12 征く河 その5―3
12 征く河 その5―3
夜が明けた。
両軍が互いを認め合ってから、正しく5日目だ。
一刻を惜しむかのように野鳥たちが喧しく唄いささめきつつ、まだ西方に明星残る紫紺色の尭天に、郡影を投じ始める。
甲板に立ち、じっと川面の流れを、即ち河口へ海へと流れ続ける水の動きを、秀は凝視し続けていた。
と。
その時。
鴉の声が、一際高く、空を裂いた。其れを合図とするかのように、一気に空に暗雲が立ち込める。
びくり、と秀の太い眉毛が跳ね上がる。
「来た……? ――来たか!」
待っておったぞ、この刻を!
墨をばら撒いたかのように黒々とした雲の中を、稲光が走る。
そして、大粒の雨が、ざあ! という音も高く、天を仰ぎ見る秀の顔面に、叩きつけてきた。
と、同時に、船を轟かせている濁流に近い紅河の水の流れが、ひたり……と鎮まった。
そう、とまったのだ。
大河の弛まぬ筈の、悠久の流れが!
自然の摂理を、天宙を統べる天帝の理に逆らう行為、それは、余りにも不気味な光景であった。
秀が、大河にぎょろりとした血走った視線を落とした、次の瞬間!
海の方向から、壁が突き上げてくるかのような、凄まじい衝撃が走った!
自然の有り様とは、真逆の動きを大河は見せ始める。
天帝に異を唱え続ける水の動きに、秀はまるで狂者のように訳の分からぬ叫びをあげながら、甲板を転げるように走り回った。彼の充血した眸の先には、既に川の流れは天の定めを反故にする動きを見せて、唸り声を上げ始めていた。
そう。
海から、河口へと。
河口から、上流へと。
大海から大河を遡上する動きを、水の流れは見せ始めたのだ!
しかも其れは、誰にも、そう天宙を統べる天帝ですら、到底止められぬ勢いで!
逆流する水の力をそのまま利用して、禍国軍に向かって、文字通りに怒涛となって河国の軍船は襲いかかる。
襲い来る水の畝、いや山々に、禍国軍の軍船は無様にも、操舵をとるどころか、船腹を河国軍側に曝け出して、揉まれるがままだ。
「……勝てる、これで勝てるぞ! ざまを見よ! ひよっ子どもの集に過ぎぬ禍国軍めが! 見よ、思い知れ、肺腑に刻め! 我が軍の勝利を!」
勝利を確信した秀は、涙を豪雨に隠して、喜びのまま叫び続けた。
夜明け前の鴉の陰鬱な鳴声は、不吉の象徴とされている。
だが、この戦場において、それは果たして、誰に対して云うのものであろうか? 少なくとも、岸から空を見上げている真には、鴉たちが空をざわめきつつ乱れ飛ぶ様は、吉兆を告げる瑞鳥としか思えない。
「来ましたか」
左腕をさすりながら、一気に陰陰鬱鬱たる模様に様変わりしつつある空を見上げる。本で読んだ通りだ。この時期に合わせて此処に到着するように、水行の速度を何度も練り直したのだ。
しかし、それがいつ襲来するものであるのかまでは、それこそその年の冬の降雪量や季節風の向きなどにより、誤差が生じてくる。正しく知り得たのは、雨が降る前に、じくじくとした疼痛をもって知らせてくれる、この左腕の傷痕のおかげだ。
だが、戰が戻ると約したこの日に合わせて、この天変が起こったのは、正に天帝の意は彼に注がれているのだとしか、思われない。
頬に一つ、大粒の雨を受ける。
すると、もう遠慮はせぬとばかりに、一気に雨は真の身体を叩くように降り注いだ。眩い稲光が、鵺のように猛り狂いつつ、暗黒と化した雲の波間を、幾筋も駆け抜けて行く。
そんな空をまだ見上げていると、背後から芙が声をかけて来た。
「真殿、お身体を大事になさいませぬと。濡れて風邪を召される前に、天幕にお戻り下さい」
肩越しに振り返ると、芙が、分厚い帆布を頭から被せるようにしてかけて来た。独特の臭いがするのは、布に、薄められた煤黑油を塗ってある為だ。材木だけでなく、布にも煤黑油の防水性能はある程度有効であると、契国の王太子・碩が教えてくれたものだ。
ありがとうございます、と礼を言いつつも、真は頭をふる。想定内の反応だったのだろう、芙は、やれやれと言いたげに肩を軽く上下させた。仕方なさそうに、真の隣に芙は並び立つ。二人は、同時に空から紅河へと視線を移した。
二人の眼前で、水面は不可思議にも、流れをぴたり、と止めた。
――次の瞬間。
風も、雲も、空気も、そして河の水すらも。
豪雨以外の、全ての動きが、逆巻いた。
「……おおっ!」
芙ほどの漢が感歎の声を堪えきれず、喉を震わせた。話には聞いていたが、よもや、此れ程とは。
芙の声に合わせて、それまで河口へと轟々とした赤いうねりをみせていた大河の流れは、一気に渦巻いて逆流を見せた。自然の摂理に逆らい、波濤の放光を止むことなく次々にたち上げながら、河口から上流へと向かって水は流れる。
いや、流れる――などという、生易しいものではない。
水などでは断じてない、そう、これは恐怖、絶対的な恐怖だ。
まるで伝説上の生物である龍が姿を現したかのような、巨大な鳴動をもって攻めてくる畏怖を目の前にした鬼胎、と云わしめるに相応しい。
禍国軍の軍船は、まるで小川にせせらぎですらも揉まれて揺れる木の葉のように、頼りない動きをしている。うねりに逆らう気力などとうに失くしたかのように、船腹を河国軍に晒して川面に浮かぶのがやっとだ。
船にとっての弱点の一つである船腹を無様にも晒す禍国軍を目掛けて、青銅製の厚板で囲った河国軍の舳先が突進をかけて来る。
――戰様。
お約束通りに、七日、持たせました。
ですからどうか。
良いお知らせと共に、お早くお戻りを。
紅河の流れの上で、今、まさに展開しようとしている巨船と巨船の激突を見詰めながら、真は胸の内で静かに呟いた。
★★★
よちよち歩き始めた赤子のような覺束ぬ動きでありながら、逆立つ波間を辛うじて漂っているのは、いっそ奇跡的とも言えた。水没せぬのがいっそ不思議な禍国軍に向かい、河国軍は文字通りに怒涛の総攻撃に打って出た。
渦巻く大海の潮流すらも乗り越える手腕を持つ河国に対して、全くのずぶの素人の集である禍国軍が、どだいこの人語に絶する禍殃を避ける術など持ち得る筈ない! まして、彼らはこの自然の災禍が訪れる事を知らぬのだ! 今頃、奴らの船内こそが、天変地異の只中であるかの如くに荒れているに違いない!
この自然の後押しは、実は長くは続かない。
せいぜいが、持って半時、下手をすればさらに短くなる。
何れ、上流からの強い流れが遡上を押し戻し始め、巨大な渦を作り上げ、やがては濁流が飲み込み、消えていく。紅河がこの時期に一瞬だけみせる、自然の驚異なのだ。
だが、そう、半時。
半時で良い。
この半時が味方してされ呉れれば、この水の逆流が続きさえすれば、我が国の勝利だ!
目の前で繰り広げられる、見慣れた季節の風物詩である河と海の水の戦いと、其れに翻弄されるままの禍国軍を見た河国軍の兵士たちは、秀が何を目論んでいたかを此処に至り、漸く理解した。
「このまま、体当たりを喰らわせるのだ! 舳先は厚板により補強してある! 万が一にも此方が当たり負けする事など有り得ぬ! 押せ、押すのだ! さすれば必ず、我が軍が勝つ!」
秀が戦扇を奮い立たせつつ、命じる。
声の張りに、勝利を確信しているものの、力強さがある。
聴く者に、その言葉を信じさせる力強さだ。
――勝つ!
秀の言葉を、皆は己のものとした。
「行け! 恐れずに行くのだ! 禍国軍を討ち破れ!」
秀の号令に従い、一陣目が海からの津波の力を最大限に利用し、最大速度で河国軍を目指し突撃を開始する。
「禍国軍を打ち破れ!」
秀の命令を背に翼として受けたか、河国軍の舳先は爆音をたてて、禍国軍の船腹にめり込んだ。
★★★
山野を住処としている野獣の咆哮のような轟きが、津波を叩きのめして押し返すように周囲に棚引く。
メキメキと云う木を裂く悲痛な音が、叫喚地獄の最中に落とされたかと錯覚を覚える程に、響き渡る。禍国軍の軍船は次々とその船腹を、河国軍の船の舳先により砕かれていく。情け容赦なく河国軍は挑み続け、禍国軍の船はギシギシと船体を傾ける。
河国軍は、禍国軍の軍船を次々と牙にかけ喰い千切り、倒していく。
「勝ったぞぉ――!」
何処からともなく、確信に満ちた声が上がる。
うおおおお! という響めきが、その声を後押しした。
――勝った! 勝ったぞ!
秀も、勝利を確信した。
口角が、いや、身体中が安堵感に緩む。
勝った! 此れで我が国は、陛下は、まだ――
その時だ。
傾いた禍国軍の船腹から、何かが、そう、禍々しい黒くどろりとした何かが、零れ落ちるのを視界の端が捉えていた。闇から、鬼籍へ地獄へ導かんと袖を引く、禍々しい妖のような、黒いどろどろとしたものは、着実に身を水面に、ぼとりぼとりと落とし込み、ぶかぶかと不気味に浮いて漂い始める。
何だ……あれは、一体何だ?
水面に広がりを見せる黒いどろどろに気を取られた一瞬、何かが、ちかり、と瞬いた。
刹那。
爆音と風圧で水面を叩きつつ、天上目指して火柱が一気に駆ける。
「ぐおおっ!?」
秀の眼前で、火山が噴火したのかと見紛う火焔が上がった。
稲光と火柱が入れ替わるように、天から地へ地から天を目指して、登り、そして堕ちる。
「うおおおおっ……!? こ、これは!?」
秀の顔面を、この世ならざる灼熱の疾風が焼き照らす。
太陽が、火炎を吐く龍を従えて其処から登るのかと思わせる光景が、広がっている。
否。
これはそんな、希望に満ちた光景ではない。
死だ。
絶対の死を連想させる、狂気と恐怖の鎖。
そう、河国軍を目指して、地獄の業火が触手を伸ばして踊り、猛り狂っていた。
爆音が上がり、同時に炎の柱が地上から天上を目指して吹き上がった。
一つ、また一つと上がる爆音と火柱を、真と芙は、灼熱の熱風に顔を嬲らせながら睨み続ける。
凄まじい。
伐から聞いてはいたが、よもや、此れ程までの威力であったとは。
水面を覆った黒いどろどろとしたものの正体とは、契国から持ち帰ってきた、柴油であった。煤黑油を得る時に同時に産される柴油であるが、正直なところ、契国では厄介者扱いだった。野焼きに使用しようにも、これで焼いた後は土地が荒れてしまう為、利用もならぬ。ならばと不要物を焼き捨てるのに使用すれば、一気に火が駆ける為、下手にばらまく事もできない。しかも管理にも注意が必要と来ていて、まったくもって役立たずの油、まさに文字通りに価値の低い油、『柴油』であった。
その柴油が、今、この戦場において、最高の地位を占めて存在感を示している。
水上戦に慣れきり、その戦い方の枠からはみ出す事が出来ぬ河国宰相・秀は、決して火計を使わない。必ず、常套手段で攻めてくる。
だが今河国軍は、自軍の兵どころか将校までもの士気が乱れに乱れている上に、宰相である秀は、戰の居所が掴めぬが故の疑心暗鬼の深い淵に落ちている。
であるのに、秀は、事この事態となりながらも未だ戦線にまいろうとせぬ国王・創に、勝利を捧げねばならない。
必勝で、しかも絶対的な大勝でこの戦を終えねばならぬとなれば、誰を味方とするとなるか。
ただ一つしかない。
自然の摂理だ。
古くから馴染む祖国の、必ず訪れる季節の風物を利用する、此れしかなくなる。
となれば、仕掛ける時もその手段も、限られてくる。
此方は、其れを見越して、ただ待てば良いだけだった。
後に控えた地上戦に備え、河国軍は一気に勝敗を決しようと、猛攻に討って出る。
その瞬間に、敵が、河国軍が、絶対に手を出し得ぬ方法で、攻めれば良い。
そう、火計で――
柴油に、伐が教えて呉れた例の、『どかん』の成分である木炭と硫黄を混ぜておいた。白い石は手に入らなかったが、此れでも充分だと話を聞き、実行にうつした。
河国軍が、大海からの津波による遡上を利用しての体当たりを仕掛けてきた時こそが、好機の到来だった。船腹を破られると当時に、其れを海に落とす。油分の特徴は備えている柴油は、水面に浮く。漂う柴油は、業火の落胤だ。
後は、摩擦による火花が、自然と散るまで待てば良い。
火花が散り、柴油に灯れば、其処からは炭と硫黄の力をも、得ているのだ。
大爆発を起こす。
河国軍は、舳先を青銅製の厚板で覆い、強度を増してはいる。が、その船体は契国産の煤黑油で加工を施してある。
煤黑油も、柴油同様に、一度着火すれば燃え上がるのだ――ただ、知られていないだけで!
禍国軍の船に隣接する河国軍の船も、次々と、焔に身を焦がし始めた。
灼熱地獄に河国軍の船は立ち往生し、身動きが取れない。そうこうする間に、一つまた一つと、船は舐めるように迫る大火の触手に絡め取られて新たな炎の塊と化していく。
轟々と、音をたてて、何もかもが燃え盛っている。
船体も、帆柱も、帆も、舫い用の太縄も。
そう――
乗組員である、積荷も武器も、馬も兵士も将校も、舵や櫂を握る男たちも!
全てが。
紅河の水すら、燃えている。
「さて、どのように出られますか、河国宰相秀殿は」
激しい雨に打たれているといのに、河から届く熱波だけで、頬や髪が焼け焦げるのではと思われる程の熱量に身を当てながら真が呟く。
真の視線の先では、紅河が、密かに、粛々と、だが着実に、姿を変え始めていた。
★★★
呆然と立ち尽くす秀の目の前では、阿鼻叫喚の地獄絵図が、まるで絵巻物のように広がっていた。
真赤に燃え盛る轟音軣く猛火の最中に、点のような、漆黒の染みが時折蠢くのが見て取れる。ゆらゆらと何か可笑しみを含んだ動きを見せるそれは、やがて頽れてみせる。
秀にはその漆黒の染みが、何であるが知っていた。
自国の、河国軍の将兵のうちの一人であろう。着込んでいる甲冑のおかけで直ぐに火がつかなかったのだろうが、一旦火がついてしまえば、逆にどろどろと蕩けつつ身体に纏わりついてくる武具は逆に炎に嬲られるよりも恐ろしく熱い。炎の壁に行く手を阻まれ、肺腑にまで焔を飲み込みつつ、その漆黒の染みは炭となるまで燃やされ尽くすのみ、だ。
また一つ、秀の前で、黒い染みが揺らめき、頽れた。
――おのれ……!
奴らは――人間か!?
この、逃げ場のない水上にて、火計――だと!?
人を、兵を、何だと心得ておる!?
何故、此の様な人外非道極まる鬼畜なる策を、堂々と臆面もなく決行できるのだ!?
盛る炎が撒き散らす灰が、天上に届いたのか。
急に雨脚が、猛烈な強まりを見せた。豪雨ではなく、正に台風である。土砂降りの雨が、やがて、燃やし尽くしておりながら尚、船を抱く炎をも、激しく打ち据える。両者の力は拮抗しているかのように見えたが、やがて、雨が勝利を得た。徐々に、炎は勢いをなくしていく。
もうもうと立ち込める蒸気は、やがて分厚い雲海となって視界を埋め、隠す。
だがそれもやがて、桶をひっくり返したかのような集中的な豪雨と、熱波が生んだ強風により、取り払われていく。
そうなって、秀は始めて冷静に、炎の熱い壁の周辺を見渡した。
そして、ぶつかりあって炎の塊となり後は灰と炭になるばかりとなった船の向こうに、何があるかを知った。
殆ど、無傷の禍国軍が、既に遠く離れた位置に避難していた。素早く帆を畳みながらも、津波の力に逆らわず上手く利用し、上流へと逃れていたのだ。禍国軍は、地獄の業火の猛攻を、見事に凌ぎきっていたのだ!
しかもいつの間に設営したものであるのか、既に河岸には、幕僚を始め将校、兵たちが陣取るための天幕が張られていた。軍旗が幾筋も天高く掲げられては、暴風雨をものともせず、棚引いている。
「何だとおっ!?」
せめて共倒れ覚悟の特攻、自軍をも犠牲に払っての上での作戦であれば、まだ救いがあった。
だが敵は、禍国軍が見せたもたもたとした動きは、船体の腹を無様に晒したあの姿は、誘っていただけだったのだ。
囮であったのだ!
獄炎の害におよんだのは、我が軍だけであったのだ!
脚がふらつき、一歩、後退る。
その時、再び、秀ははっとなる。
水の動きが、おかしい。
目の前の、木炭に近くなった軍船が、不安定にぼこぼこと揺れ始め、やがて、ごきりぼきり、と我が身を自ら砕いて、沈んでいく。
――まさか、もう半時経ったというのか!?
船の真下に視線を走らせると、渦が生まれ始めていた。
その巨大な捻りの力に抗う事など、操舵する者とておらぬ燃え尽きた軍船には、最早、不可能だ。真黒焦げの軍船は、我先にと骨身を折る悲鳴を上げながら船体を砕きつつ、渦に呑まれ、そして沈んでいく。沈みゆく船は、新たな渦を作りさらに渦を深くし、また新たな船を呼び込んで沈んでいく。
河上に誕生していた巨大な炎柱は、河の流れが正常に戻ろうとする葛藤の際に生じる渦に飲み込まれ、やがて全て、河底へと姿を消した。
★★★
言葉も出ぬ。
完膚なきまでに、負けた。
言い逃れの出来ぬ大敗だ。
秀は、手にしていた戦扇を取り落としている事にも、気が付けなかった。
その時、秀は近付く蹄の音を聞いたように思った。虚ろな眸を上げれば、確かに、巨躯を誇る黒馬が対岸を疾走している。その黒馬の背に乗り、手綱を操る青年もまた、大きい。ただ、体躯が素晴らしいというのではない。醸す存在感が、人間としてのものが違う、と瞬時に悟らざるを得ない。
明るい髪を風雨に嬲らせるように靡かせ、黒馬を駆る青年は、祭国郡王にして禍国皇子・戰であるのだと、何故か秀は理解した。
その姿を見れば、理解せねばなるまい。
そうとも、見よ。
あの神々しいまでの美しさを。
後光ささぬが不思議と思える威厳ある様を――
まるで応龍が、自ら此の世に生じさせた天馬に乗り、天宙を疾駆しているかのようではないか!
黒馬は、背に乗せた主人が命じるがままに、岸の石塊を蹴った。
凄まじい跳躍を見せる。水面を漂う船の甲板から甲板へ、風を友としているかのように軽やかに乗り移る。巨体からは想像もつかぬしなやかさは、まるで麒麟のようだ。
船から船へと飛び移りつつ、黒馬は見る間に、ぐいぐいと迫ってくる。
ただ、見守るしかない秀の眼前に、とうとう黒馬は現れた。
どかり、と船板を叩く音が、周辺に響き渡る。
正に、威風堂々。
額から滴り伝う雨粒すらも、その青年に従っているのだと思わせる。岸に上がっている禍国軍から、歓声が上がった。同時に、一際巨大な軍旗が掲げられた。遠方にあっても、容易く目に付き、そして確かめられる。
禍国軍総大将、皇子・戰の軍旗だ。
「河国軍総大将、宰相秀殿とお見受けする。私は、禍国軍総大将、戰だ」
秀の太い眉が、跳ね上がる。
顔面に受けつつけた熱のせいで、まるで赤鬼のようになった面体を強ばらせつつも、背筋をただし、胸を張る。
この私が、負け戦を認めたと思わせてはならぬ。
今更ながらに、戦扇が甲板に漂うように落ちているのが、悔しくてならない。
「如何にも私が、河国宰相・秀である」
「見ての通りだ。戦は我が軍の勝利だ。この上、更に戦ったところで其方に被害が広がるばかりだ。引かれよ」
戰の申し出に、秀は呻いた。
彼の言い分は正しい。
見るまでも、そして答えるまでもない事だ。これ以上は、戦いにならない。戦ったところで、戦意を喪失しきった自軍の兵士たちは、禍国軍が視界に入るや否や、直様、両手を挙げることだろう。
だが、それを認めてなんとする!
敵の大将の言葉に頷き、負けを受け入れるなど出来るものか!
秀は何も言わず、腰に帯びていた剣を、すらりと抜き放った。大粒の雨を刀身に受け、ばしばしと弾く。
禍国の皇子も、無言で剣を抜き放った。まるで違う色の剣だ。高々と軍旗を掲げるように、上段に構える。背後で、久々に稲光が走った。皇子が剣を構えるのを待ち望んでいたかのように、黄金色の閃光が駆ける。
天為すら、己のものとするか。
ますますもって、呻き声しか出ない。
その稲妻を断ち切るかのように、戰が剣を振るった。思わず鋒の動きに釣られて視線を動かし、はっ、となる。
その剣の示す先では、兵士たちが、自ら船の帆柱を鉈で叩き、へし折ろうとしていた。がんがん、カーンカーンという音が、低く高く、響いてくる。
「な、何をしておる!?」
見る間に見事、倒された帆柱は、艀の代わりとなった。近場の、より安全な自国の船へと我先にと乗り移り始める。彼らが何をしようとしてたのか、秀が認める頃には、其処彼処で同じ動きが起こっていた。
あっという間に、岸にまで倒された帆柱による艀が伸びる。兵だけでなく、将兵すらも、自国の帆を踏みつけにして、岸を、安全なる地を目指している。
剣を構えていた秀の腕が、ゆっくりと下がっていった。
帆柱を折られる。
それは即ち、陸上において軍旗を奪われるのと同等の意味を持つ。
秀の属する国の兵士たちは、自ら柱を折り、自ら帆を引きずり倒した。
本来であれば攻める為に踏みつけにすべき帆を、逃げて生き延びる為に踏みつけていく。
最初の影が、岸に到達した。
何かが発酵しているかのように、その影は、遠慮会釈なく膨らんでいく。
影はやがて弾け、三三五五となって散っていく。
おお……、大将を見捨て、負けを認めた軍とは、かくも無様なものなのか……。
再び、秀の前で、皇子が剣を高く掲げた。
……斬られる? そうか、私は此処で死ぬのか。
それも、良かろう。だが、ただで斬られはすまい!
萎えていた気力を奮い立たせ、秀も構え直そうとすると、足元が揺らいだ。背後を振り返ると、部下たちが手に手に鉈を斧を持ち、帆柱に打ち据え始めていた。
「何をしておる!」
せめて、この船だけでも、帆柱は健在であらねば!
いや。
せめて、一太刀をと、何故、この男に挑みかからない!
「やめよ、やめるのだ!」
秀の叫び声も虚しく、帆柱が傾ぐ。
兵士たちが、幾人も体当たりを食らわせて、その動きを助けている。
雷鳴と共に雷が落た時と同じ凄まじい音が響き、帆柱が倒れた。
同時に、黒馬に跨っていた皇子の姿が消えていた。
何処へ、と慌てて首を巡らせれば、既に禍国軍の軍旗が翻っている自軍へと、迫っていた。
気が付けば、雨脚が弱まり始めている。
雲の流れが、異様なほどに早まりをみせて、大海めざして走り続ける。同時に、紅河の河の流れが正常になり始めた。この気候の変動による河の流れの変調が、終焉を告げたのだ。
堂々と、常の姿を取り戻しつつある大河の流れが、此のままゆけば、流れに乗じて再び禍国軍が無傷の船団を編成し直して、攻勢に討って出ると暗に伝えているようだ。
秀は、再び全身の力を脱力させた。
がっくりと両の膝をつき、項垂れる彼の背後では、命を助けようと帆柱を伝って船に乗り移る兵と将兵たちが滑稽な動きを見せていたが、もう、咎めようとする、気持ちの張りも失われていた。
大将船の帆柱を倒して戻った皇子を、誇らしげに迎え入れる歓声が、どっとあがった。
雲が途切れ、眩いばかりの晴天が切り取られた形で、姿を現した。
暁光が、ざっ! と禍国軍に降り注ぐ。
同時に、禍国軍から、勝鬨が上がった。
「郡王陛下万歳! ――禍国軍、万歳!」




