12 征く河 その6―4
12 征く河 その6―4
遼国軍と禍国軍が戦場の中央部にて、真正面から激突した。
衝突音が地響きとなり、その衝撃で周辺の物を薙ぎ倒しそうな程の、激しさだ。こうなれば最早、遼国軍の瓦解は避けられぬ事態であることは誰の目にも明らかである。
その様子を丘陵より、半ば唖然としつつ眺めていた秀は、正気を取り戻すと共に怒りによる目眩を覚えた。危うく、戦扇を取り落とすところであった。
――ええい、何という事だ!
確かに討って出よと命じはしたが、こういう意味ではないわ、この役立たずの生口どもが!
かくなる上は、勝手に死ぬな!
鶴翼の陣の一時でも早い完成の為、半瞬でも長く場に留まり、我が国の盾となり死ぬのだ!
命令、いや祈り、というよりも、呪いに近い。
喚きたてようとした秀の眼前で、遼国軍が、禍国軍の中央を、ざくり、と引き裂いて突き進んでいった。
「な、何だと!?」
まるで、乳餅を包丁で切るよりも容易く、遼国王・灼が率いる遼国軍は皇子・戰が率いる禍国軍を割っていく。
何という事だ!?
遼の生口の首魁如きが率いる軍が、かようにあっさりと皇子・戰の禍国上軍を討っていく、だと?
信じられない光景だった。
だが、真実だ。
秀の足下で、遼国軍の戦端が、禍国上軍をあっさりと真っ二つに断した。
ようやく、はっと正気を取り戻す。
どうであれ、遼国軍が禍国軍を殲滅せんと力を尽くしている事は事実だ。此れを意気にかえ、2軍と3軍と対峙している我が軍も勢力を持ち直せ!
じっとりと汗ばんだ掌で握り締め直した戦扇の影の下、禍国軍を両断した遼国軍が、更にその動きを早めた。
「こ、これは!?」
★★★
「突っ切れ!」
遼国王・灼の命令をうけ、遼国軍は巌となって戦場を突っ切っていく。
禍国軍を真っ二つにしてもなお、その軍馬兵士の脚が止まることはない。
「後ろを見るな! 迷わず突っ切るのだ! 此のまま、吾等が国まで駆けるぞ!」
灼の気勢に、うおお! という怒号に近い共鳴の声があがる。
振り回す戈、剣、轟く馬蹄、全てが灼の命令に呼応する。
途中、禍国軍の中に、見知った人物が灼の視界を掠めた。
「真とやら! その方の策、御前上等であるぞ!」
頭上高く腕を振り上げ、大きく回す。およそ戦場向きでない出で立ちで、慣れぬと物語る覚束無い手綱捌きをみせるその青年が、微かに微笑んで会釈したように見えた。
遼国王・灼の呵呵大笑が、遠ざかりつつも礼を告げていた。
禍国上軍を大上段から裂いた遼国軍は、その勢いを止める事はなかった。
そのまま戦塵を撒き散らしながら、凄まじい勢いで戦場を離脱していく。
「遼国へ! 吾等が国へ! 力の限り駆けよ!」
軍馬の馬首が指し示す方向は、彼らの国、遼を目指している。
対して、遼国軍により二分された禍国上軍は、そのまま左右に突き進む。
進みながら、互いに底辺を背中合わせにするようにして、三角形型の陣形を取る。矢尻のような、鋒矢の陣形に近い。が、鋒矢の陣と決定的に違うのは、大将を最後尾の中央に据えるものを、鋭い先端にたつのが大将である、という事であった。
兵部尚書率いる右軍と対峙している河国軍第1軍に対しては、戰が。
そして杢率いる左軍と退治している河国軍第2軍に対しては、真が。
1万8千弱の兵を率いて、命令を新たにする。
「行くぞ! 河国軍を討つ!」
「行きましょう! 河国軍を討ちに!」
合言葉を吼えながら、其々に、進撃を開始した。
★★★
遼国王・灼が率いる遼国軍は、あっという間に戦線を離脱し、姿を晦ました。
雲海のような戦塵のみが、彼らが去った先を隠すように、もうもうと立ち上っている。人馬の行軍の猛烈さを、如実に示している。
一方で、二手に分かれた禍国上軍は、鋒矢の陣にて側面より攻撃を開始し、見事に河国軍を撃退しつつある。河国軍の混乱を極めた右往左往ぶりは、矢尻を腹の急所に受けて身悶えしているよりも、無様だ。
その様を丘陵より見下ろしていた秀は、呆然と佇んでいた。
この数日の間に、いったい何度、希望と絶望の狭間を自分は行き来したのであろうか?
そして今、絶望が希望を完全に凌駕し、彼の全霊を支配している。
鶴翼の陣の最後尾にいる大将部隊が、二手に分かたれた禍国上軍により、ほぼ同時に撃破される姿が、絵物語の巻物を広げたように映し出される。
暴れ馬に蹴飛ばされて砕け散った石塊のように、いとも容易く砕かれていく大将部隊がやけに哀れで、其のくせひどく滑稽に映る。
いや、暴れ馬に踏みつけにされた、青蛙だろう。あられもない断末魔の悲鳴を情けなくもあげ、臓腑を飛び散らせてこの世の存在でなくなったのだ。
そう、これは虫螻が死の直前に神の加護により垣間見る、悪夢だ。
最早、流す汗すら干上がる、絶望のどん底に秀は落とされていた。
側面からの猛攻を、奇襲に近い形で受けた河国の第1軍と第2軍の大将部隊は、蹂躙された。己を打ち砕いていくその敵が、禍国上軍であると気が付く間も無く。
其れでなくとも、鶴翼の陣は戦闘が始まってしまうと、各陣形間で連絡をとりずらい。柔軟に対処せよと命令されていたとしても、各軍の大将ですら、秀の最終決定がなければ身動き一つ叶わぬ、傀儡以下の操り人形にもなれぬ者ばかりだ。
此処までとは……何故、此処まで、何から何まで全てにおいて『格』が違うのだ?
何がどうすれば、この様な差異が生じるのだ?
馬上から、秀はさらに陣形を変え始めた禍国軍を睨みつける。大将部隊を破った禍国上軍は、陣形を二段構えの衡軛に近いものに様変わりせていた。陣を展開する自軍を山に見立てての、包囲殲滅作戦であると秀は見抜いた。
しかし、見抜いたところで何ほどの事が出来るというのか。
ただ、自軍が哀れにも瓦解して行く様を、一人、味方の血が溢れされる饐えた臭いを、唇の端を噛み切って耐える程度の事しかできぬではないか。
ここに至り、秀は悟らずにはいられなかった。
戦う前から、負けていたのだ。
遼国軍が既に禍国軍と密約を結び、必死の反逆を心に定めていたとしても、負けていたのだ。
彼らの2軍に1軍を、3軍に1軍を、絶対の数の優位にあった上で激突させても無駄だったのだ。禍国軍には、1軍も2軍も3軍もない。全てが――そう、総大将である皇子・戰が率いる軍であろうとなかろうと、全ての軍が『1軍』として機能しているのだ。でなくては、この様な戦い方を先ず立案出来るものではない。
そして、自分自身も。
此度の戦で彼らが見せ付けた、縦横無隅に軍を動かす発想を、自分は持ち得ない、考え出すなど夢想の世界だ。
だが禍国軍の策士は、ありとあらゆる局面に対し尽く先んじ、柔軟性に富む対応をしてみせた。
対して自分は、必殺の鶴翼の陣にこだわりすぎ、そこから一塵の間すらも、はみ出す事ができなかった。
こんな自分なぞが、指揮をとっているのだ――
敵うわけが、ないではないか。
秀は、戦扇を打ち捨てた。そして、手綱を強く握り締め直す。
……だが、一矢報いねば、収まらぬ。
すらり、と腰に帯びた剣を抜き放つ。
「行くぞ!」
命令を下すなり、秀は少数の精鋭部隊を引き連れて、丘陵を駆け下りていった。
★★★
また一つ、軍旗を奪った旨を知らせる歓喜の声が、味方側から上がった。
此のまま順当に行けば、戦の終わりも、勝利として見えてくる。
杢は安堵の息を、夢中の中で吐き出した。
例え3軍であるとは言え、一つの軍を率いる重責を担わされての戦は、初陣以上の緊張感を齎していた。まさか、自身の軍旗をひるがえしつつ、戦う日が来ようとは。
敵の背後に回った真が率いる上軍がかけてくる圧力に、河国軍は耐え抜く地力を、最早持ち得ていない。既に戦は、掃討戦に近い様相を見せている。近く河国軍は、降伏を申し出くることだろう。
「申し上げます、敵が降伏を申し込んで参りました」
伝令が、己の考えを予測していたかのように、伝えてきた。呼ぶより謗れではないが、思うと同時に目的が果たせようとは。
思わず杢は、薄く微笑んでいた。表情を崩さぬ彼には、珍しい事だった。
しかし、直ぐにその表情が引き締まる。
眼前に現れた小さな部隊を率いる人物を、杢はよく見知っていたからだ。手にした剣を構え直し、鋭く叫んでいた。
「此奴らは降伏しに参ったのではない! 此れは罠だ!」
「はっ!?」
「奴は河国軍丞相・秀だ! 討ち取れ!」
杢の鋭い命令が、波濤のように広がる。
嘗ての河国との戦いにて初陣を飾り、以後、兵部尚書・優に従い全ての戦に出た杢は、知っていた。
河国宰相・秀は、自らの命を惜しむ為に降伏など、決してしない――
例えそれが味方を助けると知りながらもなお、美しく散る最後を望む。
そう云う漢だ。
降伏をするのであれば、それは、自らを餌に敵に斬り入る為の方便、自滅上等の特攻以外にない。
良い、悪い、ではい。
そういう時代にこそ輝ける時代を過ごした、武辺に生きた武人なのだ。
杢の命令を合図に、その場に修羅が生じた。
入り乱れての乱戦となる。自ら、大鉈を振るうように河国軍の兵を叩き伏せながら、杢は見失った秀の姿を探し求めた。
――何処だ!?
彼さえ討ち取れば、我が軍の完全勝利だ。
視線を左右に激しく振る。その杢の視界を掠めて、秀が剣を閃かせて突っ込んで来るのを認めた。
上段から大仰に剣を打ち込んでくる秀の撃剣を、杢は受け止めた。杢が手にする鉄の剣が、秀の青銅製の剣にひび割れを入れ、刃零れを生じさせた。小さな火花を発しつつ、金属が悲鳴を上げて砕けた。
「ぐあっ!?」
偶然か、其れとも執念か。
飛び散った破片が、杢の部下の目尻を傷つけた。よろめく部下が手綱を裁ききれず、倒れこむ。その時更に間の悪い事に、倒れた馬の蹄が杢の馬に当たってしまった。
当惑の嘶きを発して前脚を高くあげる馬を制しようとする杢の足元で、倒れた部下がもがいていた。此のままでは、倒れた兵士は自らの馬の蹄にかけられてしまう。
そうなる前にと、杢が部下に手を差し伸べ己の馬に引きずりあげようとした瞬間、均衡を崩した。いや、正しくは、崩された。
秀が鬼の形相で、折れた剣を馬の横腹に突き立ててきたのだ。
思わず、部下を傷付ぬよう、馬蹄の向きをかえる。その一瞬の隙が、命取りとなった。秀の剣が、杢の馬の首を掻き切った。
放り出された杢の身体の上に、身も世もなく暴れ悲鳴を上げつつ馬は横倒しになった。馬の下敷きになり野太い悲鳴をあげる杢に、飛び降りながら秀はとどめを、と剣を振りかざす。
――せめて、せめて、此奴だけでも倒させてくれ!
我が主に最早、報いる術がないというのであれば!
己の怒りだけでも晴らしたい!
他を圧倒する優れた主君!
右腕と頼む優秀な部下!
そして頼むに足る、強大な、揺るぎのない祖国!
私にはない、人が望む大事の全てを、労もなく、当然の如くに手にしている兵部尚書・優よ!
己の大事なるものを奪われる苦しみを、味わえ!
すると其処へ、まだ少年の面差しを残した青年が叫びながら馬を駆けさせてきた。率いる軍勢が、その青年こそ邪魔だと言わんばかりに追い抜き、迫ってくる。声のみが、彼が指揮官であると知らしめていた。
「大丈夫ですか、杢! 皆、早く!」
秀は舌打ちした。天を仰いで、怨み節をぶつけるように、流れる雲を睨む。
せめて敵に一太刀をとの願いすら、天帝は聞き入れてはくれぬのか。
再び馬上の人となった秀は、「行くぞ!」と短く命令を発して、風のように去っていった。
秀を追う部隊が自発的に編成され、後を追いかけていく。だが、今の禍国の兵たちとってには、秀の捕獲などよりも杢の安否の方が重大事であり、救出こそが最優先事項であった。
下半身を馬の下敷きにさせた杢の苦悶に歪む呻き声が、その傷の程度の深さを如実に物語っている。
此のままでいけない、早く助け出さねば、まずは馬をどけねばならない。
とは言え、どうすればよい!?
杢を囲んでおろおろとするばかりの部下を蹴散らして、真が飛び込んできた。馬から転げ落ちるように降りる。
「退いて下さい!」
傍に佇む軍旗持ちから、それを身体ごとぶつかるようにして奪う。剣を使って縛ってあった紐を断ち切り、軍旗を引きずり下ろして投げ捨てた。ぎょっとしつつ見守る兵士たちに構わずに、ついで真は、軍旗持ちの兜を奪い取った。
その兜の上に柄を置いて、先端を無理矢理深く馬の腹の下に差し入れる。斜めに持ち上がった方に真が全体重を乗せると、微かに馬の腹が持ち上がる。
真が何をしようとしているのか、合点がいった仲間たちが、柄にぶら下がるようにして力を込めた。『梃』の原理を使って、馬を持ち上げようというのだ。
ぐ、と馬の身体が僅かに持ち上がり、歓声が上がった。
生じた間に、真は身体を「く」の字に出来るだけ曲げて、腰から滑り込ませた。自分の体も同じく使用して、杢を引きずり出せるだけの隙間を作るつもりだった。
「ぐぅ……」
真も、呻き声をあげた。腹が痛んで、上手く力が入らない。
今更、契国で宰相である嵒に蹴り飛ばされた時の腹が痛んで事を邪魔するとは! 悶えるように踵で地面を引っ掻くようにして力を込めるが、逆に背中に、ぐぐぐ、と容赦なく伸し掛る馬の重みを感じた。
此のままでは、真も共々馬の下敷きになる、と居合わせた者が焦りを感じた瞬間、馬と地面の隙間に別の影が入り込んできた。
「父上!?」
「何という為体だ、恥じよ! この軟弱者の馬鹿たれが!」
息子に罵声を浴びせながら、馬と杢の間で、優が同じ姿勢をとった。
ぬん! と優が気合を入れると、ぐん! と馬が持ち上がる。
その隙間に、新たにもう一人、兵士が入り込む。再び、優が気合を入れる時には、真とその兵士も共々に力を込めて立ち上がる。更に隙間ができる。
すかさず、芙が腕を伸ばして杢の脇下に腕を入れ、一気に引きずり出した。
喜びの声が爆発する。
が、引きずり出された杢を見たその場に居合わせた全員が、直ぐに言葉を魂を、凍りつかせた。
右足の大腿部の途中から、あらぬ方向に足が捩れて爪先が外に向かっていた。
左足の膝から下では、白い骨が肉を突き破って飛び出ていた。
何処か太い血の管が、骨で引きちぎられたのだろう、どくどくと音をたてて血が流れている。
あっという間に、杢の下半身は血に染まった。
「真、杢の上体に乗れ!」
父親がしようとしている事を理解した真が、杢の口の中に破りとった袖を突っ込みがら覆い被さった。芙が、軍旗の柄を叩き折っている横で、優が怒鳴る。
「耐えよ!」
叫びざま、優が杢の脚を引っ張るのを、腕の隙間から真は見た。口に入れた布を通しても、野獣の叫びが周囲を貫いた。杢の身体が仰け反り、左右に跳ねる。跳ね飛ばされまいと、真は必死で杢の身体を抑えつける。
此処で処置を誤れば、確実に杢は死ぬ。
死せずとも、下半身は役に立たなくなる。
馬に乗り、戦場を駆けゆくなど夢となる身体となるだろう。
そんな事にさせるものか!
同じ思いなのか、真の身体の上に更に仲間の兵士が一人、覆い被さった。杢の腕を抑える者、優の手際を助ける為に脚を支える者、自らの衣服を裂いて包帯を作り上げる者、次々と杢の傍に人が寄りあつまる。
粘った水音は、溢れた血によるものだろう。必死さに最早目を開けていられない真は、耳から入る音だけで状況を判断するしかない。ごきり、と何かが、擦れるような音が、杢の体内で響いたのが伝わってきた。
「骨が入ったぞ!」
優の叫び声に、芙が叩き切った柄を差し出すと、其れを添え木として手際よく固めていく。切れた血管を抑えるように布を厚くあてがい、軍旗を巻いていた紐でぐるぐる巻きにした。
続いて優は右脚をとると、方向を正しく定めるよう回転させた。此方側も添え木をあて、しっかりと固定する。
全ての処置を終える頃には、その場に居合わせた者は皆、戦を駆けている時よりも激しい疲れと汗に塗れて、肩で息をしていた。
舌を噛まぬように口に入れていた布切れを取り出すと、杢は激しく咳き込んだ。此れほどの痛みを伴う処置を受けながら、まだ意識を保っていた事に、真は目を剥いた。
「腰骨は幸い砕けておらん! まだ助かる! 早く医師にみせよ!」
父親の、この様な悲痛な叫び声を真は聞いた事がない。一瞬、切なげに真は眸を瞬かせた。
芙が、外した軍旗を使って、簡易的な担架を手際よく作り上げる。乗せられ、運ばれていく杢が、不意に真に手を伸ばしてきた。釣られて伸ばした手は、ぎゅ、と思わぬ力で握り締められる。
思わず握り返すと、杢は、にこりと微笑んだ。
誇らしげな笑みだ。
優が二人の手をほどき、杢を連れて行くよう、芙に命じた。
まだ、何か言いたげな眸をしながら、杢は微笑みながら運ばれていった。
周囲は、禍国軍の勝利を告げる勝鬨で、空と大地ごと、揺れている。
戰の大将旗が、此方に向かって来るのが見えた。
何故か、ちくりと胸が痛むのを感じながら、真は左腕をさすりつつ、大将旗が近づくのをまった。
吹き荒ぶ風に、肝脳塗地にて赤く姿を変えた砂が巻き上げられていく様を、遥かに見上げ、呟きながら。
「……痛い……」




