1 花園 その3
1 花園 その3
灼が自室と定めた部屋は、遊び部屋として、普段は使用されていない部屋であった。
最後の国王であった創の部屋は、一度入ったきりである。
華美を嫌う訳ではないが、無秩序に飾り立てられた部屋は、ただ不愉快なだけだった。
着替えを済ませた灼が、亜茶と共に部屋に戻ると、待ち受けていたのは遼国に残してきた女たちであった。一斉に腰を深く折り、再礼拝を灼に捧げる。女たちの前に亜茶も加わり、彼女も最礼拝を灼に捧げる。
「此度の勝ち戦、お慶び申し上げます」
おう、と答えながら、灼は腕を振って礼拝をやめるように示した。
亜茶が姿勢を正すと、残る女たちも一斉に姿勢を正す。寝台の上に、どかりと腰をおろし胡座をかいた灼に、女たちは一様に、目を細めて笑みをこぼした。
「どうした?」
と、野暮な事は口にしなかった。
邑で涼が口にした『出過ぎた事』とは此れであるな、ととうに気が付いている。
女たちの塊が割れ、茶器と小皿を乗せた盆が運ばれてきた。小さな急須も共にある。
亜茶が手招きすると、盆を持った女が静かに彼女の元に寄った。
伏せてあった茶器を表に返し、小皿の上に盛ってあった岩塩を、細い指先で一摘みする。茶器に塩を振り、急須を手に取ると中身を注いだ。麦湯である。
「どうぞ、御館様」
おう、と頷きつつ、灼は受け取った。
「亜茶が入れる麦湯をもらうのは、久しぶりだな」
「はい、本当に」
亜茶の唇が艶かしい動きで返答するのを待ってから、灼は茶器に口を付けて、中身を啜る。だが直ぐに、おや? という表情になった。
「如何されましたか、御館様」
「いや……」
言葉を濁しはしたが、こんな味であったか? と、灼は首を捻る。
灼は、亜茶の入れる麦湯を一番上手いと思っていた。
亜茶とは、自分がまだ王位に就かぬ頃から、つまり館住まいであった頃より添っている。亜茶だけでなく、此処に居る全ての女たちにも言えるが、どんな女も、自分の為に其々の立場でよく尽くしてくれている。
が、亜茶は別格だ。
亡くした母后と共に自分を支えて呉れていたというよりも、燹と同様に己の為に役にたって呉れたという認識だ。まだ館住まいの王太子時代に、6歳年上の彼女の手ほどきで、自分は男になった。亜茶ほど、自分の歴史を間近で見てきた女はいない。
更に、11年前の独立劇の折には、灼の母親と彼の女たちを率いて見事、河国の館より脱出してみせた。今、こうして自分が女たちを愛でられる立場にあるのも、女たちを失わず愛でる事が出来るのも、全て亜茶の尽力によるものだ。
最早、戦友に近い。
その亜茶の味は、舌が覚えている。
確かに此れは、常日頃、亜茶が自分の為に入れてくれる、一番好みの筈の麦湯の味だ。
一番馴染んだ味であるものを、だが些か物足りなく感じるとは、どういう事なのか?
「如何されましたか、御館様?」
「いや……亜茶の入れてくれる麦湯は、こんな味であったかよ?」
馬鹿正直に、灼は亜茶に疑問を吐露する。
彼女に対してだけでなく、此処にいる女たちに、灼は感情を隠しだてした事がない。取り繕う、必要がなかったからだ。
一瞬、息を呑むようにして眸を見開いた後、亜茶は手の甲で口元を隠しながら、ころころと笑い声をたてた。追従するように、女たちも声をこぼす。
「御館様は、本当に、ご自身のお心に素直な御方に御座います」
「あん?」
「御館様、では、私の麦湯をお口に含まれて、逆に思い出されたお味はどの娘の入れた湯の味に御座いましょう?」
亜茶に言われて、灼は、ふむ? と首を捻った。
思い出したのは、涼が入れた麦湯の味だった。特別に、作法がが上手いという訳でも、味が格段に良いという訳でもない。
だが、麦湯が灼の喉を滑り落ちる時に、灼の気持ちが安らぐようにとの、涼の心遣いを感じられる、そんな味なのだ。彼女の笑顔が思い浮かぶ、和みの味だ。
「御館様」
「何だ、亜茶」
「御館様、私どもは皆等しく、御館様のご愛情を頂戴しております。此れは私どもの誇りに御座います。御館様という大きな灼に包まれて、私たちはみな共に熱く燃える事ができ、倖せに御座います、なれど」
「なれど?」
「等しく愛されておりました私どもは、御母君なくしては、御館様の懐にて一つの炎となれませぬ。まとまってはおられぬ、危うい火の粉に過ぎませぬ。火の粉は勝手に飛び散ります。散った先々で、どの様な災禍を齎すやもしれませぬ。この火の粉を、御館様の元にて一つの炎に仕立て上げる、大きな存在が必要であるとはお思いになられませぬか?」
「亜茶、お前では、其れは成さぬと云うのかよ?」
はい、と亜茶が頭を垂れると、背後の女たちも、私どもでも到底、成せませぬと、頭を垂れた。
「此度、私どもがこうして御館様にまみえる事が叶いましたるのは、偏に、あの涼という娘の機転のお陰に御座います」
亜茶の言葉に、灼はふむ、と首を傾げる。
頬の涙型の刺青が、心なしか赤みを強くしていた。
★★★
河国王・創が残した後宮たちの処遇を如何にすべきであるのか。
懸案にしてるのは、実は、灼だけではなかった。
彼に勧められるまでもなく、戰も真も、この女たちの問題は素通り出来ぬものであるとは、していた。
「真、どうしたものだろうか」
「確かに面倒くさい重大事ではありますが、その気になれば一言で片付く問題でもあります」
ん? と目を瞬かせる戰に、真はくすり、と小さく笑った。
芙も、笑いながら真に薬湯を差し出してきた。勿論、苦薬湯である。明白に嫌そうな顔つきで受け取りながらも、真は芙に礼を言い受け取った。
「河国の後宮の御方々が、こぞって灼陛下の寵愛を得ようとしているのは、偏に、生き残る為です」
うん、と分かったような分からないような顔付きで、しかし神妙に、戰は頷く。
正直な話、滅ぼされた国の後宮がそのまま別の国の王のものとなるのは、かなり古い時代の話だ。
戦による人口の減少からの回復を、更に女性を奪うことで補ってきた時代の遺物という行いであるが、禍国も、禍国の更に先々代の国のうちに、そうした作法は消えている。
民間にまで下がれば、昔の風習を色濃く残す土地柄では、未だに、子を成さぬ嫁の代わりに、寡婦を陰腹として使う。出産経験のある女性に、男の種を文字通りに『仕込み』正室の代わり子を産ませるのだ。側室を迎え入れての子では、側妾腹として届けねばならない。が、影で育てたそれらの子は、正室の子として届けられる。
女たちは金で、意地と子袋とを、其々等価のものとして交換する。
それが商売として成り立っているのだ。大抵の場合、寡婦は貧しく、生活の為に利用される形である。
だが、そうした女たちの身の上に忍び入るやりようは、到底褒められるものではなく、禍国では既に廃れている。
だからまして、王室では有り得ない。
理由としては有り体に言えば、王位継承問題の複雑多岐化を避ける為だ。と言うよりも実質現王朝の血を根幹としていない者を、飼い殺しにすると称して、王室の同氏と認め、諸侯として遇し、品位冠位を与えてなどいては、逆に盛大に国庫を逼迫するだけだからだ。
質扱いで王室を縁とする王女を後宮に加えたりする慣は、当然残っている。
戰の母親である麗美人が良い例だろう。そうして民意を取り込む為であるが、後宮にまで手をだしはしない。
乗っ取った国の後宮は、直ちに国元に突き返す。
もしくは、気に入いった女が居れば官婢へと落とし、物品として後に召し上げる。
どちらかだ。
そして、どちらの道も、河国王の女たちは味わいたくない。
河国の後宮の女たちも、馬鹿ではない。
こうした禍国側の仕来りを熟知しているからこそ、必死で遼国王である灼に取り入ろうとしているのだ。
後宮として品位と官位を授かっている、この甘い汁の溢れる生活を逃したくはない。その為には、禍国ではなく遼国の民として新たな王の後宮に収まらねばならないのだ。
河国の女たちとしては幸いな事に、灼は多くの女を抱えながらも、子のひとりどころか、懐妊に至らせた事すらない。この事実は、後宮の女たちの気を強くするのに、一役買っていた。子を成した女こそ、我こそは陛下の御胤を宿す力を持つ、とばかりに閨入を、同衾をと、声高に主張するのだ。
しかし、河国の後宮の女たちが、よもや同様に身売りに近い形で灼に取り入ろうとする、その心の有り様が、戰には分からない。
後宮とはいえ、仮にも河国王に見初められたからこそ、男女の縁を交わしあったものを。しかも子を成した者までもが、見境もなくとは、戰には計り知れぬ世界だ。
それはさておき。
「王太后・伽耶陛下が、一言、王太后としてのお役目を果たす詔を下されば、解決します」
「だけどね、真。灼殿も言っていたが、私も伽耶殿に対しては、灼殿と全く同感なのだよ」
はい、私もです、と真も頷く。
良人である筈の、河国王・創の為に国葬を、とも伽耶は口を出してこない。
確かに、子供を宿していない彼女は、此処河国の中殿の主人として相応しからぬとの声が上がり、粗略に扱われていたとしても可笑しくはない。
だが、それらを差し引いても、今の伽耶の態度、薄情、冷酷、澆薄……様々に言い表す事が出来るが、どれをしても彼女の内面を的確に表現しているとは思えない。
何かを深く考えているのか、それとも全く微塵の心も動いてはいないのか。
だが、河国の王太后として、灼陛下を河国王の血筋と認めたのは、伽耶だ。
故に灼は禍国の仕来りに則れば、建前上、王太后・伽耶を、義理母として正式な礼を捧げ、敬わねばならない。
つまり逆に言えば伽耶さえ、丸め込むことさえ出来れば。
王太后として国王である灼に訓を与え、号令を発するよう仕向ける事が叶えば、事は一気に終息をみるのだ。
繰り返すが、後宮の女たちは、伽耶を見縊っている。
遼国王である灼を国王と定めた時こそ、彼女らしからぬ確固たる態度に度肝を抜かれはしたが、西宮にて、此れまでと変わらぬ隠者の如き生活に日を過ごす彼女を、誰も顧みていない。
己の栄華を少しでも長引かせる事に躍起になっている。
行動を起こすならば、注意を払われていない、今をおいてないのである。
だが、伽耶の岩石よりも頑なな心をこじ開けよと、誰に命じよ言うのか。
「ここは矢張、嫌でも灼陛下に気張って頂くしかないでしょう」
「うん……そうだな、そうなるのかな」
苦薬湯を飲み干した真が、晒で口元を拭いていると、とんとんと戸口を叩く音がした。
顔を見合わせる三人の耳に、慣れ親しんだ声がかけられた。
「馬鹿息子に客人たちだ、入るぞ」
がらり、と戸が乱暴に開けられる。
狼藉者一歩手前の荒々しさで現れたのは、禍国兵部尚書の地位にある、真の父親・優だった。
優の背後には、華やかな装いの女たちの群れがあった。
★★★
女たちが話を終えて部屋から退出していくと、優ほどの男が全身を虚脱させつつ、ふう……と大仰に嘆息してみせた。
「父上でも、緊張なされる時があるのですね」
「でもとは何だ、でも、とは」
息子の誂い口調に、憮然として父親が答える。
笑いながら戰が二人の間を執り成すと、今度は恐縮しきりで居住まいを正してくる。
「然し乍ら、陛下。この際ですので、直截にお尋ね申し上げたき儀が御座います」
「私と椿の子の事か?」
「はい、然様にございます。郡王陛下におかれてましては、お世継ぎ問題を如何様にお考えであらせられますか?」
優が真剣に問いかけてくるのは、当然、訳がある。
戰の妃となった椿姫が、この夏に御子の出産を控えているからだ。
禍国の帝室に名を連ねる戰は、今現在、父帝である景の喪に服している最中である。
禍国の王室の定義、理では、生まれて来る御子は、祭国の女王でもある椿姫の系譜に組み入れられてしまう。喪中の誕生である為、不浄な穢を背負っていると見做される為だ。
そして椿姫の系譜に組み入れられた御子が王子である場合、学よりも身分が高い故に王位継承権が上位となる。
真が祭国に到着したばかりの頃、この問題を後回しに出来ていたのは皇帝・景が存命中であったからだ。
しかし今、この問題は非常に危険な香りで、禍国の王室の敵を吸い寄せる。
祭国郡王の地位にある戰と現祭国女王の地位にある椿姫の御子。
亡くなった先の王太子・覺の御子である学。
禍国から戰が率い連れてきた者による派閥。
後主・順の時代より王室に仕えていた者による派閥。
祭国内にて、この二大国勢の政争を起こさせるのに此れほどの火種はない。
禍国側、特に戰を陥れんと虎視眈々と伺う王太子・天、隙あらば貶めんと垂涎三尺で狙う二位の君・乱が、共々に看過する筈がない。
「戰様」
真に促されて、うん、と戰は頷いた。
「兵部尚書、私はね、出来れば、祭国は学に継がせたいと思っている」
「学様――に、ですか」
未だ会った事がない、先の王太子の遺児の存在に、やはり優は懐疑的だ。
例え相手が戰であろうとも、他人の人物選定眼を鵜呑みにする程、優は甘くない。
「そう願われておられるならば、尚の事、此度の慶事、事を大事になさらねばなりません」
「分かっているよ、その事だけれどね、兵部尚書」
「はい、陛下、何なりとお申し付け下さい」
「うん、真とも相談したのだが、兵部尚書にも一役買って貰いたいと思っているのだよ」
いいかな? と笑顔で伺ってくる戰に、は、と神妙に答えつつも優は、真をぎろりと睨めつける。
視線の先で優の息子は、芙が差し出した月餅を、片頬を膨らませつつ嬉しそうに頬張っているところだった。
★★★
美しい春の庭園を前にして、伽耶の指先は伽耶琴の糸を爪弾いていた。
哀愁のあるその韻律は、日差しの明るさを曇らせる程に重く、爽やかな風を滞らせるように冷たい。
感情がこもらない無味な曲想は、誰の心にも感動を呼び起こさず、空疎に彼方に消えていくばかりだ。
大空を舞う小鳥たちも。
咲き誇る花々も。
芽吹きを色濃くする草木も。
彼女の音には、揺さぶられまいとしているのだろうか。伽耶琴の音だけが、一つ、ぽつりと庭の中に浮いた存在として、哀しく漂う虚しさはどうだろう。
だが、伽耶は満足そうに、爪弾く手を休めようとしない。
伏せ気味にして、喘ぐように震えて音を奏でている、伽耶琴の弦を見詰めていた彼女の目蓋を飾る長い睫毛が、ふと、そよいだ。
「誰です……?」
細い声には、やはり感情が込められていない。
しっかりと開けられえた伽耶の眸に、女たちの群れが飛び込んできた。
見知った、良人である亡くした河国王であった創が残した女たちでは、ない。
それと知っても、伽耶は無表情だ。先触れの舎人すら現れぬ己の立場にすら、無感動のままだ。
「其方たちは、誰です?」
作法に則り無言を貫いていた女たちに、伽耶は再び声をかけた。
すると、中央に位置していた娘が、軽やかな身のこなしで、するり、と前に進み出た。自分と幾ばくも年の頃の変わらぬ娘の、生き生きとした様に、初めて、伽耶の眉が、ひくり、とひくついた。
娘は礼節正しく、両手を重ねて眼前まで掲げ、深く腰を折る最礼拝を捧げる。
「王太后陛下の御意を得る栄誉を賜ります。私は、新たな国王となられました遼国王灼陛下に、古くより令として仕えさせておりました者の娘にて、涼と申します。以後、お見知りおき下さい」
「知りおく必要が、何処にあるというのです? 私は、最早、此処、西宮にて隠遁の生活を送る侘しい身の上。其方らに、必要とされる覚えなどありません」
「そうでしょうか?」
「……何がです?」
姿勢を正した涼は、背筋をぴしり、と確かにし、臆することなく伽耶に真直ぐ対峙する。
「私には、王太后陛下は、暇を持て余して独り寂しいふりをして、必要であるとお声掛りがあるのを、今か今かと待ちわびていらっしゃったように思われます」
無礼な娘……、と伽耶は呟く。
この様な時に、無礼者を下げる為の宮女すら下げて、ただ独りでいた迂闊さを呪う声音が、其処にあった。
「今であれば、其方の無礼を見逃してあげましょう。下がりなさい」
「いいえ、下がりません。私は、国王陛下の御使に御座います。王太后陛下におかれましては、国王陛下の御母君として、この使いを跳ね除ける事は叶いませぬ」
伽耶の頬に、僅かに赤みがさした。
此れまで、生気のないひょうじょうばかりであったものが、その顔ばせに化粧以外の色がのるなどと、なかった事だ。
御使。
禍国において、古くより皇帝より皇太后への正式な使者を指す。
自らを『御使』であると娘がした事実に、伽耶は凍りついた全身の血が、巡りだした気がした。
――……つまり、遼国王・灼殿は、仕来りを河国のものでも、ましてや遼国のものでもなく、禍国の様式を採用する事で追従の意思を示してみせたのですね。
禍国の作法を採用するとなれば、河国王の後宮の女たちの行いは、ただの、はしたなくも醜い尾籠な女の啀み合いでしかなくなる。
伽耶は、頬を染めながら、中央の娘を注視する。
御使であると名乗った、涼という娘は、自身が王太后であるが故に、遼国王を新たな国王に据えたが故に、遼国王の義理母であると云った。
王太后の立場である母は、国王である子の無心に応えねばならぬ時がある。
其れは、王妃、つまり正妃を定めねばならぬ時だ。
伽耶が、ほう……と深い吐息を漏らした。
此れまでにない、熱のある乱れた息使いが、彼女の中で、何かが変貌を遂げたのだと伝えていた。
「知りません。私は、そのように陛下に呼ばれる覚えは御座いません。今なら許してあげますから、さあ、お下がりなさい」
伽耶の声が、何処か浮き立っている。
涼は、見逃さなかった。
★★★
「何とまあ、幼稚な御方にございましょう」
「……なんですって?」
「恐れながら王太后陛下のような御方を、御母君として敬い奉らねばならない国王陛下が、お可哀想でなりません」
「……お前、無礼な」
「恐れながら王太后陛下、私には、陛下はご自身を振り返って欲しい、見つめて欲しい、構って欲しいが故に、態と独り遊びに興じ入り、振り向かせてなお追いかけさせようと躍起になって走りだしている、駄々っ子にしか見えません」
「お黙りなさい! 小賢しい!」
伽耶が金切り声を上げて、立ち上がった。
がん! と横転しつつひっくり返った伽耶琴が不満の声をたてる。12弦の糸のうち数本が、切れて飛ぶ。
「お前に何が分かるというのです! したり顔で賢しらに言い立てるでない、小娘!」
凄まじい剣幕で、伽耶がまくし立てる。
「お前に何が分かるというの!? 幼い頃に無理矢理、拐かされるように輿入れさせられ、ただひとりの御方を、陛下をお慕い申し上げておれば、それだけで良いと教えられました。けれど、その御方には拒絶されたのです。決して私を見詰めては呉れぬその眼は、別の御人を、私に陛下を愛しなさいと命じた御人を捉えて離さない。どうしろと言うのです? 私はなにものなのです? 必要とされぬのであれば、いっそ、殺して呉れた方が気楽であったものを、ただ薄ら笑いで誤魔化しつつ、感じておらぬように振る舞いながら日を潰す、そんな屍人以下の生活を、お前は分かるというの!?」
「ですから、御自分が必要であると求められるように仕向けられて、待っておられたのですね」
「賢しらに言い立てても無駄です。お前の言いたい事は、分かっています。遼国王の正妃となる娘に、玉璽と詔を賜らせよと言いたいのでしょう。ですが、私は何も致しません。出ておいきなさい。小賢しく言葉を連ねる事を誇る小娘は嫌いです、今後二度と、顔を見せるでない」
「思い知らせる為に、自分がいなければ何も出来ないと慌てふためく人々を嘲笑う事こそが、復讐であられると?」
「小賢しい小娘は嫌いだと言いましたよ、早くお下がり」
くるりと涼に背を向けた伽耶は、そのまま部屋の奥に下がろうとした。
その彼女の背中に、涼が容赦なく言葉を突き立てる。
「王太后陛下は、本当に、駄々を捏ねるだけの童なのですね。陛下のような御方が国母として王妃を名乗っておられたなど、本当に河国の民を哀れんでも憐れみきれません」
「お黙り! その立場にたった事がないお前に、私の孤独が分かるものですか!」
「いいえ、その立場にたったとしても、私は陛下の気持ちを理解することは、終生、叶いません」
「なんですって?」
「私たちの陛下は、河国王陛下と違う御方です。その大きな灼の中で、私たちを等しく燃え上がらせて下さいます。私たちは、ただその大きな愛情に身を委ねて、一つに纏まればよいのだと、誰に教えられるでもなく、知っております。私たちも、等しく陛下を愛しているからです。ですから、王太后陛下の孤独は、何処までも陛下お一人のものに御座います」
残念に御座います、と涼は微笑み、礼節に反して伽耶に背をむける。
背後の女たちは、一斉に涼の言葉に同意を捧げんと頭を垂れると、伽耶に見向きもせずに、彼女に従った。
「お待ちなさい!」
「……何でしょうか、王太后陛下」
「お前、小賢しくも、私の孤独なぞ、知りえぬと言いましたね」
「はい」
「では、それが正しいかどうか、私に示してみせなさい」
伽耶が、振り返った涼に向かって、一歩踏み出した。
「涼、と言いましたね。王太后・伽耶の名にかけて、新たなる国王・灼の正妃、中殿の主人、王婦にして国母として、此処に其方を認めましょう」
涼が両の膝で跪き、最礼拝をとる。
掲げられた涼の手首に、伽耶が冷たい手のひらを押し当てた。
「やってみせなさい。遼国王の胸とやらで、お前もみなも等しく、燃えてみせなさい」
どうせ直ぐに、泣いて泣いて、やがて泣けなくなる日々に、お前も身悶える、その日を私は指折り楽しみに待っていましょう、と伽耶はぎろりと涼を睨む。
伽耶の手のひらが離れると、涼はにっこりと、花のように微笑んだ。
「はい、燃えてみせます。泣いてもみせましょう――陛下の下さる喜びのもとに」
どうぞ、王太后陛下には、よくよくお確かめ下さいますよう、と涼は慎ましく目蓋を伏せた。




