終幕 催花雨(さいかう) その1
終幕 催花雨 その1
「皆、此処が気張りどころだ、堪えろよ!」
駐留軍を強襲して邑を解放し、河国からの支配脱却を高らかに宣言するのだ!
その為には、輩を救うためには、一瞬を惜しんではならない。
馬を逞しくさせれば、嘗て河国宰相・秀が訪れた際に留め置かれた軍がある邑にまで、一夜でたどり着く。遼国軍の兵士たちは皆、眸をぎらぎらとさせ、涎を飛ばさんばかりの荒い息遣いだ。
野獣さながらに駆けに駆け、駆けながら、飲み、喰い、屎尿がもよおしても止まらず走りながら垂れ流す凄まじさだ。
文字通り総力を挙げ、荒野山河を切り崩さんばかりの怒涛勢いで、駆け抜ける。
しかし、騎馬は兎も角、歩兵は一昼夜走り詰めに走り続けるのは、どだいむりがある。戦車部隊に武器を全て任せ、身軽となっても、なお、走る彼らの肺腑から湧き上がる血の味が、口内に染み渡る程、疲労の局地にあった。
其れを知る灼は、握り拳を突き上げ、兵士たちを鼓舞し続ける。
「駆けよ! 力の限り駆けよ!」
馬上から、振り返りつつ怒鳴る灼に、兵士たちは答えない。
答えれば息が乱れる。
乱れれば脚が縺れる。
縺れ倒れれば行軍が止まる。
助けを待つ仲間の為に、祖国に一刻でも早く帰りつく!
其れこそが、吾等が答えだ!
一丸となって祖国を目指して駆け続ける灼率いる遼国軍は、まさに天帝の放つ矢の如しであった。
だが、祖国を必死に思う彼らの目の前には、無情なる現実が突きつけられた。
「何だ、あれは!?」
誰かが、空を指さした。
その指差す先に、赫い渦が回転しつつ空に駆け登っている。まるで生まれた子龍たちが母なる大空を目指しているかのように、幾筋も上がっているではないか。
嗷嗷と響いてくるのは、その子龍たちの雄叫びなのか。
否。
其れは、遼国軍から発せられた、絶叫だった。
「うおおお!」
堪えきれず、灼が吼える。
燹もまた、叫ぶ。
況や、兵士たちが耐えられようか。
邑が天を焦がして赤々と燃え盛り、今、消え失せようとしている、この姿を見せ付けられて!
★★★
火災旋風による真赤な世界が、邑を支配している。
何処も畏も、まるで高熱の炉が剥き出しになったかのようだ。勝者となった炎が、まるで誇るかのような鯨波をそこかしこであげている。敗者である邑は、喘ぎ呻き、のたうちながら熱波に嬲られ頽れていく。
遅かった!
間に合わなかった!
――また、間に合わなかった!
食縛る灼の口角が、ぶしりと音を立てた。血の筋が滴るが、灼は構わない。
「くそおぉ!」
だがせめて、数合でよい、河国軍と斬り結び、倒さねば気が済まない!
「城門を開けよ!」
灼の怒号に応じて、燹の命令が飛び、兵士たちが戦車に積んでいた投石機を正面に配した。
石が設置されて、弧を描きながら城門に飛んでいく。しかし、巨大な丸太を組み、更に青銅製の厚板で覆ってある扉だ。決定打になっているのか、効果があるのか、そもそも打たれた巨石が届いているのかどうかすら、激しい赫に染まる轟轟たる世界は、伝えてはくれない。
「かくなる上は突っ込み、城壁をよじ登るぞ!」
燃え盛る炎柱は、石造りの堅牢な城壁をも包んでいるのだ。油が大量に撒かれたのは明白だ。幾筋も登る龍の如き火炎渦は、城内の邑も同様の焔が轟いているという証拠でもある。
邑に居るのは、炉の前で鍛治に従事している男衆ばかりではないのだ。女、子供、年老いた者もいるのだ!
助け出さねば!
何よりも、居残る罪なき民を、助けの到来を信じて待っていた輩を、たとえたったひとりでも良い、助け出さねば!
――でなくて、何が国王を名乗れるものかよ!
手綱を捌いて、城門目指して駆け出そうとした灼の腕を、がしり、と握り締め留める者があった。ぎりっ、と目尻を裂いて相手を睨みつけると、その相手とは燹であった。
腕を振り払おうと、激しく身を揉むように捩るが、燹の太い指はがちりと喰い込んで、離れない。憤怒に赤銅色の肌を更に赤くしながら、灼は唾を飛ばして叫んだ。
「離せ、相国!」
「いいえ、離しませぬ!」
「どうでも離さぬと言うのであれば、その腕、叩き斬ってでも押し通る!」
「斬りなさい! この私を肉叢にかえて行きなさい!」
燹の叫び声が、灼だけでなく、その場に居合わせた全ての者の怒濤の怒りを、一瞬、凪いだ海のように鎮めた。
だが、その一瞬で良かった。
灼の前に、背後に、側面に、わらわらと兵士たちが群がる。
「な、何だ、お前たちまで!?」
怒りに我を忘れ、最早、助けもならぬとわかりきり、しかも飛び込めば火中に飛び込む真夏の虫と同じく、焼かれ死ぬのが目に見えているというのに。
大切な玉体である国王を、行かせるわけにはいかない。
灼という国王を、自分たちの尊厳の象徴である王を、失う訳にはいかないのだ!
「離せ! この糞爺!」
「まだ分からんのか、この小僧が!」
暴れ馬が地団駄を踏むように暴れまわる灼の頬に、燹の握り拳が飛んだ。
がっ、と頬骨と拳の骨がぶつかりあう音が鈍く響く。音に合わせて、ぶわ、と灼の身体がが飛んだ。鍛え抜かれ、鎧兜を纏いずしりとした重量を誇る体躯が、軽々と宙に浮き、馬から落とされた。
どう! という音も高く、地面に転がり落ちた灼は、赤く腫れ上がりだした頬に手の甲を当てた。ゆっくりと馬から降りて此方に来る燹を、ギリッ、と睨み据える。
次の瞬間。
灼は、弾かれた独楽のように駆け出した。
しかし先が読まれおり、背後から飛びかかった燹に羽交い締めにされる。
「離せ! 相国、頼む!」
「離しませぬ! 堪えられよ!」
「吾の国が燃えているのだ! 救わねば、助け出さねば! 相国!」
「なりません!」
なおも諦めず暴れる灼の両眼から、光る珠が飛んだ。
だが、嗚咽を忍ばせようともしない燹もまた、許しをあたえない。
灼の喉が、裂けんばかりの絶望の絶叫を放った。
★★★
しとしとと音もなく降り始めた雨が、身体にあたる。
漸く暴れる事を諦めた灼の前で、天からの降り注ぐ雨が――この時期の、慈雨は催花雨というが、その撫でるような優しさげな様からは想像もできない強かさで、凶暴な焔を包み込んで消してゆく。
立ち竦む遼国軍の前で、遂に、慈雨が焔を消し去った。ひゅう、という風音が熱気を冷ましつつあるのだと、教えてくれている。
「……行くぞ」
灼の命令に、燹は、首を縦に振った。
雨により鎮火し、全容を見渡せるようになった城壁の痛ましさは人を絶語にする。人肉の焼け焦げた、爛れた臭気は雨程度では、到底祓い拭い取れるものではなかった。皆、誰に命じられるでなく、臭気から鼻と口を腕で庇いつつ城門へと向う。
「開けよ!」
灼の命令を受けるまでもない。
兵士たちが槌や玄能を手にし、城門に群がる。
太い欅の丸太を組み、さらに青銅製の厚板で覆ってある自慢の扉だ。なまじの投石機の攻撃などで揺ぎもしない、まして破る事は叶わぬ自慢の城門だ。だが今は、その頑強さが恨めしい程に、障害として立ちはだかるであろう事は、明白だった。先の投石によっても、やはり打ち破られなかったらしく、厚板が数箇所凹んではいるが、その程度であった。
今度は、投石機は使えない。中の丸太が完全に炭化しつくしていればよいが、下手に投石機で打ち破り、空気を得て炎となって木っ端が飛び散るかもしれない。手間はかかっても、慎重に扉を打ち壊して行くしかない。
どかり、と槌が、玄能が、打ち込まれる。扉は、やはり内側の熱がまだ冷ましきらぬのか、触れれば火傷を起こしそうなどの熱気を残しており、隙間から白煙を吹き出してきた。
白煙が収まると、様子をみながら、徐々に勢いをつけて槌や玄能が扉を打ち据える。やがてそれは、全力となる。だがいくら巨大な槌で玄能で叩き殺す勢いで打とうとも、頑固なまでに扉は開こうとしない。
軋み、揺すぶられながらも、頑として開く事を拒み続ける扉に業を煮やした灼は、苛々と声を荒らげた。
「もうよい! 城壁を砕いて、中に入るぞ!」
投石機が運ばれてくる。
城壁の巌も、自国投石機で打ち破られるものか、果たしてあやしいものだ。だか、そんな事は云っていられない。
出来るだけ近距離に寄せ、狙いをしっかりと定めて投げ放たれる巨石が、どこん、と何処か間抜けた音を響かせる。その度に、城壁は僅かづつではあるが、小石を零して崩れていく。それでも、何十回も同じ箇所に投石機の石を受け止めた城壁が、遂に、がらがらと音をたてて崩壊した。
もわ、と中に漂う蒸気と灰煙があがる。
そして何よりも肉を焼く強い臭気も、その穴から此方に雪崩をうって流れてくる。
再び、腕で顔面を庇いつつ、灼を先頭に遼国軍は城壁内に脚を踏み入れる。
ざり、ざり、と焦げた何かが、沓裏で粉々にされる音がそこかしこで上がった。
★★★
城門の前まで来た灼は、言葉に詰まった。
門に縋るようにして群がっている人集りが、一つの肉の焦げ山となっていた。
近づいて、何とか着ているものが判別できるものから察するに、この人集りは、河国の宰相である秀が置いていった――そう、逗留軍であった。
彼らは皆、門に縋って腕を伸ばしていた。
前方に居る者を踏み台とし、城壁をよじ登ろうとして力尽き倒れている塊も数多い。更に、それを引きずり下ろそうとする塊はその上をいく多さだ。
――なんたる醜悪さだ。
悪寒に似た怒気に身体を震わせつつ、眸を眇める。
だが、灼をはじめとして、駆けつけた彼らの言葉を奪ったのは、河国軍の醜態を晒した死に様ではなかった。
「此れは……一体、何だ!?」
城門が開かぬよう、貫木を固めるように人集りがあった。
貫木の左右だけでなく、扉も直に支えている塊がある。衣服が焼け落ちて素肌出にになり、更に焼かれて焦げ臭い、黒く炭化した肉塊となっている。
彼らは、鎧を纏ってはいない。
つまりは、平民だ。
ある者は、背中に剣を突き立てられている。
またある者は、腕を落とされている。
更にある者は、脳天に鶏冠のように矢尻を幾本も生やしている。
苛烈極まる仕打ちを受けながらも、貫木に集ったこの人々は、決して逃げなかったのだ。
いや。
逃がさなかったのだ。
河国軍を相手に武器を持たぬ彼らは、この邑に閉じ込めて、壮絶な相討ちを仕掛けたのだ!
「……何という事だ……!」
あまりに熾烈極まる死に様に、灼は喪心した。
いや、その場にいた全員が、茫然自失のていとなり、立ち尽くすしかなかった。
何れ程の時間が動いたのか。雨が、弱まりを見せ始めた。元々、催花雨は長続きしない。
ふいに、城壁の外で、人の気配が動いた。
それも、相当数だ。
はっとなった、灼が鋭い視線をむけると、髪の毛の先から雨の雫が飛んだ。雫が払われた先には、丈の低い人の山が、崩れた穴の向こうに見えた。
思わず反射的に、その人山に一斉に駆け出す。
息をきらして、その人山の前までくると、それは子供たちの人集りであった。
赤子から、15~16歳といった年齢層。7~8歳程ともなれば、更に幼い子の手を引き、10歳以上ともなれば腕に赤子を抱くなり背負うなりしている。
どの子供も、煤に汚れ一様に疲れた顔をしているが、瞳に、生きのびようとする力がらんらんと宿っているのが、はっきりと見て取れた。
「お前たち、は?」
「吾等遼国の民を遍く統べる偉大なる灼国王陛下、立ちながらの謁見の無礼をお許し下さいますよう」
中央に立つ、細い腕に赤子を抱く最年長と思しき少女が、一歩前に進み出た。
しっかりとした言葉使いに、只の小娘ではあるまいと判断した灼が、威厳を正して少女に真っ直ぐ向き直った。
「お前は? この子供たちは? 大人たちは何故、戦ったのだ? 許す、答えよ」
「お許しを有難く頂戴し、お答えする栄誉を賜ります。私は、この邑の令を務めておりましたお方の血筋を、僅かながらに引く者です。男衆をはじめとした皆様方が戦いに身を投じられましたのは、河国からの狼煙が上がった為です。逗留している軍に、この邑を見せしめとして潰した後に、王都に取って返し禍国軍の背後を突け、と」
「それで、お前とこの子供等は?」
「はい、令を勤めたる御方に、この子達を連れ、逃げのびよと命じられました」
「子供たちだけで、か?」
「はい。子は、何れ国の礎となる陛下の宝。奪う不敬は許されぬ。戦うのは大人だけで良い。陛下が必ず、河国軍よりも早くお戻りになられる。信じて逃げよ、次代を担うこの子等を、必ず陛下の元へ連れて行け、と」
「……何処に隠れておったのだ? 例え風上いたとしても、あれだけの炎から逃れきるなど……」
「この様な時の為に我が国の邑には必ず、公孫樹を植えた高台の避難所があるのです」
公孫樹は、火災に強い。
鍛冶に従事する邑は、ともすれば一瞬の気の緩みから大火が起こり、その火災旋風により一晩で壊滅的な被害を受ける事もある。そのような事態に備えての、代々の知恵なのだという。
「陛下は、来て下さいました。河国軍よりも早く、この子達を守る為に、帰ってきて下さいました」
必死さに、抱く腕に力が入ったのが不満なのか、赤子がむずがった。少女は、表情を和らげて、赤子を揺すりつつあやす。少女の身でありながら、慈愛にみちた姿はまさに母のようだ。
少女に群がり、子供たちが笑いながら赤子に次々に手を伸ばして、あやし始める。少女は、この子等に好かれ、信頼されているのだろう。
その少女に、自分は無条件で信じられていたのだ。
少女と子等の笑みをみて、灼は胸を突かれ、再び言葉を失う。
必死に、喉を唇を開いて言葉を絞り出す。
「娘」
「はい、陛下」
「吾は、間に合ったのか」
「はい、陛下。陛下は、間に合われました」
臆することなく、少女は赤子を抱いたまま、灼を見上げて答える。凛々しささえ漂う少女の毅然とした姿に、燹も、兵士たちも皆、ほう、と息を零した。
灼は少女に近づいた。彼女が抱いていた赤子を、その太い腕に抱き上げる。突然の事に驚き、目を丸くした赤子だったが、だが灼と目が合うときゃっきゃと無邪気な笑い声をあげた。
「娘」
「はい、陛下」
「お前の名は、何と云うのか?」
「……」
そこで初めて、少女は、言いよどんだ。
「どうした? 許す、答えるがいい」
「……はい、あの……す、すず……しい、という文字を、書いて……」
「おう、『涼しい』という字を書いて、何と云う? 『すず』、か?」
「いえ、あの……我が国の名と同じく……」
「ん?」
「……『りょう』……と、申します……」
おずおずと遠慮がちに、申し訳なさ気に、それでいて何処か誇らしげに答える少女に、灼は、そうかよ、と微笑んだ。
灼の優しげな声音に、ふい・と伏せられた少女の目元が、ほんのりと朱に染まっている。娘らしい淡い恥じらいの色をみせた涼の瞳を、灼は好ましく思った。
「では、涼よ。吾と共に行くか」
「は、はい……はい、陛下」
赤子ごと、灼は涼と名乗った少女を強く抱きしめた。
其れをきっかけとして、涼は声を上げて泣き出した。灼に縋り、大声を上げて泣く涼の姿を見て、子供たちも一斉に灼にぶつかるように迫り、泣き出した。
子供たち、一人一人の頭を優しく撫でてやりながら、灼もまた、泣いていた。
高ぶるままに荒ぶるままに盛る灼の怒りを、この娘は、子等の涙は、鎮めてくれた。
この子等の涙は、確かに至宝だ。
離してはならぬ。
だが二度と。
恐ろしい思いを辛き思いをさせて、流させてはならぬ。
痛烈に灼は思った。
彼女たちの頬に輝く涙に、神かけて誓った。
真実に、強くあらねば。
命を賭けこの子等を逃した輩に、笑われまいぞ。
遼国軍と子等の口、どちらからともなく、喊声があがった。
いつの間にか、空の雲は薄くなり、ところどころ切れ目ができている。
青空が顔を覗かせはじめ、輝く陽光が、彼らの頭上に等しく降り注いだ。




