12 征く河 その4-2
12 征く河 その4-2
河岸を並んで歩きながら、戰と真は首を痛くさせつつ、帆の先までを見上げていた。
「改めてこうして見ると、凄まじいばかりだな」
「ですね」
内陸深くに位置し、とりたてた大河のない国柄だった禍国の出である戰と真は、巨大船には縁なく過ごしてきた。書物で絵図で、紐解き知識として得ていたとしても、実際に眼前に迫られるのは、此れ程までに違うものかと、驚きを隠せない。
一般的な武家屋敷程の家屋を2~3軒連ねたかのような巨大な船が、轟き蠢く河面に並んで浮かぶ様は、一種異様な迫力がある。ひしめき合う様は、まるで河に街がひとつ、突如として産まれたかのようだ。雄大さと壮観さに圧倒され、真ですら、興奮を抑えられない。
実に、この一大船団にて契国を出立する事が叶えられるのは、偏に王太子・碩の尽力の賜物だ。前年末に行われた1周忌の際に、別れ際に頼んでおいたものだが、半年経たずに此処まで頭数を揃えた巨船を造りあげられるとは、正直、戰も真も思ってはいなかった。
最も、怒涛の追い上げを見せたのは、最後の最後、10日足らずの事だった。
邑ごとで、材木業を営む伐たちの馴染みの船大工の号令の元、其れまでの動きを十倍にも百倍にも加速させたかのような動きをし、軍船は次々に仕上がりをみせたのだ。
「此れで紅河を下れば、一気に河国と遼国の国境の岸にまで辿り着くな」
「はい。後は、私たちの要求を受け入れて叶えてくれた、伐殿の気概に応えるのみでしょう」
うん、と戰は船を見上げたまま、頷く。
初めての玩具に心を躍らせている童子のように、感動に目を輝かせている戰の存在は、仕事に従事した者たちに密かな喜びを呼び起こしているらしい。人足たちも棟梁たちも、遠巻きにしつつも、皆が鼻の下をこすったり肩を小突きあったりし、照れ笑いで戰を密かに迎えて呉れている。無理な仕事をさせた筈であるというのに、ゆく先々で人々の好意的な視線と態度が自分たちを受け入れてくれる。この事実に、二人はまた、感謝と感動を覚えずにはいられない。
――勝てる。
船を注視したまま、戰と真は、新たな確信を一つ得ていた。
★★★
契国から河国まで。
確かに、徒歩でゆけば2ヶ月以上は見ておかねばならない。
だが、その長大な旅程も、船に乗れば僅か2週間ばかりだ。
その河国。
此度の禍国と契国の戦いに注視して、斥候を放っているのは芙の働きにより知っている。ある程度の情報は、敢えて漏らした。そうして情報を与える事で、逆に此方の思い描く通りに動いて貰う為だ。
内情を探らせている河国の丞相である秀は、出来た漢だと、嘗て戦場で対峙した経験を持つ優と杢は言葉を揃えて評した。戦場に置ける、仕掛け方から攻め入り方、そして引き際から駆け引きに至るまで、互いに思い知らせあっている。
その、河国宰相・秀が、得た情報から何を導き出すのか?
禍国皇子・戰が契国を討つ為に大軍を率いつつも、兵部尚書・優を残しているという事実から、自国が狙われていると推察するに違いない。となれば、最早一国にては禍国から防ぎきれぬと考えば及ぶ。及んだとなれば、河国を守る為に、遼国と共闘しようと灼と密約を交わすしかなくなる。
そして、確実に遼国を取り込んだと確信するまで、遼国から離れられなくなる。
その間、自国は丸裸で取り残されると知りつつも、彼以外に頼む人物がない河国の現状ではそうするしかない。
この隙をついて、一気に紅河を下り、河国にまで迫るのだ。
無論、一歩間違えば、遼国が危うくなる。
だが危険性を知りつつも、この手段を強気で申し出たのは灼の方であった。
「吾が国の民を、見くびるなよ、真とやら」
そう云い、大笑する灼の好意に甘えて河国を引付けて貰った以上。
この攻勢を、必ずや成功させねばならない。
幾ら、遼国内に残る河国軍を逆手に取り人質に出来るとは言え、其れは所詮は諸刃の剣なのだから。
「さて、真」
「はい、戰様」
「勝つぞ」
「はい」
船を二人は熱い視線で、何時までも見上げていた。
★★★
5月初旬。
戰の率いる禍国軍は契国を出立すると決定した。
此処まで来るのに、この様な紆余曲折を経ようとは思いもしなかったが、其れでも瀝青と骸炭の結びつきを知ることが出来たのだ。
此れが、遼国にとっての福音となってくれれば良いのだが……、と運び込まれるばかりとなった骸炭の俵の山を戰が撫でていると、碩がやってきた。
戰が破顔しつつ碩に手を伸ばすと、年端のさしてかわらぬ彼も微笑しつつ手を伸ばしてきた。
「長らく、世話になった碩殿」
「いや、此方こそだ」
硬く手を握り合う戰と碩を尻目に、一応、と称して仕事の出来具合を見に来ていた伐が、率いていた邨の人々と真の周辺に人集を作り上げている。
「伐殿、煤黑油と柴油の性質は、聞かせて頂いた通りなのですね?」
「ああ、まあな。……なあ、そんな事より、お目付さんよぉ」
「はい、何でしょうか?」
「河国とかってのを討ち取ったらよ、紅河を遡ってこの国を討ち取りなおしに来てくれても、いいんだぜ?」
「有難う御座います。でも、其れは有り得ませんよ」
「まだ俺たちは、皇子さまにこの国を滅ぼして欲しいって思ってんだぜ?」
「そうでしょうか? では、そう言う事にしておきましょう」
へっ! と鼻を鳴らしつつ、伐は大仰に肩を窄めた。
振り返れば、離れた場所から宰相・嵒が静かに佇んで、戰と碩、二人の若者の別れを惜しみあう様子を濡れた眸で見詰めていた。
けっ! と伐が吐き捨てる。
「しおらしく、萎れやがって。そうすりゃ赦されるとでも思ってんのか」
「後悔もせず、罪も認めず、己を正さぬより、ずっと良い事ですよ」
静かに応じる真に、伐は、ぐ、と蔑みの言葉を飲み込んだ。
だが実際には、宰相・嵒を中心とした古参組の国の重臣たちが、事実を突き付けられたからといって、直様考えを改める事など出来ないだろう。彼らの自尊心と矜持が、許そうとしないだろう。
また、よしんば謝罪をされた処で、伐たちも彼らを赦して笑いあうなど、どだい無理な話だ。そんな都合よく話が転がるほど、自分たちの歴史は可愛げのあるものではない。
だからこそ、碩は目を反らす訳にはいかない。
両者を知り、何方も大切に想う者として、彼らが真に手を携えあえるその日が来るまで、尽力せねばならない。
例えそれが茨の路であり、理解者も協力者も得られぬかもしれぬ道程であったとしても、だ。
碩の此れからの孤独な戦いを思い、真は熱く語りあう二人を何とも言えない面持ちで見詰めていた。
★★★
出立前夜。
戰と真の元に、伐たちが忍んで訪ねてきた。
殆どの兵士は乗船を終えており、戰と真、そして芙を始めたとした僅かな精鋭のみを傍において、巨大な天幕に居た。
訪ねてきた伐たちは、皆一様に、何やら思い詰めた、決意に満ちた様子だった。自然、戰と真、芙の表情も緊張に引き締まる。
「皇子様とお目付さんによ、ちょいと見て欲しい物があるんだ」
「何だろう?」
促されるままに、外に出る。夜の深い帳は、全ての生物の生気を吸い取ってしまったかのようで、春爛漫の命猛る時期にありながら、実に静かだった。
そんな中、異様な熱意のこもる熱い眸で、伐は振り返った。
「実はよ、その、見て貰いたいものがあるってのは、これなんだ」
伐が、杖の先を夜空に向け、大きく振った。
其れを合図に、仲間が、童子の握りこぶし程の小さな壺を取り出して、地面に据えた。その壺口に、5寸ばかりの長さの布切れを突っ込み、火を灯す。そして男は、脱兎の如くに駆けて逃げだした。
何事かと確かめようと身を乗り出しかけた戰の首根っこを、伐が抑え付けて庇い、怒鳴った。
「馬鹿野郎! 大人しくしてやがれ!」
その声に、夜気を劈く轟音が被さった。
いや、闇を揺らしたのは轟音だけではない。此れまで味わった事のない風圧が、先程、壺があった地点を拠として一気に叩きつけてくる。
声も上げられず、戰と真は本能的に腕で顔の正面を庇った。
風圧と音が完全に去った後、改めて、自分たちの頬を叩いた風の強さと耳を打った音の激しさに呆然となる。
気が付けば、周辺に漂う異様な臭気に、鼻がもげ落ちるような錯覚を覚えていた。
「驚いたか、皇子様よ?」
「あ……ああ……一体全体、今のは、何なのだ……――?」
茫然自失の体の戰に、伐が肩を揺すって仲間たちと笑い合う。気が抜けた間抜け面の戰の顔を拝めただけでも、めっけもんだと言いたげな伐たちに、真がやれやれ、と項あたりの髪をかきあげる。
「何だっつわれてもなあ。実はな、俺たちも名前、知らねえんだ」
「は?」
「とりあえず、俺たちの邑じゃ『どっかん』て呼んでら」
「……そのままですね」
「まあな、わかりやすくていいだろ?」
男たちがゲラゲラ笑う。潔いほどざっくばらんな言い草に、戰と真、芙も釣られて笑った。
「俺たちの邑は、材木業で生計を立ててるって言ったよな?」
「はい、そうでしたね」
「簡単に言やあ、男手が不可欠って訳だ。けどよ、雑徭だの労役だの庸だの何だのと駆り出さてたんじゃあ、真面にやってられる訳がねえ」
伐は言葉を選びつつ、淡々と語る。
「男どもが根こそぎとられちまった邑が、生き残る為に使うのさ。材木業ってなあ、熟練の男衆が頼みの、力仕事よ。それでなくても、山での暮らしは辛くて厳しいもんだ。男たちが消えて生業が立ち行かなくなりゃ、女子供と爺婆しか残ってねえ邑は、当然、喰うもんがなくなる。んで、いよいよ首くくるかってなる前に、爺さんたちがこれをぶっぱなすのさ」
伐が言うには、この『どかん』とか代物。
大昔から、何と、漁業で使われているのだという。
川面で『どかん』と一発ぶち鳴らせば、その圧力と音に気を失った魚が、さわさわ浮いてくるという寸法だ。子供でも、網を使って容易に魚をすくい取る事が出来る。
だが、此れを鳴らす時は、のっぴきならなくなった時のみというのが、邑の定めだという。
童子の握り拳大程度の壺に満たされた容量ですら、あの威力なのだ。確かに、下手をすれば、己の四肢が粉砕されて四方に飛び散るやもしれない。
正に文字通りに命懸けだ。
だが、命をかけねば、生きてゆけぬ。
賭けに出ねばならなくなる程、生と死に直面した時。
人々は、此れを鳴らす。
生き残る為の、まさに魂の咆哮と言えよう。
「中身はな、この、白い石と黄色い石、そして木炭だ。此奴らを粉こにしてよ、7と1と2の割合で松脂を使って混ぜ固めてやれば、この『どっかん』が出来上がるって寸法さ」
成程、と頷く代わりに、戰と真は顔を顰めた。
黄色い石は、見てくれからして硫黄と直ぐにわかった。
が、白い石は何なのだろうか?
石にしては柔らかな、独特の脆い感触で、所々に半透明の輝きがある。那谷の施薬院で見た事があるような気もするが、勝手に定めてはならないだろう。
それにしても。
此の威力はどうだ。
見れば、芙も珍しく青ざめた顔色で、微かに土が抉られた壺が置かれた箇所を睨んでいる。
そして、この威力を目の当たりにすれば、当然の事、疑問が沸きあがる。
「何故、この間の騒ぎの折に、『これ』を使わなかった?」
安定してこの風力と爆音を出すには、あの程度の小壺でなければ出来ないのだろうが、それでも惑乱させうるだけの、強力な破壊力があるのは誰の目にも明らかであろうに。
――それなのに、何故?
疑問をもたげさせた戰に、へっ! と、伐はまた、何処か捨て鉢気味に吐き捨てる。したかったのはやまやまだ、と言いたげだった。
「王様やお偉い様方の前じゃあ、何があっても使っちゃいけねえって、爺さんのひい爺さんの、そのまたひいひい爺さんの、そのまたん十代も上の爺さまの代からの、訓えなんだよ」
確かに、切羽詰った一揆の際に此れを使用すれば、一時は、為政者を退ける事に成功するだろう。しかし、所詮は数を頼みに圧倒され、何れ鎮圧されるだろう。その後、この秘密を明かそうと酸鼻を極める事態が彼らを襲うのは想像に易い。
「だがよ、皇子様もお目付さんも、俺たちの王様じゃねえからよ」
にやり、と口角を持ち上げて、伐が笑う。仲間たちもそれに倣った。
「伐、本当にそれだけかい?」
「あ?」
「本当に、其れだけか?」
「あぁん?」
「伐殿、今、貴方は年寄りが此れを鳴らす、と言いました。其れに、何事かと近付きかけた戰様を庇って呉れました。つまりは、此れの扱いは相当に胆力のいる、しかも命懸けの仕事なのでしょう?」
「そうだ。何故、そのような大事な秘術を、私たちに明かしてくれたのだ?」
「……さあな。……正直なところ、分からねえ。分からねえけど――」
「けれど?」
「諄いだろうけど、聞いてくれよ、皇子様」
「何だい、伐」
「俺たちは、未だに皇子様にこの国を奪って欲しいと思ってる。皇子様の施しを受けられたんなら、この国はどんだけいい国になるんだと思うだけで、胸が熱くなってくら」
「……」
「けど、けどよ、同じくらい、この国を誰にも渡したくねえとも思ってんだ。誰がなんと言おうと、此処は、俺たちの国だ。だから、あの時俺を庇ってくれた王子様を、信じてえんだ。まだどっかで、この国は大丈夫だって俺たちの国は信じてもいいんだってよ、信じてえんだよ――」
「――伐」
「……へへっ、いい加減、何処まで阿呆なんだ、って呆れんだろ、なあ?」
「いいや……思わないよ、伐」
「思いませんよ、伐殿」
戰が頷くと、伐は杖に寄りかかりながら、へへっ、と照れ笑いする。
真にも、伐の気持ちが何となくではあるが分かるような気がした。
あれ程、人扱いされずにいた彼らが、其れでも王子・碩を信じようとしたのは、あの背中の大きさ故だろう。伐を守る事は即ち、敬愛する叔父であり思慕する師匠でもある宰相である嵒と決別する事である。
だが、己の心に負う傷など厭わずに、伐たちを守る為に身を曝け出した時の碩は、大きかった。
きっと。
あの背中に、賭けたいと――伐たちは、そう思ったのだろう。
碩の背の大きさに背負わされる自分たちを、伐たちは、自らの未来として、選んだのだ。
「あの王子様となら、まだ俺たちは何とかなるかもしれねえ。けど、皇子様とお目付さんを見てたら分かんだよ。俺たちの国は、弱え」
だが、理想と現実の狭間を正しく理解している伐は、やはり一廉の人物だろう。
「剛国だけじゃねえ。別に王様がぶっ倒れていなくても、句国にやられてただろうさ。そのくれえ、弱え。分かったんだ。だからよ、強くなりてえ」
「――伐」
「皇子様、それにお目付さんにも、お願いだ。今度はこの国と、王子様と、俺たちと一緒に闘って欲しい。俺たちも一緒に戦う。その為に、此奴を役立てて欲しい」
『此れ』の威力は絶大だと、目と耳と身体をもってして味わった。
確かに、上手く使いこなせるようになれば。
戦を優位に進める為に、大いに役立つことだろう。
だがそれは同時に、為政者を容易に力による圧政という闇に走らせる、大きな危険を伴う。
――絶対的な巨大な力を持った為政者がする事とは、即ち、ただ一つ。
恐怖政治だ。
あの王子様は信じられる。
しかし、王子様を守る周囲は、まだ信じられない。
だが、あの王子様を助ける最大の力となるのは、此れだ。
しかし、あの王子様自身も『此れ』正しく扱え得るだけの力を、まだ備えてはいない。
ならば。
どうするのが一番良いのか。
決まっている。
――絶対的、且つ巨大な力。
蠱惑的な、魅力溢れる悪魔の如き力への誘惑の囁きに、耳を貸さずにいられる人物。
そしてこの力を、正しく世の為に使って呉れるという信頼に足る人物にこそ、預けるのだ。
「私たちを、信じてくれる。というのだな、伐」
「そうだ。あんた方だからこそ、此れを預けたい」
わかった、と頷きつつ、戰は伐の手を、殆ど奪うようにして、とった。
慌てる伐に、構わず戰は抱きつく。頭一つ分背が高く、胸板など倍はあろうかという体躯の戰に伸し掛られ、伐は仰け反りながらジタバタともがく。が、戰は一向に構わない。子供が玩具を抱きしめるように、身体を竦めている伐を離さない。
「よせやい、皇子様。俺ぁ、男に抱きつかれて喜ぶ趣味はねえよ」
照れ笑いしながら、伐が戰の背中をばしばしと叩く。
漸く、和んだ笑い声が上がった。
翌日。
空は、一筋の雲すら浮かばぬ、見事な快晴であった。
部下を全て乗船させた後、最後に戰と真、そして芙が梯子を使って船に乗り込んだ。
背中に受ける、碩、嵒、照、そして伐たちの視線が熱い。
甲板に出て、右腕を高々と振り上げる戰が宣言する。
「出立!」
声に合わせて、真白な帆が一斉に下ろされ、川面に雲海を作り上げる。
風を受けて、野を駆ける野生馬の群れよりも早く、船は紅河を滑るように進みだした。
4万の大軍を全て乗船させても、なお、余力を残した一大船団の船出であった。




