2 待ち人 その2
2 待ち人 その2
春のある宵の事。
左僕射・兆の元に、舎人が静かに伝えに来た。
代帝・安の命を受け、周辺国討伐の為に出陣した主・二位の君である乱の異腹弟にして祭国郡王・戰が、先ずは幸先よく契国を陥落せしめた――と。
当時に、兵部尚書・優の周辺が騒がしくなった。
当然である。
今や、兵部尚書と彼が掌握する禍国軍は、その郡王・戰の直属と言っても過言ではない。次なる標的、即ち遼国、そして河国の討伐に、兵部尚書が久しぶりに自ら軍を率い、郡王と共に参戦するとの噂話は、王都の乞食どころか田舎の小童でも知っている。
鉄の剣を抜かりなく配備する事から始まり、騎馬兵への改革、兵馬の鍛錬、そして大規模な演習が立て続いている。
戦って負けなしの郡王・戰の此処までの華々しい活躍もさることながら、彼が現れるまで実質的に禍国において無敵兵団を率いていた兵部尚書が、共に戦場にたつのだ。
何れ遠からず、此度の戦にも大勝利を持って凱旋帰国するであろう、との予見も共に流布している。
そしてそれは既に、禍国の民の中では事実に近い。
その証拠に、上は儲けの出た商人たちが、日も暮れ切らぬうちから戦勝気分にひたって妓館にて酔いどれ、姦しい。
中は何日で郡王と兵部尚書が遼国と河国を殲滅するか、もしくは軍功の何程あげるかで、富籤賭けが広まり出している。
下は鼻水を垂らした子供たちが戦遊びに興じる際に、郡王・戰と兵部尚書・優の役割を取り合って、まず喧嘩があがる有様だ。
この年の秋には、先帝・景の三回忌が執り行われ、喪が開ける。
其れは同時に、新たなる皇帝の誕生をも意味している。
次期皇帝の座に最も近い位置に居るのは、至尊の冠を頭上に抱くに相応しいのは、どの皇子であるのか――
常勝を信じられ、不敗を疑われぬ皇子こそが、と誰もが、そう赤子でも答える事だろう。
此れを知れば、またぞろ主である二位の君である乱が、如何に己が優秀であるのかを吠えたて続けるに違いない。そして、その証だてを、代帝に何とかして見せ付けよと駄々を捏ねるに違いない。
左僕射としての執務を疎かにもできず、かと言って、現在の主の立場を無下にする訳にもいかぬ。
成さねばならぬ事柄ばかりだ――無能の輩に仕えるばかりに、全く甲斐のない。
舌打ちしたくなるところを何とか兆は堪え、忌々しげに腕を振り、部屋に控えて共に仕事をしている舎人を下がらせる。
最近、誰かが部屋にいては集中して突き詰めた考察が出来なくなっていた。
あの阿呆皇子の頭中では、無抵抗の生口どもの首を刈り取るのと、戦場にて撃剣を幾合も合わせるのと、同等同列であるらしい。
「脳が足りぬにも程があるわ」
兆は立ち上がると、窓辺に近付いた。格子戸を、すっと音もなく開け放つと、晴天を満たす爽やかな初夏の空気が、部屋に吹き込まれてくる。が、兆の心は陰陰鬱鬱たるものだった。
もしも早馬による伝令の報が事実であれば――いや、事実であるに違いない。
既に皇子・戰は契国を出立し、遼国へ向かっている事だろう。
そしてあの白豚のように意地も欲も肥大させた代帝の命令を、再び確実に遂行し、遼国並びに河国を討ち果たす事だろう。
そうとなれば誰の目にも、華々しい活躍をたて続きに成し遂げている皇子・戰こそが次代の皇帝となるのは揺るぎなし、と目されるに相違ない。
「だが、まだ早い」
まだ、皇子・戰に自分を認めさせていない。
己なくして、この禍国の王宮の政変を乗り切れぬのだと思い知らせた上で、三顧の礼で迎え入れるまでさせねばならない。
このまま皇子・戰が皇太子に任命されれば、自分との接点は途絶えてしまう事になる。
二位の君と揶揄される程度の皇子の幕下に収まっている、左僕射という地位に甘んじる男。
それが己の、紛う事なき現実の姿だ。
他者の追従を許さぬ、比類無き実力を持ち合わせていると、自負している。
であるのに、存分に発揮する主に恵まれず、また自ら売り込みもならず、ただ待ちわびるのみの空虚さといったらどうだ。
兆は、宰相にして兵部尚書である優の息子であるという、真という青年のひょろひょろとしたとらえどころのない姿を思い浮かべて、盛大に舌打ちする。
もしも、皇子・戰が実権を握ったならば。
背後に佇む、あの無位無官の男が、政敵である乱共々、己の地位も権力も何もかもを奪い去った後に、王宮を追放してくるに違いない。
たまたま宰相の側妾腹に生まれついたが故に、政敵を追い落とす糧として目に留まったに過ぎぬ男ではないか。浅学菲才の身でありながら、したり顔で浅い知識を侍らせ、田螺のように郡王の傍に張り付いている。
不愉快極まりなく、目障りな事はその姿を想像するのも反吐が出るほどだ。
「どうしてくれようか」
晴天を、無邪気に戯れつつ飛び交う小鳥たちの囀りまでもが、己を嘲笑しているかのように聞こえる。兆は舌打ちで打ち消した。
――と。
遠慮がちな、舎人の声が戸の外よりかかった。
「何事か?」
「は――実は、左僕射様の御兄上であらせれます、大保様がお取次をと願われておられます」
如何なされますか? と、純朴そうな痘痕顔のまま、のんびりと問う舎人の阿呆さ加減に、兆はげんなりする。
取り次いでしまえば、部屋に居る事が既に知られてしまっている。知ってしまえば、同腹弟として長兄を、そして宮殿内の序列からして、無視も居留守も、使う事など出来ぬではないか。
「お通しせよ」
はい、とやはり呑気に答える舎人の背中に、己の内に篭る忌々しさを全てぶつけて、兆は睨んだ。
★★★
兄である受は、大保の地位にある。
それ故、兄弟としての礼拝と品冠位あるものへの敬意としての礼拝を、兆は受に捧げねばならない。
代帝・安の一人娘である皇女・染姫を妻に迎えると知れ渡ってより、直接会う機会は極端に減っていた。左僕射としての役目上の儀礼的なものでしか、兄弟の触れ合いは、既にない。
そもそも、先の句国との大敗もあり、皇太子・天の勢力は一気に傾いている。そこへ持ってきての、即位後一番の後ろ盾となるべき地位にある受が、権力を強制的に放棄させる者と縁を結ぶ、この事態だ。
権力闘争の脱落者に擦り寄る馬鹿はいない。
此処数ヵ月、皇太子・天の執務室は、人が訪れる事も疎らとなっている。王城内の居室たる棟は、閑古鳥が鳴く有様だ。連日連夜の婀娜っぽい楽曲にのり、嬌声が高らかにあがったものであるが、今は鵺にでも喰われて人が不在になったかと見紛うばかり、不気味な静けさに沈んでいる。
皇太子・天だけではない。
受もそうだ。
名ばかりの大保などに、誰も見向きもしなくなって久しい。
礼拝を受け取ると、受が静かに勧められる前に、悠然と椅子に腰掛けた。未だに大物気取りでいるのかと、兆は腹が煮える。
「如何されましたか、珍しい事もあるものですな」
鷹揚に答えることで、自身を大きくみせるつもりなどなかった。
だが、この痩せすぎの長兄の、痩けた頬の上に乗る薄く開けられた放たれる目に一瞥されると、どうにも堪えきれない。
「こ、ここ婚礼……の、け、件、でで、ある……が……」
そのくせ、不躾に話かてくる。
しかも、この酷い吃で、だ。兆は気が狂わぬ己自身を、褒め称えたくなった。
「はい、如何されましたか? 何か、御不備御不満な点がありましたでしょうか?」
左僕射として、兆はこの式典を取り仕切る立場にある。
此処まで兆の神経が粟立つのは、皇女・染姫の我儘ぶりに奔走周旋させられ続けているからでもあった。
そもそも、不平不満をもらせるような立場か、と母親そっくりに肥え太った皇女の粘った白く無様な躰つきが思い浮かぶ。兆は、不快感に歪めた顔を隠す為に頭を垂れた。
「……うむ……じ、実、は……む、むむずが……らら、れて、おられる……の・だ……」
またか、と兆は心の中で舌打ちをした。
先帝・景と代帝・安との間に生まれた皇女・染姫であるが、その感情の起伏は凄まじく、病的な激しさの癇癪持ちで知られており、譫妄症を疑われている程だ。
「此度は、何と?」
「ひ、ひめ……君の……御年が……も、もも問題……でな……」
染姫は、代帝にとっても遅くに出来た一人娘だ。
皇后である、正妃からの一粒種。
一人娘に婿八人の故事ではないが、代帝・安は、文字通りにこの姫に対して諸国から引き合いがあるものと思っていた。
新興国とはいえ、強大な帝国の皇帝の正統な血筋を引くのは彼女のみ、引く手数多となると、当時皇后であった安は高を括っていたのだ。しかし年頃を迎えても、諸外国からの輿入れの話はなかった。後宮の女たちから得られた姫君たちは、挙って諸王国へと嫁いでいくというのに。
愚かにも、安は気がつかなかったのだ。
超大国の皇帝の正妃の腹から出た皇女。
そんな娘を正妃に据えれば、遠からず国を喰いものにされるだけだと、諸国が見做しているいた事に。
そうこうするうちに、それでなくとも短い婚期は去った。
それでも、正妃の腹であるという矜持が邪魔をして、臣下の元に嫁下するなどとは、安が許さなかった。何よりも染姫自身が、帝室の籍を剥奪され皇女という肩書きを失うのを深く恐れていた為、臣下との婚姻など認めらるものではなかった。
だが、やっと掴んだ露国との縁組の話も消え失せたくせに、婚姻話だけは消えずに王宮内を巡っている。
何処かに嫁さねば『格好』がつかない。選り好みをする時期ではなくなっているのだ。
であると言うのに、何かにつけて駄々を捏ねるである。
輿入れの為の調度類は、嫁下に則した揃えではなく、諸国へ正妃として嫁す支度と同等とせよから始まり、祝いの為の期間は帝室の正規の席を設けよ、嫁入行列を行幸並みに整えよ、兎に角口煩い。
これがまだしも、祭国の女王と遜色のない美形の姫君であれば耐えられる。
が、あのような、母親である代帝・安と、悪い意味で生き写しの姫君だ。此れもまた、肥え太った屠殺を待つばかりの白豚のような、醜い女の口から唾を飛ばして怒鳴られても、反感しか抱けない。
それでも、兆の地位は、完全に整えあげ、完璧にこなす事を要求される。
現在の主である二位の君・乱の評価を下げぬ為、そしてそれは未来の己の栄冠の為、奔走周旋せねばならない。理不尽さを堪える日々の中で、この、受の言葉は此処まで耐えに耐えてきた兆の堪忍袋の緒を切らすのに充分だった。
「御年!? 皇女様の御年まで、私が責任をとれと?」
「……そ、そそ、そう……云う、な……。……か、か、考えれ……ば、わ、わかる……だ、ろう……が」
はんっ! と大仰に兆は肩を怒らせた。
染姫の年は、既に大年増と云える。
此処まで未婚でいた事も恥ではあるが、もうじきに誕生日を迎えれば厄年となる。
慣例として、嫁下は服喪の期間が過ぎて後、3回忌を終えてからとなるだろう。そうなれば、染姫は厄年の大年増女として、嫁下せねばならなくなる。
厄年を過ぎての初子は恥かき子として、嘲笑の的となる。実は、染自身がその恥かき子なのだ。親子二代で恥かき子を授かる。
しかも自身は嫁下の身、これ以上の恥辱はないだろう。
だが、そんな事は兆の責任ではない。
「……そ、そこ……を、な・何……とか……して、ほほほ・欲し……い、のだ……」
「どうせよと? 私はただの人の身の上です。姫君の御年を巻き戻して乙女になど出来はしません」
嘲る兆に、受は静かに目蓋を下げた。薄い眼光は、憤る同腹弟を諌めているようだった。
「……お、お前……に、しか……で、できぬ……術が……あ、あろう……が……?」
言われて、兆ははっとなった。
方法は、確かに一つだけある。
代帝・安と皇女・染に恩を売りつけ。
更に二位の君の存在をあげつつ己の評価を高め。
且つ、郡王・戰に己が必要であると決定付ける方法が。
「……ど、どう……だ?」
「……承知致しました。他ならぬ、同腹の長兄の婚儀、しかもお相手は皇室随一の地位を持つ皇女様です。尽くさせて頂きます」
此れまでと打って変わり、深々と腰を折る兆の相貌は、妖しい欲の色を隠そうともしていなかった。
受が兆の部屋を下がると、彼の執務室は勢いついた。
舎人たちが慌ただしく縦横に走り去る様子を、衝立の影から密かに覗き見ていた受は、ふん……と短く鼻を鳴らす。
「我が弟ながら――よくよく、己の欲には忠実な奴だ」
その欲望が身の程知らずであると、何時になれば理解できるのか。
「我が一族は、愚か者揃いだが、お前はその頂点に立っているぞ、兆」
首を左右に振りながら、受は兆の部屋の活気に背を向け、静かに歩み去った。
★★★
今日も執務を終えて、戰への手紙を書き終えた。
深い溜息をついて椿姫は身体を寝台に横たえた。そんな動きすら、既に彼女には大仰なものとなっており、著しく体力を消耗させてしまう。
「姫様、少しは眸をお閉じになりませぬと、お身体にさわりまするよ」
「蔦……」
「姫様お一人だけも、祭国の民には大切な玉体のお身体でありませんか。まして、今はお二人分の、大事の御身ではありませんか。無理にでも、お身体を休めねばなりませんよ」
母親のように戒める苑に、椿姫はばつが悪そうに微笑む。
今の彼女に強気で意見できるのは、彼女の兄の承衣の君であった苑、そして常に寄り添い続けてきた蔦と珊、薔姫くらいなものであった。
苑が手伝って、椿姫を横向きの姿勢で寝かせなおすと、蔦が薄絹でできた薄掛を肩までふわりと引き上げた。
「分かっています、苑。有難う、蔦……でも」
「でも……?」
「……いいえ、何でもないの……心配ばかりかけて、御免なさい……」
椿姫の気持ちが分かる過ぎる程に分かるだけに、二人はかける言葉が見つからない。
蔦と苑は、横になる椿姫の背を見詰め、そして互いに視線を絡ませ嘆息しあった。
克の配下の手の者は、兵部尚書に手紙を届け必ず郡王陛下に申し伝える、と云う兵部尚書・優の答えをもぎ取って、帰ってきた。普段は感情のままに部下を褒める事のない蔦が、伝令に走った者に「よう、お勤めをはたしゃりましたなあ」と抱きつきながら、感極まった様子を見せたものだ。女慣れせぬ上司に似たのか、男が顔を真っ赤にして硬くなったのをみて、久々に笑い声が上がったものだが。
しかし、それとても、戰が契国より先ずは勝利を得て、遼国及び河国へ向かわねば、叶えられぬ事だ。
――皇子様、お早うお戻りあらしゃらりませ。姫様のお気持ちが、お先に儚のうならしゃります。
薄掛をまだ握り締めていた事を、その手が白くなるまで固くしていた事を、蔦ほどの者が気が付けなかった。
蔦と苑、二段構えで宥め賺されて、背中を摩られつつ椿姫が渋々目蓋を閉じると同時に、部屋の外で高い靴音と騒ぎ声がした。
甲高い声は、珊のものだと伝えてくる。
苑の指導の賜物か、やっと城勤めの間は、宮女らしくしおらしく振る舞えるようになってきたというのに。まるで以前の彼女に逆戻りしたかのような、ばたばたとしたあられもない雰囲気が、流れ伝わってくる。
「珊? 何をそうも、騒ぎたててあらしゃりまするな?」
しようのない娘だと眉を寄せる蔦の前で、ばん! と壊れるのではと思われるほど、いや実際に戸は壊されつつ、乱暴に開け放たれた。
「椿!」
戸を打ち壊して現れ、椿姫の名を呼んだのは、横になっている少女の夫である人物だった。
★★★
振り返った椿姫は、信じられない人の登場に、言葉もない。
ただ、それでなくとも大きな瞳を、更に大きく見開いた。涙が一杯に浮かび、溢れると同時に、声の主は、椿姫の身体をがっしりとその腕の中に抱きしめた。
椿姫はその太く厚い胸板に抱きしめられ、動転しつつも背中に腕をまわした。
「せ、戰? ほ、本当に、本当に、戰……なの?」
「ああ、そうだ、私だよ。君の夫はこの国の郡王じゃないか。郡王が自身の国にいては、いけないかい?」
何処か間の抜けた椿姫の問いに、戰は真面目くさって答える。
「……戰! で、でも、でも、どうして此処にいるの? 戦は? 真様や、兵部尚書様、杢や、芙は?」
動転しつつも、戰の顎の下から彼を見上げ、椿姫は矢継ぎ早に質問を浴びせる。その必死さを止めようとしてか、戰の腕に力が更にこもる。
「椿、済まなかった」
「……戰?」
「自分の大変さにかまけて、お前が大変だった事に気がついてやれなかった」
戰の腕の中で、椿姫は首を左右にふる。背中に回した腕に、自然と力がこもる。溢れた涙が、止めど無く零れて頬を濡らし、戰の胸も同様に熱くしめらせる。
「……戰……私、わたし……、眸を閉じるのが怖い……怖いの」
「大丈夫だ、椿の事も腹の子の事も、私が守る。だから、安心して目を閉じて休むんだ」
「……戰……」
「椿、大丈夫だ、大丈夫だから」
愛しい少女の気持ちは、言葉ではなく流れる涙が代弁してくれている。
目を閉じて。
その間に、お腹に宿った御子が儚くなってしまったら。
初めて母になろうとしている少女の背中を強く抱きしめながら、戰は寝台の上に上がった。ぎしり、と寝台が不平不満の音を漏らしたが、構わずに。
「私の子だよ? 何があっても、椿の腹にしがみついて離れないさ」
「何が……あっても?」
「そうだ、何があってもね」
「でも、戰……」
「うん?」
「何時までもお腹にしがみついていたのでは、赤ちゃんは産まれてこられないわ」
う? と戰が顔を顰めると、椿姫はくすくすと笑い声を零した。
笑いながら、椿姫は戰の胸に額を寄せた。
「……戰」
「ん?」
「……来て呉れて、有難う……」
「そんな事を気にしていたのか? 馬鹿だな」
もう一度、ぎしり、と寝台が音をたてた。
戰が、身体を椿姫の隣に横たえたのだ。
彼の腕を枕のようにして、椿姫は目を閉じる。
直ぐに、此れまで聞く事が叶わなかった、安らかな寝息が漏れ始めた。
椿姫が寝入ると、蔦と苑は、安堵の涙を密かにふきつつ、部屋をそっと後にした。
★★★
暫くすると、遠慮がちに、戸口周辺で影がちらちらとし始める。
戰が引き戸を盛大ん破壊してしまったので、扉越しに様子を伺う事が出来ない為だ。笑いながら、戰が影に声をかける。
「此方においで、薔、学も」
戰が声をかけたとたん、ぱっ! と一瞬、影は大きく引いた。が、おずおずと伸び始め、遂にひょこりと顔が出た。
「……お兄上様、椿姫様は?」
声まで、控えめにして、薔姫が覗いている。反対側からは、学が覗き見していた。
いつもの、仔栗鼠のような闊達さのある彼女らしらからぬしおらしさをみせる義理妹を、椿姫に腕枕をしながら横臥している戰は手招きした。
「今、眠ったよ」
「郡王様、本当にですか?」
「ああ、気持ち良さそうで、私まで眠くなってくるよ」
少年と少女は、喜びに綻ばせた顔を見合わせると、何方からともなく、戰の手招きに応じて部屋に入った。
「良かった、です」
ぐず、と鼻を鳴らしながら学が椿姫の傍にたった。姉姫と慕う椿姫は、戰の腕を枕に、胸を規則正しく上下させて寝息をたてていた。久しぶりに見る穏やかな表情に、余計に鼻がグズグズしだし、学は慌てて鼻を手で覆い隠した。
素直に喜びを見せる学だが、薔姫は、しかし何処か様子が可笑しい。
もじもじとして、なかなか傍に寄ろうとしない。空いた方の手を頬に伸ばしてやると、漸く決心がついたのか、大きく一呼吸ついてから、口を開いた。
「お兄上様……」
「どうした? 薔、何を気にしているんだい? 言ってごらん?」
「……どうしよう、私……」
「うん、どうした?」
「私……我が君に、いっぱい嘘ついちゃった……」
嫌な子だって、嘘つきだって、嫌われないかな?
両手で、戰の手首を縋る様に握り締めてくる義理妹に、戰はもう一度笑いかける。
「薔は、真が嘘ついたら、嫌うのかい?」
「……ううん」
「それなら、大丈夫だよ。真は、こんな事で薔の事を嫌ったりしないさ」
「……本当?」
「ああ」
「お兄上様、本当の本当に、そう思う……?」
「ああ、思うよ、姫が一生懸命考えた嘘は上手過ぎて、すっかり騙されてしまいましたよ、って笑ってくれるさ」
……うん。
答えると、薔姫も戰の肩に突撃するようにぶつかり、大声をあげて泣き出した。
耐えてきたものが、一気に堰を切るように溢れ出た泣き声だ。何事かとその場に駆けつけた大人たちも、事を知り、目元を潤ませ鼻の先を赤くし合う。
そして、戰の姿に心の平穏を取り戻して眠る椿姫に、もう一度、安堵の笑みを捧げたのだった。




