12 征く河 その3-2
12 征く河 その3-2
河国丞相・秀。
長く、この河国を支えてきた武人にして文官でもある。
現国王である創は、先の禍国との戦において大敗したが為、血統の途絶えかけた王家を救わんと苦肉の策を弄して担ぎ上げてきた、所謂、『神輿』であった。
主だった上品に位置する妃から産まれた王子たちは、あの11年前の戦にて、皆、敢え無く戦死を遂げた。城に居残る下品の王子たちの背後は、それぞれ脆弱な後ろ盾しかもちえぬ者ばかり。つまりは、既に誰かの手が伸びており、傀儡となっている者ばかりであった。
それであるならば、己が最も与し易い王子を、確実に己の掌の内で育て上げられる、幼年の、それもまだ誰の手垢も付いておらぬ王子が良い。血縁など、遠かろうが薄かろうが、知ったことではない。この河国を存続さえ得る為には、ほんの一滴で良い、王家の高貴なる血が流れおれば、誰にも文句は言わせはせぬ。
秀は探した。
探しに探した。
正に血眼となって奔走し、脚の爪を割って沓内を血で満たして歩き尽くし、喉を切らんばかりに方々を巡った。
そして――その執念が実る時が、来た。見つけたのだ。
先代国王の、承恩を受けた内人が産んだ御子。内人というが、実は県令の娘である。先代王は彼女をいたく気に入り、彼女を貴人の御位にまでつけていた。しかし王子がまだ乳飲み子の内にその貴人が亡くなった為、王子の身を案じた王は、元服と共に祖父である県令の元に戻した――という触れ込みの御子を、片田舎より文字通りに担ぎ出してきた。其れが正しいか否かは、問題ではない。其れを信じさせればよいとし、秀は少年を、王都へと拐かすように誘った。
其れが、現在の河国王・創、其の人だ。
王となった少年の創は、よく秀に懐き、云う事を聞いた。
剣技の修練、馬術の鍛錬、学問の習得、慈雨を得た若木がすくすくと育つように、吸収していく。何よりも王家を継ぐ者として、伝来の遺誡を至上の命とする徹底ぶりには、秀の方が舌を巻いた。何れにおいても努力を惜しまぬ良き王子であり、秀は充分過ぎる程、満足した。
厳しく接しつつも己の眼力に狂いはなかったと、内心は喜びから涙目になる。そんな秀に、叔父を慕うかのように創はよく懐いた。秀はまるで、雛を大翼の下に庇護する気高い鷲の如きに、少年王を耽溺する。
だが、少年王の常として、家臣たちは彼の意のままをなるをよしとしない。
ましてや、出自が卑しいどころか怪しい身の上だ。事ある毎に衝突しては、少年王を追放しようと画策し、創を苛んだ。だが、その度に秀は創を守り続けた。この河国を最もよく知り、最もよく守り得るのは、己ただ一人であると自負していたからだ。
あの戦において、領土は愚か遼国までを再び分離するを許してしまった。
衰えた国力と威信を取り戻す為と、秀は己を捨て奔走周旋する。家臣でありながらも師匠ともなった秀に、創は益々傾倒する。秀の背を追い、創も応える力量を備え出し、名君としての片鱗を見せ始める。王妃となった姫君とは、まだ実質的な夫婦とはなってはいないが、それでも遠からず嫡子を得るに違いない。
全てが、順風満帆とはいかずとも、良い風を受けようと努力する者に報いる形で進んでいる。
かに、見えていた。
しかし、歪みが、歪が入った。
事の発端は、4年前だ。
禍国と祭国の間で、戦が起こった。
総大将は、皇子・戰という未だ18歳の年若さだった。皇子は、目付となる年近い少年を侍らせるのみで、出陣したという。皇子・戰の名前は、河国内では、聞いた事もない。其れだけ、御位の低い母親から産まれた皇子であるかと秀は推察した。しかし幾ら弱小国相手とはいえ、初陣にて総大将を任されるとは、只者ではあるまいと注視した。数年後、世代を同じくする少年王の前に、立ちはだかる障害となる人物となるのか。見定める必要がある、と秀は戦の経過を逐一報告させるよう、斥候を放った。
やがて、件の皇子が、華々しく初陣を戦勝で飾ったと報告が齎される。
だがこの戦の勝利の得方は、流石の戦巧者の秀であっても、度肝を抜くものであった。しかも、目付として付き従ったという少年とは、あの戦にて、宰相の地位をも得た禍国兵部尚書・優の息子であるという。
同じ頃、順わぬ動きをみせた族を討つため、創も初陣を果たした。
其処で、大敗を喫した。
初めて、秀の言い付けを守らず、己のしたいようにすると意気込み、血気盛んに出陣下までは良かった。が、結果は正に言い訳の立たぬ大負けも負けであり、兎に角、総大将となった創は、背後を守る秀の元に、這う這うの体で逃げに逃げて落ち延びてきた。全身を青ざめさせ、がたがたと恐怖に打ち震える少年王は、何を聞いても真面に答えられない、心神喪失状態であった。
秀が入れ替わり、軍を率いて順わぬ族を討ち果たていた頃。創は何も言わずにとっとと王都にとって帰っており、突然、酒池肉林に溺れ始めた。
少年王に、何があったのか。
語らぬが為、揣摩憶測する事も出来ぬ。
だが確かに、少年王の繊細な性根を打ち砕き、変貌させる何事かが起こったのだ。それまでは、秀の保護下にあったとはいえ、英明さの片鱗を見せはじめていた少年王を擁護する声も、多少なりとも上がりつつあったのだ。それを、この少年王は手ずから刈り取り、火を放ち灰としつくしてしまった。
片や、件の皇子・戰は、3年間の雌伏の期間を経て、祭国の郡王となった。
そして今や、前年の戦で句国王・番見事討ち果たした禍国皇子・戰と河国国王・創は、年が近い事もあり何かと比較される存在となっていた。
――御年が近いというのに、あちらの皇子と比べ、我が国の王子様はどうだ。
――仕方があるまい、出自卑しき御身分であるからな、云うだけ野暮というものだ。
――だが、あちらの皇子も、母親の身分は美人と低いそうではないか。
――滅ぼされたとはいえ、歴とした王国の王女であったのだというぞ。
――そうそう……こちらの王子様は、承恩を受けたとかいう内人を母に持たれておられるのだからな。
――ほうほう、ではその内人の父親と母親は……なんという御身分でしたかな?
――それそれ、此処でこのように声高に聞いては、王子様が居る場をなくされよう……。
――ほほほ、そうですな、全く、痴態のみお上手になられてのう……。
――全く全く、その道に関しては随一……。
ひそひそとした声は、次第に音量をあげ、遂には王の耳に届くようになる。
既に少年王と呼ぶには相応しからぬ年齢となった国王・創は、噂を耳にするも、嗤うばかりだ。逆に、噂こそは真実であるとばかりに益々国政を顧みなくなる。国政の全てを宰相である秀に丸投げし、後宮に閉じ篭り、痴態に耽るようになった。
その夫である創を、問い詰めもせず叱責もせず悋気に狂って喚き散らすのでもなく、何の表情もたたえずした王妃・伽耶が、じ……と見詰めている。
若い二人を頂点にしているのだ。栄耀栄華を目指すに足りよう。しかし臣下たちは私利私欲に走り、懐を肥やす事にのみ存念をおいて邁進するばかりだ――ただ一人、そう、丞相・秀を覗いて。
河国の王宮とは、今、存続しているのが不可思議な程に濁り、腐り、国体を一気加速的に傾けていた。
其れを知り、深く理解する者もまた、丞相・秀ただ一人きりであるのが、河国の不幸だった。
★★★
既に春の芽吹きを感じる4月の末の温もりの中。
秀は窓の外を哀しげに眺めていた。
既に、何度目であるのか、嘆息の数を数える気にもなれない。
禍国の皇子・戰が契国に入り、そろそろ開戦の口上を勇ましく述べ、戦端を開いている頃であろうか。
暖かな風が、頬を穏やかになぶっていく。本来であれば、春を楽しむものとして心和ませるべきであろう。が、秀には、ただ虚しさを煽るものでしかない。先の報告を受けて以後、自軍を逞しくする事に躍起となって奔走しているが、思うような成果成長は未だに得られていない。これで夏までに、強固な一枚岩となる軍隊が練上がるのか。しかし、出来ねば負けは必定だ。やり遂げねば。しかし、不安ばかりが募る。
相変わらず、国王・創は後宮に深く潜り込んだままだ。蟄居していると言ってよい。事に関わらぬと全霊で示すかのように、女の躰から離れようとしない。
何が此処まで、陛下を極端から極端へと走らせ参らせたのか。
期待をかけ、なまじ途中まで想像以上に応えていて呉れただけ、落胆失望の度合いは大きい。
深く嘆息する秀の元に、泡を喰った舎人がばたばたと駆け寄ってきた。
「どうした?」
息を乱し、咳き込んで呼吸がままならぬ様子を見せる舎人の背中をさすってやりながら、秀は悪寒のような嫌な予感に身を包まれる。出来るなら、この舎人の口を逆に塞いでしまいたい、不思議な焦燥感を伴う欲求が全身を支配する。
だが、己を捨てる術を、秀は知り尽くしている。大事なのは己などではなく、この河国だ。
「どうしたのだ?」
「もう、もう、申し上げ、ます……! さ、先に契国に、向かったという禍国皇子・戰が率いる軍が……!」
「どうしたというのだ」
とうとう、禍国と契国が激突したか。跳ね上がる心の臓の音を落ち着かせんと、秀は殊更に声音を渋くして問い掛ける。すると、舎人はぶるぶると怖気に身体を震わせるかのように、首を左右に激しく振った。
「か、禍国軍は、既に……す、既に、契国を、その翼下に、従えまして、御座います……!」
「何だとっ!? 貴様、もう一度言ってみろ!」
舎人の報告に、秀は彼の罪でもないのに怒鳴り声を上げ、その襟元をぎりぎりと締め上げていた。
★★★
怒りと動揺を抑え、舎人に話を続けさせると、全容はこうだ。
歩兵と戦車を中心とした禍国軍は、まず、皇子・戰の目付とかいう男が使者にたち、開戦の為の口上を一方的に述べたと云う。どのようなものであったのかは、伺い知れぬ。が、彼の口上を聞くや否や、契国の代王たる王太子・碩は、その場にてあっさりと全面降伏を申し出たのだという。
「――やられた」
秀は呻いた。
舎人を下がらせると、己の執務室に篭もり、冬眠前の熊のように忙しなくうろうろと歩き回る。
最初から、仕組まれた出陣劇だったのだ。中途半端に、歩兵と戦車部隊を率いているなど、可笑しいと思わねばならなかったのだ。
最初から、皇子・戰は契国を攻め落とすつもりなど、更々無かったのだ。
契国の誇るものは何だ、と問われれば、煤黑油と誰しもが答えるに違いない。
ここ河国でも、紅河だけでなく海に面した地域も有している為、契国より煤黑油を大量に仕入れている。煤黑油で防腐加工を施した木材をして組み立てた船は、何十年という荒波にも耐える逸品となるからだ。
だが。
もう一つ、契国が誇るるものといえば。
そう言わずと知れた、軍馬だ。
実質的な引き合いの度合いは、煤黑油よりも強い事だろう。
万里を駆けて疲れを知らぬ、まさに風の谷を突き抜ける矢風の如しと呼ばれる健脚の馬を産出している。戦においての主流が、戦車から騎馬に移行しつつある現在、各国が垂涎三尺垂らして望む程だ。剛国が契国を許したのも、結局のところ、責めるより取り込んだ方が実益になるからである。
その、契国産軍馬。
皇子・戰は、代帝・安より総大将を拝命し、契国に戦を仕掛ける振りをして、実は、彼の国にて育て上げられし稀代の名馬たちを、受け取りに行っただけであったのだ。
皇子・戰、彼自身は、皇子を名乗るに最低限の地位を有するに過ぎない。
であるのに、現在、次代の皇帝に最も近しい場所にいると看做されているのは、政争をより混迷深きものとしている、代帝・安の後ろ盾を得ているからだ。その代帝・安の勅命すら利用して、皇子・戰は己の地盤をちゃくちゃくと固めている。
先の句国との戦のやり様を知った時、秀は、此度総大将となった皇子・戰とは、まことに祭国との戦を起こした同一人物であるかと訝ったものだ。それ程に、苛烈極まる作戦と容赦なく実行する豪胆さが、突出していると感じていた。もしかしたら、仕えている者がかわったかとも思ったが、彼の影のように寄り添うのは、例の目付となった青年である。
そして、此度の一報をうけ、秀が戦慄したのは言うまでもない。
戰の目論見を看破した秀の背筋に、文字通りに、ぞくぞくとした怖気が走る。
先の戦において、加虐性のある作戦を果断に実行し、句国に対して大勝利を得ているからこそ、契国への実質侵攻を行わずして、全面降伏を自ら申し出させている。
契国が恐れているのは、禍国ではない。
皇子・戰という人物である――と、声高に叫んでいる。
「おのれ、どんな笑面夜叉な輩なのだ」
秀は呻いた。
しかし、呻いてばかりもいられない。
禍国が契国を濡れ手で粟状態で得た以上、軍馬を調教し終えれば、其の儘真直ぐに南下をし、禍国兵部尚書・優と合流するだろう。戦端が開かれなかった以上、最短を見積もった7月初頭より更に早く、此方に来る。
――1ヶ月は早く、遅くとも6月半ばには、此方に来るか。
それでは、到底此方の軍備が真面に整わない。
どうする。
呻く秀は、知らず、分厚い花梨の文机に拳を突き立てていた。拳の皮が破れ、血が滲んでいても、痛みなど感じてはいなかった。
★★★
河国より早馬にての使者が、遼国王都の大道を駆け抜ける。
知らせを受け、遼国王・灼は丞相・燹を従え、王の間に姿を現す。跪きながらも河国よりの使者は、遼国王室に対して居丈高に同国の丞相・秀の往訪を告げた。直様の謁見を了承せよという。
「来おったかよ」
「そのようですな」
「真とやらは、まことに面白い奴よな。良くもまあ、此処まで予見できるものだ。何処に目玉を付けておるのやら」
玉座にて一報を受け取りつつ、餓鬼大将のように楽しそうに全身を揺らして、灼は笑う。
年若い王者の背後に控える丞相が、眉を顰めてみせた。




