12 征く河 その6―3
12 征く河 その6―3
鶴翼対鶴翼。
布陣の的確さは、一段此方が早いか。
丘陵地帯に馬を上げながら、秀は戦扇を揺らめかせていた。
足下にて展開し始めた、敵と味方の兵馬の動きに注視する。彼は総大将であっても、策士でもある。戦の流れを正しく把握する為に、時として戦場を離れ、この様に丘陵にて全貌を把握しつつ指揮を執ることがあった。其れは、勝たねばならぬ戦において、一層頻度がたかくなる傾向にあった。
幾らか優越感に浸りなら、河国宰相・秀は眸を眇めた。
鶴翼の陣とは本来、文字通り大空に大翼を広げた鶴のような陣形を指す。
中央に総大将をすえ、左右の両の軍を持つ三軍体制で臨む。
左右の軍は前方に展開し、敵を深く中央に誘い込み、大いに包囲する。
その間、中央に位置する大将は、必然的に直接攻撃に晒されやすくなるという、致命的な弱点を有している。
が、包囲網が完徹した場合において、敵を徹底して壊滅に追い込む事が出来る、まさに必勝法なのである。
ただし、圧倒的な兵力差の上でこそ成り立ち、成功する。中央の第1軍である大将が絶対的なまでの存在を見せつけてこそ、その威力を充分に発揮するものだ。故に、迎え討つ側が基本、この布陣をしくものだ。
今回の場合のように兵力差が拮抗していながら、まして敵が鶴翼の陣をもって対抗してくると知りながら、鶴翼の陣をぶつけるというのは、到底有り得ない。
鶴翼対鶴翼、しかも拮抗した兵力差ならば、別の陣形に変更すべきなのだ。
それでもなお、敢えて秀が鶴翼の陣を布いたのは、ただそれが彼の得手の戦法であるかではない。
完敗全滅か。
もしくは完全なる大勝か。
何れに転ぶかは己らの働き次第という、必死の決死行の策だったのである。
★★★
斥候の知らせによると、禍国軍の鶴翼の陣は、中央に位置する1軍にあたる上軍に総大将である皇子・戰をたてていた。此れは当然であろう。
2軍にあたる中軍右翼に、河国とは何かと因縁深き漢である兵部尚書・優をあててくるのは、此れも順当だであろう。
3軍にあたる下軍左翼には新たに設けられた大将の座、上軍大将軍に任ぜられた杢という、優の秘蔵の男を配して臨んで来るという。杢と云う男の事ならば、よく知っている。いや、忘れられない、と云う方が正しい。
嘗ての戦いにおいて、優が常に傍らに置いていた。優と、戦の優劣を決する為に、己を賭けて幾合も剣を交わしあう最中。何度、彼に中断させられ、臍を噛んだ事であるか。その時の、優の満足気な表情と、まだ青年とも呼べぬ年端の杢の誇らしげな瞳の輝きまでもが、脳髄に焼き付いている。
――あの男を、遂に大将軍が務まるまで育て上げおったのか、優の奴は。
腹の底で、何かがぐつぐつと音をたてて沸騰したように覚えたが、秀は戦扇を振って目を閉じ、息を整える。
今は戦に集中するのだ。
己の恨み嫉みよりも、国と陛下の御心を安んじ給う為を第一に、必死に願わねば、お役にたてぬ。
目を見開くと、改めて互いの陣を比べる。
1軍3万5千、2軍3軍共に2万、総勢7万5千強。
禍国軍もここが正念場と心得ているのだと、実働可能な軍勢をほぼ投入しての大軍が物語っている。
だが微かに、秀は首を捻る。
左右共に2万、というのが喉に刺さる小骨のように、ひりひりと引っ掛かる。
鶴翼の陣は、基本的に左右の陣を中央より手厚くするものだ。でなくては、大将軍である中央上軍を守る前に、包囲網は完成しない。
なのに何故、中央上軍を此処まで手厚くしておるのだ?
此方の出方を探って既に布陣も知り得ておろうに、何故、対峙するに最低限の数で挑むのか? しかし直ぐに、捻った首を左右に振り、己の疑念を杞憂だとばかりに払いのける。
それがどうした。
兵部尚書程の漢が定石を外しておるという事は、結局、皇子・戰のごり推しを受けれたという事、つまり、大将を敬うあまりに過保護にし過ぎているだけだ。
傍らに控える斥候を、ぎろり、とひと睨みする。
「布陣は完成しておるな?」
「はっ、既に」
「では――全軍進軍開始! かかれ! 禍国軍を撲滅せよ!」
秀は、戦扇を一振りした。
投石機が、硬い城壁を打ち破るかのような怒号が爆発する。
秀の戦扇の起こした風にのり、河国軍は、禍国軍目指して進軍を開始した。
★★★
禍国軍と河国軍、共に真正面から激突する構えを見せる中、河国軍が先に進軍を開始した。砂混じりの土地は、乾いた空気によく塵を巻き上げる。その高さが、河国軍の優秀さを表しているようだった。
遅れまじ、とばかりに禍国側も軍を動かし始める。負けじとばかりに、彼らも砂塵を高く巻き上げる。
河国宰相である秀は、此度、この布陣によるこの戦に、絶対の勝利の確信をもっていた。得意の策だからという単純な理由からくるものでも、己の命を駆けねば生き延びられぬ瀬戸際に追い込んでいるからだけでも、なかった。
思い知るよい、小僧どもめが。
戦扇を握り締めながら、まるで初陣の少年兵のように、頬を紅潮させていた。
「禍国軍右2軍と我が第1軍と禍国軍左3軍と我が第2軍との間にて、戦端が開きました」
注進が畏まりつつ、時勢を伝える。
そう。
秀は必殺の戦法である鶴翼の陣を、展開した。
但し鶴翼の陣は、乱戦に陥りやすい。鶴翼対鶴翼となれば、尚の事、右翼左翼は混戦状態となる。本来であれば、両翼を広げて飛翔する大鶴の如き陣形を展開し、敵を包囲し勝利に向かう道を完徹せねばならぬところを、此の侭ゆけば只の戯けた消耗戦となってしまうのだ。
だから秀は絶対の勝利を得る為に、密かに策を弄したのである。
禍国軍の右翼である兵部尚書・優が率いる2軍には此方の第1軍をあたらせ、左翼である3軍には第2軍を差し向けたのだ。
つまり、実力差で河国軍が圧倒する兵を、禍国軍の右翼と左翼にあたらせていたのだ!
負けるわけが、ないのだ。
ほくそ笑むのをどうしても止められぬ秀は、部下に気取られぬよう、戦扇に口角を隠す。
何の対策も講じずに、愚直なまでに鶴翼のままをあたらせるなぞ、兵書の上面のみを読み込んで常勝大将にでもなった気でいる、頭勝ちの愚か者のする事だ。
しかも此度の禍国軍は、左右の陣が薄い。此のまま行けば、遠からず此方が撃破するのは必定だ。
何とか笑みを抑え、哀れみを込めて、秀は戦扇の先端をひらりと風に舞わせる。その動きは、まるで禍国軍を嘲り、且つ慰めているかのようでもあった。
「第3軍である遼国軍に、いま半時耐えて包囲網が完成する頃合を見計らい、敵の総大将である皇子・戰率いる中央上軍を引き込むよう、命じよ」
注進に、秀は最後の命令を下した。
鶴翼の陣は、混戦状態の度合いが他の陣形よりも深くなる傾向があるのは、先にも述べた。特に今回のよう鶴翼の陣のぶつかりあいともなれば例え兵力差があろうとも、なおさらだ。伝令を遣わそうにも実質的に不可能になる事の方が多く、故に、この鶴翼の陣を必殺の定法とするのは至難の業なのは、このためであった。
2軍と3軍の兵力差が、直に効いてくるであろう。
じわり、とその差が効力を発揮したその機会を逃さず、総大将である皇子・戰を討ち取ってくれる!
戦場に戻っていく注進の背中を、戦扇の影から見送りながら、秀は短く笑った。
彼が持つ戦扇の影の下では、遼国王・灼が率いる遼国軍が犇めいている。
遼国軍よ、『国軍』を名乗りたいのであれば、存分な働きをするがよい。
総大将である皇子・戰は率いる3万5千に対して、遼国軍はたかだか2万。
しかも、例の噂、鉄の剣の話が本物であるとしても、よもや全軍には行き渡るまい。備えるのであれば、上軍の兵が中心となる事だろう。
第1軍として配した遼国軍の役目は、鶴翼対鶴翼であるが故に消耗戦となるこの戦において、包囲網が完成させる為に、深く皇子・戰を引き込むのみが目的だ。
その為には、ひたすら禍国軍の猛攻を受けつつも、緩やかなる撤退をそれと気がつかせぬ速度で行わねばならない。やがて倨傲に陥り、奴らの屍の上を禍国軍が行きつ戻りつする頃には、我らが敵の2軍と3軍とを打ち破り、包囲網が完成するよう、仕向けねばならない。
つまり遼国軍に課せられた仕事とは、禍国軍が傲岸不遜にも己の勝利を確信して疑わず、力を過信しての猛攻を受け止める事にあった。
禍国軍が自力に自惚れるよう、兵力差を悟られぬよう、じわじわと殺されていけ――という意味だったである。
やられるだけの存在であるならば、遼の生口どものみで充分過ぎる。
いや戦場にて、先祖どもが歩んだ道と同じく、文字通りに坑される存在として扱われるのだ、礼を言うがいい。
馬上から秀は、互いの、其々の軍の動きを更に注視する。
一時、及び腰になり三三五五と戦意が塵となりかけた河国軍も、自らは敵の総大将である皇子・戰と戦うのではない、という安堵感からか意気を取り戻し、よく戦っているように見える。
だが、秀は不満であった。「よく戦っているようにみえ」ていては、ならないのだ。禍国軍の2万に対して、此処の両翼は3万づつをあてている。絶対の兵力差があるのだ。そろそろ、それの差が効力をみせてくれる時勢とならねば、ならぬものを。
――何をしておるのだ、押しが弱い。
両翼の陣が、戦端が開かれてそろそろ半時近く経とうというのに、未だに押しきれずにいる。
おかしい。
何故だ。
焦りを含んだ疑念が、秀の心の中で暗く疼く。
その時。
秀の足下で、禍国軍が有り得ない動きを見せた。
★★★
河国軍の馬蹄の轟きが紅河の流れのように押し寄せてくるのを、戰と真は、ひしひしと感じていた。二人の元に、芙が流れるような流麗な動きでひたり、と身体を寄せてきた。
「動き出しました」
「布陣は、どのように?」
「予定通りに御座います」
芙の知らせを受け、千段に跨ったまま戰は頷いた。
戰は真が差し出した鏑矢を受け取ると、天に向かって引き絞り、放った。
甲高い、独特の音が空を翔る。矢を放つと同時に、戰は弓を後方に投げ捨てるようにし、剣を抜き放った。
天帝に捧げるように掲げられた大軍旗の前に、陽光を集め反射しつつ剣が閃く。
「全軍突撃! 此れより、河国軍を討つ!」
戰の命令を、兵士たちは残らず反復しつつ、雪崩を打って進軍を開始する。
――全軍突撃! 河国軍を討て!
「陛下、禍国軍が動きました」
「そうかよ」
言うなり、粥を盛った椀を放り投げると、袖を使ってぐい、と灼は濡れた口元を拭った。同時に、伝令が最後の命令を伝えてきた。
――第3軍である遼国王率いる上軍は、此れより討って出よ。
伝令は、灼の睨みを返答として貰い受ける前に、そそくさと下がっていった。ちらりと覗いた表情が、侮蔑と蔑みを隠そうともしない下卑たものであったため、その場に居合わせた遼国軍の主だった将兵が色めき立つ。
彼らが何とか堪え切ったのは、はん、とその背中を灼は嘲笑いつつ見送ったからだ。常であれば、真先に激昂する灼のような猛き王が堪えているのに、先に怒りを噴火させられない。皆が顔を真赤にしている中、灼は立ち上がり、纏っていた外套を翻しながら、馬上の人となった。
手綱を引き絞りつつ、灼が馬首をひらめかせる。
背後に控える、輩と心を込めよびならわす自国の兵士の前で、若き猛き王は、堂々と胸を張る。
「吾が国の民よ、よく聞け! 此れより吾等は、河国の命令により討って出る!」
燹が腕を振るうと、遼国王・灼の御印である大戦旗が掲げられた。
うおお! という津波のような歓声が上がる。
満足げに灼は頷き、そして腕を突き上げ、続いて何者かを斬り倒すかのように振り抜いた。灼を背に乗せた馬が、彼の気合を乗り移らせたかのように、興奮を隠そうともせぬ嘶きをあげる。
「遅れるなよ! 遼国軍此処にありと見せつけるのだ!」
「おう!」
「行くぞ! ――突撃!」
灼の命令を共に、独特の奇声を上げながら、遼国軍2万が灼熱の溶岩流のように一気に戦場に雪崩込む。
「突撃!」
燹も合わせて怒鳴る。遼国軍全軍も、呼応する。
「突撃!!」
★★★
「うぬ!?」
秀が目を眇めた。
其れまで、正しく鶴翼の陣を布いていた禍国軍が、変容したのだ。
中央に位置する上軍が、蒸気があがるかのように、一気に加勢へと転じたのである。鶴翼の陣の特徴である所謂、椀型の凹の形が逆に展開し、中央が盛り上がった凸型となった。それも横に可能な限り広まっての、凄まじい猛攻を仕掛けてきた。
「な、何!?」
猛る兵の咆哮。
釣られて嘶く軍馬。
兵馬の熱気にはためく軍旗。
遠く遥かよりも陽光を受け煌く様が、まるで地上の星のような美しさを見せる、鉄の剣。
そしてまるで、ただ一騎のみでも中央突破を敢行せんとばかりに先頭を駆け抜けていくのは、素晴らしい巨躯を誇る黒馬を操る漢。
そう、先の紅河水上戦にて、肺腑脳髄にまで負けを染みこませた、あの漢。
禍国軍総大将、皇子・戰が!?
自ら、先陣を切る、だと!?
鋭い禍国軍の攻撃は、まるで偃月刀のような鋭さで、立ちはだかる事など許さぬとばかりに、中央の遼国軍の前に陣を張っていた河国軍を蹴散らしていく。
「えぇい、なんと言う為体だ! せめて寸分の間でもよい、押しとどめぬか!」
包囲網が完成する前に、上軍である遼国軍も同様に打ち破られでもしたならば。
更なる消耗戦は、必定。そうなれば、先の紅河での大敗を性根に刻み込まれた労役にて掻き集められた歩兵どもは、霧散するように逃げ出すに違いない。
秀の脳裏に、紅河の船上で、自らの船の帆柱を斧で叩き折る兵士たちの姿が、そして倒した帆を艀かわりとして、這う這うの体で逃げてゆく兵士たちの姿が、国を、王を、己を見捨てていく兵士たちの姿が浮かんだ。
――ならぬ、それはならぬ!
「戦わぬか、この慮外者どもめ! 少しは国の為にものの役にたたぬか!」
地団駄を踏まんばかりに、馬上で歯噛みする秀の目の前で、更に予想だにしていなかった動きを、遼国軍はして見せた。
今回と次回、登場します『鶴翼の陣』をはじめとした『布陣』の型ですが、専門知識のある詳しい方には既にご承知のとおり、正しくありません。
分かってやっております。
覇王の走狗の世界においての『鶴翼の陣』や他の陣形はこの様である、と思っていただければ幸いです……




