逡巡していた。

 己が子の立身栄達と、我が身の栄耀栄華の為に、学を、覺との間にできたあの子を、王座に据えたいと願っているのだと、思われたくなかった。


 それに、間近で郡王である戰と妃にして女王である椿姫、二人の立場を見るようになって気がついたのだ。

 今、椿姫の腹に宿っている御子。

 この御子は、眼前に、禍国における兇悪無情な帝位継承者争いが迫っている中で、産まれてくるのだ。

 御子が男御子であった場合、先々の事を考えればこのまま、祭国の王子として育った方が良いのではないか?

 長じて考えた時。

 禍国での戰の立場が悪くなった場合に、祭国の王位継承者として成長した方が、御子はより身の安全を測れるのではないか、と思ったのだ。


 そんな事はないと思いたいが。

 もしも――

 ――もしも、郡王・戰が禍国の政争に敗北した時。

 政争の相手である王太子・天と二位の君・乱が、彼を許すとは思われない。

 当然、彼らは勝利すると共に、命を奪う命令を下すだろう。

 同時に、椿姫と御子の命が狙われるのも、目に見えている。


 しかし。

 そう、しかし。

 椿姫が、祭国郡王の妃ではなく、祭国の女王という立場を貫き、産まれてきた御子はその継承者の王子であるという立場であるなら。

 郡王としての戰が、此れまで枝葉を広げてきた人脈が、二人を守ってくれるという確信が、苑にはある。

 句国王・玖が良い例だ。禍国の王室の思惑をものともせずに、椿姫と薔姫を警護して祭国に無事に連れ帰ってくれただけでなく、この国を思って様々な知恵も授けてくれた事実が、苑の考えを是と後押ししてくれている。

 我が子の決意を確かめた後とはいえ、いやだからこそ、椿姫と御子の立場をより大事として考えねばならない、と苑の心は千々に乱れていたのだ。



 椿姫の言葉は、苑の迷いを一気に払拭する言葉であるとはいえ、いやそれ故に、受け入れて良いとは到底思われない。

 ――どうしたら? 

 ああ、覺様。

 私は、学と椿姫様と御子様の御為に、の道を選ぶべきなのでしょう?

 普段は冷静である苑が、気持ちも考えも整理しきれず、狼狽しきっていた。


「椿姫様、わたくしは……」

「苑、貴女が心配してくれているのは、わかっています。わたくしと戰の子の事を、大切に思ってくれているのね?」

「姫様、私は……」

「ありがとう、とても嬉しいわ。でも、どうか私たちの申し出を断らないで欲しいの」

「……姫様、此度のお話、私と学に対する罪滅ぼしの意味で、という事でありましょうか? もしもそうであるならば、その様なお気遣いはどうか……」

「いいえ、苑」

 椿姫は、苑の言葉を遮った。大きく突き出たお腹を撫でながら、微笑む。


「私は、女王です。この国の為を、最も考えねばならぬ立場です。その立場での考えです。この先、私は戰の妃として彼を支えねばならない時間が多くなります。ですが女王として、この国を疎かにする事も出来ません。でも、私の身は、ひとつきりしかないのです」

「でも、でも椿姫様……」

「もしも、私しか祭国の王室を継ぐべき者がいないのであれば、私は女王として国に尽くすべきなのでしょう。けれど、この国には、もう既に立派な後継者が育っているのです。私は、学がこの国の王として即位する事に、なんの憂いも感じていません。戰の妃として添いたいという願い以上に、学、あの子にこそ祭国の王としてこの国を盛り立てていって欲しいのです――お兄様の意思を、継ぐ王子として」

「姫様。姫様の美心は嬉しく勿体無き事と、涙を禁じえません。ですが、ですが郡王陛下はどのように思われますでしょうか? このような、国の行く末を断じる大切な事柄を、ご相談もなしに決断されてはなりません」

 思い止まらせようと必死になる苑をに、椿姫は、逆に誂うように、くすりと笑ってみせる。


「苑、なにを聞いていたの?」

「つばき……ひめ、さま……?」

「最初に言いましたよ? 私たちは、と」

「……」

「戰の考えを一番良く知るのは、私です。私の気持ちを一番大切にしてくれるのは、戰です。私には、分かるのです、戰も、学にこの国の王となって欲しいと願っているのだと。そして戰もわかってくれています。私が、学にこそ、亡きお兄様が夢見た国を作り上げて欲しいと望んでいるのだと」

 いつの間にか、苑は椿姫の手をとって縋っていた。頬が、濡れはじめている。


「そして学は、既にお兄様の御子として立志したいと自ら名乗り出る行動を立派に示してくれました。ですから、後は、苑。貴女次第なのです。学を――この国の王として、即位させる事を、認めてくれますか?」

「姫様……」

「此れまで、貴女はこの国の犠牲になり続けていました。母の身となる日が迫る中、貴女の気持ちが痛いほど分かるの。私のお母様の仕打ちが、どんなに非道なもので、貴方に如何に辛く哀しい日々を送らせてしまったのか」

「……」

「本当に、許される事ではないと思うわ。だから、私たちの申し出が、如何に都合の良いものであるのかも、重々承知しています。国の為に学を差し出せ、と云う無情に等しいこの申し出を、貴方が、否、と言うのであれば、これ以上何も言いません。でも――」


 椿姫の手をとっている苑の指先に、ぐ、と力が込められた。

 言葉を切った椿姫に、苑が首を激しく左右に振る。


「どうか、どうか、椿姫様。学を、覺様の御子としてお認め下さい。この国に尽くせる立場に登れる身に、してやって下さい。あの子を――学を、どうか、王としてお認め下さい」

「苑……いいえ」


 言葉を切ると、椿姫は大きく息を吸い込んだ。

 そして、出会った日からずっと、呼びたくて堪らなかった呼び方で、苑を呼ぶ。


義理姉様おねえさま



 義理の姉の頬を濡らす涙を、椿姫はそっと手の平で拭う。

 その彼女の頬もまた濡れており、苑が手を伸ばして晒で拭う。


 互の涙を拭きあった後、二人は、照れくさそうに、肩を窄めて小さく笑いあった。

 


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