11 左僕射・兆(じょう) その2
11 左僕射・兆 その2
嘗て、戰が住まいとしていた麗美人の居室に、沓跫も高らかに迫り来る一座があった。
「改む! 扉を開けませよ!」
先頭にたち、居丈高に声を張り上げているのは、左僕射・兆であり、率いている一座の者は、禍国に斎き従事する占師たち、所謂、国が認めた蔦の一座のような存在の者共、祈請を主事とする大禰宜、御師の群である。
兆が彼らを率いてきた理由は、ただ一つしかない。
そう。
麗美人の分廟を打ち壊す際の、修祓を行う為である。
修祓とは、浄め祓う神事の事を指す、即ち廟を壊す際に、廟の主である麗美人が祟らぬように護る行いだ。
改む、と勢い付け格好をとったところで、誰かが見ているわけではない。
既に、この分廟を守る主である皇子・戰は、禍国滞在時においては己の宮に移り住んでいる。棟の扉を守るのは、規則に則った人数の殿侍たちしかおらず、彼らには左僕射たる兆を止めることも咎める事も許されてはいない。
明白に動揺し、動転し、互いに責任を転嫁すべく顔を見合わせて、決して自ら動こうとしない彼らに満足し、兆は鼻先で嘲笑う。
「どくがよい」
手を振ると、殿侍たちは自然と左右に割れて、兆に道をつくる。
――皇子戰よ。
この室で何が起こったかを貴方が知ったが時とは、即ち、私のものとなる時だ。
にたりと兆は、今度は明け透けな欲塗れの歪んだ笑を零す。
ずかずかと部屋に踏み入り、最奥に祀室へと向かう。遠巻きにしつつ、おろおろと見守るばかりの宮女と舎人たちを横目に、兆は気分が良かった。
ふん、此処で御霊を宿しておる玉石を我が手中に収めれば、そのまま皇子・戰は我が手にしたも同然よ。
廟の入口である観音扉を護る祝たちが、己たちの高官に当たる一座の郡を前に、浮き足立った。
兆は、にやりと口角を上げ、霊廟の扉の前に恍然としてたつ。
「扉を開けよ」
命じる声すら、恍惚感に濡れ光っている。
祝たちに、否やは唱えられない。ぶるぶると震えながら、扉を開ける。戰の命令により、良く手入れの施された霊廟の扉は軋む音ひとつ立てず開かれる。
奥からは、煌びやかな眩い輝きと共に霊廟が姿を見せる――筈、であった。
兆と、彼が率いる大禰宜と御師たちは、驚愕の為に立ち尽くした。
其処は既に、塵一つなく浄められ、伽藍堂のように何一つとて残すもののない空部屋と化していたのだ。
★★★
「何をしておいでか」
凛とした女性の声が、兆の背に突き立てられる。
はっとして振り返ると、殿侍を引き連れ、自らも手鉾を手にして先頭に立つ蓮才人の姿があった。長い髪を下ろして一つに結わえ直し、女だてらに深衣を纏い、武人のように手鉾を構える才人の姿は、まるで戦女神さながらの凛々しさだ。が、其れ故に美々しき姿に危うく見蕩れてしまうが最後、いつその手鉾にて首と胴とが分かたれる仕儀に陥るやも知れぬという恐怖心を強く煽る。
「下がれ。此処なるを何と心得ておるか」
蓮才人の鋭く澄んだ語気が、きりきりとした鏃のように集結した大禰宜や御師たちの心の臓を抉る。
一人、冷然と進み出た人物がある。
無論の事、左僕射・兆である。
「此れは、才人様。此れなる御霊廟は、我が偉大なる帝国の皇子にして祭国郡王であらせられし戰皇子様の御母上様の御霊廟と心得ておりまするが」
「如何にも。そして此処な霊廟は、我が親族の姉にして我が義理息子の実母の廟と知っての言葉か」
当然に御座います、と一見穏やかに兆は答える。
最礼拝をもってして、蓮才人に礼儀を尽くしてはいるが、その実、彼女の事などみていない。伽藍堂となった霊廟の奥に隠されている深意を探ろうと、目を眇める。
何故、この霊廟に祀られている筈の御霊を宿した玉石が、失せている。
「蓮才人様」
「何か」
「此度、我々は御霊廟の御主で在らせられし麗美人様の御霊を安んじんが為、分たれた霊廟を一つにせんと罷り越した」
「御魂抜きをせんと、かようなわけですね?」
兆は再度、礼拝を捧げる事で答えとした。
御魂抜きとは、魂を宿した霊廟を移す際に行う御祓いの一つだ。
「而しながら、この霊廟の主である御玉石が姿を消しておられる。此れは如何なる仕儀であろうか。そもそも、御守り申し上げるとのお言葉から、才人様はご承知おきの仕儀であらせられるか」
兆の眸の端が、奇しい光を発した。
上手くいけば、この自体を利用して下品位の中でも人気の高い蓮才人を、追い出す口実になるやも知れぬ。本来であれば、今や飛ぶ鳥を落とす勢いの祭国郡王として名を馳せる皇子・戰の義理の母として、御位が低い故に嫉妬に狩られた女たちの矢面に立ちそうな処であろう。しかし逆にこの蓮才人は、他の身分の低い側室たちを三婦人や九嬪といった高品位の妃たちから守ってやる事で、一つの派閥を作り上げる迄に慕われはじめていたのだ。
だが、余りに巨大な勢力は、やがて政治力へと変貌を遂げる。
そうなる前にこの蓮才人の一派の勢力を突き崩す必要がある、と兆は危惧し、常々その機会を伺っていたのだが、今こそがその機であると直感した。
しかし、事を間違えて荒立てれば、己の首が危うくなる。
何しろ、この霊廟の持ち主である郡王・戰の妃となるはの、祭国の女王だ。先の1周忌に、微風にも折れなんとする嫋かな様をしておきながら、どうしてどうして、あの代帝・安に対して真っ向勝負を挑んでくるような女だ。彼方で女の尻を叩いて潰しても、此方で女が頭を擡げては意味がない。
ありとあらゆる事態を想定し、事を見定めねばなるまい。
そもそも皇太子・天も、二位の皇子である乱も、分別を忘れて己の欲の赴くままに動く故に、自滅するのだ。利用する分にはその方が助かるというものであるが、己が同じ轍を踏む愚か者に成り下がる必要などない。
事は慎重の上にも慎重に探りを入れ、動くが上等なのだ。
兆の探る視線をものともせず、蓮才人は手鉾を一度、翻した。
「当然です」
「では、お伺い申し上げます。霊廟の主で在らせられし、郡王陛下の御母上である麗美人様の御霊を宿せし玉石は、何処へ」
「今頃は、祭国女王陛下の御手に護られておられましょう」
手鉾のを杖代わりとし、どん、と激しく床を一突きする蓮才人の威勢の良さに一瞬見惚れながらも、兆は、心の内でちっ・と短く舌打ちをした。
成程、此方が一足遅かったという訳か。
本来、御魂抜きを行えるのは祭祀を行う者の中でも上位に当たる者にしか叶わない。ましてや、祀られている廟の主は仮にも先帝の妃の一員、歴とした御位を授かった後宮であるのだ。だからこそ霊廟を取壊し玉石を我が物とする際に、兆ですら祟りを恐れたのだ。咒いを授けられるのは御免こうむると、護符の威を得る為に、大禰宜までもを引っ張り出してきたのは、その為だ。
忘れていた。
祭国は、その名の通りに祭事国家であった事を。
再び腹の底でちっ、と短く舌打ちをする。己の不明を呪ったのだ。
いや。
此れまでの郡王の行動を鑑みれば、此れあるを察して当然であろうものを。
出遅れた事を、兆は認めた。
これ以上此処で問答したとて、もはやどうにもならない。
斎霊を鎮める行いに祭国以上の国は望めず、先の1周忌において、その頂点に存在するのは女王であると彼女は知らしめた。
郡王・戰が己の母親の御霊が安んじられている霊廟を狙われるかもしれぬと察した時、その祭国の女王を妃として得ている以上、彼女をして御魂抜きの祭禮を密かに行ったとて不思議ではない。
「此れなる仕儀は、我が義理息子(子)である祭国郡王にして禍国皇子である戰の意思によるもの。妃たるものの気構えとして祭国女王の行いは、以て美と評されて然るべきであろう。何か異議を唱えるというのであれば、先ずはこの妾を納得させてみよ」
不動の決意を高くかざした手鉾に込めて、蓮才人は未だに睨みを効かせてきている。
今回は、己が負けか。
これ以上、押し問答に時間を割いても無駄な事だ。
「祭国女王陛下におかれましては、何れ正式にこの禍国帝室の一員となられし御方。その御方による行いであり、郡王陛下たっての願いであるとするのであれば、我らが手出しは叶いませぬ」
兆は恭しく答え、下がれ、と静かに一座に命じた。
★★★
一座の者を解散させると、兆は与えられた執務室へと向かう前に、禍国の帝室の陵墓や廟の管理を司り、且つ皇族及びに婚姻により血縁となった諸王侯の簿籍を管理する官庁である宗正寺へと赴いた。
幾ら足掻いた処で、我が手に切札がある限り、郡王・戰は私のものだ。
簿籍を管理する舎へと真っ直ぐに向かう。警護の兵と殿侍が、訝しげな視線を兆に向けてきた。
「扉を開けよ」
直様、殿侍が兵に錠を開けさせつつ、小さな行灯に灯を入れてくるよう命じる。舎人が行灯を手にして駆け寄ってくると、兆は殿侍より恭しく差し出された行灯を、満足気な面持ちで受け取った。
「暫し、誰も入れぬよう」
短く命じると、扉を閉めさせた。
ガン、と重い音を響かせて扉が閉められる。
手にした行灯のか細い光を頼りに、舎内を進む。
目的の棚まで来ると小さな香箱を手にし、兆は口角を微かに持ち上げる。
中には、手の平大の巻物が仕舞われていた。軸を蒔絵とし、表具は美しい椿柄の絹で出来ている。見るからに高貴なる物品であろう事は疑いようもないそれを、兆は無造作に鷲掴みにして取り出した。
――此の宿星図。
祭国の女王が宿星図が此の手に有る限り、郡王・戰は私を迎え入れねばならなくなる。
そう、其れは祭国の女王である椿姫が失くした、彼女の分身とも言える宿星図であった。
真とやらよ。
最終的な勝利を得る為にには、常に世の先を読み、先の先の手を打っておくものなのだよ。
ふふん、と嘲笑いながら、己の先見の明に酔い、兆は宿星図を掌内で弄ぶ。
4年前の祭国との戦からの凱旋帰国の折。
質として連れ帰った彼女を巡っての醜聞を知らぬ者は、此の禍国の王宮内にはいない。つまりは、皇子・戰は自らの泣き所を晒して生きていたのだ。何故、それを誰も気が付かなかったのかと、兆は可笑しくて堪らない。郡王・戰の背後に烏滸がましくも控える、目付と名乗る男の存在が、可笑しくてならない。
賢しらぶってみても、所詮は貴様の知恵など、書庫の中で醗酵した腐った知識によるものだ。この王宮にて揉まれて身につけた私のそれと同等であるものか。
ふふん、と兆は口角に勝ち誇った笑みを刻む。
露国に走らせた博にさせた内情調査によれば、露国王・静は蒙国皇帝・雷と接近しようと目論見、彼の国の何れの姫君を正妃にと事を進め始めているらしい。今、この時期にこのように、露国と蒙国の手を結ばせてはならないのは、誰の目にも明らかだ。この事態を、あらゆる手段を講じて断ち切らせ、露国をこの禍国に寄らせる事叶えば、誰しもが自分を認める。
祭国の女王を、代帝・安の腹である皇女・染と露国王・静との婚儀を結ぶ為の勅使に立てるように計略を巡らせたのは、その計略を成功させる為だ。露国王には、既に勅使として椿姫が向かう事は告げてある。そして、その交渉の際に露国側に贈る品の中に、此の宿星図を含ませる事も。
先の郡王と女王の二王戴冠式の折、兆も露国王を直接目にしている。男というには余りにも美貌が過ぎる王だった。羅刹といっても通用するかのような、艶のある黒髪と瞳が、北方の民特有の白い肌に黒曜石の如くに鋭敏に映えるのだ。
あのような美形であれば、余程の麗しき乙女でなければ、閨に好む事叶わぬであろう。となれば、祭国の女王以上の美貌を誇る姫が、目の前に餌を咥えて飛び出して来たとなれば、漢としてやるべきことは一つだろう。
遂に堪らず、くっくっく、と喉を鳴らして兆は嗤う。
祭国の女王が勅使として露国に向かうその先で、宿星図を手にした露国王がどの様な態度に出るか。
実に見ものだ。
露国王を止める事が出来るのはこの私のみであると、全てを知った郡王がどの様な態度に出るか。
実に見ものだ。
郡王・戰と露国王・静。
天秤にかけられしこの二王は、さて何方がより、此の私の為にとって良き重石であってくれるものか……。
臙脂色をした組紐を解き、宿星図をはらりと広げた。
途端。
兆の顔ばせから、余裕の色が消え失せた。広げられた巻子本状態の宿星図は、純白の楮紙だった。
何も――何も描かれてはいない。
瞬時に、この舎に入る前の殿侍の奇妙な表情を思い浮かべ、何が起きたのを悟る。
「糞があっ!!」
兆の吠え喚く声が、舎内に響き渡った。
★★★
王宮内にて探りを入れた蔦とその一座の活躍により、椿姫の宿星図を抜き取ったのは左僕射・兆その人であると判明した。
そこから先は、想像に難くない。
変幻自在の技を用いて兆に化けた蔦が、宗正寺に赴いて本物と偽物とを擦り替えてきたのだ。兆自身が舎を訪れて一人篭るのは常の事だ。だから誰にも訝しがられずに、事を運ぶ事が出来た。
こうして無事に、母親である麗美人の御霊が宿る玉石と、愛しい椿姫の宿星図を共々に守り通す事が出来た。
玉石さえあれば、霊廟として認められる。
後は、この玉石の前で互いの宿星図を紐解いて夫婦の縁を結び、誓いあうだけだ。
その際には、夫君となる戰の側の親戚眷属の見届けが必要となるが、其れには真と薔姫がたつことになっている。何しろ、薔姫は禍国帝室に名を連ねる王女であり、その夫君である真も、一応ながらに系図に名を連ねている。見届役の仲人として、充分に立つ資格を有しているのだ。
「お前如きが其のような大役を」
腕を組んで、憮然としている父・優に真は、はあ、と答えるしかない。
自分で考えだした事とはいえ、よもやこの若さで、己の主君である人物の仲人なるなど思いもしていなかった。いや、まだ自分は成人している。しかし、妻である薔姫はまだ9歳なのだ。禍国の歴史どころか、人が人として文字を得て有史を刻み出してより、最も年若い仲人夫婦なのではないだろうか?
「世も末だ」
激しく頭を振る父・優に真はやはり、はあ、としか答えようがなかった。
ともあれ、此れで事は此方に有利に働くように傾きだした訳である。
「よくやって呉れたね、真、蔦、皆も。礼を言うよ、有難う」
「戰様」
「郡王様、其のような」
蔦は素直に戰の言葉に感動を覚えて頭を垂れていたが、真は違う。己の表情を見られたくがない為に、頭を下げていた。
早くから露国王との連携せんと蠢いていたというのに、全く気が付かなかった。此れは、自分の落ち度だ。今回は上手く回避する事が叶ったが、この先はこのような失態は二度と許されない。
それにしても情けない。
己の馬鹿さ加減に呆れて自分で自分を殴り倒したくなってくる。
例え一瞬でも後手に回れば、戰の地盤は壊滅しかねない危うさであるのは、まだ変わり無い。
先の先、いや、更にその先を行かねば。
真の心情を察してか、戰がその肩を軽く叩いた。はっとして、面をあげた真の眸に、戰の笑顔が飛び込んでくる。
「さあ、急いでくれないか、真。もしかしたら、左僕射が乗り込んでくるかもしれない」
そんな事は有り得ない。
左僕射・兆が此処に乗り込むという事は、先ずは己の咎を認めねばならない。兆としては、大いに歯軋りしつつ傍観するしかないのだ。
左僕射・兆のような人物が現れると読めなかったと、真は必ず己を責める。
させぬ為の、戰の言葉だ。
はい、戰様、と真は礼拝を捧るふりをして、怒りを、そして涙を堪えた。




