12 征く河 その2-1
12 征く河 その2-1
屋外では、寒風が轟々と容赦なく吹き荒び、湿って凍てた雨がその風にぼさぼさと千切られるようにして横殴りに鳴り響いている。もう直ぐ春だと言うのに、まるで大寒の最中に戻ったかのような、身を切る凍てつきようだ。
しかし此処禍国では、喩え真冬でも日中に雪となることは、希だ。
時には、夜の帳が落ちて冷えが濃くなる頃合を見計らうかのように、牡丹の花弁のような重い雪が降る事もあるが、積もる事は数年に一度あるかどうかだ。そして水分の多い雪の宿命として、地面をぼとぼとと湿らせ、道を悪くするばかりであり、禍国において雪とはさほど美しいとは見られぬ代物である。最も、王侯将相の間では、冬にも萌えて花咲く椿や梅や山茶花や長春花などの常磐の緑色に積もる薄白い雪を愛でたりもする。
「けれど此度の雨は、夜中前には雪になりそうだね」
冷え冷えと伝い落ちる雨を格子戸越しに眺めながら、戰が呟く。
木簡に視線を落としていた真と、熱い湯を湧かした薬缶を手にする蔦と、温めた茶器に柚子の薄皮と蜂蜜を落としている芙が、その声に視線を上げた。
「よくお分かりになられますね?」
「祭国に居たら、鍛えられるよ」
実際には、祭国で冬場にまともに過ごした期間は、戰にも真にもない。
それでも、其のような言葉が自然と口をついて出てくるのは、戰の妃となった少女の存在故だろう。
戰の答えに、蔦が目を細めつつ、止めていた動きを再開させた。芙が落としていった柚子皮に熱い湯が当たると、甘酸っぱい香りが立ちのぼる。どうぞ、と蔦に勧められた戰が、格子戸から離れて机に寄ってきた。椅子に座る前に茶器に手を伸ばして取り、そのまま口元に運んでふう、と湯気を払う。湯気がゆらゆらと揺らめいた。
「真、その木簡は、薔からかい?」
「はい、と言いたいところですが、違います」
「うん? では、誰から?」
「母上からです。父から、読め・と自慢げに押し付けられてまいりました」
唇を尖らせて、明白にああもう面倒くさい、と言いたげな真に、蔦が、くくく、と肩を震わせつつ笑った。芙も、笑いを必死に堪えての果てなのか、頬が膨らんでブルブルと震えている。
椿姫と薔姫が無事祭国に到着したと知らせを受けてより、既に2ヶ月以上たつ。その間、薔姫は何かにつけて真に手紙を寄越してくれる。
稲の脱穀には、初めて脱穀用櫛を使用した。効果を心配していたのであるが、此れが成功を収めてくれた。おかげで、懸案にしていた絹織物の機の手を止める事なく続ける事が出来たという。
また、那谷と虚海の音頭により、施薬院が主体となって冬の流感対策を初めた事。
今年は娃が産まれたので正月をきちんと祝える為、用意に奔走した事など。
兎も角、事細かに細微に至るまで記されている。その時々の興奮をそのまま素直に、心を込めて記されている手紙は、あたかも自分もその場所にいるかのような暖かい気持ちにさせてくれる。
そして手紙には同時に必ず、妹の娃の成長様子が様々と記されていた。
帰国したら早々と歯が生えかけ初めて慌てて歯固めの祝いをしたとか。
寝返りを初めて何処にでも転がって行くので気が抜けないとか。
気がついたら支えなしで一人で座れるようになったとか。
そしたら続いてはいはいを覚えはしたが、前に進まずに後ろに下がっていってしまい、皆の笑いを誘っているのだとか。
やっと乳離れを初めたが慣らし粥を、何でも美味しそうによく食べる食いしん坊ぶりは兄である真そっくりだとか。
書簡に踊る文字は、楽しげな空気まで書き込んでくれている。
周囲の愛情を受けて健やかに成長している妹の様子が、目の前で見ているかのように伝えてくれるのは、薔姫自身が、娃への愛情を深くしている証拠であり、嬉しそうに年下の小姑の世話に奔走する幼い妻の微笑ましい姿を想像させて、真の口元を和ませてもくれる。
そういった娃の成長ぶりを、父親である優と話していたのだが、この間、優に突然、爆発された。いきなり、肩をぶるぶると怒らせてきたかと思えば、ばん! と力任せに机をぶっ叩いて喚きだしたのである。ぎょっ!? となりつつ危険察知能力の命じるまま、慌てて椅子から離れようとするも時は既に遅く、真は父・優に締め上げられていた。
「ええい、五月蝿いわ! 何時も何時も娃の事を自慢げに話しおって!」
「は? いえ、自慢もなにも……」
やかましいわ! と理不尽過ぎる優の怒りの鉄拳が、久々に真の頭に飛んだ。すっ飛ばされながら、この時、真は初めて知ったのだ。
母親である好は、薔姫に遠慮して父・優に手紙を出していなかったのだ。真の話にのっていたのは、ぶっちゃけて言ってしまえば、娃の成長を知らずにいるという屈辱を知られたくない為、知ったかぶりをしていただけだったのである。慌てて真は薔姫に手紙を送り、何とか母を説得して父・優に手紙を書き送らせてくれ、でないと帰国する頃には自分の頭の形が変形している、と頼み込んだである。
その、懸案の手紙が届いた。
「何が書いてあるんだい、聞いてもいいかな、真?」
「娃が、初めてつかまり立ちしたと」
「へえ、それは良かった、兵部尚書も喜ばしい事だろうね」
「ほんに、お目出度い事に御座いまする、宜しゅう御座いました」
「つかまり立ちの際に支え手にしたのが、父が送った文箪笥であったと」
「ほう、それはそれは、益々もって嬉しい事だね」
「兵部尚書様には、ほんに父親冥利に尽きまするな」
「ですね」
ぼりぼりと頭を掻きつつ、真は適当過ぎるほど適当に答える。
戰と蔦が、必死で吹き出しそうになるのを堪えて、震えている。実は、二人共既に優にとっつかまって、散々自慢話として聞かされていた。いや、戰と蔦だけではない。時も芙も、また戰の宮で働く端の女童までとっ捕まえて、ひたすら喋りまくっている。仕事にならぬと文句も言えず、涙目になっている女童の様子に、ともに喜んでおるか可愛い童だと褒美を押し付け、新たな犠牲者を物色するのである。いい年をしておきながら、とんだ人型災厄となったものだ。
哀れなのは杢だ。
日がな一日、その話を延々と聞かされ続けている。しかし、嫌な顔一つせず全てに聞き入り、逆ににこやかに相槌をうつ杢に、周囲の者はどんな清廉恪勤で悟りの境地に至った修行僧も、彼には敵うまい、と肩を竦めていた。
それにしても、1年前の戦とはまるで様相が違う。
あの時は切羽詰まって鬼気迫るものがあるというか、異様な雰囲気の中で全てが進んでいた。祭国の様子に気持ちを寄せる、余裕やゆとりなどまるでなかった。
此れがなれというものならば、慣れたくなどは、ない。が、今や、自分たちの故郷というべきは祭国であり、その祭国で暮らす家族が息災無事でいるのだと知る事が出来るのは、純粋に嬉しい。
戰の元には、新妻である椿姫から美しい手で記された書簡が届けられている。
それによれば、椿姫と薔姫の一行であるが、句国王・玖の率いる軍に守られて祭国に帰国を果たす事が出来た。虚海の要請により、玖には暫くの間、祭国で滞在をして貰ったという。左僕射・兆がどう出るかわからなかったし、露国王・静の動向も気がかりであったからだ。
その、露国王・静である。
蒙国皇帝・雷の元に帰ったという、祭国後主である順の同腹弟であった便の后の娘である梔姫を此度、正式に王妃にすえるとの報が今、禍国の王宮を駆け巡り、揺るがせている。
そう。
一見、遂に露国は動き、蒙国と手を結ぶと決断したのだとも見える。
が、その相手は、祭国の現女王である椿姫の従姉妹姫であり、且つ、自身の姻戚関係にも名を連ねる姫君だ。しかも蒙国皇帝の世話であるが、正式な帝室の一員としてではなく、あくまでも祭国から里帰りした便の后の娘姫という立場でもって、梔姫は嫁いでくる。
蒙国にも、そして祭国を通して禍国にも申し開きがたつ。
王妃として、此れ以上の立場の姫君は望めまい。露国王・静は、此処でも非凡なる政治手腕を発揮したと言える。
だからこそ――激震と言ってよいだろう。
この先、露国は何方に舵をきるものであるのか、常に戦戦恐恐としておらねばならない。そして、この露国との繋がりを求め続けるには、祭国を疎かにできぬのだ。
いい面の皮であるのが、代帝・安の腹出の皇女・染である。
誰の元に嫁すとは伝えられぬままであろうとも、漸く得られた婚姻話であるというのに、このまま、文字通りに嫁しずきせずしての後家となるのかと、一部事情を知る者の間では、緊迫感をもって危ぶまれていた。このたった一人の娘である皇女・染の身の振り様には、代帝・安は身を揉むようにして案じている。
ところが、巨大な難問として宙に浮いた形の皇女・染の婚儀の話は、大使徒・充の息子である皇太子・天の大保として仕えている受が元に嫁下すると内定した事で、一気に収束を得た。
「どう思う、真?」
「そうですね……一見した処、大使徒様が左僕射殿に、鞍替えなされたかのように、見受けられますが……」
大保である受は、此れまで一切、自ら率先して動こうとはしなかった。
無能では決してないが、父親である大使徒の影から踏み出る事はしない。まさに理想の傀儡の息子と言えるその受に、皇女・染を嫁がせる。一見、政治的に基盤が固められたかのようにも見えるが、而して此処禍国においては少々実情が込み入ってくる。
皇室の姫の中でも皇女が嫁下した場合だが、血族内において既に娘が皇室に入宮している場合に限り、娶った本人は政治的な発言力を失うのである。
役職を失う事はない。
然し、国の行く末を決定付ける会議においては、発言権を失う。
此れは、初代の皇帝の時代より暗黙の了解として、國法に近い形で成立している。権力が皇帝にではなく、臣下に集約される事を恐れた故である。既に殆どの高位高品の臣下たちは、娘や姉妹を妃として入宮させ、外戚として権力を振るうに至っている。更に権勢を持たせる必要はないという初代皇帝の思惑から生じたものだ。どの様な女の腹から産まれたとしても、皇帝の血をひく限りは尊い存在であるはあるが、幾ら皇帝の血を引いていても、婚姻により臣下の元に嫁ぎ籍を抜けた以上は、皇族としてはみなされないものとなるのは当然、という訳だ。
今現在、真は薔姫を妻に迎えてはいるが、薔姫は王女であるし、真も正確には殿上人の資格を持たない。父である兵部尚書・優の血族内に、皇室に入宮しているような娘もいない。何よりも真が仕えているのは帝室ではなく、祭国の郡王である戰であるし、この國法には接触してこない。まあ、誰も無位無冠の真に目くじらを立てる者はいないというか、見向きもされていないという方が正しいが。
ともあれ、逆に帝室との繋がりを求めて、品位の低い皇女あたりを、三男や四男あたりの嫁に・と望む者は少なくないが、それは入宮させる適齢期の娘がいない場合の、最終手段と言えた。
だが、この因習を最も深く熟知している充が、長兄である受に皇女・染を娶らせるのだという。
帝室との繋がりは、此れで最も強くなる。
しかし、跡取りである長子・受は発言権を失う。
それは即ち、政治力を失うと事であり、後継者としてはありえない。
では、大使徒の家門の後継者問題はどうなるというのか?
……それはつまり、受の他に殿上人となりし者が、その場を受け継ぐと容易に想像がつく。
では、その者とは?
と問われれば、大令・中の養子となった左僕射・兆以上の者はいない。
大使徒の二男の役職は、殿中省の監であり、三男である左僕射・兆よりも位が低い。大使徒が擦り寄るとなれば、弟である大令の権力をも奪うという意味あいからも、左僕射である兆以外に考えられない。
それはとどのつまり、皇太子・天を見限ったという事であり、長兄であり大保である受も、捨てられたという事になる。
★★★
「単純に、そう見立てて良いものなのでしょうか?」
顎に軽く握った拳を当てながら、真は考えに沈む。
大使徒・充が、皇太子・天を見限り、皇子・乱と左僕射・兆を選んだと見るのは、恐らく正しいだろう。
しかし、大保・受の考えが読めない。
本当に、素直に己の境遇を受け入れたというのであろうか?
父・優に聞いた処では、如何なる時も貝のように頑なに口を開かず黙りこくり、意見を述べた事ないのだそうだ。たまに一言、二言、口にする事はある。しかし、その言葉とは「御随にどうぞ」か、もしくは「御意のままに」としか、口にしない。
仕事ぶりは無能という訳ではないのに、決して己の意見を表にした事が無い為、何を考えているのか、言葉通りにわからない人物なのである。王城に潜伏した蔦とその仲間が暗躍してはみたが、今回ばかりは流石の彼も両手を上げた。動かな過ぎる為、此方も何も見ること叶わず飛ぶことも出来ない。
また、待つしか出来ないのか。
歯噛みしそうになる真の肩を、ぽん、と戰が軽く叩いてきた。
「私の方に届いている椿からの手紙からすると、馬の生育状況は順調なようだ」
「そうですか、それは喜ばしい事です」
句国王・玖を護衛として帰国した椿姫であるが、軍馬を産する国柄である句国を引き連れて、そのままでいられる訳がなかった。虚海などは両手を打って喜び、早速、彼らに相談して軍馬の飼育方法の教えを乞うたのである。
先の戦の折に、珊と琢が帰国した時、飼育場となっている平原に生えていた草を根ごと採取して甕に収め、種も採って送り返していた。帰り道、転がり落ちてきた甕を、琢が避けた様に珊には見えたが、実は琢は足を差し入れる事で地面への激突を防いでいたのである。それで怪我をしたのであるから、まあ名誉の負傷といえば言えなくもないのだが、如何せん後がわるった。
兎も角、錬方法が特に優れている訳でも、馬の品種の違いからくるものでもないのであれば、餌に何か秘密があるのに違いないと、真は踏んだ。
果たして、その読みは正しかった。
真が採取したのは、小さな濃い紫色の花を固めて咲かせる草だったのだが、この草を食べた馬の生育が段違いに良い。
紫馬肥草という正に読んで字の如くの草であったのだが、一つ、問題があった。馬の育成は良いのであるが、こればかりを好んで食べた馬に病気が出たり、太り過ぎの気配が強く出はじめているのだ。特に自分が禍国に下がってから、顕著になりだしていると、克から焦りと戸惑いを含んだ手紙が届いていた。
自分で見て確かめる事が出来れば良いのだが、それが叶わぬ以上、代わる人材として禍国王ほどの人物は望めまい。椿姫と虚海の依頼を、玖は快く引き受けてくれた。短い滞在期間中に、克に馬の飼育について指導を細かく付けてくれ、母国に帰っていった。己の国の第一級の機密であろうに、気持ちよくそれを披露して、恩着せがましい言葉の一つも零さずに去っていった句国王に、祭国あげて感謝しきりであるのは言うまでもない。
「おかげで、馬の生育が上手くまわりだしたそうだよ」
「助かります」
祭国での事例を元に、禍国の軍馬育成も続けて行えば、騎馬隊のはより堅牢なものとなる。
無論、仔馬が一人前になるまでに3~4年を有する訳であるから、此度の戦に間に合うわけではない。
しかし、戦は此度だけで終わるわけでもない。
寧ろ逆だ。
この先、次々と戦が起こる事だろう。
なれば、軍馬の優秀さが勝敗を選り分ける事例は、必ず起こる。その時に、勝者の側に立つ為にも、怠るわけにはいかない。何よりもこの草、成長した馬の飼葉にも有効であると実証済みである上に、雑草と見紛うばかりの育成の簡単さが良い。長丁場の戦になれば、最も困るのは実は人間ではなく、軍馬の餌と水の確保だ。育成の早いこの飼葉のあてを得られた事は、実に大きな意義をもつ。
この紫馬肥草は、優に頼んで禍国でも正式に採用してもらう事にしている。優の命令の元に広められつつある育成方法で、さて、どこまで馬が頑強に鍛え上げられるものなのか。
三人の言葉が、ふ……と、同時に途切れた。
途端に間を取り持つかのように、閉められた雨戸が風に叩かれてガタガタと激しく身を震わせて怒り声を上げた。雨から雪と変幻した証だ。
「明日の御出立は、雪混じりになりそうに御座いまするな」
蔦の言葉に、戰と真は頷いて答える。
手にした茶器から立つ湯気は、か細いものになっていた。
翌日。
蔦の予言通りに、牡丹雪が舞う。
まるで天宙の神々が、戰をより輝かせんとしているかのようでもあり、宝玉と銀糸の刺繍を施した外套を纏っているかのようだ。
まるで戦勝の祝賀を既に浴びているかのような、雪の中。
禍国皇子として再び総大将を名乗り、戰は王都を出立した。
「出陣!」
戰の号令に、一人一人が怒号のような歓声で答える。
腕を突き上げ、矛を振り回す者。
騎馬を嘶かせつつ、剣を閃かせるもの者。
ただひたすらに、興奮のままに、声を上げ続ける。
禍国総軍、4万。
目指すは、契国。




