12 征く河 その4-3
12 征く河 その4-3
呻き声を上げて、のたうち回りながら船床に転がっている真の元に、様子を見に来た戰が呆れ顔を作ってみせた。眸の上に、濡らした布巾をのせている。七日前に乗船して直ぐに真は船酔いにかかり、それ以後、ずっと横になったままなのだ。
「何だ、真、まだ船酔いは良くならないのかい?」
「……まだ・とは……なんですか……失礼な……よい、ですか……戰様……」
「何だい?」
「ふ、船酔い……と、いうものは、ですね……船に、乗っている間……中、酔いが、つ、続く……もの……だから、こそ、ふ、船酔い、と云うの……です……よ……」
知っているよそんな事、と戰は呆れつつ、手桶を引き寄せて背中を丸め小さくなった真の背中をさすってやる。
青白い顔で、ぜいぜいと喉を鳴らしている真の声は、いつもと違ってささくれいる。何度も吐き過ぎて胃の腑は空になり、遂には黄色い胃の腑の汁まで吐き出して、喉をやられているのだ。酔い止めの薬湯すら、口に含んで直ぐに吐き出してしまうのだから、最早処置なしである。余りの虚弱ぶりに、薬師も肩を竦めて匙を投げた程だった。
「そう言えば真は、いつだったか薔姫の操る馬に乗って家から施薬院に来る迄の間ですら、酔った事があったなあ」
「……わ、忘れて、下さい……よ、ま、全く……ふ、普段、とぼけて、いらっしゃる……く、くせに……そ、そんな……事だけ、は……覚えていらっしゃる……の、ですから……」
うんうん唸りながら手桶に顔を突っ込んでいる真の背中をさすりつつ、戰は苦笑する。
しかし、笑ってばかりもいられない。
この10日間、殆ど何も口にしていない。舐めるように蜂蜜入りの水を口に含む程度という、正しく何処の虫籠の鈴虫かという生活の為、真は一気に痩せた。こんな姿を義理妹に見られた日には、また何をされるかわからないなあと、再び、今度はのんびりと苦笑する。
其処へ、芙が入ってきた。
普段の、冷静かつ、風に気配をのせたかのように動く彼からは想像も出来ない、興奮した面持ちだ。
「皇子様、真殿」
「芙」
「……ど、どう……でした……か……?」
流石に真も、桶から青白い顔を上げた。芙の声が、喜色に弾んでいる。
と、云う事は。
「あれで、良かったのだな!? 骸炭こそが『人の手に成る瀝青』だったのだな、そうだな、芙!?」
力強く頷く芙の両眼が、熱く濡れている。
喜びから逆に力が抜け、手桶に預けかけた真の身体が、持ち上げられたかと思うと強く締め上げられた。芙と共に、喜びの雄叫びをあげている戰の仕業である。高ぶり爆発する気持ちのまま、真の身体をがくがくと揺さぶりながら叫ぶ。
「やったぞ、真! 芙!」
「はい、皇子様! お慶び申し上げます!」
「……」
だが、真っ先に喜びを表さすであろう真は、静かなままだ。流石に不信に思い、真の顔を覗き込んだ戰は、ぎょっとなった。真は、戰の腕の中で半白目をむいていたのである。
「し、真!?」
「……せ、戰……さま……ゆ、揺らして、は……い、いけま……せん……――は」
「――は?」
「――は、……はき……は……き……そ…………うぅっぷ……」
真の言葉は、声にならない呻き声に取って変わられた。
戰の襟首を掴んでいた真の身体が、僅かばかり前屈みになると、其処に戰と芙の叫び声が重なった。
戰と芙の叫び声に、何事かとわらわらと警護の兵が集まってきた。戰が、いいから、と宥めつつ彼らを追い払う。
「着替えてくるから、真は横になっているんだぞ? 芙、後を頼む」
着物を濡らされて苦笑いするしかない戰は、言いおいて一人、船室を出て行った。残された真の背中をさすりながら、芙が溜息をつく。
契国の騒動の時に、彼の国の丞相・嵒に腹に喰らった蹴りの痛みが、実は未だにじくじくと続いていた。船の揺れに対して均衡をとるどころではなく、そのせいで、余計に船酔いが酷くなっているのでしょうと芙は言った。珊と共に那谷の施薬院を良く訪れていた芙は、ある程度の見立てならたてられる程に、知識を得ていた。その知識でもって、契国の邨では大いに活躍したものだった。
最初は、何を、と侮って聞いていた真であったが、今はあながち間違いでもないか、と思い直している。腹を痛みを庇うせいで、船の揺れに順応出来ずにいるように思えるのだ。
手際よく着替えてきた戰が、冷たい水を満たした薬缶を手に戻ってきた。真に手ずから注いでやりながら、真の上体を起こしてやる。
「本当に、大丈夫か、真? 腹の貼薬を変えて貰うかい?」
「だ……大丈夫、です……。そんな事より、も……芙……其々の、国の状況を……教えて、頂けませんか……?」
吐ききって、逆に胃の腑の苦痛が幾分和らいだ此の隙に、と真は芙に話の先を促した。
★★★
河国。
と、自ら名乗るだけの事はある。
紅河と力河に挟まれる三角州地帯を有する地を支配し、更に海に面した地域をも有している河国は、軍船を扱うことにかけては一段も二段も禍国の上を行く。
だが当然、それらは常日頃から鍛錬し備えられ、強力な指導者の元に鍛え上げられていてこそ。今は、遠い過去の栄光としての話になりつつある。
何よりも、11年前の禍国との戦いから、河国も騎馬に対する備えばかりを充実させてきていた。河国王宮内は、今頃、疾風の如き迅速さで帰城した宰相・秀より齎されし巨大軍船の群れの情報に、面皮を青白くさせて右往左往している事だろう。
今。
河国において、内政のみならず軍部を采配するだけの実力を備えうる人物と問われれば、宰相・秀をおいていない。
つまりは、紅河側からの禍国皇子・戰。
そして何れの最適の時期を選び抜き呼応する腹づもりで、虎視眈々と機会を伺う禍国兵部尚書・優。
この二軍に対応する事は、現実的に不可能なのだ。
で、ある以上、河国としては何方か一方で確実に勝利を得、その勝利を以てこの戦の決戦とすべしと画策してくるだろう。
「水上戦と陸戦、丞相・秀は何方の指揮をとると思う?」
「……其処はやはり……陸戦を、指揮される事でしょう……。わ、私の父が……背後に控えている……、と既に掴んでおられますし……そ、其処に……戰様が総大将として……一軍を率いる……・となれば、確実……でしょう……」
真の言葉に、戰と芙が視線だけで頷き合う。
河国の読みとしては、恐らくこうだ。
禍国とて、慣れぬ水上戦にて『神輿』である総大将たる皇子を失うわけにはいくまい。
となれば皇子・戰は船を降り、兵部尚書・優と共に騎馬を率いて河国王都を目指すに違いない。主力決戦は、陸上にての戦いとなる。
残る禍国兵が操る水上戦など、どうとでもなる。どうせ、軍船の扱い等は、『ずぶの素人』である禍国軍だ。
軍船の頭数を揃えた処で何程の事が出来る、と見ている。
否。
そう思わねば、やっていけないというのが、真実である。
が、敵の内情はどうであれ、11年前に既に一度、兵部尚書に完膚なきまでに負け越している。直接対決の苦闘の果ての引き分けが、せいぜいの戦果なのだ。その総指揮は、当然、秀がとったものである訳で、彼としては雪辱を晴らす以上に、己自身をおいて誰が対峙できようという薄ら寒い現実を、河国は突き付けられている。
「真」
「はい……戰様……」
「だが私はやはり、私の手で、この水上戦をこそ先ず制したい」
「……はい……私も……そう考えて、おります……」
再びせり上がりかかる嘔吐感を必死で堪えつつ、真は芙に向かい合う。
「……ふ、芙……」
「はい」
「……此処から先は……貴方の、力なくしては……勝てません。どうか……戦様の為に……宜しく、お願いします……」
言いながら、真が眸を伏せつつ掌で口元を押え付ける。
「どうぞ、御心配ならさずに。大船に乗られたように、気持ちをゆるりと構えてお待ち下さいますよう」
芙の力強い請負の答えに、「……それは無理です……」と真は力なく応じ、二人の失笑をかったのだった。
★★★
いよいよ明日には、遼国領内へと船の舳先が入るかとなった。
闇に紛れて一旦下船した戰と真、そして芙は、兵部尚書である優と杢、そして遼国王・灼と相国・燹と落ち合うと定めておいた地へと馬を走らせる。
漸く、地に足が着いて酔から覚めるかと思っていたが、再び馬の背に揺られた途端に気分を悪くした真が、うんうん唸りだした。
「相変わらずだなあ」
「……申し訳……あり……ません……」
「いいよ、とりあえず着いたようだから、早く降りて身体を休めた方がいい」
頷きつつ、せり上がってきた吐き気に頬を膨らませている真に、流石の芙も処置なしと肩を竦めるしかない。
戰が千段から降りて、真に手を貸す。戰と芙、二人の手を借りながら馬から降りた真は、樹の下で幹に凭れるようにして身体を横たえる。優と杢、灼と燹を待っていると、両極の方向から其々に、高い馬の蹄の音が闇を微かに揺らして響いてきた。文字通りに馬から飛び降り手綱を燹に放り投げながら、灼が、戰の元に抱きつかんばかりの勢いで、駆けよって来る。
「おう! 久しい事よな、郡王!」
「久しぶりだ、灼殿、そして燹殿も」
「真とやらも健勝であったか! ……とは、愚問のようだな」
まだ青白い顔色の真に何があったのかを瞬時に悟った灼が、仔犬が転げまわるように、腹を抱えて笑い転げた。
芙から聞いていた事であるが、改めて、骸炭が瀝青に変わる品であると燹から説明を受けて、戰と真の顔ばせに喜色が走る。興奮に、息遣いも乱れる。
しかし、骸炭があれば全て上手くいくという訳ではない。常時、高温を維持するだけの炉を連ねて建てるだけの金が、今の遼国には、ない。
「どうする気だ?」
しみったれた懐事情、国の恥を、しかし隠し果せるものではないし、してはならない。燹が苦味走った表情で戰に告げると、「ご心配なさらずに」と横から真が答えた。
「必要な金は、禍国の代帝陛下が支払って下さいますので。どうぞ、心行くまで存分にお使い下さい」
灼と燹が、顔を見合わせる。鯨面が、真の言葉の意味を捉えられず歪んでいる。
笑いを堪えつつ、戰が、先の戦の褒賞に代帝に求めたものを教えた。再び、千切れんばかりに尾っぽを振って喜びを表す仔犬のように身体を揺り、愉しげに灼は笑った。
「面白い奴だと思っておったが、此れ程までとは思わなんだぞ、真とやら。あい、分かった。ならば、代帝の血肉、とことんまで喰らい尽くしてくれようか」
なあ相国よ? と、灼に振り返られ、燹も珍しく釣られて破顔した。
自分たちの国の一邑を潰した奴の金を使い、何れ彼ら自身を討ち果たす為の武器を鍛え上げるのだ!
此れ程痛快な復讐劇は、此の世にあるまい!
若者たちが心を浮き立たせている中で、だが一人、兵部尚書である優のみが、渋面を崩さない。
当初、息子である己の不甲斐なさに立腹しているのかと真は思っていた。だが、どうも様子が違う。
その証拠に、助けを求めるように、杢がちらちらと真に目配せをしてくる。
真の脳裏に、何かが、ちかりと閃いた。
「父上、祭国で何があったのです?」
「……お前は無駄に鋭いな」
ぐう、と呻きつつも、優は何処かほっとしたように表情を崩した。腹に抱え込んでいるのが辛く、真に看破して欲しかったのであろう。
それでも云い渋るのだ。良くない事柄か、しかも、相当に。
「祭国で? 兵部尚書、どうしたというのだ?」
「……はい、郡王陛下、それが……」
「それが、どうした?」
「……妃殿下が」
「妃……椿、椿がどうかしたのか!?」
「御懐妊なされました」
慶事を、だがしかし優は、重々しく苦しげに、告げた。
★★★
椿姫が、懐妊した――戰の、御子を!
本来であれば、この場は慶びに爆発せねばならない。
しかし、優が表情を曇らせ口を重くし沈んでいる為、逆に水をうったかのように、しんとなる。
何故、優はこの様な、辛い表情をしているのか? 嫌な沈黙が場を覆う。
考えられる事は、一つ。
懐妊した椿姫の体調が、芳しくない。
それもかなり、切羽詰まった状況なのだろう。
「兵部尚書、椿の身体の調子が良くないのか?」
「……」
「兵部尚書」
腕組をし、星空を仰いだ後、優がぼつぼつと語りだす。この様な話は元来、優は全くの不得手の極みとしている事柄だ。が、此れこそは、彼が責任をもって告げねばならない。
祭国に戻り正月を過ごすまで、椿姫は自身の体調の変化に気がつかなかったらしい。初めての懐妊であっても、悪阻らしい悪阻もなかった為だ。
だがそんな椿姫の僅かな変調に気が付き、最初に指摘したのは苑だった。この頃漸く、苑は彼女の事を「女王陛下」ではなく「椿姫様」と呼ぶ事が出来るようになってきていた。
「椿姫様、何処か、ご自身の中で何かお変りになられた処など、感じてはございませんか?」
言われて、椿姫は漸く、月の障が遅れている事に気が付いた。
其れが意味する処に、気が付けぬ身ではない。
頬を赤くしながら、椿姫がその旨を苑に伝えると、王城は上を下への大騒ぎとなった。那谷が手筈を整えて、産婆たちの一大軍団が椿姫の元に寄越される。
やはり、婚儀の夜の契りにて授かった御子と分かり、皆がこの上ない慶事に慶び、沸いた。
その頃、戰は既に契国に向けて出立仕掛けた頃だ。
「いや、待ってくれ。だが、私の元に届けられる椿の手紙には、そのような大事など一言も」
詰問するかのような強い口調で言い募る戰を、真が押し留める。
其れを言うのなら、薔姫から届けられていた、真への手紙も同様だった。
どういう事なのか。
「その後に、直ぐに妃殿下は出血なされたのです」
流産の恐れありと見立てられ、絶対の安静を椿姫は強いられた。
褥の上で横になり続け、やっと出血が止まったかと思いきや、またぶり返す。
その繰り返しだ。
こんな中であっても、椿姫は戰を思って筆をとっていた。
此れまで間断なく送っていた手紙が途絶えては、戰は何事か有りと怪しみ、訝しむ。芙に探らせに来るだろう。
「今は、戰にとって一番の大事の刻です。事を知り、私に関わり、後ろ髪を引かれて戦場に出、万が一にも、よもやの事態が起こってはなりません」
未だに、だらだらと続く出血による流産の恐怖と戦いながら、椿姫は気丈にも戰に悟らせまいと、褥の上から手紙を書き綴っていたのだ。
「しかし、流石に此れではいかんと虚海殿が蔦の一味の早馬で、知らせてきたのだ」
其れ程、椿姫の容態が緊急を要して、切迫している事を意味する。
その意味とは――つまり、母子共々に、生命の危機に瀕している。
優の話に、唸る事すら出来ず、戰は息を止めるしかなかった。
無論、真もだ。
楽しげな様子ばかりを伝えて来てくれていた。
普段とかわらず、元気でいるのだとばかり伝えてくれていた。
だから、そう思っていた。
祭国では、皆が笑顔でいてくれているのだ、と。
ねえ、我が君。
我が君は、今、何をしていらっしゃるの?
ちゃんと教えてね。
嘘ついても、駄目よ。
私はちゃんと、分かっているんだから。
約束されたように手紙を結んでいた、この一文を。
幼い身で、どんな気持ちで、書いていたのだろうか?
眼光紙背に徹すれば、薔姫の気持ちなど気が付いて当然であったものを。
なのに。
危うく浮かびかける涙を、ぐい、と袖で無造作に拭い取る。その動きに呪縛を解かれたのか、戰が皆を一度、ぐるりと見渡した。そして、真に、決意に満ちた強い眸を向ける。
「真」
「はい、戰様」
「椿の元に帰りたい。10日、いや、7日でいい。私に時間を呉れ」
一瞬の間に、真の頭の中で、ありとあらゆる情報が高速回転する。
「はい、分かりました。7日、必ず何とか致します」
「兵部尚書よ、云い難い事をよく話して呉れた。この上さらに面倒をかけるが、頼む」
「お任せあれ、郡王陛下。私には、此方の道こそが、陛下の御為にお役に立てます」
「灼殿、済まぬが」
「おう、郡王。吾らの方は気にするな。真とやらがおれば、何とかなろうさ、いや」
灼が、戰の肩をぐい、と押して立たせる。
「何とでもしてやる。行け、郡王。己の家族を守れん奴が、何で漢を名乗れるものかよ」
人頭狩りの際、灼は母親の実家を襲われ、焼かれた。其処で、灼の母も邑と運命を共にしていた。
体調を崩していた灼の母は、王母でありながら実家に下がっていたのだ。この周辺諸国の国の慣わしとして、王城で死者として存在して良いのは、王のみだ。故に、病が深い場合は例え王妃であろうと王太后であろうとも、実家に下がる。
そして、惨劇に見舞われ、消された命の一つとなったのだった。
間に合わなかった。
実の母を、守れなかった。
その悔恨は、灼の中で未だに轟々たる大火のまま、燃えている。
だからこそ灼は戰に、椿姫の元に「行け」と言うのだ。
自分のように、何故間に合わなかったと、後悔の血の涙を流すな、と。
「戰様の腕と千段の脚力があれば、此処遼国からでも3日あれば祭国に到着します。どうぞ、一瞬を惜しんでお発ち下さい」
「後はお任せを、陛下」
「行って来い、郡王」
促すように、千段までが、前脚で、がっがっと土を激しく削りとっている。
戰は「済まない」と短く礼を口にすると、真と戰に促されるままに千段に跨る。
鞭を入れずとも、巨躯を誇る黒馬は、猛々しい嘶きを発した。
そして、まるで矢の如きに、黒馬は闇を裂いて駆け抜けて行く。
あっという間もなく、その深い群青色に、戰の姿は沈まるように消えた。




