12 征く河 その2―3
注意
今回、作中に差別用語、及びそれを表す身体的特徴表現があります
しかしこれは、あくまでも作品を描く上で必要なものと作者が判断した為のものであり、これにより差別を増長し促すものではありません
ご理解賜りますよう、お願い申し上げます
12 征く河 その2―3
夜陰に紛れて馬を駆り、一番近い邨に向かう。
既に煤黑油を生成する為の賦役は終焉を迎えている筈だか? と、碩は首を捻る。今年は幸いにも、流行病は兆しをみせなかったという報告を、宰相・嵒より受けている。
なのに、何故此のような場所に脚を?
訝しむ碩に、巨大な黒馬に跨った戰が振り返った。
「己の眼にて、確かめるがいい、碩殿」
「なに……?」
何を確かめよと? と続けかけた碩は、息を飲み込んだ。
先に見えた掘っ立て小屋に近い荒屋に、灯りが申し訳程度に点っている。
「……人が……いる、のか?」
「そうだ、碩殿。未だ故郷に帰ることも叶わず、邨に足止めを喰らったままの領民が、此処にいる」
「なに!?」
衝撃を受け呆然と立ち尽くす碩を尻目に、しかし、禍国の皇子もその目付である青年も、構わず一つの小屋に真っ直ぐに向かっていく。入口に掛けられた筵は、風に千切られてぼさぼさになっている。この数ヶ月、取り替えられる事がなかったのだろう。
筵を手の甲で払い、戰と真は平然と入って行く。
「……戰殿?」
訝しみながらも、碩は続いた。
そして、恐怖に足が止まる。
死を待つばかりの夥しい人、人、人。
いや、此れは最早、『人』の形をした、何か別種の生き物に違いない――
そうでも思わねば、余りの惨烈さにこの場にいられない。脚は、碩に、今直ぐにこの場より逃げ出せ、と命じてくるのだ。
折り重なるようにして、粗末な小屋の広さには不釣り合いの人数の人々が、押し込められている。人体が発する異様な臭気が、部屋全体を覆い尽くしていた。
最早自力で動く力もなく、ただ寝転がるだけの生活が長くなり、褥瘡ができそこから爛れた膿が流れて床一面を流れている。屎尿すら垂れ流しの者もいる。咳こみ、吐く血は既に桶から溢れかえり、濁った土塊色に変色して塊となっていた。虚ろな眸は落ち窪み、虚のようになり、其処彼処で起こる喘鳴が、地獄へと誘う地鳴りのように轟いている。
凄まじいばかりの酷い臭気に、碩は鼻を手で覆い隠した。此れが『人』として生きているというのであれば、正しく『生き屍人』であろう。
棒きれのように横たわる男たちの間を飛び回っていた男が、戰と真に気が付いた。慌てた様子で、駆け寄ってくる。
「どうですか、芙」
深く嘆息しながら、芙と呼ばれた男は力なく首を左右に振った。
そうですか、と真も落胆の色を隠さずにいる。どうやら、喘息様の喘鳴か、身体の痛みを止める為の薬湯か何かを、この場にいる者たちに試したのだろう。しかし、全てが徒労に終わったらしい。
「私が出来る事といえば、上体を起こして背をさすってやる位なものです」
那谷殿が羨ましい、と涙を滲ませる男の肩に戰が手をかけた。
「芙のせいではない。気に病むな」
「……はい」
言いつつ、戰も横たわり、激しく咳き込む男に近付いた。
「戰殿!」
ぎょっとしつつ、碩は制止の声を投げ掛ける。
今此処で、彼に病が伝染しでもして、倒れられでもしたら。
命を落とすような事が起これば。
この契国は終わりだ。
体内を巡る血液が、音をたてて一気に潮引くように落ちるのが解る。
肩越しにちらりと振り返った禍国の皇子は、穏やかに笑った。
「大丈夫だ、この病は身体に触れても同室に居たとしても伝染しないと公言しているのは、碩殿ではないか」
碩は再び、呆然と立ち竦む。
自分の見てきた聞いてきた国の姿と、余りにも掛け離れたものが、此処には存在していた。
軍馬と、煤黑油と石炭が生み出す利益により、富む姿しか知らぬ。
先の戦において苦杯を嘗めたが、やがてその傷も癒えるものと思っていたのだ。
その為に、官民一体となって、邁進しているものと思っていたのだ。
目に見えるのは、明日への希望と誇りだと思っていたのだ。
だが此処にあるものは、一体何だと云うのか。
自国の領民がこのような姿で病に伏し、命の灯火が消える日の恐怖に狂う寸前になりながら、ただ死を待つ生を生きている事など、知らぬ!
切り捨てられた民がいることなど。
知らぬ!
聞いていない!
がんがんと、鐘が鳴り響いているかのような衝撃が、碩の体内を駆け巡る。
「何をしておるか」
ふらつきかけた碩の身体を支える者が、苦く重い声で咎めてきた。
「叔父上」
碩を支えたのは、契国の宰相・嵒その人であった。その後ろで、宮女の照が小さくなっていた。
★★★
若い娘が居る為、夜道を避けようと、夜明けまでと今は管理する者が僅かに居るばかりの役人用の官舎に、一行は入った。
「照が私に使いを寄越さねば、どうなっていたと思われるか。軽挙妄動が過ぎますぞ、殿下」
重々しく叱り付ける嵒に、碩が唇を噛みつつ項垂れた。
契国宰相・嵒。
彼は、契国王・邦の異腹弟に当たる。母親の身分が低かったが為、幼年のうちに臣籍に下り、長く国に尽くしてきた。勲一等の功労者と言える。王女・瑛に仕えている宮女の照は、彼の娘だったのである。
「しかし叔父上、何故、あの窮状を救う手立てを講じることなく捨て置かれる」
「私の事は宰相と呼び捨てられよ、殿下」
「では、宰相よ。私の質問に答えて呉れ。何故、今年も感染者が出た事を知らせなかった。そして何故、あのような窮状を放っておくのか」
「其れは、国王陛下を見ておられれば、よくお分かりの筈」
「何……?」
「あの病は一度患ったが最後、死ぬまで回復をみせぬ。救えぬと解りきっておるものを案じるなど、意味の無き事。また今年の病は、例年に比べて蔓延の度合いが薄かった。であれば、いちいち報告を上げるまでもなき事」
「叔父上!」
「宰相と呼び捨てられよと申しておる」
憤怒に顔を赤らめている碩を余処に、嵒はどかりと腰を落ち着けて、揺ぎ無い。彼の背後で、照が顔ばせを青くして震えている。出過ぎたばかりに、この修羅場を導いてしまったのかと、恐怖に慄いているのだ。
「陛下、よもや我が国の秘法を明かすつもりではありますまいな? 其のような愚挙を起こされましては、ああして犠牲になりし者共が浮かばれませぬ。それは決して、なされてはならぬ事にござる」
「犠牲になった?」
嵒の言葉に、戰が目を眇めた。
「犠牲者を見捨てたの間違いでしょう」
真も戰と同じく目を細める。
ぐう、と言葉を失う碩を庇うかのように、ずい、と身を乗り出した嵒が息を巻いた。
「そうだ、その通りである。だが、それがどうした」
「宰相・嵒よ、では貴殿は、彼らを救う術を探らぬとこう申すのだな?」
「如何にも。よいか、間違われるな。此れは我が国の問題だ。貴殿ら禍国側には、何の責も無い。故に、嘴を挟む余地はない」
「おじうっ……いや、宰相!」
「そもそも、あのような下々の奴輩を救う為に、国を支える秘術を明かせるものか。民草が国の礎として身を挺し、喜んで犠牲になるなど、当然の事であろうが」
「叔父上!」
「宰相と呼び捨てられよと、何度言えば分かるのか。殿下、何れこの国の至尊の君となり民を統べる貴方が、かような瑣末な問題に首根を捕えられようとは。しっかとなされい」
黒目だけをぎょろりと動かし、嵒は碩を睨みるける。
うぐ、と碩は言葉を飲み込む。幼い頃より、父王の片腕として国家の重責を担ってきた人物の一睨みは、それだけで若者の肺腑を握り潰す迫力がある。
だが、怯まない者がいた。戰と真だ。
「宰相・嵒よ。では問おう」
無言で視線を、二人に向ける。
「如何されましたかな郡王陛下?」
「国の為に身を挺し犠牲となる事が当然というのであれば、国は彼らの為に何を成す事が当然と言うのか」
「何ですと?」
「国を支えるのは秘術ではありません。彼ら、そう領民です。彼らが皆、犠牲に消えた後、国はどうなるのです?」
愚かな、と嵒は鼻で嘲笑う。
「如何にもお若い。いや、理想にのみ先走っておられる、羨ましい限りだ」
「質問に、答えよ」
「宜しいか、郡王陛下。民というのは蟲、いや蟻と同じ。踏付けにされようが、放っておいても幾らでも湧くものです。蟲に心を寄せる阿呆が、全体、何処におると云うのですかな?」
「な……に?」
「最早此れ以上の議論などは不要。先程も申し上げたように、此れは我が国の問題。禍国は我が盟約の輩でもなければ、同盟の主でもない、控えられよ」
真が口を開きかけたその時、防人の兵が泡を喰った様子で駆け込んできた。
「も、申し上げます、い、一大事にてご、ご容赦を!」
「何事であるか、許す、申してみよ」
「む、邨に閉じ込めし奴らの内、動ける男たちが徒党を組み、此方に向かってきております!」
嚇怒による鬼面の形相で、嵒が椅子を蹴立てて立ち上がった。
倒けつ転びつしつつ部屋に飛び込んできた兵を跳ね飛ばし、文字通りに嵒は表に飛び出していく。此れまでの、まるで根の生えたが如きの落ち着きようからは想像も出来ぬ、猫のような俊敏さである。
「叔父上!」
叫びつつ、碩が後を追う。戰も続く。
「彼女を守るよう、よいですね」
跳ね飛ばされた兵士を助け起こしつつ、真はそう命じてから、戰を追った。
★★★
碩が表に出掛けると、嵒の叱責がとんだ。
「出てはならぬ! 御篭り下さり、御身を護られよ!」
見れば、大股に脚を広げて立つ嵒の前には、そくそくと音をたてて人が集結しつつあった。まるで蟹か蛙が、夜半過ぎ月明かりの下、集団で移動しているかのようだ。
しかし、蟹や蛙ではない証拠に、彼らは手に手に、武器となりそうな獲物を持っている。それも、粗末な杖を棍棒替わりにかざていたり、刃の欠けた石包丁を構えていたり、だ。多くは、痛みを堪え、身体を『く』の字に曲げている。戸板に横たわる仲間を乗せ、引き摺る者も多い。そういった者たちは、戸板に乗る男たちが小石を山と懐に抱えている。戸板の周囲を固める男たちは、地の滲んだ古い手拭を各々(おのおの)手にしている。礫投げをするつもりなのだ。
兎に角、官舎を押し囲むように、邨一個に留められていた男たちが、この官舎を目指しているのは間違いない。崩れた山肌から滑り落ちた土砂が集結するかのように、いつの間にか轟轟とした流れとなって押し寄せている。
「何という事か。よもや民如きが殿下に向け手を振り翳すとは。無礼にも程がある」
奥歯が砕けているのではないかと思われる程、ぎりぎりと音も高く嵒は歯軋りをしつつ、吐き捨てた。
「邨ごと払い捨て見せしめにしてやらねば。つけ上がりおって!」
黒山となった人集の中央に与する位置する男たちが数人、束となって一歩進み出た。どうやら、彼らがこの騒動を牽引する中心となっているらしい。
「下がれ! この慮外者共が!」
駆けつけた兵士たちも及び腰となるほどの圧倒的な数の圧力を前にしても、屈することなく、嵒は腰に帯びた剣を抜き放つ。明けの明星さながらの輝きを、剣はその切先に集めた。進み出た男たちの背後で、人波が響めきを起こす。
しかし、男たちの中心に立つ者は怯む様子をみせない。逆に、ずい、と更に一歩進み出る者があった。長い棒を武器として手にしているが、実は杖がわりなのだろう。摺り足状に脚を引き摺っている。
「俺たちが用があるのは、あんたらじゃあねぇ。そっちにいなさる、禍国の皇子様方だ」
「何だと?」
目を眇めつつ、嵒は背後を振り返る。
既に追いついて来ている戰と真に、ぎろぎろとした血走った眸を向けたなから、男は強く頷いた。
「そうだ」
「お前らのような雑徭の為に寄り集まった木端共が、他国の皇子に何用と言うのか」
「あんたに用はねぇって、言ってるだろうが。俺たちが話してぇのは、そっちにいなさる禍国の皇子様だ」
血走った眸の男が、語気を強める。嵒と男は、互いに一歩も引かない。
「私が禍国の皇子と知った上で、何用というのか」
戰が進み出ると、嵒が明白な敵意を剥き出しにして睨みつけてきた。しかし男の方は、ほっと安堵の息をつき、ありがてぇありがてぇと呟いた。男の呟きに呼応するかのように、頷いり肩を寄せ合ったり、涙を流しつつ手を合わせる者も出た。
「実は、貴方様が隣の国を攻めた皇子様だって知ったもんで、聞いて貰いてぇ事が、いや、どうしても頼みてぇ事があって、こうして皆でやってきたんでさぁ」
「何だろう、私に出来る事だろうか」
「皇子様にしか、出来ねぇ」
更に戰が男に近付く、男は手にした棒きれを横に投げ捨てた。そしてそのまま、倒れ込むようにして、地に這い蹲る。男に倣い、背後に集っている黒山も一斉にその背を縮めた。
「お願いだ皇子様! どうかこの国を滅ぼしてくれ!」
額を地面に擦り付けながら、男が叫ぶ。
背後では男たちが、滅ぼしてくれ、どうか俺たちの為に滅ぼしてくれ、と何かの咒いのように唱和し、どろどろと地面が闇夜が反響した。
★★★
怒りに目の前が血塗されたように、嵒には思われた。
その勢いのまま、平伏叩頭の姿勢をとる男に剣を振り落とそうとした時、背後から腕を捕まれ、はっ、となる。嵒を止めたのは、王太子である碩だった。
静かに首を左右に振る碩の前で、男に寄った戰が片膝をついた。そのまま、肩に手をかけて上体を起こさせる。
「自らの国を滅ぼせとは、どの様な決意の元に、其のような凶事を口にするのか」
「こ、この国のお偉い方々にとっちゃ凶事でも、俺たちにとっちゃ好事だ。だ、だいたい狡いだ。何で隣の句国の王様はやっつけて、こっちの王様は助けたりしたんだ」
「……どういう事だ?」
「お、俺たち知ってるんだ。皇子様たちが、戦になった句国の王様を討取った後、あの国をどうしたか」
背後に寄った真と、戰は顔を見合わせた。
正確には戦が終わる前からであるが、句国領内において水力の踏臼を設置したり、またこの地ではまだ馴染みの薄い蕪の種を置いてきた。蕪は場所と時期を選ばずよく育つ蔬菜だ。戦が長引いた時の用心の為に、真は時に命じて、蕪の菜種を大量に常備していた。蕪は、種を蒔いて直ぐ芽を出し、すぐり菜から食す事が出来た。3ヶ月もあれば結実し青菜も食べられ、四季を通じて収穫出来る。こんなに戦場の食料向きな蔬菜はない。
男手を失くした家が多い句国では、田仕事に全ての労力を奪われている上に、食糧難を如何に乗り越えるかが、急務の策と言えた。しかし、真が残してきた蕪の種のお陰で、飢えと戦いつつも何とか乗り切る事が出来た事を、既に風聞として彼らは知っていたのだ。
契国内を荒らした、句国王・番が憎い。
だから、同じく国領を荒らされ、彼の王を討取った禍国の皇子・戰は、句国を許さず完全に滅ぼし尽くすものとして、期待していた。そうすれば、溜飲を下げられる。
しかし禍国の皇子・戰は、句国を許し、剰え新たな王の誕生が為に奔走し、今は輩として共に歩む間柄となっていた。
句国は今、明日を信じて官民一体となり邁進している。そう、生きる為の希望と活気に満ちている。
だが、禍国に助けられ勝利を得た筈の、この契国はどうであろうか?
剛国が睨みを効かせてくる以上、禍国の救いを求める事は最早、望めない。
それなのに、剛国はこの窮状を傍観するばかりだ。
その上で、国を統べる死に損ないの国王は、国を立て直す為と称して、次々と新たな賦役を課してくる。
この違いは一体何だ。
負けた句国のばかりが良い目をみて、自分たちはどん底で地べたを這い蹲る日々なのか。
それならばいっその事、禍国に攻め入られた方が、負けた方が良かった。
此度、再び禍国が軍を率いてこの国にやってきたと聞き、希望を抱いた。
しかし、何も起こらない。
攻めて来たのではないのか、討ちに来たのではないのか。
何かの作戦なのか? だが、もう待てはしない。
待つ事はそのまま、死地への旅程が縮まるという事だ。
こうして彼らは決断したのだ。
自国を滅ぼしてくれるよう、禍国の皇子に直談判を試みよう――と。
「俺たちは雑徭として3ヶ月近く、煤黑油を作る為に駆り出される。それだけじゃねえ、労役もありゃ、庸もある。それが全部いっぺんに課せられた家はもう、首括るか、殺されるの覚悟で国抜けするしかねえ」
「何?」
「皇子様は知らねぇよな。この国じゃあよ、馬を飼育する為に庸として春先に1ヶ月、使役されるんだ。その後、労役として兵にとられる、また庸に取られて今度は石炭掘り、それを免れても稲刈りの後になりゃ、こうして雑徭が待ってるんだ」
過酷すぎる事実に、碩が青ざめる。
「馬は『お馬様』って呼ばれてよ、俺たちなんざより大切に扱われる。下手すら、尿ぶっかけられながら蹴られて脳天割られても、文句も言えねぇ。石炭掘りゃ、岩が崩れて伸されてかたわになりゃしねえかと、へっぴり腰よ。煤黑油を作んのは、見ての通り、病気で倒れっか、おっ死ぬかの隣り合わせだ」
「それがどうした! 国の為だ! 全てはこの契国を強国にする為だ!」
「それで俺たちがどうなっても構わねぇっていうのかよ!」
「ああそうだ! 国を守る為だ!」
「全員おっ死んじまったら、国を守るもへったくれもねえだろうがぁ、この糞野郎!」
「貴様らの代わりなぞ、幾らでもおる! だが、国の代わりはない!」
「何だとぉ!!」
叫ぶ嵒に、男が叫び返す。
互いに一歩も引かない。
譲らない。
いや譲れない。
「黙れ! 蟻以下の存在がほざくな!」
「俺たちは虫螻じゃあねぇ!」
彼らも生きるか死ぬかの瀬戸際ぎりぎりに立たされ、唯一の光明として戰を縋ってきたのだ。
此処で引き下がれば、病で死ぬか。
罪を問われて矢張り死を迫られるかだ。
だとしたら、最後の最後まで、一縷の望みに賭けるのだという、命懸けの必死が其処にある。
「えぇい! 何をしておるか! ぼさっとつったっておらぬと、斬れ! 斬り掛らんか!」
集まりだした兵たちに、嵒が叫ぶように命じる。
だが、誰ひとりとして動こうとしない。寧ろ、顔を見合わせ、ごそごそと呟きあっている。
「何をしておる! 早く斬れ! えぇい、斬れと云うておろうが!」
「出来るわけがない、彼らもまた、同じ気持ちなのだ」
「郡王陛下、此れは我が国の問題だ。たとえ陛下が我が国の恩人であろうとも、専横は許されぬ」
「彼らは私を頼って呉れた。私にはその資格がある」
碩を振り切り剣を構える嵒に、戰が立ち上り、真が静かに答える。
「兵たちもまた、労役にて兵に取られた方々です。つまりは、彼らと同じなのです。契国宰相・嵒殿、何故こんな簡単な事が分からないのですか」
「黙れ! 青二才が他国に首を突っ込むな!」
「嵒殿、何故分かろうとしない。彼らの、生きたいという、哀しみと苦しみが滲んだ魂の叫びに、何故を耳を傾けようとしない」
戰の言葉に覆い被さるように、其処畏で、そうだ! と声が上がる。
「俺たちは生きてぇんだ! 生きて故郷に、家族の所に帰りてぇ! その為にゃあもう、この国をぶっ潰すしか道は残されてねぇ! だからやる! それの何処が悪い!」
「喧しい!」
己ただ独りとなろうとも眼前の男たちと戦い抜こうというのか、嵒が剣の切先を躍らせた。悲鳴があがる。男たちの山が崩れた。其処に飛び込みかける嵒の前に立ちはだかった戰が、腰に帯びた剣の柄に手をかけ、一気に刃を閃かせる。
その輝きを、何故かゆっくりとした動きとして眸で捉え、追いかけながら、真は何時だったか、珊と交わした言葉を思い出していた。
――死に物狂いで苦労してるのは、民の方だよ、それなのに、お偉い人たちは何かって言うと『民の為』 本当に?
――本当に民の事を真面目に考えていてくれるんなら、ボロボロになるまで租税を搾り取ったり、何でできるの?
――苦しがってるの、知ってる癖に平気で出来るなんて。
珊が口にした国とは、この契国の事だったのだろうか?
可能性がない訳ではない。寧ろ大いにあり得る。
一触即発の、ぎりぎりとしつつも互いに身動き叶わぬ空気を、裂く動きがでた。漸く集結した舎人と殿侍が、剣や槍、戈を手にして官舎から飛び出してきたのだ。彼らは労役で駆り出された兵ではない。国に仕える歴とした武人だ。
恐怖の響めきが、重い空気をぐらぐらと蠢かせて、周囲に響き渡る。
そしてそれ以上の、瞋恚が恐怖を内側から破り、噴出する。
労役により兵となった男たちが、徐々にではあるが人集の方に、ひとり、またひとりと寄りはじめた。それに力を得たのか、黒い山が一気に、どう! と、もんどり打つように動いた。
歯噛みする真の前で、人山がうねる。
もう衝突は止められない。
幾ら鉄の剣を手にしていた処で、自分の技で太刀打出来ようはずがない。分かっている。自分は戦いに全く不向きな人間で、足手纏いですらある。
それでも。
傍観縮手などしていられるものか!
真の脳裏に、薔姫の笑顔が浮かぶ。
最近の手紙の結びに薔姫は、必ずいつも、この言葉を添えてくる。
ねえ、我が君。
我が君は、今、何をしていらっしゃるの?
ちゃんと教えてね。
嘘ついても、駄目よ。
私はちゃんと、分かっているんだから。
――すみませんね、姫、今回だけは嘘つきにならないと、いけないようです。
鞘から剣を抜き身とした真が構えを整えるより先に、嵒がその爪先を戰から真へと変えてきた。
「此れが政治だとか、私は言いたくありません!」
「黙れ! 股に毛も生え揃っておらぬ尻の青い小僧が、首を突っ込むなと言っておろうが!」
一太刀目を、何とか受け止める。昨年、句国の万騎将軍である姜の、重い太刀を受け止められた、その自信が効いている。
だが問題は、この先だ。
嵒が背後の殿侍より剣を新たに受け取り、討ちかかってきたら。
その時、自分は耐え切れるのか!?
だが、嵒は真の腹に蹴りを一発入れて、事も無げに吹き飛ばした。
「うわっ!?」
叫びつつ転がる真の手から剣が離れると、狙い済ましたかのように嵒は柄を蹴って剣を払った。
そのまま、振り翳す剣の定める先を、男たちへと変える。
当然だ。
下手に此処で真を討っては、禍国からどの様な謗りを受け、更に過酷な命を課せられるやもしれないのだ。相手などしていられまい。嵒にとっての怒りは、真直ぐにこの狂瀾怒濤を巻き起こした男たちに向いていた。
間の悪い事に、嵒が蹴り飛ばした真の剣を、例の首謀者たちの中でも一等腸を煮えくり返えらせて怒鳴り散らしていた男が、手に取ってしまった。
しまった、止めねば。
しかし、どうやって?
自分の剣技で、どうにかなるものではない、それは自分が一番良く解っている。
思いつつも、知らぬ間に真は剣の代わりに鞘を振りかぶるようにして嵒に向け、そして彼の背を目掛けていた。気配に気付いた嵒が、殺気立った血走った眼でぎろりと睨みを効かせてくる。
嵒の腕が、舞うように剣を煌めかせた。突進してきた嵒が目指すのは、しかし真ではなく、剣を手にした男の方だった。嵒を目掛けて、男も雄叫びを上げながら猪突猛進してくる。剣技もくそもへったくれもなく、ただ魂の怒りをぶつける為に。
「この虫螻が!」
「喧しい! 俺らが虫螻なら、てめえはなんだ! この糞蟲野郎!」
冷や汗と共に覚悟を決めた真の目前に、人の背中が割り込んできた。
大きい。
が、戰のものではない。
剣と剣がぶつかり合い、金属音が闇を裂く。
「殿下!」
「控えよ、宰相! この国の民草、この国を憂いてくれる者を傷付ける事、何人であろうとも、この私が許さぬ!」
嵒の剣を受け止めたのは、この国の王太子である碩、その人だった。




