11 左僕射・兆(じょう) その1
11 左僕射・兆 その1
禍国代帝・安が名のもとに命じる。
祭国郡王にして、偉大なる我が禍国帝室の一員たる、皇子たる戰よ。
先の戦にて我が禍国を利用した愚かな契国を討て。
襲歩にて、怨みを晴らすべく吾国を目指し蠢いておる遼国。
また同じく、吾国をして遼国を討たせんと画策しおる河国。
愚かしき二国も、討て。
厳か、であるつもりなのであろう。
代帝・安の、脂肪に塗れたぬらぬらした声が、王の間に響き渡る。
「軍備は兵部に申し出て、好きなように揃えるが良い」
「はい」
跪き、眸を伏せて聞き入る戰の表情を伺おうとするが、ようとして知れず、代帝・安は顔を顰めた。しかし眇められた眸から零れる眼光を、戰はものともしていない。
「しかし、其の方の目付とやらが、我が国の兵部を掌握しておるからの。つまりは、其の方は己が臣下の手下に成らねばならぬと云うわけであるわなあ」
「はい」
安の明白な侮慢の言葉にも、戰は動じない。此れまでの安であれば、戰のこの様な態度に神経を逆なでされ逆上するままに狂い咲いたであろうが、今日はちがっていた。ぐふ、と全身の脂肪を淫らに揺らして喉をならして笑う余裕があった。
「実はの、其の方に知らせおかねばならぬ事柄があってのお」
「はい」
跪いたままの戰の語尾が、疑問の為にか緩やかに上昇したのに気分をよくしたのか、安は巨体を益々揺すった。
「我が腹より生まれし皇女・染を、露国王の元に嫁がせたいと思うての」
王の間に、安の声が響く。
「此度、正式に申し入れる前段階ではあるが、勅使の栄誉を祭国の女王に呉れてやろうと思うてのう。祭国と露国は根幹を同じくする輩、更に、現露国王と祭国の女王は姻戚関係であるとも云うではないか。これ以上の使者はおるまいて、のう」
ほっほほほほほ、と安は笑い声を天井にまで跳ね上げる。
「その際の警護の兵は、適当につけてやるが良いわ――戰よ」
「はい」
「何れ妃となりよる姫に、其方の口より伝えおくがよい」
安の哄笑が、王の間を劈いて駆け巡った。
★★★
宮殿に戻る前に戰が椿姫を伴って蓮才人の元を訪れると、二人の無事な姿に彼女に仕える宮女までが喜びに沸いた。
蓮才人の気質によるものなのだろう。この魑魅魍魎が跋扈する王宮内において、此処だけは何時までも初夏の晴天の如き澄んだ空気がそよいでいるようで、戰は思わずほっとする。この空気を当然のものとして享受してこられた幸せをまた、深く胸に噛み締める。同じ思いであり、また、恋人の気持ちを察して、椿姫が口元を和ませた。
「皇子様、無事なお姿を拝見して、塞がりかけていた心が明るくなりましたよ」
「義理母上には、ご心配ばかりをおかけしております。この不肖の息子を、どうかお許し下さい」
良いのです、と戰の頬に手を伸ばしつつ蓮才人は微笑んだ。
1周忌においての椿姫の振舞いに、代帝・安がどの様な無茶を仕掛けてくるものかと、気持ちを暗くするばかりだったのだろう。
真に予め話を聞いていたとはいえ、愛娘である薔姫の将来も掛かってくるかもしれないのだ。母親としては当然と言えるだろう。そう思えば、彼女に甘えて後回しにばかりしてきた自分の不明を恥ずかしく思うばかりなのだが、蓮才人はそんな戰を笑い飛ばす。
「子供の為に苦労を背負ってこそ親たるもの、私を見縊るものではありません」
こう蓮才人に胸を張られては、戰としては苦笑するしかない。
「そんな事よりも椿姫様、どうか皇子様の手綱をしっかりと握りあそばして。全く、本当に大切な処で抜けていらっしゃる御方ですから」
「才人様、そのような……」
「いいえいいえ、本当に。願うばかりなのですわ。それに皇子様。姫様という至宝を大切にお守り申し上げねば。此れは貴方様の、終生の大事業に御座いますよ」
続いて義理の娘となる椿姫の手をとり、包み込むようにしてその手の甲を優しく撫でる。
義理の母の言葉に、戰は苦笑しかかる表情を引き締め、頷いた。
1周忌の警蹕を行う際、椿姫の舞の見事さは後世にまで語り継がれるべきものであった。代帝・安が仕掛けた大戦に、椿姫はたった一人で、見事に迎え討ち果たしたのだ。列席した諸国の王侯将相は、言葉に態度にせずとも、大いに溜飲を下げた事であるだろう。その椿姫を妃にとした先の戦の立役者である戰とのこの婚姻が如何なる意味合いをもつものであるか、然と肺腑に刻んで帰国の途についた事であろう。
が、其れ故に、彼女を狙って代帝・安が何を仕掛けてくるか知れたものではない。現に、露国との交渉に彼女を引き摺り込んできた。
心を浮き立たせるままに蓮才人は、夫婦となるばかりの若い二人に優しく椅子を勧めてきたが、戰は軽く手を振って断った。すると、明白に蓮才人は輝かせていた頬を曇らせた。義理の母親の素直すぎる反応に苦笑しつつも、戰は短く答える。
「義理母上、先ずは椿と共に、大切なお役目を果たして頂かねばなりません」
そうですかそうですね、と応じた蓮才人は、遂に、つ……、と細く涙を零した。此れより彼らが成そうとしている事を思えば、涙を堪えられぬ蓮才人であった。そして気持ちを落ち着かせる為にか、両手を胸のあたりにあて瞳を閉じつつ天を仰ぐようにする。
まるで、祈りを捧るかのように。
しばし、静かな時間が戰と蓮才人の間に流れたが、次に眸を開けた時には普段の、快活で闊達で朗らかな彼女に戻っていた。明るい笑顔に戻った義理母を、戰は抱きしめる。
「義理母上、何時も御心配ばかりをおかけする、不肖の息子をお許し下さい」
「何という事を申されますか、皇子様。皇子様程の息子は、望んでも得られませんよ――さあ、参りましょう」
「義理母上……」
「先に申しておきますが、皇子様、此方の心配は要りませんよ。私は、貴方様に心配されるようなやわな女ではありませぬ故。皇子様は貴方様の思う道を思う様、自由にお進みあそばされませ」
自ら身体を離して叱責する蓮才人に、戰の胸にはありきたりの言葉しか浮かばなかった。
「……有難うございます、義理母上」
椿姫と共に最礼拝を捧る戰の頬に、蓮才人は、もう一度手を伸ばした。
今度は、義理の息子の尻を叩いて発破を掛けるかのように、にこりと明朗に笑った。
★★★
宮に戻った戰が、皆を集めて代帝・安の言葉を伝える。
真は面倒くさそうに、項のあたりをぼりぼりとかきあげ、そんな息子を優はぎろりと睨んできた。
とりなすように、蔦がほほほ……、と鈴のような笑い声を上げた。
「其れは、また。虚海様がおられますれば『腐れ婆めが、またぞろ糞問題ふっかけてきおって、本当に胸糞悪うなる奴やで』とでも、申さましょうな」
声音どころか、瓢箪型の徳利を振り回して怒る虚海の身振りまでをも的確に真似てみせる蔦に、皆で苦笑する。まったくもって、目に浮かぶようだ。
「さて、真」
「はい、戰様」
「此方の、ほぼ想定内の動きだが」
「そうですね。ただ問題は、これらを提起された方が何れの御方であるか、ですね」
戰の言葉を受ける真に、優が今度はじとりとした、粘った怒りを含んだ粘着質な視線を向けた。
我が息子ながら、郡王となりし皇子様に無礼千万であろうと、剣を抜き打ち態度を改めよと怒鳴りたくて仕方が無い。しかし、当の息子はというと、相変わらず面倒くさそうに、ふあ、と欠伸を一つするとくしゃくしゃと項の後れ毛をかきあげている。
宮女姿の蔦が、つ・と手を上げた。真の命令により共に城に向かい、王宮内で内情を探っていた一座の者が何やら情報を得て戻ってきたのだ。こそこそと言葉を交わしている内に、蔦の表情が引き締まる。仲間を労って後に下がらせると、笑みを湛えて真に向かい合った。
「真様の読み通りに御座いまする。露国王陛下の御元に、先に影使を送られた方がおられまする」
「それは?」
「皇子・乱殿下に御座いまする、正確には」
「左僕射・兆殿、ですね」
艶然と微笑む事で肯定する蔦の姿は、羅刹故にか更に艶が増し、その美貌はいっそ恐ろしい程だ。余計な色香を振り撒く蔦に顰め面をしつつ、優が、しかしな、と異を唱えた。
「蔦よ。大令・中殿を介さずに、左僕射が直接か?」
「はい、既に左僕射殿は、令郡省と礼部とを掌握されておられる模様にて」
蔦の答えに優は、ぬう、と呻きつつ腕を組む。
以前、真を拘束しようと乗り込んできた二十四司員外郎の一人、博という人物であるが、俄かに彼が動き出したという。官位品位を剥奪され、鬱屈した日々を抱えていた博を、礼部に捩じ込み再び出世の道筋を甘く囁いたのは、大令・中ではなく左僕射・兆であるというのだ。
蔦の言葉に、優はますます不快感を顕にし、岩石のような渋面を作り上げる。
真に頼まれ自身も探りを入れていたが、兆という人物にたどり着く事は出来なかった。笑う、というよりも微笑んでいる蔦に、逆に己の部下たちの無能さ加減を指摘されているように思われてならないのだ。優の心情を誰よりも知る杢が、珍しくはらはらとした面持ちで、助けを求めるかのように真を縋り見るが、当の息子の方は、のんびりと欠伸をして此方を見ていない。
「その、左僕射・兆殿ですが」
そんな優と杢を全く無視し、ちらり、と蔦は戰と椿姫に流し目を送った。
「真様が危惧なされておられました通りに、動かれるご様子にて」
そうですか、と真はやはり項から手を離さない。後れ毛は既にぼさぼさになっている。
「蔦、頼んでおりました品を探る件は、どうでしたか? 狙い通りの場所にありましたか?」
「流石、真様、と申し上げておきまする」
真の言葉を待ち構えていたかのように、ほほほ……と蔦は笑う。
宮女姿をしている時にそのような笑い声を出すな、と言いたげに優が顰面をした。政治の端くれを担ってきた者としての手管が、戰をはじめとするこの祭国の若者中心の国では全く通用しない。自身の想像のつかぬ処で話が踊るのは頼もしく感じるが、それを指揮しているのが息子であるという事実が、優は気に入らない。
遂に苛々に任せて息子である真の肩をぐい、と掴んで引き寄せた。しかし、息子は予想していたのか、肩を竦めて苦笑いする。
「何をどうするつもりでおるのだ、左僕射は」
私としては、大令・中様がなされるとばかり踏んでいたのですが、と真は前置いた。
「先ず、王宮の戰様の室に残されし御母上の霊廟に、手を触れなんと目論んでおられるのですよ」
「何だと!?」
激昂するままに真の胸倉を掴み上げる父・優に対して、落ち着いて下さい、と嫌味過ぎる程に息子の方は落ち着き払っている。
「馬鹿が! 此れが落ち着いていられるか、この阿呆めが!」
手を触れる、と真は簡単に言ってのけているが、とどのつまり、麗美人の霊廟を取壊すという事に他ならない。鉄拳を繰り出さなかったのは、会話を途切れさせる訳にはいかぬと、必死に堪えたからだ。その証拠に、隠したつもりである握り拳が、ぶるぶると震えている。
「馬鹿だの阿呆だの……また久しぶりに出ましたね」
「喧しい! どう目論んでおるのだ、左僕射の奴は!」
「お立場であらせらる、令の管轄を大いに活用されるおつもりなのですよ」
「何!?」
「御霊廟に手出しされたくなければ、まあ、云うなりになれ、とまあ、つまりはこういう事です。戰様を己の側に引き寄せたらんと、左僕射・兆殿が目論んでおられるのですよ。で、あれば御自身のお立場を最大限に利用なされる筈。御母上大事の戰様の御気質を、左僕射殿は実によくご理解しておられます」
「お前という奴は! 其処まで分かっておりながら! 麗美人様を安んじ申し上げておる御霊廟に触れようなぞとする慮外者を、放置せよと云うのか!」
怒りが収まらぬ優は、鉄拳の代わりに、持ち上げた胸倉をがくがくと激しく揺する。このまま、真を片手に引っさげたまま勢いで王宮に取って返し、大令が仕切る部省へ殴り込みをかけそうだ。
くらくらする頭に手を当てて、こんな時であっても、やれやれと面倒くさそうに呟く真に、くすり、と椿姫が笑う。
「女王陛下、かような折に、息子に追従するかのような行いはお止め下され」
憮然とする優に、御免なさい、と素直に椿姫は謝った。
素緋色の花粉を、白椿が微風に揺られてはらはらと朧零すかのような、笑みだ。流石の頑徹者である優も、椿の妖精の如き少女にこの様に微笑みかけられて、愛想のない表情などしていられない。曖昧に笑みを浮かべ返すと、これは幸い・好機とばかりに真は、するりと逃げ出した。
「兵部尚書、大丈夫だ、心配ない」
「しかしですな、陛下。蔦が探っておったという左僕射の品とやらも気になります。陛下、其れは一体?」
目を回し気味の真を支えつつ、戰が笑う。
「郡王陛下、笑っておられる場合ではござらりませぬ」
「大丈夫だ、兵部尚書。今頃、王宮では、左僕射が大騒ぎをしている頃かもしれないよ」
「は、あ、陛下、それは一体……?」
「まあ、仕上げをとくと御覧じろ、という奴だよ。兵部尚書、自分の息子を信じて、たまにはのんびり構えて見ているといいよ」
椿姫に窘められながらも、堪えきれず楽しげに声をたてて笑う戰は、悪戯が成功して喜びにわいている、まさに天真爛漫・純真無垢な童そのものだった。




