1 花園 その2
1 花園 その2
吠え叫べは、戦に勝利したのだ、という実感がふつふつと湧いてくる。
炉の熱は、灼に興奮せよ、血の滾りのままに荒ぶれ、と命じてくる。
熱波を我が物とすれば意気が揚々としてくるのは、遼国の誇りある民の証だ、とばかりに灼が恍惚となっていると、複数の人の気配が近付いてきた。
首を巡らせると、灼の前に、燹に案内された戰、真、芙が、大量にかいた汗を拭き取りつつ現れた。
「何だ、郡王も気晴らしかよ?」
「そう云う灼殿も、ですか?」
まあな、と腰に手を当てて、灼は遠慮会釈なく盛大に吹き出した。
ふと見れば、戰の背後の真は、全身を真っ赤にさせていたからだ。酩酊状態と変わらぬ覚束無さで、ふらふらしている真に、灼は笑いながらも呆れ果てる。
「なんだ、禍国には揃いも揃って情けない奴しかおらんのかよ? この程度の熱でそんな汗をかいておっては、真夏の炉の前には立てんぞ?」
遼国の民の、特異な体質なのか? それとも、幾世代による慣れというものなのだろうか? 灼も燹も、赤銅色の肌をてらてらと輝かせる程度にしか、汗をかいていない。
妙に偉そうに胸を張る灼は、まさにこまっしゃくれた悪童そのものだ。
苦笑いしつつ、灼の隣に戰が並ぶ。
流石に鍛錬を積んでいる彼は、汗はかいてはいてもよろめく事はない。
「で、何だ? 気晴らしにかこつけて吾に会いに来た理由は? 国葬の事か?」
「そうだ、鋭いな灼殿」
「分からいでかよ」
戰が素直に褒めると、嬉しげでもなく、ふん、と灼は肩で息をした。
実は、創の残した後宮の女たちと同様に懸案なのが、身罷った国王・創とそして自国の民に討たれた丞相・秀の処遇だ。
河国王・創の遺体は既に王家の作法に則った浄めを終えて、河国王室由来の霊室に移してある。
此れまでの歴代河国王と同等の英霊として扱う訳にはいかぬが、さりとて此処で扱いを誤れば、河国の民の反感を買う。
だが、創よりも扱いが難しいのは丞相・秀だ。
彼の遺体もまた、丁重に浄めを終えたの後に霊室に安置してある。
自分たちを大いに苦しめたのは、実際には11年もの長きに渡り国を牛耳ってきた、丞相・秀だ。
しかしながら灼の心情としては、彼をこそ、丁寧に葬ってやりたいと思っている。敵ながら天晴れである、という至極単純明快な気持ちからだ。
人を人と思わぬ扱いをされ続けたというのに、このような感情を抱くとは不思議なものだ、と灼は首を捻る。捻りつつも、国を愛する姿は本物であった、漢としての忠義は一本道であったと感じれば、秀という漢の精華が胸に迫るのだ。
だが、保身に走るあまりに、仲間であるはずの同輩の贄とされただけの事はあった。残された河国の臣下たちは、挙って首を激しく横に振り拒絶を示した。彼の魂を救う事を認める事は、即ち、己の非道を認める事であるからだ。そして認めてしまえば、民の非難を一身に浴びねばならない。そんな恐ろしい事を許せるか、と云う訳である。
しかし、統治者としての秀の、民たちの評判、認知のされ方は国王・創のそれ以上に良い。
当然だ。
彼らは、河国を最もよく導き支えていたのは、秀であると知っていたのだ。斜陽の国である河国が、完全に陽沈みきる国とならずに済んでいたのは、偏に、丞相・秀の存在があればこそ、と。
なのに戦場にて、彼と国を見捨てたという事実からくる後悔と慚愧の念から己を助けるには、此処で、秀と見捨てる訳にはいかない。身勝手極まる自責からくる、国をあげての秀の魂の救済を求める声であるが、無視できぬほどに巨大化しつつあった。
此処で対応を誤れば、混乱はそのまま不満へと直結し、そして反乱へとひた走るだろう。
殻を喰い破って産声をあげたばかりの灼の国は、生え揃わぬ産毛が濡れて赤い地肌が透けて見える雛も同様、あられもない状態だ。
息の根を止めることなど、実は造作無いなのだと気が付かれていないだけの事だ。
だがこのまま幸運に頼ってばかりいては、何れ遠からず、禍国本土に付け入らせる格好の餌となってしまう。
何としても食い止めねばならない。
「どうしたものか、何かよい考えはあるかよ?」
「はい、一応」
腰に手をあて、再び大きく肩で息をつく灼に、真が短く答えた。ぴくり、と眉をはね上げて灼は反応する。真の声音は、何を今更、という成分が滲んでいた。
「一応?」
「このまま、則に則って魂を送る事が叶わねば、秀殿の御霊は悪霊となられます。新たなる御国を築かれる灼陛下におかれましては、斯様な厄の種を引き受けられる必要はありません。其れを避ける為の手立ては、確かに御座います。――が」
「――が? 何であると言うのかよ? 勿体ぶるな、直截に申せ」
「西宮に下がられました、王太后陛下のご協力を仰がねばなりません」
あの女か、とげんなりした調子で灼は首を左右に振る。
「王太后陛下なれば、秀殿の御霊を賤んじる者許さぬとの訓を発する事が出来ます」
「吾はあんな女に頼るつもりなぞ、毛頭ない。そもそも己の責務を放棄して、遊び呆ける女だぞ? 真面に国政の為にと、訓を発する事が出来ると思うのかよ?」
侮蔑を隠そうともせず、灼は言い捨てる。
そして、国に残してきた愛しい女たちを一人ひとり、灼は脳裏に思い浮かべ、苛々と身体を揺すった。
後宮を持てなかったのは、確かに王妃をすえるだけの力が己になかったせいもあるが、それ以上に、後宮を保つほど国も豊かではなかったのも、事実だ。だが皆、惜しみなく自分と国を愛し、尽くしてくれている。己の役目は自ら探し求めて、定めた仕事は決して手を抜くことなく務め上げて呉れているのだ。
母親であった王太后の指導と、女たち中でも最年長である者の節度の賜物でもあっただろうが、灼の女たちは悋気に狂うという事がなかった。
現在の河国の王太后である伽耶が、己の母親と女の長者と、同等の地位立場であるとすれば、何という違いであろうか。
そんな女に頼らねばならぬというのか?
明白に全身で『嫌な事だ、御免被る』と語る灼の背後で、燹はやれやれと嘆息した。
こんな真面目な話の最中であるというのに、熱気に当てられた真が、遂にふらりと身体を傾けて、床に転がりかけたのである。
★★★
慌てた戰の隣で、心得ている芙は無言・無表情で真の腕をとって支え、ゆっくりと床に座らせた。すみません、芙と呟く真の声は心底情けなく、力がない。
これで何度目か、呆れて口を閉じられない灼の目の前で、戰が懐から出した晒を竹細工の水入れから零した水でたっぷりと濡らし、差し出した。
「大丈夫かい、真、横になるか?」
「ご心配をおかけして……申し訳ありません、戰様……流石に、そこまでは……」
「情けない奴だな、とても無事には見えんぞ?」
「いえ、まあ、その……正直に申し上げれば、この暑さは堪えます……」
首筋に額にと、濡れ晒をあてながら真が呆けた声で呟く。視線が泳ぎ、相当に辛そうだ。
体力が絡んでくる事は、本当にからきしなのだな、と灼は呆れて眉根を寄せる。
すると。
「当然に御座いましょう。炉の熱を制するに、吾ら遼国の民、そして王様以上の御方はおりません」
涼やかな、それでいてりんとした張りのある声がかけられた。
涼という少女が、少年に薬缶と大きな椀をのせた盆を持たせて、笑いながら寄ってきた。
「陛下、郡王陛下並びに皆様も、どうぞ喉を潤して下さいますよう」
椀の中に、岩塩を一摘み落としながら手際よく配ると、薬缶の中身を丁寧に回しながら注ぎだした。濃い琥珀色液体が椀の中でゆらゆらと踊り、底の方でじんわりと岩塩が溶けていく。
一瞬、真は苦薬湯か!? と身構え、ぎょっとした顔つきをした。
だが、直ぐに、ん? となる。晒を額に乗せたまま、真は仔犬のようにくんくんと小鼻を膨らませて匂いを嗅いだ。注がれた液体は、何処か香ばしい良い香りがし、苦薬湯系の其れではない。
「灼殿、此れは?」
「麦湯だ。まあ、飲んでみろ」
「麦湯?」
「香ばしく炒った大麦を、水から煮出しているのです。充分に香りと味を水に含ませた処で、火からおろし、冷ました後、漉しております。此れは特別に、井戸で冷やしてあります。岩塩を共に頂きますのは、遼国の作法です」
涼の過不足のない説明に、灼は自慢げ頷きつつ、椀に口を付ける。傾けると、喉を数回上下させ、実に美味そうに一気に飲み干した。
互いの顔を見合わせた禍国の面々は、言われるままに椀に口をつけた。
最初に目を輝かせたのは、勿論、苦薬湯の味にまで小煩い駄目出しをする、真だった。
戰も、芙も、それぞれ口をつけた途端に、ほう? という顔付きになる。
香ばしい香りに違わぬ、爽やかな苦味が美味しい。
それに、加えた岩塩の塩気が、汗をかいて消耗した身体に染み入って行くのが分かるようだ。
「うん、美味いな」
「はい、美味しいですね」
「だろう? 炉の熱は身体から汗として水分と塩気を奪い、疲れを増す。吾らの祖先は昔から作業の合間にこれを飲んで、心身を癒していたのだ」
へえ、と目を丸くしつつ両手で椀をもって飲み干していく真は、何処か子供じみている。
普段、何かと斜に構える癖に、妙な処で子供くさい素振りをする奴だな、と灼は笑いを噛み殺した。そんな彼とても、三人が麦湯についてあれこれ感想を述べ合っている間、自慢を隠そうともせず胸を張っている、なかなかの餓鬼ぶりなのだが。
「しかしそうだ、そうだとも。良く考えれば、よいところで会えたのは吾の方だな。郡王よ、折り入って、相談がある」
「何だろうか? 私に出来る事ならば」
「おう、是非とも郡王に押し付け……いや、任せたい」
「うん?」
「河国の後宮の女たちの事だがな、郡王に呉れてやる」
「――は?」
「禍国への献上品とする、とでも云えばよいか? どうとでも好きにしてくれ」
実に上手い手を講じたものだと、うきうきした表情を隠そうともせず、灼は涼に空になった椀を放り投げた。
「美味かったぞ、涼」
「ありがとうございます、陛下、恐悦至極にございます」
動ずる事なく飛んできた椀を受け取った涼は、くすり、と口元を綻ばせた。
胸に、灼の放ってきた椀を愛しげに抱きながら、笑う灼の背中を見守る。何処か、悪童臭さが抜けきらぬやんちゃ坊主を見守る、姉のようでもあるし母のようでもある。
厄介事が片付いた、これで一安心だ。
とばかりに、浮かれて炉に近寄ろうとする灼を、燹が猛然と猛り狂いつつ呼び止めた。
「陛下! 戦にて手に入れた女は戦利品です。後宮もまた然り! 余程の事がなければ、そのまま王の所有物となるのですぞ!」
「そんな事は分かっている」
「いや、分かっておられないな、灼殿。私は受け取れないのだよ」
「郡王、謙遜せんでもいい。お主のような男振りのよい漢が、女なしで居られぬはずがなかろうがよ? 堪えておるくらいなら、我慢なんぞする必要はいらぬから、貰っておけ」
「灼殿、だからそう言う意味ではなく」
「まだ言うのか? だいたい、お主は昨年、句国を攻めた際に王城に入ったのだろうがよ? その折、句国王の嘴逞しい華どもを、どう扱ったのだ?」
「どうもしていない。当時、正妃であられた玖王子の母君が、万事諸事上手くまとめあげていてくれたので、安心して委ねる事が出来たのでね」
何だ、いけ好かぬ好漢を演じをって、と言いたげに灼は腰に手を当てつつ、天井を睨む。
「だが、其れは其れ、此れは此れだ。あんなきんきん声の女ども、吾は好かん……いや、あんな化粧臭い女ども、吾はいらん……違う、趣味ではないから触手が動かん……ええい! 兎も角、呉れてやると言っておるのだ。禍国の総大将として、受け取っておけば良かろうがよ?」
「済まないな、灼殿。だから私は、受け取れない理由があるのだ」
「ああん? 何だ、妃である女大事と飛んで帰った癖に、女は嫌いだとでも吐かすのか?」
「私は禍国の現帝である安代帝に、妃とした椿以外に誰も娶らぬと誓ったのでね」
「何ぃ?」
「他のどんな女性にも、触れるつもりはないのだ」
戰に救いを求めたかったというのに、出鼻をくじかれた灼は、ふん、と鼻先に皺を寄せて息を吐き出す。
「おい郡王、お主、本当に禍国の皇子か? 全く、よもやまだ妃一人しか女を知らんとか、餓鬼のような戯言を言い出すのではあるまいな?」
眉を顰めつつ、灼が嫌味たらたらに云う。
灼は、立場上控えているが、戰は別段、同様に振舞う必要性がないのだ。
逆に、好きなだけ女を侍らせて当然であろうに。
戰のような身分で、しかも美形ときている。
女の方が、袖を引き、腰をくねらせるのは当然の事だ。
更に戦を終えたばかりの、男盛りの血を昂ぶらせた漢が、女なしでどうやって毎夜を明かすと云うのかよ? と、跳ね上がった眉が言外に責めている。
しかし戰は、顔を赤くしつつ言葉を失うのみだ。そんな戰の後ろで、真と芙が互いにぐるりと背中を向ける。そして二人の肩が丸くなり、小刻みに震えだした。
今度は、灼が言葉を失う方であった。
「何だと……おい、まさか」
「……いや、その、声に出して言うべきことではないのだが……まあ、その……」
6尺を超える大柄な身体を小さくし、顔を真赤にしている戰が、可愛げの塊に見えてきた。
「冗談であったものを、本気なのかよ」
灼の肩が、爆発した笑い声と共に、豪快に揺れた。
★★★
しかしこれで、問題は振り出しに戻ってしまった。
灼の頭痛の種を明かされた戰が、何とも言えない笑みを口角に刻む。笑うしかない笑み、というやつだ。
「灼殿は、女性から齎される悩みなどとは、縁知らずと思っていたが」
「おう、吾もそう思っていたのだがな」
大層な自信である。
からりとした表情で堂々と応える灼に、思わず真が噴き出すと、眉根を顰めて睨んできた。
「其れに吾は、どうにも河国の女どもが気にくわん。なんだ、添うべき男が身罷ったというのに。男の肉叢が腐りかけてもおらぬのに、化粧臭く、飾り立てた姿で別の男にしな垂れかかるなぞ、信じられん」
唾吐きかけんとする勢いで、灼はまくし立てる。
「陛下」
「遼国に残してきた女たちが恋しいぞ」
流石に咎める燹に、悪びれる様子もなく、灼は答える。
遼国王としての後宮は成立していないが、それに準ずる立場の女性たちは居る。
遼国の王城に残してきている、それらの女たちの馴染みある赤銅色の肌を思い出せば、自然と心が和むというのに。
河国王の女どもは、苛立ちしか与えてこない。よくもまあ、あんな悪趣味女ばかりを揃えたものだ。創という男の程度が知れる、というものだ。
灼が恋しさを隠そうともせず、深く嘆息した。
まさか、女を使って攻め立てしようと企んでおったのではあるな河国王の奴め、と歯軋りしたくなる。
「あの、陛下」
「何だ、涼?」
「その事に御座いますが……差し出がましい事と重々承知の上の行いです、どうか、お許し下さいませんか……?」
何をだ? と訝しむ灼に、涼が、どうぞ王宮にお戻りくださいませ、と頭を深々と垂れ、少年を連れて下がっていった。
★★★
涼に促されたからという訳ではないが、新王と戦勝国の総大将が揃って姿を消していては、確かにばつが悪い。
灼と燹、戰と真、そして芙は王城と馬をかけさせた。
河国の王城に到着し、厩から井戸へと直行する。
夏の暑さがじっとりとした湿気を含んだ重いものである河国は、遠駆けから帰城して直ぐに汗を流せるように井戸が併設してあるのだ。
燹から桶を受け取ると、灼は目を閉じ、冷たい井戸の水を頭からざぶりと被る。
張りのある若駒のような躯の表面で、飛沫が上がった。珠となって滑っていく水を滴らせながら、布を求めて手を彷徨わせていると、指先に柔らかい布地が触れた。
「すまんな」
普段、燹に云うように、短く礼を口にする。
と、ころころと愉しげな笑い声が、灼の耳朶を優しくうつ。
聴き馴染んだ声に、驚き、うっすらと目蓋を開ける。肉感豊かな躰付きの、赤銅色の腕が伸びている。視線を腕から先に探ると、そこには矢張、馴染みの声の主が佇んでいた。
緑の黒髪が、水を浴びてもいないのに艶やかに輝いており、それ以上に再会に頬を輝かせていた。
「亜茶」
と、灼は女の名を呼んだ。
女の後ろには、大勢の女が並び立っている。
「はい、御館様、お久しゅう御座います」
亜茶と呼ばれた女は、涙に潤んだ声で答え、頭を垂れる。作法であるのに、まるで舞のような優雅さと艶冶さがある。
灼は頷くと、濡れた躯のまま、亜茶を抱きしめた。
旅装を解いて、美しく装ったばかりであろうに、だが美麗な着物が濡れそぼってしまうのにも構わずに、亜茶も腕をまわして、灼を抱きしめる。
「お前たちも、よく来た」
「お久しゅう御座います」
亜茶と呼ばれた女に見習い、背後の女たちも一斉に灼に頭を垂れると、灼の胸に、背に、腕に、駆け寄った。




