12 征く河 その3-1
12 征く河 その3-1
春、3月始め。
禍国軍4万が契国を目指し、2月末吉日を選びて出立したとの報が、河国に齎された。
斥候からの報告を受け、河国の丞相・秀は、ぐう、と呻く。
「もう動いたというのか……? 思ったより時期が早い」
呻きつつも秀は、禍国軍の編成をより詳しく述べるように斥候に命じる。命じられるままに斥候は言葉を続けるが、軍の編成としては密集歩兵と戦車が中心であるという。首を捻るが、しかし見聞した禍国の内情を詳しく知るに及び、即ち兵部尚書・優が王都に居残ったという情報だけで、秀にとっては充分であった。
成る程、兵部尚書を残しおったか、矢張りそういう事か――皇子・戰め、若いがやりおる。
いや、兵部尚書の導きか?
どちらにしろ、我が国の窮状にはかわりないが……。
再び秀は、ぬうう、と呻く。
斥候を労わり、恩賞を与えて下がらせると、秀は腕組みをして暗い自室を、縄張内を見張る為にうろうろとする熊のように、歩き回った。考え込む時の、彼の癖である。
契国は昨年の戦の痛手から、まだ国力が回復しきっていない。
しかも、国王は未だ流行病に伏したままだ。恐らく、国王・邦が回復する事はないだろう。王太子・碩は経験の浅い代王ながらも、よくやってはいる。然し如何せん、国力を回復させる実のある手腕を発揮しているとは言い難い。
そんな契国を討たんと、禍国は兵を差し向けたという。
しかも総大将は、既に何度も大勝を得ている常勝の皇子・戰、その人だ。
此れまで皇子・戰は祭国郡王として、皇子・戰はこの契国王太子・碩と懇意にしてきた。剛国を盟主と仰ぐ契国を取り込む腹であったのかと思いきや、此度の遠征に向けての布石であったか。
歩兵と戦車部隊中心という事は、古い戦法であったとしても、今の契国を討つには充分と判断したからに過ぎない。
そして何れ遠からず、禍国本土においては、兵部尚書が軍を編成し始めるだろう。
動き出した遼国を討つ為に。
そして同時にこの河国を目指す為に。
――早い。
兼ねてより、禍国側には共に遼国を討たんと申し出ている。
無論の事、その先に戦に疲れた禍国をも討つ腹つもりであったのだが、此方の算段より数段早い動きと予想外の動きをされた。
いかにも此れは早すぎる。
何れ程早かろうと、民の疲弊を避ける為には、春の稲の種蒔きの後であるとふんでいたものを。
此れでは、此方の兵馬の準備が整わぬ。
「やりおる」
うろうろと、熊のように室内をまわりながら、秀は考え続ける。
今、出立したという事は、4月半ばには遅くとも契国に到達する。
兵部尚書・優はこの春の間をじっくりと使い、兵馬を鍛え上げるに違いない。皇子・戰は期待と実力通りに、早々、契国を討ち果たす事だろう。そして反転し、勢いのままに遼国を目指す。途中、兵部尚書・優が編成した軍と合流し、遼国と激突するのは7月の初頭であろうか。
此れ程素早き動きを見せるということは、此方の思惑を超えてみせようという事だ。つまりは、禍国側は皇子・戰を再び担ぎ出す事で、遼国を射った暁には河国を討つつもりであるのだぞという、意思表示を示してきたのだ。
秀としては、此度の遼国討伐には先の人頭狩りの指揮をとった皇子・乱が総大将としてたつものとばかり思っていた。共に遼国を討った後、慢心した禍国の皇子・乱であるならば、負ける気はしない。そのまま背後を突けば、一気に総崩れになると踏んでいた。
だが。
「話が違ってくる」
今、禍国内では、新たな皇帝の座を巡りて、皇子たちの間で峻烈極まる政争が巻き起こっているという。先の戦勝で、一歩も二歩も抜きん出た皇子・戰ばかりを引立てるとは、秀は思いもしていなかったのだ。皇太子・天にも、機会は与えているからこそ、大敗しているのだ。そこから、他の皇子にももう少し均等に機会を与えるもの、と秀は勝手に思い込んでいた。
しかし、兵部尚書・優を得ているという皇子・戰が、彼を残して契国討伐に向かったという。この事実から考えるに、皇子・乱が遼国討伐の総大将となる確率は、限りなく無きに等しい。
皇子・乱が居残っているのであれば、その可能性があるのでは? と、当然、指摘して来る者は必ずいるだろう。だが、自分には分かる。それは有り得ないと断言出来る。
兵部尚書・優という男と、丞相として、嘗て何度も禍国と部隊を激突させ、戦塵の中で剣戟を交わす間柄であった自分には、分かる。自分は、戦場における兵部尚書・優という男の気質を、誰よりも知っている。
禍国宰相にして、兵部尚書・優。
彼は、己が認めた者以外の命令は、決して聞かない。
優が兵部尚書にまで登り詰め、あの戦いの勝利により重ねて宰相の地位を得られたのは。
偏に優が、其れだけの働きを捧げるだけの人物であると、時の皇帝であった景を認めていたからだ。だからこそ、優はどのような戦であろうとも、勝利する奮戦し続けたのだ。優が負け知らずであったのは、皇帝・景に勝利を献上まで戦を続けた、その底知れぬ執念の賜物であるのだ。
そして皇帝・景が身罷って久しい今、その執念を捧げ得るに足る人物は、皇子・乱という鬱屈した陰に篭った男では有り得ない。
では、誰であろうというのか?
愚問だ。
今の禍国において、優が認める事が可能となる皇子など、独りきりではないか。
禍国帝室の末端の地位ながらも、祭国郡王にして皇子である戰、ただ一人しか思い浮かばない。
兵部尚書・優を得ているのは、皇子・戰だ。
その皇子・戰が、契国討伐のみで終える筈がない。
「皇子・戰と兵部尚書・優が来るか」
歩を止めずに、秀は考える。
句国を攻めた時の、皇子・戰が率いた疾風怒濤の騎馬隊の動きは、耳にしている。誇張はあるだろう。だが、誇張して伝えられるだけの、それだけの畏怖の念を抱かせるに充分な威勢を誇るからこそ、だ。
人は得てして、このような噂を嘲笑い、まともに捉えようとしない。事実、此処、河国の宮中においての皇子・戰の評価は驚く程に、低い。だが、火が灯っておらぬところに、煙はたたぬ。何も裏のなきところに、噂はたたぬ。皇子・戰という人物は煙を立たせるだけの存在であると、長年の経験より秀は感じ取っている。
だからこそ自分は、此処まで河国を守ってこられたのだ。
この上は、塵粒ほどの情報とて徒や疎かにしてはならぬ。
此度の戦、塵どころか此方を押しつぶさんと勢いを増しつつ転がり迫る、巨大な巌だ。そして河国を支える人物は、今、己をはじけば誰もいない。国を喰いものとする、莫連どもの巣窟だ。
「どうする」
皺が刻まれはじめている分厚い唇が、がさがさとした不安にかさついた声を漏らした。
★★★
秀が登城し、国王である創に謁見を申し込むと、謁見の間ではなく後宮へと通された。
顰め面をする。若い国王には、ままある事ではあったが、この緊迫した事態を何と心得ているのか。
果たして、河国王・創は、目を付けたばかりだという宮女の着物の襟を開けさせ、白くまろい乳房を顕にさせつつも、腕は袖から差し入れて弄っている、痴態の最中であった。
眸を眇めつつ、ずかすかと沓音も高く部屋に踏み入る丞相・秀に気が付いた宮女が、それまでの甘ったるい嬌声を羞恥の悲鳴に変えた。激しく身動ぎして逃れようとするも、創は許さない。逆に、秀こそが無作法であるとでも言いたげに、鼻で嘲笑う。
「陛下、かような事をしておられる場合では御座いませぬ」
「ふん、では、どの様な場合であると申すのか、相国よ」
創の掌が、宮女の臍のくぼみをなぞるように上下する。ふるり、と羞恥と快感に躰を震わせる宮女の反応を楽しみつつ、創は口元に舌の先を覗かせた。秀の太い眉が跳ね上がり、顳には太い血管が浮き上がった。
「此処に呼び出したは、吾だ。なれば、此処が王の間、謁見の間である。相国よ、発言を許す故、意見を申してみよ」
蛇のようにくねる宮女の首筋に、ちろちろと舌先を這わせ、掌は乳房をやわやわと捏ねまわしつつ、創は楽しげに命じてくる。
秀の顳の血管が、ひくひくと痙攣を起こし始めた。彼が怒りを抑えている時の癖である。
「禍国の皇子・戰が契国討伐に向け、出立致しました」
「ほう? まだ春も遠いというのに、気小忙しい奴だな」
「はい、ですがその皇子・戰ですが、討伐先は恐らく、契国のみではありませぬ」
「ほほう?」
「我が河国は、予て禍国と共に遼国を討たんと内密理に動いておりました。皇子・戰は禍国本国に、兵部尚書を残しております。そこから推察するに、禍国に残る軍こそが本隊であり、契国を討取ったその脚で本隊と合流を果たし、遼国を討つ腹つもりなのでありましょう」
「であるならば、我が国は好都合ではないか? 遼国なぞ、禍国の皇子とやらに伐たせてやればよかろう」
「陛下、事はそのように単純ではありませぬ。話をお聞き下さい。禍国側が、遼国を討つのみで満足するわけが御座いませぬ。奴らは必ず、我が国も併呑せんと目論見、騎馬の鼻面をむけて来る事でありましょう、故に陛下、我々も」
「我々、ではないぞ、相国よ」
「は?」
「我々、ではない。禍国の奴らと密談し盟約を交わしたのは、相国、貴様だ。なれば何事があろうとも、貴様の責任ではないか、そうであろう?」
「――は」
「約定を交わしたのは、貴様だ。貴様が此度の全責任を負え。これが吾の命令だ相国よ、畏まって受け取れ」
「……陛下の御言葉、畏まりて頂戴致します」
「では、良きに計らえ。此れ以上渺渺たる事柄にて、吾を煩わせるでない」
「……」
口ではそう言いつつも、河国王・創は口角を持ち上げ、にやりと笑う。同時に、衿を完全に開けさせた宮女の躰を引き寄せ、その豊かな乳房の間に顔を埋めた。
「どうした? 何をつったっておる。とっとと下がれ」
婀娜っぽい熱の篭った嬌声を満たし始めた部屋を、秀は無表情で退室した。
★★★
部屋を下がると、秀は身体ごと大きく上下させて嘆息する。
このところ、若い国王との謁見を終るや否や、嘆息せずにはいられぬ日々が続いている。契国の代王となっている王太子・碩は、確かにその政治手腕は未熟であるだろう。だが、まだしも、国政に真正面から向かい合っているだけ、ましと言える。
我が陛下のこの為体、一体、この栄えある河国歴代の国王陛下に、どの面下げて顔向けできると言うのか。
再び嘆息する為に肩を窄めると、背後から声をかけられた。
「相国や」
「此れは、伽耶妃殿下」
佇んでいたのは、この国の正妃である伽耶王妃その人であった。
まだ、うら若き乙女だ。国王である創の元に、那国より嫁いできたのが、11年前の戦の後の事である。
正妃・伽耶は、河国と那国の停戦後、両国間の和睦の証として嫁いできた。この時、創は12歳、伽耶は9歳であった。当時、まるで人形のように愛らしかった姫君は、この10年の間に麗しい大人の女性へと成長を遂げていた――見た目だけは。
秀が慌てて片膝をつき、正妃に対して礼を捧げんと跪こうとすると、ふい、と自ら軽く手を振って、伽耶はそれを止めた。
このような処に、正王妃様とあろう御方がおいでになられようとは。
冷や汗を脇下に粘っこく感じていると、王妃・伽耶は静かに歩み寄ってきた。冬の短いこの河国において、まるで自身が冬に成り代わろうかと目論んでいるのと思える程、王妃・伽耶は凍てついた無表情だ。秀の全身が、ますます冷や汗に浸る。
「相国や、面をあげなされ、そしてお答えなされ。妾の陛下は何処にあられるか、其方はご存知でありましょうか?」
「は、妃殿下、それは……」
王妃・伽耶は、声までもが感情の色というものが、ない。
と、其処に一際高い、女の涙に濡れた悲鳴が覆い被さる。深い悦によがっているのだ。己の顔色が、ざっと音をたてて悪くなっているのを見せぬ為に、秀は頭を下げたまま上げる事が出来ない。声を立てずに、互いに顔を見合わせつつ底意地の悪い含み笑いをする宮女や舎人たちの気配に、抜刀して躍りかかりたくなる処を必死で堪える。
暫くの間、流れる嬌声の歌に聞き入っていた王妃・伽耶は、突然、何も言わずに踵を返して去っていった。後に続く宮女や殿侍、舎人たちの沓音が一層白々しさを際立たせる。
この河国内において、王妃である伽耶は、全く顧みられていない。
河国は、那国を禍国如くに擦り寄る下品の国と見ており、伽耶の事は、たまたま戦にまぐれあたりで勝利を得たと、しゃあしゃあと王妃として乗り込んできた、小賢しい阿婆擦の小娘としか看做されていない。
しかし伽耶の方も、よくしたものであった。
此のような白目の針山とされたとて、怒るでも嘆くでも祖国に縋るでもない。ただ、ぼう・として日々を連ねて行くだけの、日陰状態を享受し続けている。
今日の様に、国王である創が見つけた一時の慰み者との遊戯のような閨の行いを見せつける為だけに、偽の呼び出しで出向かされる事など、とうに日常茶飯事だ。このような侮辱的な行為を受けても、狂乱するでもない。宮女たちを怒りのままに、罰する訳でもない。それがますます彼らを増長させているのであるが、伽耶は構う様子を見せない。
秀は姿勢を正すと嘆息した。
彼女を那国より、正妃として迎え入れるよう尽力したのは、自分だ。幼い姫君であれば、己の意を汲み取るに足る人物に育て上げるのは、易い。何れ共に、地盤の危うい幼年の王を支える国母と成る女性とすべし、と期待をかけて妃教育を施した。
だが、全くの外れ籤、期待外れと言いきってよいのは、先程の態度を見れば自明だ。些か、失望落胆を隠しきれない。故に、秀が彼女の背中を見送る時は、常に嘆息と共にとなる。
しかし、王妃の事を兎や角は言えまい。
己とても、この河国を思うがまま、実質的に支配し牛耳を執るは相国・秀であると揶揄されている。知りつつも何も手を打たず、言わせるままにしている。
苦々しく思いつつも、其の通りである、何が悪いかと開き直っている。
この国の為と云う輩が、何程の働きを成している。全体、この河国の何処に、己ほど憂い、魂の全てを擲つ覚悟で事に挑む輩が居ると云うのか。一々、私という人物が気に入らぬという浅ましい一念において、何事にも反駁する雀の群れに、何を構う必要がある。
私の身の振りようなぞ、瑣末な事だ、重大事は陛下の御身を御守りし申し上げる事ではないか。
恐れながら、創陛下は、22歳というお若さ。
今は、失策や失態が続いたとしても、何れ経験を積み重ねらご自覚が生じれば、先代より続く栄光あるこの河国の国王として立派に歩まれる筈。
其れまでは、身命を賭して天下国家に尽くすのみ。
何を悪名を恐れ、国の楔たるというか。
国を我が物とせし姦臣の汚名を着ることで国が窮状に陥る事なく生きながらえるのであれば、其れで良いではないか――違うか。
「良いのだ……そうだとも」
秀もまた、その場を後にする。
言い聞かせるように残した呟きは、誰に向けたものであったのか。




