12 征く河 その1-2
注意
今回、作中に差別用語、及びそれを表す身体的特徴表現があります
しかしこれは、あくまでも作品を描く上で必要なものと作者が判断した為のものであり、これにより差別を増長し促すものではありません
ご理解賜りますよう、お願い申し上げます
12 征く河 その1-2
此れより先の人生は、夫である戰と共に歩むものである。
決意を表す為来り通り、彼に手を取られている現れた椿姫に、出立を見送る為に集まった者は、先ずは息を飲み、次いで、ほう……と溜め息をつかずにはいられなかった。
伏せ目がちにしている眸には、長い睫毛の淡い影が落ちてなお、黒目が濡れて光る。
頬には紅をささずとも、薄桃色に火照り、白い肌はしっとりと艶やかでなだらかで、黒い髪はいよいよ碧に萌えるように輝いている。
夫婦の誓の元に契りを交わし、情愛を確かめ合った悦びから沸き起こる自然な美しさは、見ている者に感激と感銘を与えるものだ。
既に、仲人として薔姫は馬車に乗り込んでいる為、後は椿姫が馬車に向かうばかりになっている。
戰に背を押されるように促された椿姫が、皆に挨拶をと口を開きかけた。が、そのまま噤んでしまう。言葉を失くしたまま俯く椿姫をらしからぬと訝しみ、戰が顔を覗きこんできた。
「椿?」
妻となった女にかけた声はしかし、その人本人の唇に遮れ、吸い取られた。振り返りざまに背伸びをして抱きついた椿姫が、戰の首筋に両の腕をまわして彼の頭を引き寄せ、唇を重ねたのだ。
姫にあるまじき大胆奔放な振舞いに、皆が度肝を抜かれて顔を赤らめることすら忘れている前で、戰の太い両腕が、椿姫のほっそりとした腰に回される。引き合う強さそのままに抱き合う二人に、漸く周囲が羞恥に空気を染出す頃になって、やっと二人の唇が分たれた。
「行きます」
「……ああ」
自分は追いかけているのでは、ない。
追いかけているのは、戰の方だ。
短かな一言に、思いをのせた椿姫のいじらしさに胸をうたれながら、戰はもう一度、彼女を抱きしめた。
「出発前に馬車の方に必ず顔を出しますよ」
そう言ったのに、なかなか来てくれなかった為、真の顔を見るなり薔姫は半べそ顔になった。しかし慌てる様子もみせず、いつものように額を撫でながら「ほらほら姫は笑っていた方が可愛いですよ」と言われてしまえば、つい笑顔になってしまう。
椿姫が、戰に伴われてやってくるまでの間。
薔姫は、忙しなく真に言い含めづめだった。
夜更かしは駄目よだの、おやつばかりじゃなくてちゃんとご飯を食べなくちゃいけないわよだの、苦薬湯は芙と杢とに見張らせるから毎日決まった時間に飲まないと許さないわよだのと、兎に角、間断なく喋りまくる。
しかも、真が嫌な顔もせずに聞いてくれるものだから、余計に饒舌多弁になっていた薔姫だったが、突然、人垣の方が騒がしくなった。流石の薔姫も舌の動きをとめて、お互いに顔を見合う。
外のざわめき、と言うよりも響めき、が気になる薔姫は首を伸ばして真の肩越しに様子を伺おうとしたが、見られる筈もない。
「何かあったのかしら?」
「きっと、椿姫様が御出でになられたのでしょうね」
「でも、とても普通の騒ぎじゃないわよ?」
「さて? それでは戰様が、椿姫様の裾を引っ掛けて、転ばせでもされたのかもしれませんよ?」
「もう、我が君ったら」
別れを惜しんでおられるのだろうな、と思いつつ真は曖昧に笑う。睦みあった新床から起きたその躰を、無情に引き離されるのだ。椿姫の心の内を思えば、切なさに胸が潰れて、せめて冗談にでもしてしまわなければ、何も言えなくなる。
そして思う。
薔姫は、自分との別れのこの刻を、どの様に捉えているのだろう?
「さあ、姫。私ももう馬車を出ますね」
「……はい、我が君」
「と、その前に」
言いながら真は、小さな山吹色の包を薔姫に差し出した。
「なあに?」
「甘藷のお団子を作ってきたのですよ、芙に教えて貰いながら。今日のおやつに、食べて下さい」
なかなか来てくれなかったのは、これを作っていたからだったのだ。
甘藷の団子と聞いて、薔姫はふと、楼国陥落の夜の事を思い出した。思わず、ぷう、と吹き出すと、真は思い出すのを待っていましたとばかりに、握り拳を作ると、こんこんと音をたてて額を叩いてみせる。ますます可笑しくなって、二人で馬車ががたがたと揺れるほど、笑い転げる。
しかしこの時代に、男子が厨に入る事など、料理人や下男以外には有り得ない。
それなのに。
おまけに、一体何時の間に、用意してくれたのだろう?
差し出された包を受け取ると、まだほんのりとそれは暖かさを残していた。じんわりと、薔姫の心も暖かくなる。
「有難う、我が君、大事に頂くわね」
「でも、味の保証はしませんよ? お腹を壊したと後で文句を言っても受け付けませんからね?」
「え、ええ!? ちょっと、やだ我が君ったら!」
「冗談です。ちゃんと味見してありますよ」
「んもう!」
いつもの様に、髪をくちゃくちゃにすると、真が踵を返しかける。
と、薔姫はその腕をとった。ん? となる真に、慌てて、脇に隠してあった薄紅色の袱紗を膝の上によせて開き、中身を手に取る。
「あの……あのね、我が君」
「何でしょう?」
「……此れ」
そう言って差し出しされたのは、小さな紙片の束だった。薔薇の花弁を伸したものが意匠を凝らして貼って飾ってあり、紙片の上には新たな花が咲き誇っている。上部には、持ち手か目印なのか、とりどりの組紐が飾り結びで結わえ付けてある。
「栞、ですか?」
「そう。我が君、沢山本を読まれるから」
ありがとうございます、と真は目を細めた。
そう言えば、灼が訪ねてきた夜、部屋に戻ると組紐を編んでいた。
ただ、暇に任せての手慰みなのかと思っていたが、この為だったのか。
「有難う御座います、姫、とても嬉しい贈り物です」
「本当?」
「ええ、大事に仕舞っておきますよ」
「駄目よ、ちゃんと使ってくれなくちゃ、いや」
「はい、分かりましたよ、大切に使わせて頂きます」
「うん!」
頬を笑顔に輝かせる薔姫に、真も笑顔で答えた。
笑い合う真と薔姫の耳に、椿姫が乗り込む旨を蔦の声が伝えてきた。
★★★
左僕射・兆の元に、祭国郡王にして皇子である戰と祭国の女王である椿姫の婚儀が恙無く無事に執り行われた旨を知らせる使いが、蓮才人の名で寄せられた。
「――それは、お慶び申し上げます」
「つきましては、左僕射殿におかれましては、新たな系譜の作成をと、才人様よりお言付されて参りました」
「言われるまでもない。相承ったとお伝え願おう」
手の内にあった筈の切札であった、椿姫の宿星図が姿を消した。
その時より、この事態を想像していたが、余りにも早い。
「郡王陛下と女王陛下は如何なされておられるか」
「郡王陛下におかれましては、既に雲上なされておられます。祭国女王陛下におかれましては、帰国の途につかれました由。我が主、蓮才人様よりくれぐれもよしなにと言付かりまして御座います」
ちっ、と腹の底で兆は舌打ちをした。
逃げ足が早い。
流石、というべきであろうが、まだ、間に合う距離であろう。
こうなれば、どの様な手段をとろうとも、祭国女王の身柄を我が手にせねば。
露国に差し出せぬとあらば、せめて人質とせねばならない。
「分かった、遣いご苦労である。其の方のご主人である御方にも、よしなにお伝え下さるよう」
控えている舎人に、遣いに謝礼を持たせる旨を目配せで伝えると、心得ている舎人は此方へ、と使者を促す。
二人の背が完全に消えてから、兆は部屋を後にした。
兆が己に与えられている執務ようの棟から出ると、実兄である受と鉢合わせた。
「じょ・兆……か」
「此れは、兄上様」
礼を捧げつつ、腹の奥で兆は舌打ちをする。
大保・受。
兆の同腹の長兄であり、大保とは皇太子の補佐官長である。
受も兆も、一門の良過ぎるまでの割腹のよさから逃れ、逆に細面が貧相にさえ思えるのは、母親方の血筋が濃いせいであろうか。ともあれ、二人は年が10歳近く離れていても兄弟であると顔を見れば直ぐに知れるほど、良く似ている。
だが受は、父親である大使徒・充のあとを継ぐべく、現在は大保の役を担っており、禍国の国政を司る重鎮の一人となって久しい。この待遇の違いに、兆は常々、苦さを感じつにはいられなかった。何しろ、国政に参与する皇太子に最も長く寄り添い仕える忠臣中の忠臣となるべくした、大役だ。自分は同じ血を引きながらも、冷や飯喰いから出発し、叔父の養子として身売りまでされた。この違いはなんだという怒りしかない。
だが、兆は知らない。
受は皇太子・天の守役として仕えていながらも、天との面識は薄い。
いや、ないに等しく、天の方でも大保・受と言われても、顔も思い描けぬ程であろう。無論の事、彼の父親である大使徒・充と姉である徳妃・寧が、己の良い様に皇太子を『捏ねくり回して』駄駄っ児に育て上げていたからだ。
一体何処をどうすれば、付入る隙が何処にあろうというのか。
受の仕事は、大保の名を抱く役ではなかった。
父の影となり、この禍国の帝室の為にありとあらゆる情報を得る為に暗躍する事であった。長男でありながらも、大保という名誉な役を得ながらも、実は影で、受はこの仕事を好んだ。
何故ならば、己の仕える国体の、より深部、より真実が見えるからだ。
が、その真実を知る者は、今は禍国の王宮にはいない。
「ど・何処へ……い・行くの……か」
「大保様におかれましては、管轄下になき事柄にて」
そう……か、と気にもしておらぬ様子で、兄の受はその場を去った。礼拝を施しつつ見送った兆は、ち、と音をたてて舌打ちをする。
馬鹿にしている。
この受という長兄が、兆は殊更に嫌いで嫌いで堪らなかった。
厭忌している、と言ってのけてよい。
兆に言わせれば、兄・受は知能もそこそこに優れており、武芸にもそれなりの片鱗をみせはした。
だが、どれも極めるには至らなかった。
つまりは「其れまで」の人物、だ。毒にも薬にもならない。
よく言えば泰然自若、有り体に言ってのけてしまえば、呆けているような人物だ。皇子・戰の傍らに控える真とかいう男が気に入らぬのも、何処かしらこの長兄と雰囲気が被るところがあるからかもしれない。
だが、雰囲気がどうとか人物がどうとか、そんな事はどうでもよいのだ。
何よりも気に入らぬは、兄・受が酷い『吃』だという事だ。
普段は此れまでの鍛錬故にか、気に障る事はないのであるが、酷く緊張していたり、逆に一門の者だけの前であると気が緩むのか、吃が現れる。それも、何を言っているのか余程注意せねば聞き取れぬ程、酷いものだ。その為に、誰も彼もが長兄をその血筋により盛り立てつつも、出来るなら何もしないでくれとこっそりと遠望するかのように、遠巻きにしている。長兄も良くしたもので、それを上手く使いこなして政治の荒波を時に適当すぎる程、すいすいと乗り切っていると、兆は感じている。
長兄。
ただ、それだけの事実で、不具の男が、黙って甘い汁に浸っている。
ただ、早く産まれたというだけで。
己よりも上位の品官を授けられて踏ん反り返っている。
喩えどの様な産み損ないであろうとも、何れ名門の長となるべく男という事実だけで重宝され、引き立てられる。
こんな事が許されて良いというか。
馬鹿にしている。
だが今に見ているがよい、兄上。
ただ、兄であるという事実にのみ胡座をかく貴方に、煮え湯を呑ませてくれる。
兄・受が消えた回廊の奥を睨みながら、今度こそ目的を果たすべく、兆は歩みを強めた。
★★★
王都の正大門を抜け、ひたすらに駆け続ける。
果たして、祭国に向かう女王・椿姫のもとと思しき一行が視界のむこうに見て取れた。
「あれか」
兆はほくそ笑む。
此処で女王を捕縛してしまえば、郡王・戰は我が意のままよ。
「留まられよ!」
兆の意を含んだ衛尉寺の者が声をかける。
衛尉寺は宮廷の守役の武具などを整え管理する部局であり、また祭禮においても使用する儀仗をも合わせて管理している。つまりは器仗を抱える部局であり、斎霊を安んじる威儀整飾の為の儀仗兵を抱えているという訳だ。
兆はその儀仗兵を引っ張り出してきた。
見てくれは確かに、祭礼用の悪戯に華美に走った実用性のない武具と言える。然し、祭事国家である祭国としては、此等は全て天帝へ捧る威儀権威の象徴であるとどの国よりも魂に刻み込まれている。
兆の狙い通り、祭国の女王を守る兵馬は、儀仗兵により破魔矢を番え、頭椎太刀を構えて取り囲まれ、唸り声も出せず身動き取れず、棒立ちになっている。
そうだとも、逆らえまい。
にたりと口角を持ち上げて、兆は笑う。
左僕射としての権限を最大限に活用して、己の歩みを最良とするのは当然の事だ。
その時。
「そこなる慮外者よ、下がれ!」
怒りを含んだ鋭い声が、兆の背中より迫り、ひゅん! という風切り音が、彼の頬を容赦なく掠めていった。
兆が頬に、ちかちかという痛みを感じつつ振り返ると、背後に馬蹄を轟かせながら迫る、一大軍団がみえた。
風になびき、翻る軍旗は、その先陣を切るのが句国王・玖その人であると告げている。栗毛の馬に跨る玖と背後に控える姜を、大将旗がばたばたという痛烈無比なる破裂音をして、勇ましく彩っていた。
「此れは、句国新王・玖陛下に在らせられては如何なる理由にて、此処なるに御出でになられましょうか」
「其れは、句国王玖陛下が、我が祭国の盟友たらんと名乗りを上げて下さったからに他なりません」
止められた馬車の扉が開けられ、姿をみせた椿姫が、凛とした声で兆に答える。
礼拝を捧げつつ、袖に隠した兆の眉が激しく歪む。
「女王陛下、其れはどの様な意味あいに御座いましょう」
「そのままの言葉だ。我が句国は、先の戦において救国の立役者である祭国郡王戰陛下と、盟友たらんと既に盃を交わしておる。であれば、その盟主である郡王の御妃であられる祭国女王である此処なる御妃もまた、我らが盟主。盟主が帰国の途につくと言われるのだ。禍国に残られる郡王に代わりて警護し、祭国まで無事にお届けするが、筋であろう」
声を張る玖の背後で、姜が手にした武器を振るった。
ごう・と唸りをあげる其れは、兆も儀仗兵の一団も見た事も聞いた事もない武器であった。殻竿に似ているが、その頭頂部にて回転する部位に触れれば最後、脳天は熟した柘榴のように砕け、内蔵は潰された蛙の如きに飛び散ろうと容易に想像できる。
細切れの肉片と化した自身を思わず思い描き、知らず、ごくりと生唾を飲み込む兆たちの前で、仁王立ちする姜を背負い、玖もまた、腰に帯びた剣をスラリと抜き放ちった。
「輩の証として、郡王より贈られた鉄の剣だ。その切れ味を身を持って味わってみるか?」
ぐ・と返答に詰まる兆の前に、椿姫が進み出る。
「左僕射・兆」
韻律をふんだ声音は美しく、まさに唄う様な、楽器を奏でているかのようでさえある。
「私は既に、天宙におわします天帝に認められし、禍国皇室に名を連ねし皇子・戰の妃です。その私に対して剣と矢をもって留まれとの此の狼藉、何たる不埒なる振舞いであるか知っての上での行いですか」
腹の中では何度も舌打ちをしつつ、いいえ女王陛下其のような、と礼拝を崩さず兆は答える。
「私どもはただ偏に、我が禍国皇室の一員となられし女王陛下の御身柄を大事に思えばこそ、ただ一心に陛下を傷つけなんとする卑劣漢の聊爾を憂いたが故に、警護をと願い奉ったまでに御座います」
「そうですか。では其方、禍国での政争などよりも私を大事とし、祭国までの道程の警護の輩となってくれると申すのですね?」
「は? いえ、それは……」
口篭る兆に、椿姫は微笑む。
「追い詰めるように、言い過ぎました。なれど、私のこの身は只今、其方が見聞きした通りに我が夫君である郡王の盟友たる句国王陛下により、安堵されております。分かりますね、左僕射・兆よ」
「――はい」
「見送り御苦労、此れ以上此処に留まっていては、其方が率いてきた一団こそ、申し開きもたたないでしょう。私も其れは望みません。下がりなさい」
「……はい、恐悦至極に存じ上げまする、女王陛下」
踵を返した椿姫の長い黒髪が、風に靡く。
その姿を、駆け寄った玖の馬体が守り、隠す。
姜をはじめとした全ての兵馬が、手にした剣を、矛を、構え気合の声をあげた。
句国の兵の殺気の篭る気合に打ちのめされながら、兆は、此処でも己が先んじられ、敗北したのだと思い知らされた。
彼らに。
いや。
皇子・戰の傍らに控え続ける、真という男に。
★★★
王宮の執務室に戻るなり、兆は周囲に当り散らしたくなる愚挙を必死で堪えた。其のような行いは、己が蔑視する皇子たちと同等にまで己が身を堕とす行為に他ならない。
しかし、どうする?
どうすればよい!?
祭国の女王を露国王への贄として差し出す事も叶わず。
此方の質として捉える事も叶わずだ。
露国側に、此方の失態をどの様に取り繕えというのか!?
頭を抱える兆の耳に、舎人が実兄である大保・受の来訪を告げにきた。
「兄上が?」
眸を眇めつつ、兆は唸る。今、この様な時に会いたくなぞないが、さりとて拒む事も出来ない。
「お通しせよ」
短く応じる兆の言葉を待たずに、扉が開かれ受が姿を現した。
「兄上、如何なされましたか」
手を軽く振り人払いをする長兄・受に、兆は身構える。
兄上、何を目論んでいる?
「じょ、兆……よ」
「はい、兄上」
「い、今し、し、しがた……ろ・露国……より、な、ない、内密……に、ほほ・報が、届い……た。ろ、露国……おおお王は、も、蒙国……より、妃、を、得る……そう……だ」
「何ですと?」
受の言葉に、半分は安堵し、半分は戦慄する。
露国が得ようとする蒙国の姫君とやらが誰かは知らぬが、向こうから袖にしてきたのだ。であれば、まだ祭国の女王の件は知らぬふりで通せる。
しかし、代帝・安の腹出の皇女・染の婚儀は止める訳にはいかない。
まだ正式な宣旨を下してはいないが、既に嫁き遅れも嫁き遅れ、婚期を逃して大年増の域に達した皇女には、婚姻の話が上がった事は王城内に伝わっているのだ。
何処の誰でも良いから、何処かに嫁に行かせ、とっとと片付かせなければならない。しかし代帝の娘である皇女を、一体何処の誰に押し付けられるというのか!?
「そ、其の方……の、誤り……は、し、知って……おる。ゆ、故に、知恵を、ささ授け……に、き、来た、の……だ」
相変わらず、吃が失せぬのか、見苦しい奴めが。
だが、自分を助ける知恵とは一体何だ?
思わず期待をかけて、兆は礼儀も礼節も忘れて、はっと身を乗り出す。
「だ、代帝・安ん……へ、へ陛下……の、御姫君……で、あられれ、る、そ染……姫様……の、と、と、と、嫁ぎ……先の、事……だ」
「兄上、其れは」
その一言で、兆は兄・受に己の考えの全てを、見抜かれている事を悟った。
一気に体温が上がる。
見下していた兄に、恥部を曝け出して踊っていたのかと、しかもその兄に縋らねばならぬかという浅ましさに、自ら脳天を割りたくなる。
「こ、こ皇女……染姫……様、が、と、嫁……ぎ先を、わ、わわ私、に……するが、よい、ぞぞ」
だが続く受の言葉の威力は、絶大であった。
上がりきった兆の体温が、雷鳴に打たれて一気に冷え冷えとした氷の湖に放り込まれたかのように冷え切り、平常心を取り戻させた。ぎらり、と眸の淵を光らせつつ、兄の腸を抉るように探りをいれる。
「兄上、それが如何なる意味を持つか、お分かりか?」
「ち、父上……は、最早……こ、ここ皇太子、で、殿……下をみ、見限ら……れた……その内、お、おおお前……と、と、誼……を通じ、ん、と、される……であろう……。私……は、既に……捨てられ……たも、ど、同然……だ、この上……は、か、かか家門が為……に、最後まで……つ、つつ尽くし……たいの、だだ」
「一門の長たるを、此の私に譲る、と言われるのですな、兄上?」
「そ……そ、そそ、そう・だ……じょ、兆・よ……此れか、ら、は……其方・が、家門、の、の、の、ちょ、長……として、い、いい、生きよ……」
酷い吃音の為に、よくよく聞き入らねば意味を捉えられぬ兄の言葉であるが、この時ばかりは、清水が染みるように兆の身体の内側に浸透していく。
兆は体内の血という血が、沸き立つように感じた。
共連れもないままの来訪であった受は、静かに兆の部屋を退室する。
その背を見送る為に礼を尽くしている舎人の姿が完全に消えてから、受は、歩みを止めた。
「兆よ――お前は甘く、若い。若すぎる、いや」
頭を深くふる。
「若気の至りとして片付けるには、余りにも幼い。幼すぎる」
戯け者めが、と呟きざまに、深く嘆息する。
「お前の幼さが、我が家門のみならず我が帝国をも喰らい尽くす日は、遠くないぞ、兆」
受の、痩せすぎた細面の中で、眸のみが憂いに光っていた。




