6 無位無官無職人・真 その1
6 無位無官無職人・真 その1
祭国への使者として発つからには、早馬を使う。
とはいえ、馬の苦手な真にとっては相当な苦行だ。しかも、薔姫や椿姫には黙ってはいたが、強行軍で行くと決めている。一刻でも早く着く為だ。
「三日で祭国に到着したいのです。馬術に長けた者をお貸し下さい」
兵部尚書である父・優に、真が戰と共に掛け合いにゆくと、流石の優が余りの無茶苦茶な言い分に仰け反った。
祭国までは、一日十里を行く早馬車でも、十日近くを消費する。それを早馬を使うとはいえ、三日とは。何という戯言をほざくのかと、呆れているのだ。
しかし、真は至って真剣だった。
真剣だったが真剣に見えないのが、真らしいといえるのだが、父・優にやんわりと迫る。馬上で自然が呼んでもよおした時と眠る事以外の全てを過ごせば良いだけだ。途中の関所で何度か馬を代えして行けば、一日三十里近く距離を稼げる筈。
「一日走り詰めに走りきれば、三日もありましたら、まあ何とかなります」
優は仰け反るのをやめ、腕を組んだ。
確かに真の言葉通りに進めれば、三日で着く。だがそんなものは当然、机上の計算でしかない。鍛え抜かれた精鋭である自分の部下であれば、可能だろう。しかし、この常に書庫にこもりきりで、竹管の束より重い物を持ったことがないような、青白いひょろひょろとした息子に、そんな強行軍が耐え切れるとは到底思われない。
「お前には無理であろう」
「私にこの強行軍が無理であるかどうかは、私の身体が最終的に決めることです。父上の勝手な裁量で、お決めになる事ではありませんよ」
じろりと優は息子である真を睨む。
正室の息子たちは、彼のこの一睨みで縮み上がり怖気に縮み上がって何も言えなくなるのであるが、真はどこ吹く風だ。全く変わらぬ顔つきで、溜息すらついてみせる。
「私が持ちかけているのは、馬術に優れた方をお貸し願えるのかどうかという事だけです。私の心配をして下さいとは申し上げておりませんよ、父上。まあ、そのような手練の部下が父上の元におらぬとあれば、仕方がありません」
「うぬ? 仕方がないだと? なければどうするというのだ?」
「時に頼んで、より修練を積んでいそうな者を、幾人か用意させますよ。金に糸目をつけねば、何しろ裏社会に融通の利く時の事ですからね、半刻も待たずに話をつけてくれることでしょう」
深い溜息をつきながら「お立場のある御方はこれだから……」と、立ち上がりかけつつの真の一言に、ちかり・と優の自尊心と闘争心に火が灯る。
座れ・と命じながら、重々しく口を開く。
「馬鹿な事を申すな。時が声をかけるような破落戸なんぞの手なぞ借りずとも、手練など我が配下の者にゴマンとおるわ」
「はあ、でもお貸し願えぬのですよね? 側妾腹如きの、この私が心配で」
「何ぃ?」
「兵部尚書といえども人の子の父、我が子可愛さに無理はさせえぬと、そういう事でございますか?」
「阿呆な事を申すな。側妾腹のお前の心配など誰がする、愚か者が」
「では、お貸し願えるのですね」
にこりと真は笑った。
そこで漸く、優は息子である真に手玉に取られたのだと悟った。厳つい顔を更にぶす・とさせて呻く。
「全く、頭の中と口先ばかり達者になりよって」
「良いではありませんか、何の取り柄もないよりは。実はついでにもう少し、願いを聞いて欲しいのですが」
「――何ぃ?」
「聞き届けて頂けますよね? あ、それとも、一つ願いは叶えてやるのだから、此方は聞けても彼方は聞けぬと言うような、狭量な事を申されるのでは……」
「たわけた事を申すな。一つ頼みを聞いたのであれば、もはやどうということはない。どうせもう、大した望みでもあるまいしな」
「……はあ」
「なんだ、まだ何かあるのか?」
「どうせ大した事でない、そのような瑣末な事くらいしか、聞いて頂けないのですよね? 話を聞く前からそのように牽制なされるとは……」
「――どんな事柄でも聞いていやる! 言うてみよ、何でも聞き届けてやる!」
「はい、それではまあ、折角ですので遠慮なく」
ちょっと、と膝を詰めて躙り寄ってきた息子に、優は再び仰け反る。
そんな二人のやり取りを、戰は背後でどこかしら羨ましげに見詰めていた。
★★★
皇子・戰の腕に背を守られた祭国王女・椿姫と共に、優は王宮に赴いた。
「では、宰相。宜しく頼むよ」
爽やかに戰は告げる、腕の中の椿姫に視線を落とす。
「行くよ、椿姫」
「はい、皇子様」
戰を信頼しきって見上げる椿姫の麗しい瞳の色気に、年甲斐もなく優は見惚れたが、戰は気付かずに白椿の妖精の如き姫君を守りながら、去っていく。
その背中を、静かに礼節をもって見送りながら、優は今度は戰に男惚れの視線を送る。
自分も相当に大柄な方であると自覚しているが、戰は更にその上をいく。であるのに、身のこなしは実に優雅だ。身につけた着物の裾が翻るその一つの動作でさえ、天から与えれれた彼への恵みのようだと思わせてしまう。椿姫を守る戰は、天女を悪神悪鬼の害意より守り給えと上帝より命じられた、戦神のようであった。
覇王の宿星であるとされた誕生の瞬間より、数多の困難を被ってきた筈であるというのに、全くそれを感じさせない大らかさと朗らかさ。
反対に、それ故に見せ付ける、強者への嫌悪感を、例えそれが絶対王者である父親、皇帝・景であろうとも隠そうともしない剛胆さと豪放不敵さ。
皇帝・景の皇子たちの中で、優が、この御方こそはと密かに目を付けて追っていた、皇子・戰。
その皇子と、直接に動き合う日が、とうとう来ようとは。
待ち続けた甲斐があったというものだ。
皇子・戰と結び合わせてくれた息子・真を、優はこの時ばかりは褒めたたえてやりたくなった。
優は、部下数人を引き連れて、皇太子である天の元へと向かう。
全く、何故この私が息子の為に奔走せねばならんのだ、と態とらしく嘆息してみせた。そうでなければ、ついつい、笑ってしまいそうだったからであるのだが、何故か傍らの部下に気味悪そうに見上げられた。
「如何なされましたか、兵部尚書様」
「うむ?」
「その……珍しく、笑顔でおられますので……その、なんと申し上げましょうか……」
言葉を選んで慎重になってはいるが、要は『普段はむっつりと硬い岩石のように厳つい兵部尚書様が、にやにやされながら歩いておられては不気味過ぎます』と言いたいのだろうと気がつき、優は慌てて咳払いをして居住まいを正した。笑うまいと堪えていたつもりが、全く堪えきれていなかったのだと、今更気がつかされ、気まずさが漂う。
「笑ってなどおらん」
「は、しかし……」
「そう見えたのであれば、その方の目玉がおかしいのだ。良いから、天皇太子殿下に取次げ」
もう一度、ゴホンと咳払いをしつつ威厳を正して命じる優に、部下ははあ……と微妙な顔つきで従った。
★★★
皇子・天。
言わずとしてれた、徳妃・寧が産んだ、禍国の皇太子。戰よりも5歳年上の26歳となる。彼の運気は、生まれて直ぐの星見と月読と人相位を視る占術眼の陰陽や星占たちによれば、こうだ。
――この皇子様は、この天地が入れ替わる程となられましても、その身を安んじられます。
ようやく産まれた高位の妃腹の皇子に喜ぶ皇帝・景であったが、意味が分からず首をひねる。
そして勝手に合点した。そうか天地が入れ替わる、つまりこの皇子は、どのような乱世においても命を拾うことが出来る。この戦国の世の中を、最後まで生き延びる王者というわけであるな。
得心した皇帝・景は、御子に『天』という名を贈った。彼が最後に生き残る為に、この世はもっと乱れれば良いという願いを込めた名であった。元服を終えた天に、皇太子の位を授けた皇帝・景であったが、直後の戦で出逢った美貌の姫君・麗と、彼女が命と引き換えに生んだ覇王の宿星を持つとされる皇子・戰の出現により、歯車が徐々に狂いだしていた。
優は、膝をついて両袖を合わせながら礼の姿勢をとる。
皇太子であるのだから当然であるのだが、最近、とみに暗愚化に拍車のかかっている皇帝・景にかわり、皇太子・天は幾つか政治的役割を担うようになっていた。
「今日は何用か、兵部尚書よ」
「恐れながら申し上げます。我が息子・真の妻として賜りました薔姫様の介添えであられる、祭国王女・椿姫よりのお言付けに御座います」
「――ほう?」
椅子に腰掛けながら、天は悠々と脚を組んだ。
殊更に時間をかけるのは、彼がよく使う手管だ。自分を、より大きくみせる為に、敢えて時間をかける。いずれ皇帝となる我が身にそれだけ長く触れさせる栄誉を与えているつもりなのだが、宰相・優にしてみれば、格好付けだけが先走った半人前の飾り人形にしか見えない。
いや、見方を変えれば、確かに天はそこそこ優秀ではある。
甥である天を皇帝となさしめ、彼を中心とした一大勢力を形成したい大司徒・充にとっては、良い傀儡となるであろう・という意味合いで、だ。
しかし、3年前、皇子・戰が祭国より連れてきた王女・椿姫を無体に手折ろうとした経緯を備に知る身としては、「格好つけばかりが上等になりおって、破廉恥皇子め」と片腹痛さしかないのであった。
今また、『祭国王女・椿姫』の名が出て、天はあからさまな興味を示した。
3年前はまだ綻びから蜜が匂う蕾のような姫であったが、今が盛りと盛大に花開いた姫は如何程であろうか。
下心ありありの興味を隠そうともしない皇太子・天に、宰相・優は軽く眼蓋をふせてより一層身体を傾げる。礼の姿勢をとることで、侮蔑の視線を隠し通した。
★★★
祭国へと、真が使者として発つことが決定したのは、その日の内の事であった。
出立の準備を整える慌ただしさの中で、薔姫は「我が君の妻である私が」と俄然張り切っていた。旅支度を整える指揮をとっている……つもりであるのが、何とも微笑ましい。そんな薔姫が、ふと、真の傍に身体を寄せてきた。ん? と視線を落とすと、いつもは明瞭すぎるほどに快活な彼女が、珍しくもじもじとしている。
「ね? 我が君」
「どうしました、姫?」
「出立の準備ができたら、我が君に、私の部屋に来て欲しいの」
少しの間でいいから、と手を後ろに組みながら、僅かばかりに小首を傾げて甘えた風に言う薔姫の様子に、真は微笑んだ。
「いいですよ、姫のお陰で、早々に一区切りつきましたしね」
何しろ、真自身が持っていくものと言えば、着替えの他には、大した物は入用にならない。準備など簡単なものだ。だが、殊更に真は妻である薔姫のお陰であると強調した。彼女が、自らのもつ『男殺し』の宿星を、自分が考えている以上に気に病んでいる事を知ったからだ。
「行きましょうか」
嬉しそうに、はい、と頷く薔姫の手が、真の腕に絡んできた。
薔姫の部屋に二人揃って赴くと、大きな机の上に所狭しと手習いの文字らしき紙が並べたてられていた。一枚一枚に、大きく『楓』『桂』『藤』など様々な文字が書かれている。
「へえ、上手くなられましたね、姫」
そのうちの一枚を取り上げて、真は目を細めた。
この3年で随分と達筆になった薔姫のそれは、なかなかどうして、一端の書としての見応えもあるものに仕上がっていた。
「本当? 我が君、私、上手くなったかしら?」
「ええ、相当に上達されましたよ。驚いたな、これほど見事に書かれるようになられたのであれば、祐筆など必要ないですね」
うふ、と薔姫は肩を窄めて満足げに笑った。そんななりは、まだまだ童女そのままだ。
「我が君に、一枚差し上げます。好きなものを選んで、どうぞお持ちになって」
見上げる薔姫の必死な瞳に、真は、はあ、なる程、と思い当たる節に考えを巡らせた。
「では、姫」
「うん、我が君は、どれがいいの?」
「貴女の名前を書いて貰えませんか?」
「――え?」
「薔姫、貴女の名前を書いたものが欲しいのです。ここにはどうやらないようですから、手数をかけますが、書いて貰えないですか?」
「う、うん……」
真の優しい眼差しに、言葉を封じられた薔姫は、机に向かい文箱を取り出した。硯に水を指して墨をする。しゅ・しゅ・と小気味の良い音をたてて、丁寧に墨をすり終えると、薔姫は丹念に筆を選んで、太めのものを選び出した。そして、袖を支えながら姿勢を正し、文鎮で抑えられた紙に一気に『薔』の一文字を書き上げた。
乾くのを待ってから文鎮を外すと、薔姫は半紙を真に差し出した。受け取った真は、薔姫に笑いかける。
「綺麗な書ですね。ありがとう、姫。旅の良い友ができましたよ」
「う、うん……あの、我が君……?」
「何ですか?」
「ほ、本当に、私の名の書で、よろしいの?」
「ええ、姫の名前の、この書が良いのです。いけませんか?」
「う、うぅん。いけません・なんて事、ない、です……わ、よ?」
薔姫は、慌てて小さなてを振る。言葉使いが奇しくなっているのにも気がついていない幼い妻に、ぷっ、と短く真は吹き出した。幼妻・薔姫の額に手のひらを当てながら「ありがとうございます」と、柔らかい声音で礼を言った。
★★★
祭国に向かう為、父・優が手配してくれたという手練の部下は、克と名乗った。
如何にも武辺一辺倒の父・優が好みそうな、武骨で不器用そうな名の示す通りに克己心に溢れる青年のようだ。肩幅の広さや胸板の厚さ腰の座り具合から、よく武術に熟れている事が分かる。己を律する事に長けているのだろう。
「宜しく頼みます」
静かに頭を垂れる真に、克は微妙な顔つきをした。
当然である。
幾ら兵部尚書の息子と言えども、真は所詮は側妾腹。
そもそもが、このように使者として発つこと自体が可笑しい。しかし彼は未だに、3年前に皇帝陛下から賜った戰皇子様の『目付』の任を、解かれてはいないのだという。
「故に、此度の仕儀には、我が息子・真が適任と判断する。その方は、真が望むように、三日以内に祭国に到着するように、馬を走らせよ」
平伏しつつ、兵部尚書・優の命令を受けた克であったが、幾ら下層階級とはいえ、自分は官位を授かる正しい身分の家柄の漢だ。側妾腹の出の、無位無官の、馬もまともに操れぬというなまくらな青年を上に見よと言われて、はいそうですか、と素直に受け取る事は出来ない。
それに幾ら『目付』と言った処で、そのような正式な役職がある訳ではないのだ。所謂『お墨付き』としての方便でしかない、雲のような不確かな役柄の青年を守れと言われても……と言うのが、克の偽らざる本心であった。
「私のような者に従わねばならないのは、正直、片腹痛い事でしょうね」
「――は、しかし命令に決して背かぬのが、我ら武人でありますので」
思っている事を隠さず、云う事を聞くのは父・優の命令であるからだと明言する克のその正直さに、真は好感を抱いた。
自分は大抵の人にとっては、不愉快な存在の人間だ。
皇子・戰のように全く気にしない人物や、商人・時のように面白がる人物もいるにはいるが、それは希だ。だから、おべっかを使われたり妙に持ち上げられたりしたところで、真とても、胡散臭さとどうせ表面だけの取り繕いだろうとしか思えない。克のように、自分の本心を偽らずにいてくれた方が、余程付き合いやすい。
真は手を差し出した。目を眇めて、珍妙な顔付きで、差し出された手と真とを、克は何度も見比べる。くすり、と声を出して真は笑った。
「青白い手でしょう?」
訳が分からず、克は辛うじて頷いた。
「しかしながらこの青白い、武術の『ぶ』の字も染み付いていないようなこの手に、祭国の命運がかかっているのですよ。貴方が運ぶのは、兵部尚書・優の側妾腹の息子ではありません。宗主国として属国に起こりかけている物騒な紛争を修めに行く任を、戰皇子様より一任された、真という人物です。この側妾腹の糞野郎の護人などと唾吐きたくなったなら、私の出自ではなく、私が背負っている任務を見て、まあ堪えて下さい」
度肝と同時に毒気も抜かれた克に、真は、「さてでは、そろそろ出立いたしましょうか」と、まるで近所への散歩にでも誘うかのように、気楽に声をかけた。