3 のぞみ その2
3 のぞみ その2
いよいよ。
新たなる王と王妃の婚礼が、灼と涼との縁が結ばれる儀式が始まる。
遼国、及び河国、那国においては王族のそれは、嘉礼と呼び習わされている。
その嘉礼を目前に控えて、そわそわと落ち着きなく身体を揺すっているのは灼の方であった。
眼前の涼が、灼にはひどく眩しくてならない。
涼は、亜茶が万事抜かりなく整えた宝衣を、作法に法って飾り立てられている最中だ。全身を蝕むように行われるそれは、何しろ時間ばかりが喰う作業で、とてつもない忍耐を強いられる。灼は燹に対して、何度も癇癪玉を爆発させたのだが、涼はその名のとおりに涼しげに微笑んで、亜茶たちの好意を受け入れている。
――美しいな、似合う。流石、吾が見込んだ娘だ、まるで神の御使のようではないかよ。
眉目の秀麗さの度合いで云えば、戰の妃となったという祭国の女王の方が数段勝ると皆が口を揃えるだろう。だが、惚れた弱みか盲目心からか、灼には涼ほどの麗しさは存在しえぬ、と確信をもって言い切れた。
真紅を基調とした翟衣と濃紺の肩巾には、黄金の糸で刺繍を施されている。正妃の装いは、涼を鮮やかに彩り、輝かせていくばかりだ。
王室の先祖伝来の刺繍を縫い合わせた翟衣に身に包んだ涼の典雅な様子は、目に眩しく、心がかき乱されて仕方が無い。
――この娘と、共に象牙の笏を手にし、南面した王の座を目指すのか。
儀式を戰と優とが見届け、無事に終焉を迎えれば。遂に、彼女を、胸に存分に抱きしめられるのだ。
思うだけで、灼の体内の奥に潜む熱が、一段あがる。
涼の立王后は、河国王太后・伽耶の、方向違いもよい処の嫉妬からくる任命であった。が、灼はお陰で、涼をこの腕に抱きたかったのだと自覚できる良い機会となった。
――吾は、此処まで涼に惚れておったのかよ。
自覚したは良いが、今度は、まだ若木のような娘である涼を、どう導いてやったものかと戸惑う。此れまで、どうやって女たち愛してきたのか、さっぱり分からない。
まるで女を知る前の童ではないか、郡王を笑えんではないかよ、と自身の不甲斐なさを笑いながらも、灼は涼に堂々と見惚れていた。
★★★
王妃のみが身に付ける事を許される、鳳凰形簪が、涼の艶やかな髪の上で揺れている。嘴の先から長く垂らしている垂飾が擦れ合い、しゃらり、と涼やかな音を奏でる。利発な彼女の内面を表すように。
そのくせ、腰を超える豊かな長い髪が、歩く度に、たっぷりとしたひだをつくった裙の上で踊っている。物思わしげな様は、何処か健気だ。
元々、豊かな髪質なところに、鳳凰形のみならず、蝶や華形の珊瑚と翡翠を使用した七宝焼きの簪が惜しげもなく飾られる。素肌ひとつのみの素朴な美を愛でるべき娘であるが、見事に飾りたてられた姿は、付け入る隙が寸分もない流麗さだ。
相反するものが、同時に涼という奇跡の少女の美しさを演出していた。
そんな涼の背後で、口々に喜びと感嘆の声をあげ、自らの腕の良さを讃えてささめいているのは、亜茶を筆頭とした、女たちだ。
彼女たちは、この嘉礼の後、王妃・涼の手により国王・灼の正式な後宮の内命婦として、任命される。遼国では通常、5品以上の内命婦の女たちには専用の棟堂を与えられ、王妃が命名した堂名で呼ばれる。だが今彼女たちは、此処が河国の王宮である為、部屋しか割り振られていない。だが何れ国が整いだしたなら、涼の指揮の下、立派に代わっていく事だろう。
「お美しい。正妃の名に恥じぬ堂々たるお姿ですわ」
目を細めて、亜茶が涼を誉めそやす。
遠慮がちに微笑んで、御礼の気持ちを表す涼の慎み深さがまた一層、彼女を内側から輝かせているようだ。
涼が遼国伝来の作法による翟衣を身に纏っていられるのは、偏に、亜茶たちの尽力によるものである。此度の戦により河国だけでなく遼国も、相当数の伝来の宝物を、無くしている。河国は後宮の盗賊により、であるが、遼国は密かに闇に売り払う事で得た金で、国としての体裁を取り繕ってきたのだ。
国王と王妃の正装の衣も、その内の一つだ。
まだ、太子として館住まいの身分であった頃より添っている亜茶は、王太后との関わりも深く、女たちの中では一番王室の儀礼に近く親しんできた。亜茶は、女たちを総動員して、この短な期間に、その記憶を元に王と王妃の正装を整えたのだ。
「私どもの、意地です」
突貫の疲れを隠しきれもない中、それでも、亜茶はすらりと言ってのけた。
禍国の使節団の前にて、よもや嘉礼までも禍国の借り物で固め、愛しい男とその男が見込んだ娘を挑ませてなるものかという、女の意地だけで此処まで設えたのだ。
女というものは、いや女たちというものは凄まじい、の一言である。
★★★
涼が灼に最礼拝を施し、一端下がる旨を伝える。
遼国の王室の婚姻の儀は、まず、王が王妃となる娘が待つ宮へと、己の親衛隊を率いて迎えにゆく事から始まる。
祝賀舞踏が賑やかに催される中、王の来訪を受けた娘は、笏を授けられて王妃として認められ、称号を得るのだ。その後、共にまず北方に設けられた壇にともに上がる。国王は、東側、王妃は西側に相対して立ち、王妃の四拝礼を国王が受け、祝いの言葉を授けると、更に南壁壇と呼ばれる玉座へをともに目指す。
使節団、及び臣下の祝いの言葉を受け取り終えると、共に新居である宮殿へとさがる。
そして、初夜を迎えるのである。
亜茶が手を振るうと、涼の手をとり、腰を支えて彼女を支えつつ女たちも共に下がる。正妃の装いは、その見た目の荘厳華麗さ通りに、相当な重量がある。ひとりで歩き続けるには辛い、というよりも苦行に近いものがある。移動の際には、常に支え手がつくのだ。
灼が、涼の揺れる長い髪の後ろ姿を見送って、今宵の閨に思いをはせていると、亜茶が割り込むように話しかけてきた。
「陛下」
「なんだ、亜茶」
楽しみを邪魔されて、些か困惑気味に灼が亜茶を見る。手の甲で口元を隠しつつ、くすり、と意地悪そうに亜茶は笑った。
「陛下、一つご確認したき儀が御座います……宜しいでしょうか?」
「なんだ? 許す、言ってみろ」
はい、其れでは、とやはり亜茶はにこにこしながら答える。だが灼は、その微笑みに何か薄ら寒いものを感じて、う……と息を呑み、僅かに身を反らせる。
「陛下におかれましては、方便ではありますが国領が安定を見るまでの間、仮初に禍国への恭順の意思を示されるおつもりであらせられる、そうですわね?」
「ああ、そうだ」
眉を顰めると、額の刺青も共に歪む。
情けない事ではあるが、今ここで、禍国を敵に回しても良いことは一つもない。
戰と手を携える事が出来るまで、息を潜めているが正しい在り方だろう。
その一つとして、国法の大筋を禍国式に改める事にした。恭順追従の意思を示す為に差し出す宝物に、これといった決め手となるものがない以上。
国の根幹たるものを差し出す。
此れ以上のものはあるまいとし、灼は決定を下した。
臣下の中には当然の如く、鼻息を荒くするものが現れた。
「恐れながら陛下。禍国を宗主国として冊封体制をとられるおつもありなのですか? それでは支配する輩が、河国から禍国へとすり替わっただけの事に御座います」
当然の反応だ。
「吾には吾の考えがある。まあ見ていろ」
怒り肩で顔を見合わせる臣下たちを、灼は笑っていなした。
やがて、彼らは知った。
河国の支配者層のみならず、全国民の反感を押さえ込むのには、遼国の力だけでは弱い。いや脆弱過ぎると言い切れる。
しかし、背後に禍国がいるとなれば別だ。
遼国を透かしてみえる禍国の支配の影。1
1年前の因縁が見え隠れし、遂に自国は屈服させられたのだという怨嗟が生じるのに時間はかからない。
そしてその恨みは、既に遼国を飛び越えて禍国へと向かい出している。結果的に、禍国憎しの河国は遼国の支配を徐々にではあるが、受け入れ始めていた。
当初、この話を戰と真から持ちかけられた時、灼は臣下の怒りなど及びもしない勢いで食ってかかった。怒髪天を突く勢いで怒りまくった。
しかし気が付けば、真にいい様にいいくるめられおり、不承不承ながら受け入れてしまっていた。今は、案じて言葉をかけてくれた戰と真に感謝している。
確かに、下剋上的に河国を攻め滅ぼしたは良いが、自分たちは長らく河国の支配下にあったために他国との接点が極端に狭い。名を売るのに、背後の禍国をちらつかせるのは、悪くない手段だった。現実に、既に隣国の那国が動きを見せ始めていると燹が伝えてきている。
「遼国、という名は強大な国であると広める知らしめる為に、禍国を利用してしまえ、と程度に思っていて下されればよろしいのです。ついでに河国の民も楽々と味方にする事ができるのですから、これほど旨味のある話などは、そうそうありませんよ、陛下」
気に入りとなったらしい麦湯を呑気に口に含みながら、真はしれっと言ってのけた。
何を、と小憎らしく思いぶん殴ってやろうかと、暫くの間、腹に怒りを貯めていた灼であったが、事態が真の思惑転がりだしたのを見、考えを改めた。
――郡王の奴が、傍に置きたがる筈よな。
全く的を得ていたのだ、と今は感服している。
そんな訳で、此れから暫くの間、多くの仕来りを禍国式に改めねばならない。
皆が納得しきった事柄だ。
何を今更蒸し返す? と首を捻って訝しむ灼を、亜茶はやはりころころと笑う。
「陛下は、呑気な御方ですこと」
「……何が、だ?」
訳知り顔をして嫌な奴め、と唇を尖らせる灼に、しな垂れだかるようにして、亜茶は耳打ちしてきた。
「此れよりしばしの間、我が国は禍国式に王室を成していかねばなりません、それはご理解の上に御座いますわね?」
「ああ、そうだ、わかっている。其れを受け入れたのは、吾だ」
「西宮にお下がりになられた王太后・伽耶陛下は、陛下の義理の母上様、という事になりますわ」
「そうだな」
「という事は、身罷られた前国王・創殿は陛下の義理の父上様、という事になりますわね」
「そうだ」
くどくどと並べ立てる亜茶に、灼は辟易したように身体を引き剥がした。
その通りだ。
国王・灼の名で創の国葬を執り行い、国随一の忠臣として創に殉じた丞相・秀もまた、王族に準じる形で葬を行う予定だ。図らずも、秀を丁重に扱いたいという灼の存念が、民衆の意を此方に向ける事になるのは皮肉中の皮肉だろう。
その通り、わかっている。
諄い、と言いたげに眉根を寄せた灼に、亜茶は年の離れた弟を嗜める姉のように、微笑んだ。
「陛下」
「なんだ、くどくどと。言いたい事があるなら、言うがいい。亜茶らしくないぞ」
「禍国においては、家長にあたる御方が身罷られた場合、喪中に誕生した御子は、母方の家系に組み込まれる事になりますわ」
「――ん?」
「ですから、陛下が涼様と睦み合われて御子を授かったとしても、この喪中の間にお産まれになられては、御子は遼国の王太子として立てなくなります」
「……」
灼は返す言葉がない。
その事は、戰と真から聞いている。涼は邑令の族の出であるが、先の戦にて一族郎党を全て失い、天涯孤独の身の上だ。家門を次ぐ子は、彼女とても欲している事だろう。
だが最も優先されるべきは、国を次ぐ継次の御子だ。
何しろ、灼は王太子時代から添っている亜茶から数えて15年以上、閨にての女性を途絶えさせた事がないというのに、御子の一人も授かっていない。そのせいで、河国王・創の後宮の女たちは要らぬ修羅場を演じたのだ。
涼には御子を、灼の胤を、何としても腹に宿してもらわねばならない。
灼や、燹をはじめとした家臣たちだけでなく、亜茶を筆頭とした、内命婦となる女たちにとっても此れは切なる願いだ。
御子を、遼国を継ぐ健やかな王子を抱いた灼と涼に、慶びの言葉を捧げたいのだ。
「陛下」
「わかっている。だが、吾にどうせよと云うのかよ?」
憮然として答える灼に、亜茶はふふふ、と意味深げに声を出して笑う。
「喪があけるまで、実質2年余ですわね、陛下」
「ああそうだ」
「ですから、簡単な事ですわ。その2年間、陛下におかれましては、涼様にお手を触れなければ良いだけの事ですわ」
「はあっ!?」
頓狂な声をあげた灼を、亜茶はころころと笑う。
「ど、どうしてそんな話になる!?」
「あら、当然ではありませんこと? 涼様が順当に陛下の御子をご懐妊されたとしても、この2年間の間にご出産あそばされては、涼様のご家門の御子となってしまわれます」
「う、ぬ、ま、まあそれは……しかし、其れと此れとどう……!」
「私をはじめとして15年以上も、其れは其れは其れは其れは多くも、いいえ多すぎる程の女子に手を出してこられましたのに、一人も満足に胤をつけられなかった陛下の不甲斐なさを思えば、涼様がご懐妊されるのはもはや奇跡に近しいのですわ」
「い、いや亜茶……いやしかし、そのだな!」
「ここは何としてもどうあったも、涼様には絶対に男御子を、王太子殿下を宿して頂かねばなりませんし、涼様のお身体思えば、機会は無駄にしてはなりません。お健やかな御子を、憂いなく宿して頂く為には、百発百中、そう、一発で決めて頂きませんと」
「い、一発!?」
「はい。ですから此処はやはり、陛下にはしばし堪えて頂くのが順当であるかと思いますわ」
――此れから2年間もの間、愛しい女を目の前にして禁欲しろというのか!?
頭を抱えて悶絶し始めた灼の背に、くすり、と笑いながら亜茶が近寄る。幼児を慰めるように、とん……とん……とその背を優しくたたいた。
そして、そ……と小さく抓りあげる。
それは、気風の良い亜茶が見せた、最初で最後の、女らしい可愛いげのある悋気だったのかも、しれない。
★★★
禍国皇子・戰と兵部尚書・優の見届けの元、遼国王・灼と王妃・涼の嘉礼は滞りなく進んだ。
新たに国母となった涼は、文字通りに非の打ち所のない美しさを惜しげもなく披露した。燹を筆頭とした臣下のみならず、列席した禍国軍の将軍たちからも感嘆の声を上げさせた。
その、麗しの妃を得た、幸福の絶頂にある筈の国王・灼が、なぜか終始、苦虫を一気に1億匹噛み潰したかのような顰面で玉座にある事を、皆不思議がった。
ただ、亜茶をはじめとした後宮の内命婦の女たちだけが、くすくすと楽しげに笑っていた。
嘉礼を彩る、祝賀の舞踏が続く中、戰がどこか羨ましげに目を細めて灼と涼を見ているのに、真は気がついた。
「戰様? 如何されましたか?」
「ああ、いや……うん、その……椿にね」
「椿姫様が、どうかされたのですか?」
「うん……椿にもね、その、私の妃としての装いも、させてやりたかったな……と、今更思ってね」
急場の事であった為、戰と椿姫の婚姻は、本当に最低限の儀礼だけだった。椿姫は、かえって此方の方が良かったと言ってくれたが、彼女は、女王の即位戴冠儀式すら、仕方のない事であるが禍国皇帝の元で行ったのだ。正しい作法に則り盛大に行われたとはいえ、祭国の民は自国の女王の晴れ姿を目にし、ともに祝う事を許されなかった。
祭国という、歴史ある領国の民に慕われている椿姫に相応しい式をやはり整えてやりたいと思うのは、彼女を愛する男として、当然の事といえた。
「そうですね。禍国にたいして、これから先、学様のお立場も明るくして差し上げねばならない事でもありますし、帰国致しましたら、一度、話し合いましょう」
真が後押しするように明るく答えると、うん、と戰は童子のように嬉しさを隠さず頷いた。
★★★
嘉礼の翌日。
「長らく世話になった、灼殿。再び相見える日まで、壮健で」
「おう、此方こそ世話になったぞ。郡王よ、国に帰ったら存分に妃と腹の子を愛でてやれ」
途中で戦を抜け出した程、椿姫に惚れ込んでいる戰を誂う灼に、事情を知らぬ戰が明るく鉄槌を下した。
「灼殿も、早く御子が授かるといいな」
……ぐう、と顔を赤黒くして言葉を詰まらせる灼の横で、昨晩は穏やかな眠りの時をえていた涼が、不思議そうに夫となった男を仰ぎ見た。
灼と涼に、遼国王夫妻上げての礼を捧げられた禍国軍は、帰途に着いた。
河国の王都を堂々たる威風をならしての、歩みだった。
「では、兵部尚書、後を頼むよ」
「はい、陛下、お任せ下さい。――私からも、杢をどうかよろしくお願い致します」
うん、と戰が頷くと、千段も主を真似てか、ぶるる・と小さく首を振るって嘶いた。杢は、燹が手配してくれた大型の戦車を改造した馬車の中で横になり、芙が付き添ってくれている。
ちらり、とそちらに視線を走らせた真の顳に、優の鉄拳が飛んだ。馬上の事なので、当然、真は慌てて縋る様に、馬の首に抱きついた。息子の為体をしばし呆れたように、優は嘆息した。
「真」
「――はい」
声をかけられるとは思っていなかった真は、首筋に抱きついたまま、目を丸くする。
「杢に無理をさせるな」
「分かっております」
「それとだな、もう直ぐ、娃の生誕祝があるだろう」
「はい」
星見を授けられた娃は、この誕生日に初めての星廻りを終えた祝いをうけられる。自分は間に合わないが、皆に愛されている娃の事だ。盛大に祝ってもらえる事だろう。
母上も、喜んでおられるだろうな。
そして、小さな妻が、仔栗鼠のようにくるくると忙しなく動き回り、準備に奔走周旋している姿が容易に思い浮かぶ。
「その……な」
「はい?」
急に、優が声を落としてきた。
何処か、こそこそとしている。此方に耳を貸せ、と指先をくいくいと動かしているので、仕方なく真は首を父親の方に伸ばした。
「祝いの品を、時に命じて贈ってある。だがそのままでは、お前の母は、妙に遠慮して使わんだろう」
「……はあ、まあ、そうでしょうね」
父である優の正室である妙は、相当に悋気の強い質であり、しかも陰湿だ。
まあ、からっと爽やかな嫉妬というものも、ついぞ見た事も聞いた事もありはしないが。
そんな訳で此れまでも、折に触れて散々と陰険な嫌がらせを受けてきた母・好は、常に遠慮して小さくなるようになってしまった。幾ら遠く離れた祭国であろうとも、其れは変わらない。手を付けずに、そのまま妙の元に送り返してしまう恐れがある。
「そこでだな、お前に頼みがある」
「はい」
「その……非常に申し訳ないのだが、その……薔姫様に頼んで欲しいのだ、好に代わって娃への贈物を紐解いて欲しいとな」
「はあ」
なる程。
真の妻である薔姫が勝手に使ったものであれば、妙は何も口出しできない。しかし、この父の娃への盲目的過ぎる愛情の注ぎ込みぶりというか、馬鹿親ぶりは何処まで天井知らずなのだろうか。
「娃の為だ。やるだろうな?」
ぎろりと睨みを効かせてくる父親に、真はやれやれと肩を竦める。
いちいち頼みに来なくても、禍国での3年間の生活で、薔姫も妙と好の性格くらい、熟知している。今頃は、とっくに荷物は開けられて、娃の前に並べられている事だろう。が、そんな事は百も承知の上で頼みにきている父・優が、真は少々怖くなってきた。
しかし悟らせれば、また鉄拳が飛ぶのは決まりきっている。殊勝な顔付きを作り上げると、分かりました、と真は答える。
「折角の娃の祝いの席です。父上に言われなくとも、私も盛大に祝ってやりたいですから、姫に早馬を出して頼んでおきます」
うむ、と満足気に優は、何度も何度も頷く。
吹き出したいのを必死で堪えている真の頭上に、耐え切れなかった戰の盛大な笑い声が降り注いだ。
進む禍国軍7万の兵馬が、公道の分岐点に到達した。
片方は、祭国へと向かい、反対側へ向かえば、禍国へと向かう。
この分岐点で、小ぢんまりとした影と、長く巨大な影とに頒たれた。
小さな影は、戰のものであり、真と芙そして杢を連れて、椿姫の待つ祭国へ。
巨大な影は兵部尚書である優のもであり、勝利の御旗を錦と掲げ、全軍を率い、陰謀詭計渦巻く禍国へ。
それぞれの祖国へと、影は向かった。




