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覇王の走狗(いぬ) ~皇華走狗伝 星無き少年と宿命の覇王~  作者: 喜多村やすは@KEY
五ノ戦 紅塵万丈

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12 征く河 その5―1

12 征く河 その5―1



 紅河こうがを下り、一大船団襲来!


 目にしたこの事実に、秀は、ほんの数里先にある禍国宰相・優が育てていると云う、兵馬の視察も糞もへったくれもなくなった。

 ほうは、馬に鞭を入れっぱなしで夜っぴて駆けさせ、たった1日半で母国の王城へと帰り着いた。部下がまるで付いて来られない騎馬の手腕は、流石は往年の豪の勇士・秀は此処に有り、と云えた。が、些か宰相としての立場を忘れた行為である。しかし、この国家の存亡がかかるこの重大事に、秀は形振りなど構ってはいられなかった。

 額を、焦りからの汗にじっとりと汚して濡らしたまま、秀は着物の御召えの手間すら惜しみ、登城する。むさ苦しい臭いがするなどと、気を遣う暇すら惜しかった。

 そして登城してみれば、果たして、与えられた執務室前には、部下たちのみならず、各尚書の肩書を有した人物が累々と人集ひとだかりを作り上げていた。さすがに紅河こうが流域の自国水域を守る防人たちからの火急の知らせとして、得体の知れぬ一大軍船が迫り来る様子は、王城に届いていたのだ。


 だが皆、無様な程に浮き足立っている。

 そしてただ、待っていた。

 宰相である秀の帰りを、そして登城を待ちわびていた。

 彼の指示を仰ぎ得ようと、ひたすらに、愚直なまでに。

 ――何をやっておるのだ、何故、軍事会議の一つも開いておらん!

 秀の姿を見付るなり縋ってくる輩ばかりで、城の回廊は埋め尽くされている。眩暈を覚えつつ、秀は舎人に、兵部省の部下たちと各将軍たちと共に、各尚書たちの主だった面々に、「軍議を開く故、集結せよ。その際には事態を何処まで把握し、立ち向かう為の策を有しているのか、存念を申せ」と改めて舎人たちを使いに出す。

 一旦与えられた執務室戻った要人たちの元から、遣いから戻ってきた。舎人たちに聞き及んだ各尚書の対応は、余りにも御粗末としか言いようがなかった。


 兵部の申し開きは、言われた通りに兵馬を鍛える事に急いんでいたため、軍船を如何にすべきか等、聞き及んでおらぬ故、責任はないと云う。

 工部の申し開きは、命じられた通りに剣や鎧、矢尻の調達に明け暮れていた為、これ以上の事は管轄外である故、責任はないと云う。

 戸部の申し開きは、そもそもが自身らのすべき任とは、徴兵された農民たちが出頭しているか、伍人組を正す事にある故、責任はないと云う。

 礼部の申し開きは、水面下で禍国と遼国の動きを見張れと命じられていたので、任務を遂行していた処だ、其れ故に、責任はないと云う。

 吏部の申し開きは、戦が始まらねば将軍の任命も万騎将、千騎将、隊長、伍長の纏めあげなど出来る訳がない、故に、責任はないと云う。

 刑部に至っては、自分たちは陛下に成り代わり、罪を断罪するが為の尚書だ、我々が罪を犯した様に怒鳴り込まれる覚えはない!  と、逆に凄んでくる始末だった。


 この期に及んで、互いに責任を擦り付けあい、責任転嫁をし、知らぬふりをしつつ己の保身ばかりに執心する手合いの群れめが! この無能ぶりの晒し具合は、一体どうだ!

 秀はとうとう堪忍袋の緒を、ぶちり・と音も高く、切った。

「己の保身の為の言葉しか吐かぬ奴は、売国奴としての烙印を捺され首を撥ねられると知れ! と伝え直して来い!」

 怒鳴る秀の鬼面に、舎人たちが再び、慄きつつも駆けていく。

 殆ど恫喝に近い。

 破落戸ならずものに堕ちたか、といよいよ心を暗くしつつも、秀はこの期に及んで尚、あわよくば己の身は無傷の漁夫の利を得んとする重臣たちを今度こそ本当に剣の露としてしまいはせぬか、と己を恐れていた。



 ★★★



 河国は、その名の示す通りに、大河に恵みを受けて此れまで栄を教授してきた国柄だ。

 龍の髭と称される中原における二大大河、即ち、紅河こうが力河りょくがを領内に有し、また海に面した地域をも手にしている。

 当然、水上戦は得意中の上得意、と云えよう。

 ――それが、何と云う為体ていたらくなのか。

 秀は身体の芯が、怒りによりぐらぐらと煮砕け、崩壊していくのではと、感じていた。

 国内に有する軍船は、実に歩兵6万を乗せて大河を遡ろうとも、びくともせぬ船団であった筈。だが、眼前の紅河こうがの河口に浮かぶ船の、何と頼りなく映る事であろうか。

 ――親鳥の尻に喰らいつこうとする、泳ぎの覚えたての水鳥の雛ですら、もう少し真面に水面に浮くであろうが。

 河口に浮かぶ自国の水軍の姿に秀は呆れるより他はなく、掌でを覆い隠した。

 あの大船団を目にしてより、二日が過ぎている。

 あの(・・)、禍国皇子・戰が率いる大軍は、とうの昔に領内に入り、近々を決戦であると見据え、着々と備えを厳しくして動いているらしい。一気に仕掛けぬのは、矢張り、水上戦の経験がほぼ皆無である禍国の事情によるものであろう。が、今はそれに助けを受けるしかない国内事情も、情けなさを際立たせる。


 斥候から得られる禍国の情報は、秀の背中を冷たくさせるのに充分過ぎた。

この河国においても、弓や矢尻などは、早くから情報を仕入れて用意させてきただけの事はあり、それなりの数を有してはいる。だが如何せん、騎馬を平原で駆るように、巨船を水面で駆けさせるだけの能力を持つものが、こうも減っておったとは。

 国力の低下が此処にまで及び、深く侵食しておったは。

 今更ながらに、秀は震撼する。

 確かに、11年前の戦いの折より、水軍よりも騎馬隊を揃える事に尽力してきた。だが、船は、自国にとっての『臍』のようなもの。つまりは。身体の中心に来るべきものだと思っていたのだが。

 ――限界なのか。

 所詮は、己一人で全てを賄おうなどと、どだい無理な話なのか。

 ――いや。己が意気を挫けさせてどうする。

 禍国側とて、水軍を指揮するのは此れが実質の初陣。

 その拙さを祈り、付け入れば、或いは有利に持ち込めるやもしれぬ。

「いや、それしか最早、手立てはあるまい」

 其れには先ず、情報を得ねばならない。

 帆を掲げる動作すら覺束ぬような人足にも劣る兵の様子に、秀は嘆息しきりであった。

 この上は、水上戦と共に陸戦も備えをあつくせねば。

 新たに放った斥候によれば、禍国側の兵部尚書は、兵馬を鍛えつつも軍を此方に向ける様子は、まだ見せてはいないという。

 斥候が齎した情報に気持ちを救われつつ、秀は褒賞を彼らに手ずから渡した。引き続き禍国の動きを注視するように、と命令を下して下がらせる。

 禍国兵部尚書・優は、まだ動かない。

 という事は、この隙に兎も角この水上戦を制すれば、此方に利が傾く筈だ。

 秀は、新たに斥候どもを呼べ、と控える殿侍に命じた。



 ★★★



「真殿、河国が動き始めたようです」

「そうですか……有難う御座います。成る程、落日迫る斜陽の国にも愛国心溢れる一廉の人物は居られる、という事でしょうか」

 その一廉の人物とは、嘗て父である兵部尚書・優と撃剣を幾合も交わしあった、河国宰相・秀である。芙の知らせに、真が満足そうにを細めて笑った。芙も、短くであるが口角を持ち上げて笑みを刻む。

 真が、芙と普通に話が出来ている。

 つまり、真は今、陸に上がっていた。

 河国領内に入っている以上、このまま夜陰に乗じて攻め入る法もあるにはある。が、実質的に船を扱うのがほぼ初めてのど素人の集団である自分たちには、『危険』という荷物が勝ち過ぎる。一気呵成の仕掛けは、此度は出来ない。

 夕刻、夜の帳が落ちる前に、河川敷に停泊させるように命じると、真は主だった万騎将軍や将軍たちと共に、一旦船を離れたのだった。

 先ずは酔を覚まさねば、呂律の回らぬ言葉しか出てこない。作戦会議の場に、座る事も出来ない有様だったからだ。『郡王陛下のお目付け役』殿の虚弱体質ぶりは、既に周知の事実である為、皆、苦笑の中に「仕方の無いお人だ」という諦めを含めて、快く従って呉れた。こんな姿を認められたのだと父である兵部尚書・優が知ったのであれば、何れ程の怒りに塗れた鉄拳が飛んでくるかしれない。


 椅子から立ち上がり、天幕の隙間から漏れる月光に爪先を浸しながら、真は、此処にいない、遠く祭国を目指して千段を駆けさせている、戰を思った。

 此方はまるで図に乗るように、調子よく事は流れている。

 しかし、戰様は……?

「……今頃、どうされているでしょうか」

「陛下が祭国に向かわれてより、本日で3日目で御座います。千段の脚力であれば、今頃、祭国の王城にご到着されている頃合で御座いましょう」

 優しい芙の口調に、うん、と真は頷いた。

 間に合っていて欲しい。

 戰と椿姫が悲嘆に暮れる姿など、想像したくない。

 その為には、事後を託された者である一人として、この戦には負けられない。

「芙、それで河国の動きはどのようですか?」

「腐ってはいても、嘗て禍国と肩を並べし大国。流石、『河国』の名を冠しているだけの事はあり、と言いました処でありますか。ざっと見たところ、5万の兵力を乗船可能な軍船を、引っ張り出してきております」

「そうですか……。という事は、そろそろ秀殿お得意の技が、父上のみならず此方にも及んでくる頃合、といった処でしょうか」

「はい。実は、それと思しき姿を、既に目星を付けております」

 楽しげに答える芙に、ありがとうございます、流石ですね、と真も笑いながら頷く。

「では、此方も本腰を入れて動くとしましょう。芙、予てよりの手筈通りに頼みますよ」

「心得まして」

 戰が不在のこの大事を守るのだ、という悲壮感は、この二人からは全く感じられない。

 戰、という絶対無二の強力な大将という御旗が、不在であるからこそ。

 真と芙は、戰の為に、椿姫の為に、項垂れ萎れてなどいられなかった。



 ★★★



 河国軍が、大いに揺れていた。

 たかだか、一つの噂に過ぎないそれに、揺るがされていた。


 其れは、闇の間にそくそくと脚元を侵してくる、大雨時の浸水のような動きだった。静かに、音もなく、だが着実に入り込み、確実に浸透してきていた。

 ある噂が、遠くはるかに蠢く鬼火の如くに揺らめいたのだ。


 ――戦を前に船を下りた者に金塊一粒。


 何処から持ち上がった噂であるのか、確かめようがなかった。

 だが何と甘美で、蠱惑的な囁きであろうか。

 この時代の金塊一粒、といえば一家が悠々と一月ひとつきを過ごせる、若しくは一年分の調ちょうの税に匹敵する額だ。

 農村であれば、それ以上の価値が有る。大抵の国では、調ちょうなど農作物や特産加工品などが、現物で納め切らぬとなった時、金塊で収める事も許されているからだ。しかしそもそも、調を現物で調達できぬ程貧しい者が、金塊などを手に入れられよう筈がない。

 秀が、早いうちから禍国の動きに注視し、斥候を放って情報を集めていた為、今年の河国での労役は苛烈を極めていた。本来であれば、一番苦役であるとされている1ヶ月半の防人のえきですら、既に3ヶ月を過ぎても任を解かれていない。もう直ぐ、代掻きを終えた田に水を張り、種籾を蒔かねばならない時期だ。

 しかし、男手がこうも長く囚われていては、今年は調どころか租すら、真面に収めきれぬのは明白だ。そうなれば、一家離散は必定。そもそも、労役や庸役における食事や衣服居住のための費用は、全て自身の持ち出しなのだ。それだけでも貧しい一家にとっては多大な負担であると云うのに、この上まさか本当に、強国である禍国と戦を起こすつもりなのか……。


 そんな中、噂はぽつりぽつりと囁かれ始めた。


 ――……なあおい、聞いたか?

 ――ん、何がだ?

 ――何だ、なんの話だ?

 ――……大きな声じゃ言えねえ、秘密中の秘密なんだ……だから、誰にも言うなよ……。

 ――分かったよ、誰にも言わねえよ……。


 古来より、「誰にも言うな」という枕詞のついた噂話ほど、広まりの脚の早いものはない。あっという間に、河国の軍船に乗る兵士の間、隅々にまで話は広まった。


 河国を裏切れ。

 若しくは。

 禍国に寝返れ。


 という、直截な言葉ではなく、ただ「船を下りよ」と云う囁きは、兵士たちの後ろめたさを覆い隠すには充分な甘さであり、糖分にたむろする蟻が如きに、人々の心を吸い寄せた。

 船を下りる。

 たったそれだけで、今年分の調ちょうが賄えるのだ。

 兵士たちの心を魅了し、蕩けさせぬ訳が無い。

 自然、朝な夕なの食事時や就寝時などの僅かな隙間時間に交わされるのは、件の噂に終始するようになる。


 ――おい、聞いたか、『例』の

 ――ああ聞いた、お前もか?

 ――……お前、どうする?

 ――お前こそ……どうする?

 ――どうする!?


 元が農民である兵士たちは、自国を守ると同等以上に、故郷に残した己の家族を想う。

 離れ離れとなった家族の安寧と、そして何としても彼らの元に生きているのだと、だからこそ帰ってこられたのだと、かいなに抱き抱かれつつ知らせたいと願う、強い思い。


 真にそれを教えたのは、契国でのばつたちの行動だった。

 故郷くにに帰りたい。

 血反吐を吐きつつ叫んだ伐の魂の言葉は、未だに耳にこびり着いている。

 だからこそ、真には分かっていた、確信していた。

 河国の民である兵士は何れ遠からず、この噂に飛びついてくる、と。


 やがて、噂が広まりきるのを見計らったかのように、話は次の段階に飛んだ。

「なあ何で今回、禍国の皇子様とやらが、どうしてこうやって紅河こうがを下って攻め入って来られたのか、知っているか?」

「い、いや?」

 言われてみれば、不思議な事だ。禍国の事を河国の民は『山猿』と蔑んで呼んでいる。大河と大海を知らぬ、山の大将を気取る『山猿』と。

 そんな禍国が、いつ、何処で、どうやって、これほどの軍船を調達したというのだろうか? 兵士たちは顔を見合わせた後、口火を切った男に向かって、ごくりと生唾を飲んで先を促す。

「本当はな、禍国は先に契国を攻めに行ったのさ。けどな、その先で契国はあっさりと、こう、降参! てな、両手をあげて、白旗を振ったのさ」

「な、なに!?」

「本当さ。まあ聞けよ。契国側が、自国を襲わずにいてくれるなら、自前の軍船を全部差し出すから、助けてくれ、許してくれ、ってな、申し出たのさ」

「禍国の皇子様ってのは、その契国の提案あんを受け入れたのか?」

「当たり前だろ? 聞き入れずに契国に留まって、国中を荒らしまわっていたんなら、今、此処にこんなすげえ数の船が浮いてるかって話だろうが?」

「そ、そりゃあ、そうだが……」

 なぁ? とお互いを探り合うように目配せし合う男たちの前で、噂を持ち込んだ男が、懐から一粒の金を取り出して、掌の上で転がしてみせた。

「おい!? お、お前!? そ、そいつぁ……!」

「へ、へへっ、どうだ、この輝き。混ぜものなし、掛け値なしの、正真正銘の金の塊様、だぜ?」

「い、いい、行ったのか……?」

 男は何も答えない。そのまま男は、金塊を懐に静かに仕舞った。輝きが失せる、その動きが問いかけを肯定していた。

 ごくり、と盛大に喉を鳴らして男たちは、その黄金色の輝きに吸い寄せられ、額を突き合わせた。

 眩いばかりの輝きは、噂を真実だと物語っているように男たちには思われた。



 こうして、河国兵士に化けたふうを筆頭とした『草』たちは、噂を次々に、着々と、流布して回った。

 戸惑いと、恐れをもって当初聞いていた兵士たちは、やがて、芙たちが懐から取り出した一粒の金塊を目にすれば、言葉を信じていく。

 そもそも、4年前の祭国での戦の折にも、禍国皇子であった戰は国内安堵を確約し、守った。

 そして昨年の句国との戦においても、当時の国王であるばんと王太子であったみちを討取りはしたが、その後、句国の領土を不当に侵す事はせず、逆に王子・きゅうを国王の座にすえ、認めさせようと奔走したくらいだった。

 そんな禍国皇子・戰が、契国の申し出を受け入れるのは想像に易い。

 更に言えば、4年前の祭国との戦いで、禍国の皇子は自軍の兵士たちに戦わずとも日当を与えていたという話も、何処からか、しかしまことしやかに囁かれ始めている。


 戦わなくとも、金を払っていた。

 ならば、船を下りれば金塊一粒、というの噂は噂ではないのかもしれない。

 金塊を見た、と云う者も居るのだ。


 どうする?

 ――どうする?


 ならば、その噂が噂でないと確かめに行けば良いのだ――


 こうして、夜陰に隠れ、船のへり(・・)から静かに河に身を投じ、禍国の船を目指す者が、次々と現れるようになった。




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