2 待ち人 その3
2 待ち人 その3
遼国から祭国まで、3日かからずに到達する強行軍でやって来た戰だったが、疲れもみせず、一日、椿姫の傍に寄り添った。
戰の言葉には素直に頷き、那谷や苑の勧める手当を受け入れる。
足や手首にある流産予防の為のつぼを刺激された時は、痛みで叫び声をあげながら飛び上がり、涙を流して身悶えする。我慢強い彼女の考えられぬ反応に、戰は虚海に、本当に大丈夫なのかと鬼の形相で喰ってかかった。
「ほんま、姫さんの事になると、途端に盲になるんやなあ、皇子さんは」
呆れつつも、にやにやしながら徳利を傾ける虚海を、珍しく戰がじろりと睨みつけている。手をとり、みっともない程に狼狽しきって身を案じる戰に、椿姫の方が苦笑いしきりだった。
6尺を超える大きな身体を、気を揉ませるままにおろおろさせられていては、落ち着けない。此方がしっかりしなくては、と今までの不安感など何処へやら、逆に気持ちがしっかりしてくる。
何となくであるが、類の妻である豊の腰と腹が、『でん』としっかり座っているのがわかるような気がしてきて、椿姫はこっそりと笑った。
だが戰の方は、募る寒心が急き立てるままに、立派過ぎる巨躯を震わせて、師匠に喰ってかかっている。
「私の事などよりも、椿は大丈夫なのですか?」
「ああ、皇子さんも小煩そうなったもんやなあ。心配あらへん。此処まで来たら、もう大丈夫や。なあ那谷坊?」
「はい、つぼとお身体の相性がよいのでしょう。効果がよく出ておられます」
本当だろうな? と、那谷にもぎろりと一睨みを効かせるにあたり、何処まで椿姫と御子に甘いのか、面倒くさい、と早く帰ってこいと願ったのも忘れて、皆は苦笑交じりに呆れ果てる。
しかし、戰は気がつかない。
「こんな事であれば、もっと早く治療を受けていれば良かったものを」
椿姫の手の甲を、まだ撫でて労わりながら戰が諭す。
御免なさい、と素直に謝る椿姫であったが、つぼも相性が合わねば逆に体調を崩す恐れがある。今日は相性が良くとも、翌日もそうとも限らないのが、つぼ治療のこわい処だ。
彼女ほどの症例を乗り切った実例はなかなかなく、那谷も虚海も、強気で薦める事も出来なかった。過ぎたるは猶及ばざるが如し、ではないが、一歩間違えて施し過ぎても毒になってしまう。本当に、見極めがとてつもなく難しい状態だったのだ。
そして椿姫は、その恐れに一人で立ち向かえる精神状態ではなかったのだから、仕方がない――
と、安堵感から来る不服を、誰も口に出来ぬようにしようとしているのだろうか?
椿姫をしっかりと抱いて庇い続ける戰に、やれやれやなあ、と虚海は徳利の中身が空になるまで一気に呑みほした。
しかし、戰がこうして来てくれたのは、彼らと、何よりも学のお陰であると知り、椿姫は目元を潤ませた。遠慮がちに、俯き加減で母親である苑の袖を引いて隠れるようにしていた学を、手招きする。おずおずと進み出てきた学を、椿姫は引き寄せた。
「学、有難う、貴方がいなかったら、私もお腹の御子も、どうなっていたか分からないわ。貴方は命の恩人よ」
「い、いえそんな、椿姫様……」
胸に抱きしめられて、頬を赤らめる少年の後ろ姿を、苑が誇らしげに見つめている。
此度の勲一等は、確かに学様に御座いまするな、と珍しく蔦がおどけて云うと、その場にやっと、和やかな笑いの渦がおこった。
★★★
明け方近く。
何か唸り声を聞いたような気がして、椿姫が目覚めると、彼女に腕枕したまま、戰が共に横になっていた。
その戰の身体の上に、彼を敷布団のようにしてのっかり、くぅくぅと寝息をたてている薔姫が居た。うつぶせ寝で、しかも手足でがっちりと戰を抱え込むようにしている為、どうにもこうにも身動きが取れない彼が、寝ながらうなされていたのだ。
「せ、戰!? しょ、薔姫様!?」
そういえば、昨夜はいつまでも部屋に居座って、あれやこれやと話し続けた薔姫だった。義理兄である戰に、真の今を聞きたくて仕方なかったのだろう。
身体を揺さぶっては、ねえどうなの!? 我が君は本当に元気にしているの!? と迫り続けた。
辛抱強く戰は義理妹に何度も話して聞かせたのだが、彼女は全く満足しない。
そして最後には、肩を掴んで、ゆさゆさと揺さぶった。
「私は悪い子じゃないよって我が君に言ってね!? 約束よ!?」
遼国で待つ真に、届けとばかりに声を荒らげて叫びながら。
そんな賑やかな時間を、一刻余りも過ごしたであろうか。
あまりにも騒ぎ過ぎて、疲れが一気に噴出したのか、安心したのか。薔姫は、突然、ころりと眠りに落ちてしまったのだ。
微笑ましさに笑いを堪えながらも、家に連れて帰ろうとする蔦と珊に、可哀想だからと、そう、椿姫自身がとめたのだった。
帰りを待ちわびていたのは、自分だけではない。
戦場に居る真の事が心配で堪らなくて、でも、それ以上に心配をかけたくなくて必死だったのは、こんな小さな彼女も同じなのだ。
そう思うと、自分だけが戰と再会出来た事が、申し訳なくて仕方が無かった。
戰も、彼女と同じ気持ちだったのだろう。
快く、いやかえって感謝しつつ、妻である少女の提案を受け入れてくれた。
そんな訳で、寝台の上で三人一緒に横になる事にしたのを、やっと思い出した。
思わず噴き出しながら、戰、戰、と静かに呼ばわりながら胸板と揺すると、むぅ、と戰は眉根を寄せた。うっすらと目蓋を開けた戰は、目の前で微笑む少女に、ほっと吐息を漏らす。
「……椿? もう、目が覚めたのかい?」
「ええ」
「それで、どうだい気分は? 少しは良くなったか?」
「ええ」
笑いを噛み殺して答える椿姫を、一瞬訝しんだ戰だったが、自身の肩に乗っかって眠っている義理妹に気がつき、荒げた声を上げた。
「う、うわ!? しょ、薔!?」
人差し指を唇に当てて、しぃっ! と戒める椿姫の表情は優しく、いつもの彼女のものだ。
いつもの、明るい日差しのような彼女のものだ。戰は胸の奥で、じんとするものを感じた。
表には出さず、やれやれ、と嘆息しつつ薔姫をおろして二人の間に寝かせた。
「真がね」
「真様が、どうかしたの?」
「『姫布団』に襲われるのが、だんだん辛くなってきた、とぼやいていたが、良く分かったよ」
「……まあ」
諌めつつも笑みを零す椿姫に、戰も笑みを返す。椿姫が、白い手を伸ばして、薔姫の前髪を櫛ですくようになでだした。
でも本当に重たくなったなあ、と義理妹の寝顔を目を細めて眺めながら、戰は呟いた。
大きくなっていたんだな、としみじみ思う。
5歳で離れて以後、抱いたり背負ったりして遊んでやる事も皆無に近くなった。 それ以後の彼女を一番良く知っているのは、真だ。そして、二人の時間を奪っているのは自分だ。大切な時間を、自分に捧げて呉れているのは、真だけではない。
義理妹もを始め、こうして祭国で待つ全ての人々に言えることなのだ。
一刻も早く、帰ってこなければ。
そう、勝利を手にして。
皆無事に帰るのだ――この愛しい人がいる国に。
「――椿」
「はい」
「行くよ」
「――はい」
間に薔姫おいて、二人は抱きしめあった。
戰の大きな掌が、椿姫の膨らんだお腹を優しく撫でる。
「お腹の子は、男の子だろうか、女の子だろうか」
「さあ? こればかりは、産まれてきてくれない事には、分からないわ」
「……椿」
「はい?」
「お腹の子が産まれてきたら……その、兵部尚書のようにしてみないか?」
「え?」
「うんその……男の子が産まれてきたら椿が、女の子が産まれてきたら私が。名前を付けないか?」
戰の言葉に、胸から弾かれたように椿姫は離れた。
王族では、ありえない。
子の名前は、星見と月読たち占星や陰陽を得た後に、父系の長が名付けるものだ。王家の子女にとって、名前は其者の宿星を正しく表すものでなくてはならない。故に、例え母親であったとしても、名付を許されるものではないのだ。
しかも、姫ならば兎も角。
皇子だった時に、椿姫が名付けろという。
「どうだろう?」
椿姫の双眸に、新しい涙が宿った。
自分に、もっと腹の子と向き合う余裕をもて、と言ってくれているのだと思うと、宿った涙は次々と新たな仲間を連れて来る。涙で喉を詰まらせてしまい、なかなか答えられない。
自分では、相当自信のある、勇気付けの言葉だと思っていたのに、返事をしないのは、格式に煩い祭国では考えられぬと困らせてしまったか、と思ったのだろうか?
戰が慌てたように、顔を覗き込んできた。
「……椿? ……お、怒ったのかい?」
「戰ったら……」
小さく噴き出しながら、椿姫は戰の背中に回した腕に力を込める。
「嬉しいわ、私、素敵な名前を沢山考えながら、貴方の帰りを待っています」
ほっとした様子を隠そうともせず、うん、と戰も腕に力入れてきた。
「でも……」
「でも?」
「薔姫様も、真様も、この事を知ったら男の子が必ず産まれてくる呪札をかけようとするわよ?」
愛馬の名前を千段とした時、周囲の者に相当に名付けの才能の無さを指摘され、馬鹿にされまくった事を思い出し、戰が言葉に詰まる。
ふふふ、と楽しげに笑い声をあげる椿姫を、何とも言えない情けない顔付きで戰は抱きしめ続ける。二人の下で薔姫が、う~ん、と仔猫のように伸びをした。
窓から、風神が乗り移ったかと思われる程の速さで駆けていく戰を見送りながら、椿姫はお腹を撫で続けた。
ねえ、赤ちゃん。
あなたの御父様になる人は、男の子でも女の子でも、あなたが無事に生まれてきてくれさえすれば、それだけでいい、と思っているのよ、と呟きながら。
★★★
書簡の山に埋もれつつ、祭国での戰の話を頷きをもって聞いていた真だったが、突然、溢れかえった木簡の束の雪崩にあい、叫び声をあげた。
「おわっ!?」
「し、真!?」
慌てて戰が崩れた木簡を取り払うと、いてて、と真が身体を起こしてきた。
「だ、大丈夫かい? 角で傷が付かなかったか?」
「ありがとうございます、一応、大丈夫です。ですが……」
「ん?」
「折角、よい感じで書き写していたのに、雪崩のせいで、途中、蚯蚓が這ってしましたよ」
言葉通りに、蚯蚓がのたうち回っているかのような墨の痕をつけた木礼をぷらぷらさせて、真がぼやいた。
書簡の山を直しながら、祭国に入国した折の事を思い出して二人で笑い合う。
「それにしても、類と通が居てくれたなら、もっと楽だったろうね」
「ですね」
国としての規模が大きいせいか、重要視される書簡の類は数倍にも及ぶ。
到底、真ひとりで追いつくものではないので、遼国の民に基本を教えつつ進めている。が、彼らが使い物になるまでまだ幾十日も必要だろう。
改めて、祭国に向かう前に、彼らを仲間に出来たのは運がよかったと思わざるを得ない。
今、調べているのは、河国の儀礼式典などに掛けられた費用、主に創が作り上げた後宮にかかった金だ。祭国の国庫に金がないのはそれなりに覚悟の上であったが、河国も似たり寄ったりの内情であったのには驚かされた。
帳尻合わせを無理矢理重ねてきたのだろう、国庫は相当に逼迫していた。
遼国王・灼としては、禍国恭順の意思をみせる為にも、制した河国から某かを差し出さねばならない。だが、何をどれだけ差し出すべきかを探りたいのだが、此れでは差し出すどころの話ではない。丞相・秀は、こんな国を11年もどうやって保たせたのか。どんな呪力を使ったのかと、逆に驚異を感じる程であった。
ただし、此れから先はかなり楽にはなるだろう。
西宮に下がった王太后・伽耶が、遼国の邑令の一族である涼という娘を正妃に定めた途端、創の後宮の女たちは一斉に踵を返した。王妃が立后される以上、彼女こそが後宮を取り仕切る。
そして、遼国の、しかも令の小娘如きの風下にたつなど、女たちの図太い精神が練り上げた驕慢な自尊心が許さない。
涼が王妃になるとの一報が後宮を駆け抜けた途端、女たちは去る為の身支度を整えだした。いっそ清々しい程に身の回りのものを奪えるだけ奪い、郷里に去っていく。
衣装、宝玉の類、高度な技術で作り上げられた調度類は言うに及ばず。驚いたことに、格子戸に貼られた絹の透かし絵や、壁の漆喰、磨きぬかれた欅の欄間まで剥がしていく。
まさに根こそぎである。
山津波にでも浚われたか、と唸りたくなる程、ものの見事に蛻の殻となった後宮を前に、豪放な灼も、言葉を失って立ち尽くす。
流石にこの底のない業突張りには何か一言、言ってやらねば気が済まぬ、と息を巻く灼と違い、涼の方は、亜茶たちと共に涼しげな笑みをこぼすばかりだった。
「どうするかよ? 何もなくなってしまったぞ?」
知らず、灼も釣られ笑いをしてしまう。涼の顔を覗き込むと、彼女は楽しげに答えた。
「良いではありませんか。大掃除をして下さったのだと思えば。でも、私は逆に物足りません」
「掃除!? 物足らぬ!?」
「はい、一から陛下と皆様と共に作り上げる楽しみが出来ましたのは、嬉しいです。でも、こんなに綺麗に何もないのですから、遼国式に変えていくのに何の抵抗もなく済んでしまうでしょう」
確かにつまりませんわね、と応じる亜茶に、はい、と朗らかに涼は答える。
頼もしい女たちに、灼は、腹の底から笑い声をあげたものだった。
という訳で、灼の後宮となる女たちは伽藍堂となった部屋を割り当てられたのだが、何もなくなったが故に、差異を出すことなく皆一律同等なった。
どんな状況でも楽しみを見出して明るさを失わない涼は、歳は若いが、確かに新たな国の国母として、相応しいだろう。
そんな涼を生涯の伴侶とする棚牡丹式の幸運を得た灼と、彼女の、即位戴冠立后授式を見届けてから、戰と真は祭国へ、優とそして恐らく怪我が癒えれば杢も禍国へと向かう事になる。
其れまでに、最低限の事だけはやり尽くしておかねばならない、と真は連日、馬力をかけて踏ん張っていたのだった。
不意に、左腕がじくじくとした痛みを訴え出してきた。
さすりながら窓の外を伺うと、山がやけに近く見える。再びの催花雨が近いのだろう。祭国ではもう、稲の苗が青々としてくる頃だろうか、と真は思いを馳せる。
いつもの癖で長くなった前髪をくしゃくしゃと引っ掻き回しつつ、さて、と書簡を机上に広げ直した。腕まくりしそうな勢いで、文字を追っている真に、使わなくなった書簡を棚に戻しつつ、戰が遠慮がちに声をかけてきた。
「そういえば」
「はい?」
「もう直ぐ、真の妹の娃の初めての生誕日だね」
「はい、ありがとうございます」
書簡を何処から書き直すべきかと視線を走らせていた真は、驚いて顔をあげた。
「済まない、真」
「……はい?」
「一緒に、祝いの席に出たいだろうに」
いいえ、と首を左右に振る真に、戰は歯切れ悪く、うん、と答えるのみだ。
もう直ぐ、妹の娃は1歳の誕生日を迎える。初めての生誕日は、盛大に祝うのが常だ。今頃、薔姫は、珊や蔦と共に、張り切って準備に勤しんでいることだろう。
急にやってきて、彼是と椿姫のお腹の御子の事を話しだしたのは、心配するなとの念押しなのかと思っていた。
が。
……もしかしたら、此方が本当の理由ですかね?
笑みがこぼれそうになるのを堪え、居住まいを正して、真は戰に頭を垂れた。
「私の方こそ、戰様にはお礼の言葉もありません」
「真?」
水臭い、と言いたげに眉根を寄せて言葉を詰まらせる戰に、真は頭を下げ続ける。
後で知ったことだが、娃は、戰に頼まれた椿姫の手筈で、生まれた時に星見と月読による宿星を占われていたのだ。
側妾腹の子では、考えられない。
生まれた時から「所有物」扱いが運命付けられている妾の子は、宿星を占われる事などないからだ。側妾腹の子が真面な職にありつけなかったり、良い婚姻がなかなか得られぬのは、宿星を持たぬ為だ。
自分も本来であれば、そうなのだ。
恵まれすぎているこの数年、忘れそうになる。
『星知らず』
終生、後ろ指を指され、軽んじられ、卑しめられ、忌避すべき存在として白眼視される存在。
『人』ではなく『所有物』
戸籍に名前が、記載されてもいない。
それが自分だ。
けれど娃は、自分と違い、そんな哀しい宿命から逃れられた。
きっと、この先、良い縁にどんどん恵まれ、世界を広げていくだろう。
妹は、幸せを約束されたのだ。
此れ以上を望んだら、きっと天帝が放つ雷土の餌食になるに違いない。
「祭国に帰ったら、思い切り甘やかして、祝ってやります。ですから戰様、そんなに気に病まないで下さい」
うん、と矢張り小さくなりつつ答える戰と笑う真の元に、芙が麦湯を持ってやってきた。




