12 征く河 その5―2
12 征く河 その5―2
船を下りれば金塊一粒。
たった1日で、噂話は河国のあらゆる軍船を駆け巡り、席巻した。
禍国軍の元を訪れ、そのまま遁走した兵士の数は相当数にのぼる。其れを見た者は、噂は事実であったかと色めきたち、更に数倍する兵士たちが禍国軍へと走る。労役により兵として就役させられている農民たちは、雪崩を打つように我先にと禍国の軍船へと向かう。
最早、止めようがない。
己を助けたいのではない。
故郷に残してきた、愛しき家族を救いたいのだ。
ただそれだけの為に、発覚すれば直ちに即ち死を得る危険をものともせず、禍国軍へと走る。その人影のうねくる様は、蛇が這い回るが如し、であった。
今度は、其れを見た将兵たちの間に、明白な動揺が走り広り始める。
だが、彼らは労役に搾取された農民たちとは訳が違う。あわよくば自分たちも、欲の音色を隠そうともせずと喉を上下させているのだ。
そんな自軍の様子を、河国宰相・秀は苦々しい思いで睨みつけていた。
事が真実であるかどうかを確かめようと脱した兵士たちの中には、逆に禍国軍の味方につき、軍船に居座ってさえいる者まで現れはじめている、という報告までもが手元に届いている。
また、辛うじて止まってはいるが、こうなれば彼ら将校とて、いつ、愛国心を川面に流し捨て、金で魂を売り渡すか知れたものではない。
――どうすれば良いというのか。
秀は、熊のように、のそのそと船室の中を歩き回る。しかし、面体の険しさは此れまでのその上を、軽く超えている。
何とした事だ、よもや将兵職に就く諸侯までもが、我が栄光ある祖国を裏切ろうとするなどと。
――おのれ、愛国心と云う言葉を知らぬのか、下郎どもめが。
砕けてしまえ、とばかりに奥歯を噛み締める。
が、ふと、秀はある事実に思い至った。
多くの河国軍の兵士たちが、禍国軍に近付き、剰え受け入れられはじめている。
とは即ち、容易く禍国軍に深く入り込める、という事ではないのか?
事に気が付いた秀は、年甲斐もなく自身の閃きに眸を輝かせた。
そうか、ならば此れを利用せぬ手はあるまい。
秀は、禍国水軍に探りを入れるように命令を下していた斥候に新たに命を下し直した。
禍国の噂の真偽を確かめに来た兵士に化け、内情を深く探れ――と。
★★★
河国宰相である秀の命を受けた斥候たちが、労役により駆り出された一般兵のふりをして、次々と禍国軍側に忍び入った。
禍国側に、噂の真偽を確かめる為に、自ら危険を犯して夜陰に紛れて金塊を求めてやって来たのだと信じさせるのは、実に容易い事だった。つまり、いちいち確かめるのも億劫になる程、数え切れぬ兵士が禍国陣営を訪れているのだという、実に情けない事実が其処にある。
報告を受けた秀は、改めて未だ多くの兵士たちが、いや益々もって数を増やしつつ、隠す気もなく堂々と禍国軍を訪れているのかと知り、愕然とした。悪事千里を走る、とはこの事であろう。
だが、所詮、労役により狩出された兵士たちは、元々は生きる事にのみ存念を燃やす民たちだ。国家に対して、忠心忠義の徒では有り得ない。今は、ただ文字通りに小金に目が眩んでいるだけだ。実際に戦闘が行われ、自国が有利となれば、小金を握った拳はそのままに、矢尻も剣の鋒も投石用の石も、禍国軍に向けるに相違ない。
いや、そうせねばならぬのだ。
必ず――この私、私が、御国と陛下の御為に、必ず。
眩む視界を留めようと、眉間を抑えつつ、斥候たちに最も得たかった情報を入手出来たかを、問いかける。
すると、皆は一様に声を揃えてこう答えた。
「禍国軍総大将である、皇子・戰の姿は、何処にも御座いませんでした。恐らくは、水上戦ではなく、陸上戦をこそ主戦場であると定め、既に下船し、禍国兵部尚書の元に参っているのでありましょう」
どの斥候たちも、声を添えろえ判を押したかのように答える。
余りにも整った答え様に、秀の方が面食らった。
そして、信じられなくなった。
彼ら、軍船を探る為の斥候組の前に、禍国兵部尚書・優の元を調べに入った斥候組は、こう答えていたからだ。
「禍国軍総大将である、皇子・戰の姿は、何処にも御座いませんでした。おそらくは、此処地上戦ではなく、先ず水上戦を制してこそと定め、密かに下船する事なく軍船内に留まっておるのでありましょう」
何方の答えが、正しいのか?
何方かが、嘘を申し述べているのか?
であれば、何方が裏切ったというのか?
禍国に金で寝返るように仕向けられたのか?
そうだ……。
何方も正しくない答えで、攪乱してきているのだとしたら?
もしや、両方が示し合わせていたとしたら?
斥候どもまで、我が国を、陛下を裏切っているのだとしたら!?
斥候たちを全て下がらせ、舎人たちをも下がらせる。
独りきりとなった薄暗い部屋の中を、秀は、決して止まぬ海流の如きにぐるぐると回り続ける。己が叩きだす沓音であるというのに、妙に耳障りであり神経を毛羽立たせてくる。
落ち着け、と思えば思う程、焦りによる汗が額から顳へと伝っていく。
どうする、どうすれば良いのだ?
どうすれば、最善の策を得られる?
どう、この報を読み取ればよいというのだ!?
秀は齎される情報に、腸を煮潰され脳内を焼かれる思いで、深く嘆息しつつ、歩みを止め天井を仰ぐ。
兵士の流出に歯止めが利かぬとあらば、取ることが出来る策など、最早限られている。
勝利は絶対でなくてはならぬ以上。
全てを利用して、天をも我がものとして、勝つ。
そう自然の理をすら、使役するのだ。
禍国軍は、地の利にすら明るくない。
よもや、気候風土にまで思い至れまい。
そうとも、此れしかない。
「誰かある」
秀の渋く強い声に、追い出されていた舎人がおずおずと入室しつつ、礼拝の姿勢をとる。
「工兵に命令を出す」
は、と短く答えつつ、舎人は縮こまるようにして、頭を垂れる。
「全船の舳先に、板金を施す。箔では弱い。厚板で、だ。今日中に仕事を終えるよう申し伝えよ」
決断を下した秀の双眸が、獲物を定めて牙と爪を定めた巨熊のように、ぎらりと輝いた。
★★★
禍国の軍船の造りは契国の手によるものである為か、軍船としての体裁を立派に備えていた。
対峙する河国水軍は、言わずもがな、である。
この時代の水上戦。
基本的には、船と船をぶつけ合った上で、甲板にての歩兵が剣にて戦いに及ぶが常套だ。如何に、自国の船を潰さずに相手の船を潰すようにぶつけ合い、若しくは逃げる、その操舵の技術力が大きく戦況を左右する。
互いの船がもつれ合う様に身動きを止めると、見計らったように弓による後方からの援助を受けて、歩兵が剣をもって雪崩込む。相手の船の帆を折り、其れを艀替わりとして、相手側の船に雪崩をうって斬り込む、所謂白兵戦が主体となる、と言うよりもそれ以外に戦法など在り得なかった。
そして水上戦においては、地上戦の総大将旗を奪うのと同等の価値が、帆を倒す事にはあった。
圧倒的有利を、そして勝利を導く故だ。
当然、火計は禁忌とされている。
無論の事、敵のみならず味方の退路すら絶ってしまうからである。
禍国水軍が姿を現すと同時に、河国軍側も関のように自国の軍船を並べ、堰止めるように布陣した。何度も重ねて言うが、現実問題、水上戦は数を頼みに押し合うしかない。其れ故に、如何に相手より多くの船と兵士を揃えるか、そして川上に位置するしかない。川上を禍国軍に陣取られている以上、河国軍は、それ以外の策を弄しようがなかった。
「この夜があければ、禍国軍を目にしてより、5日が経過した事となる……か」
河国宰相である秀は、無精髭を生やしたごわごわした顎を撫でながら、独り言ちた。
初めて、紅河の流れに姿を認めてより、此処までの5日間。
河国軍側は、甚大な数の脱走兵を出しながらも、禍国軍と互いに矢を射掛け合うなどの儀礼的な小競り合いを各所で起こしつつ、正面切っての激突に備えられる体勢を、辛うじて見せていた。将校を、秀が上手くまとめあげていたのだ。
紅河の流れに沿うように、滑るように。
両軍の船は河口へ、海へと向かって走り続けている。
陽国との間に横たわる海は、島国である彼の国との硲に有る為か、端的に『対島海』と呼ばれている。この対島海は、河国の漁民たちの間には、海流が独特な事で知られている。豊かな恵みを与えてくれる海流であるが、反面、季節の節目節目において、獰猛かつ異様な流れをみせるのである。
まるで岸、いや山脈の如き広がりを見せる禍国水軍を、苦々しく秀は睨みつけていた。上流から流れに乗っているという利を活用せず、しかも脱走兵の存在を知りつつも、本格的に挑む姿勢を見せない。ただ漫然と浮かぶだけの禍国の余裕が、逆に恨めしい。
おのれ、嬲り、楽しんでおるつもりか。
あれ以降、どれだけ斥候を放ってみても、総大将である禍国皇子・戰の行方は水軍からも兵部尚書・優を探らせている方からも、得られなかった。
其れが、ますます秀を、じりじりとした言いようのない恐怖に陥れていた。
例の命令であったが、見張りに来た秀の妄念が煮詰まった形相に、今回ばかりは命令通りに、工兵たちの仕事は仕上がりをみせた。どの軍船も舳先は見事な青銅製の厚板で覆われている。
凄まじく桁違いの殺気を漲らせ、隠そうともしないでいる河国の軍船に対して、しかし其れでも、禍国軍はまるで対処しようとしない。
どういう事なのだ?
何故、何もしない?
いや……禍国の皇子でありながら、軍の総大将でありながら、郡王・戰は、一体全体、何処に姿を暗ませているのだ!?
ますますもって不気味さが弥増し、そして同時に、斥候たちへの疑念が深くなる。
……本当に、皆、寝返っておるのか……。
……この私を惑乱する為に……偽の情報を流しておるというのか……。
一度根付いた疑惑の種は、暗鬼という滋養を得て芽吹くと、一気にふくよかに肥え太るばかりだ。
最早何を、誰を信じて良いのか、秀には分からない。
いや、と秀は激しく頭を振った。
元々、他人なぞを頼むからいかんのだ。
己をこそ、陛下のただ一人随一の臣下であると思い定めれば、目暗ましになぞかからぬ。
既に川面から立ち上る熱い風も、塩辛くなり始めている宵闇迫る河口にて、秀は眼前の禍国軍を睨みつけた。
目前に広がる、この、憎々しい小童どもが率いる禍国軍を、蹴散らしてしまえば良い。
それで済むだけの話だ。
禍国皇子・戰よ。
河国の名が、何処に由来するかを、敗戦の血煙にて身体に刻むがいい。
「思い知らせて呉れる」
何かに言い聞かせるように、秀は決意を込めて、呟いた。
★★★
芙と彼の仲間たちからの情報を元に、真は、河国側がいや河国宰相・秀が、どのような策を立案して攻めようとしているのか、大凡掴む事が出来た。
「如何なされますか、真殿?」
早く次の指示が欲しいとばかりに、芙が促してくる。
苦笑しつつ、真は椅子から立ち上がった。
春天の陽光は眩いばかりで、眸の奥まで焼き尽くそうとしているかのようだ。その中で、雲雀たちが太陽の輝きに向かって、唄いささめきながら飛んでいく。よく、眩しさに目を眩まさないものだなあ、と真は手を翳して出来た影の隙間から、雲雀たちを呑気に見送る。
戰が、椿姫の元に駆けつけんと軍を抜けてより、今日で6日目。
遼国から出立した河国宰相である秀との遭遇からは、数えて4日経過した。
遭遇の翌日から仕掛けた芙たちが流す情報に、たった1日で、河国はものの見事に浮き足立った。
そして欲望に、貪欲なまでに忠実に動いた。
金塊を得ようと、次々に兵たちが闇を破って訪れたのだ。
その翌日には、此処禍国軍を訪れて、実際に金塊を手にした者たちに化けた芙とその仲間の草たちが、新たな情報を河国軍に広めだした。
「お、お、おい、おい、知ってるか!?」
「な、何をだ?」
「何でも・な、禍国軍はな、俺たちの持つ剣なんざ一振りでぶった斬る、糞恐ろしい剣を持っているっ、てな話だぞ?」
「なにぃ!? そ、そりゃもしかして?」
「お、おう、鉄の剣よ」
「ま、鉄!?」
兵士たちは驚愕に声を裏返し、そして肝までをも側転させて叫んだ。
鉄の噂は、河国でも広まっている。
青銅よりも軽く、そして丈夫であり、何よりも凄まじい斬れ味を有する剣を打つこと可能とすると云う、鉄。
だがそれは、海を越えた遥かな地、陽国を名乗る国が、覺束ぬながらも『鉄』と呼べそうな類の剣を創りだす事に成功した、らしい――という、噂の域を出ぬ話、寧ろ、戯言に近い部類のものではなかったのか?
顔を見合わせた兵士たちは、うそ寒い震えを背筋に覚える。11年前、禍国に対して徹底的に負けを喰らったのは、実に、陽国産の一本造で鋳造された剣を、彼らが手にしていたからだ。
自分たちよりも、一歩も二歩も先行く技術で造り上げられた剣を有していたからだ。
此度も、同様であるとしたら?
その鉄の剣とやらを、禍国軍が陽国より、大量入手していたとしたら?
禍国と陽国は未だに昵懇にして、交易を盛んにおこなっている。
可能性は、大いに有り得る。
もしも、禍国軍が鉄の剣とやらで全軍を装備させているのだとしたら?
船上で打ち合いになった時に、とても真面にやり合える訳が、無いではないか!
弓矢部隊が例え互角以上だったと想定したとしても、水上戦でものを云うのは、船を操る技術と、そして何よりも剣の強さなのだ。
禍国軍が、鉄の剣をもって挑んでくるのであれば、はなから勝負などついているも同然だ。
ならば、命を賭けるなど、愚の骨頂ではないか。
国という船が沈没するのは一向に構わないが、その渦に巻き込まれて共々沈んで行くのは御免だ、逃げるが勝ちだ。
そしてどうせ逃げ出さねばならぬというのであれば、此れまで、締め上げられ、困窮疲弊極まる生活を強いられ続けてきたのだ。
腹いせにとんずらし、序でに禍国軍から金塊をせしめていった方が、何倍も得ではないか。
――そうとも、何が悪いのか。
こうして。
河国軍の兵士たち、いや労役で無理矢理かり出された領民たちは、自らの国を見捨てる事で、自軍を追い詰めていった。
今頃、河国宰相・秀は、消えた自軍兵士の人数に戦慄し、顔ばせを青鬼のようにしているに違いない。
其れに何よりも。
放った斥候たちから得た相反する情報に、己を見失っている頃合だろう。
何しろ、総大将である禍国皇子にして郡王・戰の姿が水上にも陸上にもないのだから!
ふと、真が左腕をさすりながら、芙に笑いかける。
「すみませんが、芙」
「はい、何なりと」
「左腕が痺れると言うか、酷く痛むのです。申し訳ありませんが、痛みと痺れ止めの薬湯を入れてくれませんか?」
この言葉だけを聞けば、幾ら河国の斥候たちに取り囲まれていたとしても、薬を用意せよと命じているとしか、思われない。
だがこの言葉で、芙は真が望む刻が近くに来たのだと理解した。
予てよりの計画の刻が、迫ってきているのだと――知らせる合言葉であったのだ。
だが何と言う事か。
郡王陛下がお戻りになられる日を、天宙におわす天帝はご存知あられるというのか。
柄にもなく、芙は感動に胸を熱くする。
早足を誇る芙は、蔦の一座の中で『草』の筆頭として働いて居る。
が、元来は傀儡師の一人でもある。
卦と神仙を信じるべきある者なのに、彼は、そんなものを露ほども信じてはいなかった。痛烈な、悲惨すぎる現実の世の世知辛さを、幼い頃より嫌というほど見続け、体感してきた彼は、絵空事を信じぬ質に成長していた。
太占による神託を告げる神の御使などと、行く先々で無条件で信じる民の有り様が、芙には不気味で仕方が無かった。
大角鹿の骨や大亀の甲羅を焼けば、罅が入るのは、自然の理だ。ただそれだけの事実に、神を結びつけてはあれこれ理由付けし、一喜一憂するなど馬鹿げている。目に見えぬ神も信じられないのに、その神の御使なぞと言われても己を信じられるものか、と胸糞悪くなるばかりだった。
芙が信じるのは、人間の持つ、実ある目に見える力のみ。
努力し、切磋し、決して弛まぬ自立克己心をこそ、芙は信じた。
だからこそ蔦に仕え、戰と真に己を託し、矢面に躯を晒して共に戦う気持ちになったのだ。
その芙が、感動し、震えている。
天宙の神とは、もしかしたら、本当におわすのかもしれない。
でなくては、こうも事が上手く運ぶものか!
感激を押さえ込みつつ、芙は深く頭を垂れた。
「心得まして」
「宜しくお願いしますよ、芙」
「特別に、薔姫様特製の処方によります、格別に苦いお薬湯を入れてまいりましょう」
「……其れは勘弁して下さい」
朗らかな雲雀の鳴き声だというのに、表情を和ませきれずに苦笑いする真に、芙は、にやりと不敵な笑みをもって答える。
まだ苦笑しつつ、長く眩しい陽光を眺めすぎた真は、くしゅん、と嚔を一つ、落とした。




